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通勤電車
少し早く起きて各駅停車に乗る。
一眠りするもよし、本を読むもよし。山の上の閑静な住宅街からサラリーマンたちが降りてきて乗り込む。そんな電車では、通勤電車とは思えないほどの緩やかな時間が流れている。
そんな柔らかな日差しの差し込む電車の中で、桜谷鈴香はいつも通り音楽を聞きながら、窓の外を眺めていた。
この景色を一緒に眺めた人がいたな。そんな気持ちになってしまうのは昨日酔っ払って昔の男の話をしたせいだ。東京で変わってしまった人。最後に愛した人。好きで好きで仕方なかった。今は情熱などない。冷静に、まるで他人事のように好きだったのね。と思う。
鈴香を一言で言い表すなら「可愛い」だ。彼女自身そう言われるのは嫌いじゃない。嫌いじゃないが可愛いは鈴香にとっては挨拶だった。可愛い以外の褒め言葉を知らないのか。彼女は可愛いという社交辞令を含む言葉をいつも笑顔で聞き流す。
そういえば、彼は可愛いと言わなかった。彼はいつも遠回しに褒めた。鈴香はいつも家に帰ってから褒められたことに気付いた。照れ屋でプライドの高い彼の褒め言葉はある意味ボキャブラリーに富んでいた。