8 名前
「さて、」
紅茶と茶菓子を机に並べ、男は切り出した。少女は緊張した面持ちで頷く。
「料理はできるか?」
「できないです…」
「掃除は?」
「お、お掃除は得意です!」
男は一度、部屋の中を見渡した。あちこちにある読み終わった本の塔は、今にも崩れそうになっている。
「ここで働いてもらおうか」
そう結論づけると、少女は驚いた表情を浮かべ、首を傾げた。
「いいんですか?僕のこと嫌いじゃないんですか?」
10日前なら、嫌いだと言い放ってしまえただろう。しかし、
『勇者は、自分の身を呈してでも。誇りを捨ててでも。何があってもみんなを救うべきだ』
男は、少女の中にも勇者を見たような気がした。
だが、言葉にはしない。
「気が変わっただけだ。もちろん、期待にそぐわなければすぐに追い出す」
「え、ゆ、勇者様のために頑張ります!」
張り切る少女を眺めながら、具体的な内容を書き出していく。
仕事内容は、この家の清掃。住み込み。三食付き。給料は日に10テルンもあれば十分だろう。
「勇者様、何を書いているんですか?」
紙を覗き込んでいた少女が、男に尋ねる。文字は読めないのか。
「契約書だ」
『文字の勉強をさせる』と一文を加え、下部に名前を書く。
「名前くらいは書けるか?」
そう尋ねた男は、ふと少女の名前を知らないことを思いだす。そういえば、名前を忘れたとさえ言っていたかもしれない。
「あ、あの、僕……」
「そうだったな。失念していた」
それでも名前がないのは不便に過ぎる。男は近くにあった本を手に取った。
まず、著者名を見る。『和沙』と、東飾文字で書かれていた。仮称とはいえ、男の名前はまずいだろう。
題名は、『メビウスの輪』。こんな本持っていただろうか、と男は一瞬疑問に思う。
「勇者様?」
不思議そうに、少女が声をかけてくる。
「お前の名前はメビウスだ。いいか?」
「はい!なんでもいいです!」
***
『勇者』の家を、少し離れたところからじっと眺める人間がいた。
茶色の髪に、同色の瞳。なんの特徴もない、平々凡々な顔立ち。
「天乃……」
ぽつりと言葉が漏れた。
「………」
人影は、踵を返して去っていった。
ヒロインに名前がつきました。
とりあえず一章は終わりです。