5 シーナ
少し長いです。
男はしばらく何も言わなかった。
少女も、黙って紅茶を飲んでいた。
ふと、男が口を開く。
「そろそろ、帰ったらどうだ」
その言葉に少女が窓の外を見やると、一面緋色に染まっていた。
***
一人になった部屋の中で、男は『勇者』について思う。
***
日が落ちる前に宿に帰りつこうと、少女は道を駆けていた。今日ばかりは周囲の景色を愛でる余裕も無い。
日が落ちれば、この辺りはすぐに真っ暗になってしまう。そうなれば、村にたどり着けるかどうか。
幸い、夕日の一片が残るうちに少女は村の入口に到着した。
ふと、違和感を感じる。
間もなく夜だというのに、家々の窓に灯りがない。
一軒だけならば、出かけているのだと思ったかもしれない。しかし……
少女は辺りを見回しながら、左の方へ足を向けた。この場所からは見えにくいが、少し離れたところに集会所があるのだ。
集会所が見えてきたところで、少女はぴたりと足を止める。その姿を、見てしまったからだ。
***
時間は、少し遡る。
少女が男の家に向かったあと、宿の女主人―――シーナは、食料の買い出しに雑貨屋を訪ねていた。
この村には雑貨屋以外に店はなく、自然とすべての買い物をここでこなすことになる。
「今日はたまご、安いよー。でもちょっと古いよー」
少し訛りのある口調で、店主の娘が卵を勧めてくる。彼女とその父親は、一年ほど前に南の方の町から引っ越してきた。何か事情があるのだろうが、シーナは知らない。
「じゃあ、卵を5つと…何か葉野菜はあるかしら?」
「はくさい?白菜あるよー。ちょっと黄色いよー」
聞き間違いに少し苦笑しながらも、シーナは卵と青菜を買った。
「また来てよー。明日来てよー」
ぶんぶんと音がしそうなほど手を振る雑貨屋の娘に軽く手を振り返し、家に戻ろうとしたところで隣から声をかけられた。
「シーナさん、おはようございます」
先の娘の父親、雑貨屋の主人である。
「あらおはよう、羽明さん」
「今日もいい天気で何よりだと思います。それは晩ご飯の材料ですか?」
「ええ、シチューにしようかと思って」
「それはとても良いとボクは思います。ボクたちも一緒に晩ご飯を食べてもいいですか?」
「もちろん。歓迎するわ」
和やかな時間。しかし、唐突に響いた音によってその時間は終わりを告げた。
『キュルァァアアア!!』
金属同士を擦り合わせたような、不思議な音。それが魔物の声だと気付いたのは、過去に聞いたことがあったからに他ならない。
シーナと羽明は、声の出処を求めて辺りに視線をさ迷わせた。
「シーナさん!上です!」
シーナが見上げる前に、頭上でばさりと羽音がした。
鳥のような姿の魔物だった。
羽を広げると、成人男性3人ぶんはありそうなほど大きい。闇色の羽根が、羽ばたくたびに舞落ちてきた。
『キュルゥ…』
岩も切り裂けそうなほど鋭い爪の先が、立ち止まっているシーナに向けられる。
「あ………」
動けない。金縛りにかかったように。黒い瞳からは全く感情が感じられない。また、ばさり、と音がした。
「シーナ!何してる!逃げろ!」
異変を察知したのか、離れて農作業をしていた男が走って来た。持っていた鍬を振り回し、魔物を追い払おうとする。
『キュルォォ…』
魔物は鬱陶しそうに鍬の攻撃を避け、少し上空で男を睨みつける。
「集会所に!」
誰かが叫んだ。木でできている辺りの民家とは違い、集会所は石を組んで作られている。そこなら魔物から身を守れるかもしれない。
鍬を持った男が殿に立ち、魔物を牽制しながら集会所に逃げ込む。
魔物襲来の話は既に雑貨屋の娘から村中に伝わっており、ほとんどの住人がそこにいた。
「…これから、どうしましょう」
囁くようなシーナの言葉に答えるように、近くの男が呟く。
「……勇者が来てくれれば」
それはどこか諦めたような声音だった。
メインキャラは一人称が被らないように頑張っています。