石切神社殺人事件
3のつく数と3の倍数の時だけシリアスになります。
『謎解け! フェル子さん3』
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石切神社殺人事件
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「俺は単なる架空の人物に過ぎない。創り物だと知った時のショックが分かるか?」
アーノルド・シュワルツェネッガー主演『ラスト・アクション・ヒーロー』より
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目を開ける。靄がかかっている頭の中で、焦点が定まっていない。ヤニがついているのか、少し薄暗く瞼がこそばゆい。つけ睫毛が上にぼんやりと映りこんでいる。指でしばしばと目をこすると、そこに車掌のアナウンスが聞こえてきた。
『次はぁ~~、長田~~、長田~~』
ハッと我に返ったフェル子は慌てて背筋を伸ばし、辺りを見回す。まだ夢の中にいるような気分だった。しかしアナウンスを信じるならば、後三駅で彼女のアパートがある駅に着く。窓の外。近鉄けいはんな線はいつも通りの風景を流している。毎晩見ている景色。遠くに光が見える。八尾市のマンション群が階数ごとに光が散布しているのだろう。
ふぅ、とため息をつき、周囲を見る。終電なので、乗っている客も少ない。隣では、ネクタイを緩めたサラリーマンが先ほどまでの自分と同じくうつらうつらと、夢をさまよっているようだ。斜め前の座席では厚化粧の老女が、スマートフォンを忙しなく指でつついている。香水の香りがこちら側まで匂ってくるのは勘弁してほしい。
後ろを振り返り、窓側を見る。以前は田園だった場所にパチンコ店とカラオケのネオンがチカリチカリと輝いていた。だが、それも一瞬で目の端に消えた。区間整理で十年前とは随分違った街になっている。フェル子はふと、目の前のガラス窓に映った自分の顔を見た。ツヤの無くなった髪が肌に張り付き、その隙間からは色を失った目が覗いている。私はいつまでこの職業を続けなければいけないのだろう。
小さい頃は夢を持っていた。画家になりたかったのだ。絵が好きだった。しかし現実はそんなに甘くなかった。高校卒業後、美術大学を何校か受けたが全て落とされた。一人っ子の長女。家族のことを思うと、いつまでも夢を追い続けるわけにもいかなかった。仕方なしに就職の事を考え、広告デザインの会社に滑り込んだ。デザイナーという肩書きは自分で誇りに思えた。地元の友人たちにも自慢できる。しかし現実はフェル子の理想を裏切った。今でこそブラック企業などの単語が登場したが、当時はこれがデザイン業界の普通だと考えていた。
いつの間にかフェル子の肉体は、精神と共にボロボロになっていた。胃に潰瘍が出来たと聞かされたのは、個人で行った人間ドックだった。健康診断も受けさせてくれなかった会社。ストレス性の胃炎。医者から聞かされた時には信じられなかった。自分では楽しいと思っていた職業に裏切られた気がした。
子供の頃の無限の可能性、それは大人になると有限の幻想だと気付く。
そのうち彼女は、精神安定剤に頼らなければならない体になってしまった。会社を一日休むと次は一週間休むようになった。一週間休むと、次には二週間。次は一ヶ月、そのまた次は二ヶ月。電話で上司と話すのも嫌で、全てメールで済ました。そのうち会社から解雇を言い渡された。労働基準局に駆け込む事も考えたが、夢に裏切られたショックが大きく、その様な気力も失せていた。
無職になり、開放感に包まれたことなどと露程も思えない。あるのはただ自分が社会から突き放された孤独感だけだった。
――今考えると、当たり前か。
一年半の間、家の中に引き篭もる生活をしていた。あれだけ好きだったミステリ、いやそもそも本そのものが読めず、テレビもつけなければインターネットとも距離をとった。親の電話も取ることができなかった。心配した親戚がわざわざアパートまで来てくれたが、チェーンをかけ怒鳴り返してしまった。
――頼むから、私に干渉しないでくれ。
こうしている間にも、かつての同期たちは、年収何百万も稼いでいるのだろうな。親孝行しているのだろうな。そんなことばかり考えていた。嫉妬心が胸の内でむくりと膨れ上がっている。ある日、郵便ポストを見た。ピザ屋のチラシ、光熱費用紙、国民健康保険の領収証書、その他もろもろ収納代行用紙などの中に混じって風俗店のチラシが入っていた。
梅田と天神橋筋の中間に当たる場所。ふと、気付いてみる。彼女は自分の体を商売道具にしていた。怪しげな店舗ばかりが立ち並び、そのどれもがピンク色か水色で塗られている看板をかかげている。商店街の一角で、古書店と居酒屋の間の店。
夜の帳を知らず、光り輝くネオン街の看板の向こう。遠くには阪急の町に立ち並ぶ高層ビルが見える。自分はあそこには返れないという思いが蘇ってきた。
だが、働き始めてみると、仕事の深さがよく分かった。男たちをどのように喜ばすのか。彼女はここで新しい自分に出会い、新しい経験に感謝した。世間体を気にしていては駄目だ。ただただ給料が良かったその店で彼女は男たちに奉仕し、やがて七年もの月日が過ぎた。目は再び光を取り戻していた。服もブランド物と呼ばれる物を手に入れる事が出来た。だが、嫌でも年月は流れ年齢だけが、製造工場の大鋸屑の様に積み重なる。夢は現実という形で彼女を裏切った。
仕事終わりの電車の中、残っていたのは、自分は何をしているのだろうという虚無感だけであった。
ゴトゴトと揺れる窓ガラスに映る顔を見ながら思う。
――――ほんのひとときでも自分がどれだけやったか、窓に映っている素顔を誉めろ♪
浜田雅功と小室哲也は嘘つきだな。今の自分は目の前にいる自分を誉めることなんて出来ない。子供の頃、運動会でかかっていた曲を思い出した。当時は楽しい曲だったのだが、現代となっては、小室哲也があのような歌詞を書いた事が意外だ。
『次は~~新石切ぃ~~新石切~~』
アナウンスの声で、過去の思い出は現実を取り戻した。
「あぁーー」
もう一度、目を指で擦り電車を降りた。
* *
風が少し強い。七月なのに肌寒い。曇天の空の上、雲の隙間から少しだけ月が顔を覗かせている。黒い雲が風に煽られ、幾重もの層になって夜空を踊っていた。電車が通過する金属音だけが、電話のベルの様に耳にこだます。
「そう言えば、台風が沖縄に停滞しているって言ってたっけ……」
新石切駅はいつもの日常と変化が無かった。ホームから階段を下り、シャッターを閉める改札中のコンビニ店員を横目で見た。知り合いで駅前コンビニの店長を務める友達が、キヨスクのまま置いておけばこっちも儲かるのに、近畿鉄道のチェーン店のおかげで全く儲からないと嘆いていた話を思い出した。今日はずっと、過去の回想ばかり思い巡らすことがフェル子には苦痛であり、嫌だった。
Suicaを掲げ、改札を抜ける。茶色いレンガが並んだ歩道橋の階段を下り、ドーナツ店の横に出る。脚はやはり肌寒いが、六月の湿り気が残っているのか、背中やワキの下は嫌な汗がにじんでいる。横断歩道を渡り終えた所で、初老の男が吐瀉物を地面に吐き散らかしていた。目を逸らそうとしたが、どうしても見てしまう。おそらく自分はその男に対して、嫌な顔をしている事だろう。疚しさと後ろめたさが襲ってくる。吐瀉物にハトが群がっていた。平和の象徴とは一体何だろうかと、フェル子は考える。
新石切駅から石切神社にある外側の鳥居までのタイル張りの坂がつづく。心地よい夏の夜風が顔に当たる。目の前の生駒山、山肌にポツポツと昔ながらの家屋と現代的なモダンな建物が入り混じっている。生駒山山頂のアンテナの上には雨雲が無いのか一面の星空が広がっていた。
「うん、綺麗だな」
フェル子は一言呟き、石切神社の外側の鳥居をくぐった。バサバサとハトが飛んでいく音。このまま右に曲がれば、フェル子のアパートはすぐだが、久しぶりに石切神社の境内を見たい気持ちに駆られた。絵馬殿が見えてきた。左右には老人ホームとアパートが見える。
『石切さん』で親しまれる神社は、大阪府民にとっては出来物――でんぼ――を治すお百度参りで知られている。
数年前に池であった場所は全て駐車場に埋め立てられた。フェル子は埋め立て地を見つつ、近所の人間にとっては、ただただ、湿気が激しく、アパートにカビが生えるという事実は伏せていたい。
そんな事を考えてもう一度、七月の夜の帳にため息をついた時、悲鳴が聞こえてきた。
「あぁ……あああああぁぁ! し、死体やぁぁ!」
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まだ執筆中。