長良川の戦(前)
天文二十二年十一月。
范可義龍は終結させた軍勢に、長良川への布陣を命じた。
「お屋形さま、一気に渡らぬので」
日根野備中は素朴な疑問を口にした。兵力差は歴然、油断さえしなければ、それほどきつい戦とも思われない。
「父上に我らの軍容をしかとお見せするのよ。判らぬか。父から家督を奪うのだ、義龍は不忠の倅ではあったが、暗愚、凡愚の倅では無かったと思うて貰わねばならぬ。せめてもの情よ」
「はっ。お屋形さまのご孝心、ご先代も必ずやお分かりになられる事でござりましょう」
「織田勢の動きはどうか」
「はっ。細作の報せ通りにござりまする。犬山を発した織田勢三千五百、ご先代さまに合力すべく鷺山に向かってござりまする。今夜半までには姿を現すかと」
「来るなと申したのに来やったか」
斎籐道三の顔が苦い。
「来るなと云われれば、行きたくなるのが人と云うもの。舅殿は死ぬるつもりであろ」
信長はカハハと笑うと、言葉を続けた。
「倅に背かれた位で死ぬるなど、マムシらしゅうも無いの。最後の最後まで足掻いて見せよ」
「そうよの。じゃが、新九郎がここまで出来物とは思わなんだ」
「親が偉いと子は難儀するのよ。親に見劣りすると思われれば、気張ってかからねばオトナ共には笑われ、家は割れる」
「ほほう。婿どのは新九郎を身近に思うて居る様じゃの」
「俺の事はよい」
信長は照れ隠しの様に呟くと、突然道三に向かって平伏した。
「後生でござる。生きてくだされ。この三郎がマムシの目がねに違わぬ男であったかどうか、見届けてくだされ」
マムシの肩が震えていた。
「…孫の顔はいつ見れるかの」
「忝のうござる。あと二刻ほどで我等の軍勢が着到する故、辛抱くだされ。ではご免」
「安藤どのの我が先手、長良川を渡り切ってござりまする」
「鷺山勢は出張って居るか」
「いえ、敵に動きはござりませぬ。織田勢の着到を待って居るのでしょう」
「であろうな。こちらはそれを待つ事はない、先手に始めろと伝えよ」
「お屋形さま、頃合いかと」
「屋形はよせ、美濃の屋形は既に新九郎じゃ。范可とはようも名乗り居ったわ、ハハ。…頃合いか。よし、太郎左右衛門。かかれ」
「はっ」
不破太郎左右衛門は自分の陣に走り出した。
「鉄砲前へ」
鷺山勢先手に集められた鉄砲三百が、一斉に前へ出る。
「目当て付け……。放てっ。防ぎ矢っ」
安藤勢五千に向けて三百挺が火を吹く。
安藤勢の一陣目は長井忠左右衛門が率いている。
出鼻を挫かれる形になった長井勢は、体勢の立て直しに大わらわだった。
「小勢とは云え侮れぬ。防ぎ矢致せ、長柄前へ」
敵先手の火力と、長井勢の火力では格段の差があった。
不破太郎左右衛門の率いる、鷺山勢先手の一千は三百挺。
対して長井勢一千は百挺。
長井勢が打ちすくめられてしまえば、長井勢の属する美濃勢先手自体の動きが止まる。
長井忠左右衛門は犠牲が出るのは承知の上で、長柄足軽を突喚させ混戦に持ち込もうとしていた。
「そんな事をなされたら…殿は我が勢を潰すおつもりかっ」
オトナの長田隼人が忠左右衛門に喰ってかかる。
「はは、頃合いを見て引くわい。…我等が敵を釘付けにすれば、あとは安藤どのがどうにかして下さるわ」
「…成程」
「又左、出番じゃ」
「どのように」
「物見によると長井勢は長柄を繰り出して来る筈。先手を五町ほど下げさせる故、先手に追いすがる長井勢に横槍付けて来るがよい。二百渡す」
「二百も」
「うむ。横槍付けたら、敵陣を駆け抜けてまた本陣に下がれ。欲張らぬようにの」
「ははっ」
前田又左が下がると、道三は猪子平助を呼び出した。
「ご用は」
「不破に使いせよ。又左が横槍つけるゆえ、陣を五町下げよと」
「他には」
「敵が崩れて居れば再び鉄砲を打ちかけ、一当て二当てしたならば、再び陣を十町下げよ」
「はっ。では参りまする」
「お、おのれ小癪な」
長井勢の目論見は潰えた。右手から敵の二百程が押し寄せてきたのだ。
「殿、あれは敵本陣からの助勢では」
「判って居る、逃がすな」
「はっ」
「ははっ、美濃侍はこんなもんかっ」
戦に出るのが生き甲斐の様な前田又左は、水を得た魚の様に鑓を振るっている。
「前田どの、それは我等の事でござろうかっ」
介添として付けられている柴田角内だ。
「い、いや、そうでは無い。これは困った」
柴田角内は、困ったと云いながら敵を突き伏せる又左の姿に惚れ惚れしていた。
「はは、そろそろ頃合いでござりましょうっ」
「でありましょうな……引けっ」
「先手は苦戦しとる様だの。まあ父上と戦では仕方あるまい」
「如何なさりまするか」
日根野備中は冷や汗を流している。意外に小心な、と
范可義龍は思った。
「稲葉勢に長良川を渡れと伝えよ」
「安藤どののご助勢に向かわせるので」
「いずれ来る織田勢に当たらせる」
「はっ」
長井勢は散々な姿になった。
敵の横槍が駆け抜けた後に、引いた不破勢が押し返してきた。
不破勢は鉄砲隊に二斉射させると長柄の突撃に切り替えた。
散々な姿になったものの、不破勢を留め置く事にはかろうじて成功しているのがせめてもの救いであった。
「これまでか…無様じゃな、隼人」
「悔しき事ながら」
「安藤どのに使いじゃ。我等は下がると伝えよ」
「御意にござりまする」
「既に安藤どのは動き出して居る故、これだけでお判りになさるであろ」
「不破どの、右手より敵の新手が」
組鉄砲を任されている仙石治兵衛が駆け込んできた。
「判って居る、安藤どのじゃ。…治兵衛、鉄砲は本陣に向かえ」
「な、なんと申される」
「お屋形様の仰せの通りに、長井どのを引き付けたまま十町下がれればよかったが、そうもいかん。我等が下がれば、安藤どのが本陣に向かう。となれば我等がここで踏ん張らねばならぬ」
「それは判りまするが」
「はは、死ぬるつもりはない故、心配はいらぬ」




