対岸の火事
左兵衛は上手くやって居るだろうか。
事が重大ゆえ大殿にも五郎どのにも、駿東の策については仔細明かせませぬ、と申して居ったが…。
“カハハ、思うままやるがよい。されど、尻拭いはできんぞ”
”はっ“
されど、今となっては駿東の事より、
“五郎どの、見通しは立っていない“
という左兵衛の言葉が気になる。
未来とやらの事が知りたい。どうしたものか…。
「殿っ」
吉兵衛が飛び込んできた。吉兵衛に続きドタドタと前田又左も駆け込んでくる。
「何かあったか」
吉兵衛が口を開こうとしたが前田又左に遮られた。
「兄貴、何かどころじゃあねえ」
「ワシはお主の兄貴では無いがのう」
「そんな事はどうでもいい、てえへんだ。美濃で戦だ」
…何があった。
「大殿の許へ参る。お主等も来い」
俺は道すがら、大殿は今、前田又左より直に報告を受けていた。
濃姫様も聴いている、何しろ実家の一大事だ。普段は我等の話に口を出さぬ濃姫が又左に尋ねている。
「父上と兄上が戦、とは真でいやるか」
「は、はっ…」
俺はひと月程前、傷の癒えた又左に美濃の密偵を命じていた。
『傷は癒えたか又左』
『ああ。もうすっかりだ。…兄貴、俺はこれからどうすればよい』
『ワシはお主の兄貴ではないが…。どうしたい』
『どうもこうも…幸い、家は継がせてもらった。されど、真なら蔵人兄者が次ぐ筈だった。有り難さ二分、悔しさ八分ってとこだ』
『そうか…。又左よ、どうだ、出奔せぬか』
『唐突に何言って居くさる、有り難さ二分とは申したが、大殿への奉公は忘れぬわい』
『ハハ、そうだな。されど、ワシはこう大殿に言おうと思うのだ。…前田又左、思う処有りて出奔したげにごさりまする。又左はこう申して居りました、美濃など諸国を見て歩いて、身内を失うた傷を癒して参りまする、と』
『すると細作働きか。俺には出来ぬ』
『細作や調略を命じて居るのではない。心を癒して来いと言うて居るのだ。実のところ、辛かろうが。悔しさ八分、なのであろう』
『…』
『それに、だ。織田譜代の前田家の当主が出奔したとなれば、細作働きなどせずとも向こうから声をかけるわ』
又左は続ける。
「真でござる。まだ戦にはなっては居らぬが、今日でも明日でも、いつ戦になってもおかしゅうない…。実は今それがし、美濃のまむし殿の所に身を寄せて居り申す」
大殿は脇息に頭を乗せて横になっている。
「大殿の舅殿ぞ、まむし殿などと…控えよ又左」
俺が又左をたしなめると、大殿が口を開いた。
「マムシは息災か」
「それはもう…そんな事よりどうなさるのだ大殿」
「どう、とは」
「まむし、では無い、舅殿のお味方せずともよいのか、と聞いて居るのだ俺は」
大殿は脇息に乗せた頭をゴロリと天井に向けた。
「どう思うか監物」
大殿、ここで俺に振るのでござりまするか。
「左様にござりまするなあ。又左、舅殿と義龍どの、それぞれ兵はいかほどか」
「舅殿に聴いたところ、義龍どのはおよそ一万八千」
「舅殿は」
「…二千五百にごさる。多く見積もっても三千」
舅殿の兵数を答えた又左は、俯いて眉間に皺を寄せている。
「大殿、これは話になりませぬ。又左よ、今陣触れかけて織田勢がいかほど集まると思うか」
「一統も成った、一万は下りますまい」
「三千ほどじゃ。我ら赤母衣、また黒母衣合わせても五千が良いところよ」
「なんと」
「それ故話にならぬと申したのじゃ」
「大殿、俺はどの様に」
大殿はすっくと立ち上がると、濃姫を伴って奥に消え
た。
「大殿っ」
「止めよ又左。無駄じゃ」
「と申して」
「お主は出奔して舅殿に仕えて居るのであろう。早う発ち戻って舅殿を助けねばなるまい。急げ」
「何故」
「判らぬか。お主は出奔という体なのだぞ。実は織田と繋がって居ったと知れれば舅殿とて良い顔はすまい。短い間であっても奉公の筋は通せ。搦手から出るのだ、早よう行け」
「わ、判った…。五郎兄貴、済まねえ」
夕刻、御酒下されという事でオトナ共が集められた。一族衆からも数人が集められて居る。
孫三郎信光さま、三郎五郎信広さま、勘十郎信行さま、喜六郎信時さま。
オトナ共は佐久間半介どの、柴田権六郎どの、林佐渡どの、そして俺。
大殿が広間に入られた。濃姫も伴って居られる。
集められた者には前もって、酔うたふりをして一刻ほど騒げと耳打ちしてあった。
忍び込んでいる他国の細作をごまかす為だ。
酔わぬ様呑むのは、多少の根気がいる。若い勘十郎さまや喜六郎さまは徳利に水が入れてあった。
振りとは云え、皆は楽しそうだ。
武者溜まりの方でも、赤母衣や黒母衣の者共に御酒下されがあった。ここまで笑い声が聞こえてくる。
宿直や警固番の者はさぞ悔しかろう。
大殿がそろそろか、と口を開く。
「美濃に兵を出す。マムシを救わねばならん」
神妙な顔をして勘十郎さまが皆を見渡した。
「兄上、いか程出されるおつもりか」
「オトナ、譜代で二千、赤母衣、黒母衣で二千、都合四千」
「四千…平手監物、まだ我等は仔細を知らぬ。美濃の具合はどうなのじゃ」
「はっ、細作の報せによれば、舅殿は二千五百、義龍どのは一万八千との事。お二方の間で今にも戦が始まりそうな具合にござりまする」
皆が苦い顔をしている。すると、佐久間どのが問うてきた。
「監物どの、大殿はそれでも舅殿にお味方なさると」
今度は皆が能面顔で佐久間どのを見ている。
大殿は黙ったままだ。
「左様にござりますが…何か存念がありましょうや」
「存念とはいやはや…孫三郎さまはどう思われまするか」
佐久間どのに問われた孫三郎さまは、ポリポリ顔を掻いている。
「…大殿の下知に従うまでの事よ」
皆、味方が合わせても七千五百にしかならぬ事が案じられるらしい。
柴田どのは素知らぬ顔で徳利を手にしている。
孫三郎さまが答えたあとは皆、無言。
…まあ、負け戦は誰しも嫌なものだ。俺が口を開こうとすると、大殿が手で制した。
「頼りなき奴腹よの。…明朝、陣触れ致せ。監物、赤母衣と黒母衣のみでよいぞ。犬山に集まれと申せ。勘十郎、明日でよい、犬山に発ち戻り受入れの支度をさせよ」
「畏まってござりまする」
「清洲の留守居は信広兄者とする。戦目付は丹羽五郎左、小荷駄は要らぬ。腰兵糧は三日分とせよ。陣立ては犬山にて下知致す。…今日は好きに致せ」
そう申されると、大殿は濃姫と共に広間から出ていかれた…