準備万端
春庵さんの愚痴が止まらない。
予想以上に米の買い付けに金がかかっているようだ。本人は愚痴のつもりはないみたいだけど、発案者としては肩をすぼめて耳をふさぎたくなる。
「大和さま、買い付けはいつまで続けるおつもりで」
「首尾はどうだい」
「伊豆の商人方は何ともありませんが、北条さまのお歴々にはきな臭く思われて居ります」
だろうねえ。買い付けを始めて、もうひと月近くなる
のだ。不審に思われないはずがない。
米だけではなく、味噌、塩も買っている。春庵さんとしては、この出費の埋め合わせをどこで帳尻つけるか悶々としているところだろう。
「きな臭く、ねえ。春庵さん、北条方はどう考えていると思うかい」
春庵さんは縁側で鼻くそを丸めている木下藤吉郎に目をやりながら、考え込んだ。
「まあ…米、味噌、塩でございますから。戦支度かと思っているのは間違いないでしょう」
米もそうだが、味噌や塩も戦には必需品だ。特に籠城が予想される場合は味噌や塩も城の備蓄分だけではなく、どんどん買い込む。
「だろうねえ。問題は、北条方から見て何処が戦支度しているか、ということだ」
「ふむ。どの品物も今川方は困って居りませんから、この場合は甲斐の武田さま、という事になりましょうか」
「でも武田と今川は仲がいい。武田が戦支度するならまず駿府辺りで買い付けするだろうとは思わないかい」
「そうでございますね」
「伊豆は物成りが悪い。土地の作物を買うとなれば当然高く買わざるを得ないから他国は買い付けに来ない。地元の商人たちも当然買わない。北条は触れを出して米を安く買い上げている。この流れで買うとなると、北条方は誰が買っていると思うかな」
「買う方は当然お触れの値より高く買う訳でございますから、北条方とすれば、北条によからぬ者が買っていると思うでございましょうな」
「うん。ところで、集めた地侍、国人たちには俺達が織田方とはバレてないよね」
「はい。室町公方さま、古河公方さまの御内書を見せましてございます。やんごとなき御方がお味方くださると」
「はあ、御内書だって。そんなもの用意したの」
呆れた俺の声に、縁側の木下藤吉郎が興味ありげに聞き耳を立てている。
「はい。ははは、当然偽物にごさいます、ご安心を」
「偽物ってバレるんじゃないのかい」
「御内書は歴代の公方さまがあちこちに出されて居ります。本物を手に入れて偽物を作るのは造作もありません。そもそも地侍や国人の方々はお目にする機会も少のうございますから、露見の心配はございませんよ」
室町将軍も古河公方も自家の勢力基盤は大きくはない。室町幕府の成り立ちを考えれば分かる。
鎌倉幕府方を切り崩す為に、室町初代の尊氏はものすごく気前がよかった。その後の足利家内部の対立、南北朝の争乱を経て応仁期の混乱。歴代の将軍は自らの与党を増やす為に御内書の形をとって密書を乱発している。
室町幕府から関東に派遣された鎌倉公方、現在の古河公方も同じようにいろんな勢力に御教書、御内書を乱発している。
関東を治める古河公方としては北条家の台頭は面白くないし、室町将軍としても関東の争乱が東海畿内に及ばぬようにしないといけないから、この両者から密書があってもおかしくはない。
おかしくはないんだけど、春庵さんもよくもまあ考えついたもんだ。
我慢できなくなったのか、藤吉郎が座に入ってきた。
「旦那さま、いつまで買い付けをなさるおつもりで。それがしもそれとなく一揆方の様子を探っては居りまするが」
「藤吉郎、お前はどう思う」
「あと半月が潮じゃねえかと思いまする。集めた一揆勢が此方の言うことを聞かなくなるように思われまする」
「そうか。言うことを聞かなくなったらどうなる」
「一揆の皆は北条方に一泡吹かせたいとの心持があるように思いまする。旦那さまは北条と今川の国ざかいで事を起こしたいのでございましょ」
「よくわかったな」
「そりゃあ。旦那さまに仕えてから、今までの動きと話を聞けばそうなりやす。されどこのままでは国ざかいではなく伊豆のあちこちで、てんでばらばらに一揆勢が動くことになりやすよ」
「それは確かに困る。では藤吉郎、このあと俺はどうすると思う」
俺の策はこうだ。
駿東で乱を起こす為にまず伊豆で米を買い付ける。北条方の疑念が湧くのを想定しつつ、集めた一揆勢に、まず北条勢に化けて興国寺城下及び興国寺城を襲わせる。今川方は当然北条が攻めてきたと思うだろう。
撃退した後に北条に説明を求めるはずだ。
撃退できればだが。
当然北条は潔白なんだから、うちがやったんじゃないとか知らぬ存ぜぬを通すだろう。
そして頃合いを見て一揆勢に今度は今川勢として伊豆側で火付け狼藉を働かせる。
今度は北条が今川に説明を求める番だ。潔白な北条とすれば怒り心頭だろう、だが今度は今川も潔白なのだ。火付け狼藉を自分のせいにされてはたまらない。
やったやらないの水掛け論だ。うまくすればお互いが自作自演を疑うだろう。
沈静化していた駿東問題にまた火が着くのだ、北条はともかく、今川は東に目を向けざるを得ない。
藤吉郎は、ほぼ俺と同じ考えを口にした。
さすがだね、これくらい思い付いてくれないと秀吉じゃないね。
「ほほう、よく考えたな」
「上は天文、下は地理にござりますれば」
エヘンと胸を反らした藤吉郎が、更に続ける。
「されど、春庵どのがようやってくれましたな」
「確かに」
当の本人は、ハハハとごまかしている。
本当に助かった。春庵さんのおかげで、もう一手打つ事が出来るのだ。




