約束
岡崎に入ると、針売りは去った。
正直、一緒にいた方がよかったのかもしれない。少し悔やまれる。
まあ、縁があればまた出会うだろう。やつもいずれは織田家に仕えるんだし。でも、その場合は俺が口利きする事になるのかな…複雑だ。
「何やらお気に召さぬことでもおありですか」
目の前の中島清延が俺の顔を覗き込む。
「いやいや、世の中解らぬ事ばかり、と思うて」
中島屋敷では、すでに皆が待っていた。
中島清延、植村八郎、鳥居伊賀。
新しい顔もある。大草こと松平善四郎だ。
善四郎は俺のせいで親を亡くした。彼等の父、七郎昌久は俺の計略のせいで桜井松平の監物丞家次に謀殺された。その時に兄の源四郎も死んでいる。俺は大草松平も味方にしようとしたのだけど、欲をかいた桜井家
次に殺されたのだ。その桜井家次は水野党に討たれた。
まあ、俺が水野藤四郎に家次を討てと指示したんだが……。
その時に俺が、生き残った大草の跡取りの善四郎の後見になった。堂々と後見するわけにもいかないので、細かいことは鳥居伊賀と中嶋清延に頼んでおいたのだ。
善四郎は俺の事覚えているかな。一度会ったきりだ。
「お久しゅうござりまする。大草善四郎にござりまする」
「息災だったか、善四郎どの。後見とはいえ、堂々と三河に罷る訳にもいかぬでな」
「承知して居りまする。訳は中嶋どのと鳥居どのによう聞いておりますれば、ご安堵なされまするようお願い申しあげまする」
固いなあ。初見に近い上に他国者だ。仕方ないかもしれないな。
「善四郎どの。俺の許に来んか」
「それは…」
「確かに俺は敵方だ。されど今川方や岡崎党が憎い訳ではない。表向きはそなたは死んだ事になっとる故、鳥居どのも中嶋どのもやれる事には限りがある。大草の所領を継げぬのもそのせいだ」
「……」
「俺が後見するという事は、織田の大殿にも言うてある。人伝てに後見というのも納まりが悪くてなあ。俺の馬廻りという体でどうかのう、禄は少のうて申し訳ないが。悪いようにはせん」
俺の申し訳なさげな表情に少しは心が動いたのか、善四郎は大きく肯き、平伏した。
「…父の仇討ちを指図されたのも大和どのと訊き知って居りまする。それがしの様な若輩者にお目をかけて頂き、まこと有難き事にござりまする。宜しく下知を」
よかった。ひとつ心配事が片付いた。
家の者に報せて参ります、と善四郎は中嶋屋敷を飛び出していった。
彼の父が殺された時、彼の手を引いて一緒に逃げてくれた下女がいたらしい。下女と言っても善四郎より二つ上の若い女性で、二人は夫婦になるだろう、というのが、鳥居伊賀の見立てらしい。
「好いた者同士が夫婦になる、佳き事でござりまするな」
鳥居伊賀がしみじみと云う。中嶋清延はまだ経験がないのか頬を赤くしながら口を開く。
「ところで大和どの。今度のお立ち寄りはどういう存念によるものでございますか。桔梗屋さまからは、
直に訊けと云われております。故に鳥居さまもまだ話の中身は存じ上げませぬ」
春庵さん、言ってないのか。…此方からの使いが捕まったりして秘密が漏れるのを避けるための配慮なんだろうけど。まあ直接話した方が誤解は少ないか。
中嶋清延の言葉を受けて、鳥居伊賀が俺の方を見ている。短刀直入に言ってしまおう。
「鳥居どの、ときに御曹司は父君の墓参は済ませて居られるか」
「御曹司とは竹千代さまの事でござろうか……いや、織田から今川家へと人質になって居ります故、まだでござりまするが、それが」
「大きゅうなった御曹司さまを皆に見せとうはござらぬか」
鳥居伊賀はポカンとしている。
「それがしが駿府まで骨を折る故、どうでござろう。御曹司を是非皆に会わせたいのでござる」
墓参りに事寄せて、岡崎党の結束を図る。
人質の松平竹千代が三河に戻れば、自然と今川家の目は三河に向くはずだ。
多分、今川治部はウンというだろう。実際に松平竹千代こと家康は、人質時代に墓参りに岡崎へ一度戻っている。岡崎党からの願い出を今川治部が許可したんだけど、この使者を俺が代わりにやるつもりだ。
俺が余計な事をしたおかげ、というかそのせいで岡崎党は評定衆として岡崎の自治を勝ち取った。先日は知多で織田と戦、そのとき岡崎勢と刈谷勢が睨みあいになったが、岡崎党は今川の後詰を拒否した。
知多の今川方である佐治水軍衆も今川家の介入を拒否した。俺が佐治四郎に、駿府に偽の報告をしろと指示したからだが、多分、大原雪斎あたりはこの状況を相当きな臭く見ていると思う。
だから先手を取って此方から動く。今川家にあえて三河に目を向けさせる。
此方から使者を出して、
”国ざかいが怪しゅうございます。岡崎の動揺を鎮める為に、墓参でいいから一度御曹司を帰省させてくれませんか。どうかお願いします”と頼むのだ。
当然賄賂も用意した。…賄賂じゃないな、お願い料だな。春庵さんは顔が引きつっていたけど。
「…と、こういう事でござる。算盤の上とは云え、御曹司を皆に会わせたいのは真でござれば、この件、どうでござりましょうや」
鳥居伊賀は目をつむっている。いまいち納得できないようだ。
「…あえて三河に目をむけさせて、何か事を起こすおつもりでござるか」
「そうではありませぬ。安堵なされよ」
正直な話、御曹司を帰省させましょう、なんて、お節介みたいなもんだ。しかも計略のために竹千代をだしに使う訳で、安心しろなんて言われても危険だと思うのは当然だろう。
下手をすると、寝た子を起こすことにもなりかねない。
「もう一度訊く。真に裏はござらぬのか」
「ありませぬ。安堵なされよ。三河で事が起こる事はない」
「三河では…か」
多少ひっかかる所があるのだろうが、竹千代を皆に会わせたいのは叶えたい。悩むだろうなあ。
あ、もう一つ用件があったんだ。
「おい、八郎」
隣の間で控えている植村八郎を呼んだ。
「何用にござりまするか」
「あれを持って来い」
あれと言われて天井を見上げた八郎だったが、ああ、あれでござりまするか、とつぶやきながら平伏して居間を出て行った。…失礼なやつだ。
「あれ、とは何でございますか」
俺と八郎のやり取りを見ていた中嶋清延が口を挟んだ。
「それがしが今年の頭に討ち取った本多肥後守の鑓にござる」
「何故そのような物を」
「肥後守が死ぬ間際に申されたのでござる、岡崎の鍋之助に届けてくれと」
「そんな事が」
「折を見て必ず届けようと思うとったが、直に鍋之助とやらを探すわけにもいかんのでな」
初めて討ち取った相手の頼みだ。何と言うか…ずっと気にかかっていた。どうしても届けてやりたかった。
瞑目していた鳥居伊賀が口を開いた。信じる気になったのかな。
「大和どの。何故その様に我等に気をかけて下さるのか」
……はじめて観た大河ドラマの主人公が家康だったから、岡崎党に思い入れがあるんです、とはとても言えない。なんと言うべきか。
「……」
「まあよい。先主の墓参は我等も願い出ねばならぬとは思うて居った」
「それでは」
「大和どのの言を信じよう。前にも駿府館に参って居られる、ご足労じゃが、こたびも宜しくお頼み申しあげまする」
鳥居伊賀は深々と頭と下げている。
本多肥後守どの、助かりました。約束は守りましたよ。