物見
師崎湊に着いて、夜が明けた。風もないベタ凪、朝の海。
船頭は、雲のちぎれ具合から昼過ぎには船が出せそうにござる、と言っていたけど、どうだろう。
春庵さんと、とりあえず一服。
「新参の馬廻りの方をお召抱えられたようで」
「まだ召し抱えた訳じゃないけどね。昨日出遭ったばかりなんだけど、しつこくて」
ほう、と春庵さんは興味深げな顔をしている。何か言われそうだったのですかさず耳打ちした。
「奴とはお互い、正体は隠してるんだ。面倒だけど、旦那さまって呼んでくれ。合わせてくれるかい」
「良うござりますとも」
行商おとこは船に乗るのは初めての様だ。
「沈みはしませぬか」
「沈むかも知れんし、ちゃんと田原に着くのを願ってくれ」
「畏まってござる」
行商おとこは置いてきぼりは無しにございますよ、と言って網小屋に行ってしまった。多分、もうひと眠りするのだろう。何とも、人を食った奴だ。
多分、あいつは。
行商おとこは、木下藤吉郎だろう。そんな気がする。
……秀吉かあ。うーん、これは困った。正直言うと登用したい。出合った興奮で昨夜は殆んど寝ていない。
三英傑の一人を召抱えるなんて、想像した事はあっても実際そうなるとなると、非常に困る。すでに幾つかはそうなってしまったけど、この先起こる事柄が俺の知っている事と変わってしまうからだ。
仮に、秀吉を登用したとしよう。俺が秀吉の役回りを演じればいいだけである程度までは上手くいくとは
思う。本人がいるのだから、その本人の意見を訊きながらやっていけばいいんだから。
困るのはそのある程度以降、織田家の軍団長システム的な物が動き始めてからの事だ。
信長が上洛して、足利将軍と合体した後の織田家というのは、軍令、軍政共に部下達の裁量権がすごく大きい。信長の意に沿って家臣たちが物事を進めている場合、事後承諾でどんどん事が進む。
信長の意に沿わない事になったり、家臣の権限ではどうにもならない、手に余る、といった時だけ信長が動くイメージだ。
今は似ているが少し違う。俺は旗頭ではあっても自由に攻めて良い訳ではないし、事前の意見具申、調整が許可が必要なのはもちろんの事で、計画を実行する上での自由行動は許されているが、裁量権は限定的なものだ。
それに歴史の知識を使いながら事を進めているから、そこから大きく脱線しない様に、というか、脱線を出来事から想像できる範囲で物事を進めなきゃならない。
それにもし秀吉の役回りを演じたとして、演じきる事が出来ればいいが、俺は秀吉じゃない。
秀吉だから出来た事の連続で天下を取ったのであって、俺がやってもそうならない事っていうのは絶対にあるだろう。それに俺は天下を取りたいわけじゃあないのだ。
有名人に出会うと、こんな事ばかり考えてしまう。答えはとうに出したのに。
ともかく今見極めなきゃいけないのはこの先の歴史じゃない。秀吉であろう行商おとこの立ち位置だ。
今川の陪々臣というのが本当だとして、本当に尾張にコネを作る為に俺に着いて来たのか、それとも今川の物見なのか。前者か後者か、あるいはその両方か。
俺は、両方だと思っている。
陪々臣では出世しても家のオトナがせいぜいだろう。まずコネがないとたとえ譜代だろうと何だろうと上のお気に入りにすらなれないのだ。
それに今川家というのは身分制度がきっちりしている。今川家で大身になりたいんだったら、義元だけじゃなくて譜代重臣の皆が認めるくらいの大功を上げないと無理だろう。
そういうことだから、物見の任務も兼ねて敵方だろうがどこだろうがコネ作りに励むのはおかしな話じゃない。敵方の有力者に知り合いが出来れば、ヘッドハンティングされることだってある。
でも、コネ作りを兼ねてやってるかもしれないとは云え、今川家に戻ったらとりあえずは上に物見の報告はするだろうなあ……うーん、困った。
船が出た。
田原に向かうのは俺、春庵さん、行商おとこ。春庵さんの手代も五人乗っている。手代兼使番、といったところか。
春庵さんが口を開いた。
「旦那さま。田原には迎えの者が来ておる筈でございます。そのまま岡崎に向かい、先方と落ち合いまする」
口裏合わせとは云え、春庵さまに旦那さまと言われるのはこそばゆい。
「わかった。息災かのう」
「先日会うた段は、旦那さまとお会いするのを心待ちにしているように見受けられました」
「そうか」
先日会った、って、ちょいちょい茶屋の二代目と会ったりしてるのね。やっぱり手広くやってんだな。
行商おとこを見ると、慣れない船旅で気持ち悪いのか船べりに顔を出してげーげーやっている。
そういえば、こいつの事何て呼ぼうか。
「おい、針売り」
「針売りとは手前の事で」
行商おとこは、針売りとは失礼な、とむくれ顔だ。
「名はお互い云わぬと申したろう。とりあえず俺が主なんだから、俺が針売りと言うたなら針売りなんだ」
「あ、成程」
行商おとこ改め針売りは、よほど気持ち悪いのか、こっちに向けた顔を再び船べりに向けた。
「で、針売り。俺たちは岡崎に向かうが、ヌシはどうする。着いて来るか」
「わざわざそう申される所を見ると、なにか手伝って欲しい事があるのでござりまするな」
針売りは気持ち悪そうな顔で笑おうとして失敗している。
「別に手伝わんでもいいが…」
「畏まった。それで何をすればよいので」
「ぬしのまことの主の下に戻るのだ」
一瞬針売りはキョトンとしたが、ばれてましたか、という顔をした。だけど悪びれる様子はない。肝が据わっているのか、細かい事は気にしないのか。
まあ、誰かに仕えているのは本当の様だ。今川家ってのも多分嘘じゃないだろう。
針売りは気持ち悪いのは忘れたのか、目をキラキラさせている。
「戻って何をするので」
「主には報せねばなるまいが。尾張の細作が入って居りますると」
くそ。風で煙草がすぐ無くなる。煙管に火を着けるの意外に面倒なんだぞ。
「それでそれで」
「岡崎に向かうのはつきとめたがこちらの正体が見破られそうになり、まだ目当てまでは判りませぬと」
「成程々々」
「後はヌシの才覚次第だ。それがしが云うた通りでもよし、見たまま、思うたままを報せてもよい」
「思うたまま、見たままでは、旦那さまが困りませぬか」
針売りが首を傾げている。
「では訊こう、針売り、ヌシはそれがしを何と見る」
「尾張の細作、岡崎党との繋ぎをつける為に田原から岡崎へ」
やっぱりそう思ってるんでしょ。
「やはりその見立てであろうが。それがしが云うた事とそうは変わらん。…では、その尾張の細作は、岡崎の誰と繋ぎをつけるのだ。それも探らねば物見ではあるまい」
針売りはぺチンと額を叩いた。
「あ。そこが要でござったなあ。ではそれがしは、一旦戻って後、岡崎に向かえば宜しいので」
「だから、才覚次第と言うておるだろう。…それがしなら、主に報せた後、幾日かは駿府の様子を探って岡崎に戻るであろうな」
「おお。それなら尾張の手蔓も喜びまするな」
なにが、尾張の手蔓も、だ。態度がワザとらしいのに憎めない。調子狂うな、まったく。




