鳴海にて
鳴海は今日も平和だ。
知多から帰って一晩明けて、皆を城に集めた。
「これから俺は清洲に行かねばならんが、皆にはやってもらう事がある」
佐々内蔵助は鳴海勢の鍛錬。
平井信正と菅谷九右衛門は四本木受領の準備。
蜂屋般若介と乾作兵衛は桶狭間村に出向いて、水野方と領地の境の取り決め。
服部小平太は中島砦の整備。
「やつがれ共は何をすれば」
何も言われていない植村八郎と岩室三郎兵衛を代表して、八郎が口を開く。
「俺と清洲に来い」
「宜しいので」
「宜しいも何も、着いて来いって云っとるんだ。いいに決まってるだろう」
「存外な幸せにござる」
田舎から東京に観光に行く、と言ってるのに等しいからな、嬉しいんだろうな。
せきと下女たちが膳を運んできた。
「食べながらでよいから聞いてくれ。清洲行きのあと、俺は岡崎に出張る。共は八郎。三郎兵衛は鳴海に戻り、小平太を手伝え」
岡崎、と聞いて皆がエッという顔をする。
「殿も尻が暖まる暇のないお方じゃ。此度は何をなされますので」
内蔵助が呆れた様に訊いてきた。
「岡崎だけじゃない。岡崎から駿府、そして富士川の向こうまで出張るつもりだから、皆そのつもりで」
これには皆が騒ぎ出した。
一体何をなさるのか、どういうつもりか、喧々囂々だ。
「煩いな。凡そは練りあがっているんだよ。あとは大殿、平手どのと直に話を詰めてからの事なんだけど」
今度は皆黙らっしゃい、と一括した般若介が口を開く。
「で、ござりましょうが、一体何をなされるので。我等オトナ共としては、殿の存念が知りとうござる」
「決まっているだろう。今川家に攻められぬ様手を打つんだよ」
皆不思議な顔をしている。不思議な顔には、
「岡崎とは不戦ではないか」と書いてある。…やっぱり言わなきゃならないかい。
「般若介、今岡崎党が一番望む事は何だと思う」
「駿府に囚われている、人質の松平竹千代どのが岡崎に返り咲く事かと」
「だろうな。では次、内蔵助。竹千代どのを戻して暮れとお願いするには、誰に頼むのが一番だと思う」
「駿府の屋形でござりましょう。…もしや殿は」
「もしや、はさておき。次、信正。今川家は何故、西、要するにこの尾張に攻めてくるのか」
信正は何を判りきった事を、という顔をしている。
「はあ…今川家は武田家とは縁続き。東は北条家にござりますれば、西の我等攻め寄せるのは必定かと」
「北条には何故攻めないんだ」
「は、先年から今川、北条は河東の仕置で拗れており、戦続きでござりましたが、近年、そこに三河、尾張と事が続いて居りまする。武田とは縁続きゆえよいとしても、西と東どちらかだけでも事を収めようとして居るのでは、と愚考致しまする。当然北条は大国ゆえ、其方と結んだ方が今川家も楽でござろうし、相手方の北条家としましても、今川と和を講ずれば関東に力を注ぐ事が出来まする」
「という事は、三河、尾張が落ち着いている時に河東で事が起これば、今川の目は北条に向けられる、ということになるな」
皆が、アッと息を呑んだ。
信正の答えで確信した。俺の記憶は正しかった。まだ甲相駿の三国同盟は成立していない。多分来年だったはず。成立していれば、
「バカな、同盟があるからこっちに攻めてくるんですよ」っていう答えのはずだ。
いやあ、ギリギリ間に合った。今、事を起こせば駿河と相模はまた戦が始まる。
尾張は今、信長の元に統一された。それを援けるために知多攻めを行った。水野党が増長しないよう、佐治四郎を敗北に追い込んだ上で縁組提案。とりあえず岡崎とは極秘の不戦。
そして、長期間に渡って今川家と北条家を対立させる事ができれば、佐治一族に面従腹背を強いる必要もなく、晴れて織田方に来てもらえる。
美濃にも注意しないと駄目だけど、マムシと義龍の親子喧嘩の決着まではまだ時間があるはず。その混乱に乗じて美濃から人材を吸い上げつつ尾張の地固め。
これ等が全部成功してやっと今川家に対等に立てるはず、勝てはしないまでも。
小平太が天井を仰ぎ見る。
「いやあ…神算鬼謀とはこの事でござるか。殿が敵方で無うて、ほんに良かった」
「世の中、間違いのない情報があればどうにかなる事が半分はある。そこから詰めていけば何とかなるさ」
「じょうほう…とは」
「判るように云うなら、物見からの報せ、己で見聞きしたこと、流言飛語の類い、の事だ」
「成程」
「これ等を前もって知る事が出来れば策を練るのも少しは楽になる。まあウチは身代が少ないから、誤魔化し誤魔化しやるしかないけどな」
八郎が笑い出した。
「ガハハハ。殿に着いて行けば間違いなし、と云う事でござるかな」
「されど、あまりやりすぎると身内に嫉まれまするぞ。出る杭は打たれますれば」
作兵衛が心配そうに言う。
「だからこその清洲行きだ。俺一人で出来ることではないし、大殿のオトナ方ともよく話さねばならん。平手どのの身内だったとは云え、俺は外様の様なだからなあ。骨が折れるけど、折っていい骨はどんどん折る。心配有難う」
有難うと言うと、作兵衛は照れて頭を下げた。
振り返ってみると、この時代に来てから約一年半。死にかけた事もあった。
濃すぎる一年半だった。
よく生き残ったもんだ。だけど新しい戦は始まったばかりだ。着いてきて呉れている皆の為にも、せきの為にも、これからもっと気張らないと。