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戦国異聞  作者: 椎根津彦
飛翔の章
76/116

木曽川の戦(前)

 静かな寝息を立てて横になっている信長を、大津伝十郎がそっと起こす。

「…何か、あったか」

「一宮に居られるご舎弟さまより使いが」

「ほう、通せ」




 報告を終え、信長の返事を携えた使者が幕内を出ると、信長は腕を組んで考え出した。

「伝十郎、仙千代を呼んでこい」

しばらくして、息を切らせながら万見仙千代がやって来た。

「大殿、お呼びでござりまするか」

「おう。伝十郎も仙千代も皆を起こせ。そっと、静かにだぞ。急がずともよい、主だったものは此処へ呼べ。足軽どもまで皆起きて支度が済んだら知らせよ」

「はっ」

半刻ほどして、皆が目を覚まし支度整った旨を万見仙千代、大津伝十郎が信長に報告した。

信長の幕内には、佐久間半介、柴田権六、河尻与兵衛、福冨平左衛門が詰めている。

「あと一刻もすれば夜も明ける。朝餉は干飯と焼味噌だけでよい、ゆるり食わせよ」

仙千代に具足を整えさせながら信長がそう言うと、

「朝餉の件は結構にござるが、何かありましたので」

眠いとは言わぬまでも、まだ夜中でござろう、と言いたげな佐久間半介である。

「再び勘十郎より使いがあった。岩倉を出て一宮に出張る、とある。これで十中八九、負けはせぬ」

「我等に合力では無うて、一宮に。大殿、まこと勝てるとお思いで」

佐久間半介の物言いに信長は口をへの字に曲げている。

「勝つとは言うておらん、負けぬと申しておる。今は負けねばそれでよい。伝十郎、瓜」

信長はどすん、と腰を下ろすと、大津伝十郎から瓜をもぎ取り一口かじると、皮をペッと吐き出して、むしゃむしゃと食べ始めた。


「佐久間、鉄砲は幾つであったか」

問われた佐久間半介は、四百でござる、と答えた。

「ふむ。…撃ち手、弾込め、指し手、の三人一組であったな、過ぐる日の鳴海での左兵衛のやり様は」

「そう聞いておりまする」

「早撃ち、早込め…理に叶っておるの、左兵衛は。…河尻」

「ははっ」

信長に呼ばれた河尻与兵衛が大きな声で返事をした。声がでかい、と柴田権六に叩かれている。

「よいか河尻。鉄砲四百を全てヌシに預ける。二百は撃ち手、残り二百は弾込めじゃ。四人で伍を作り、そのうち二人がそれぞれ二挺撃って、二人は弾込めじゃ。分かったか」

「ははっ」



夜が明けた。

木曽川を挟んで朝餉の煙が立ち上る。

美濃勢は正真正銘の朝餉だが、織田勢は偽装の為の焚火の煙だけである。

「ゆるりとしたもんじゃ、半介さまの言う通りであったわ」

万身仙千代は感慨深げに独白すると、幕内に入り信長に報告した。

「大殿、美濃勢の法螺貝が鳴りだしてござりまする。まもなくかと思われまする」

対岸から法螺貝と陣太鼓の音が聴こえてくる。少し間を置いて鬨の声が上がった。



 「…美濃勢は渡河の際、露払いとして鉄砲を撃ち掛けてくるであろう。その後敵先手が川を渡りだす筈じゃ。よいか与兵衛、敵の鉄砲は頭を下げてやり過ごせよ」


…たしかに大殿の言われた通りじゃ。

「火蓋切れ。撃つなよっ、まだ引き付けよっ……目当てっ、一つ目、放てっ」

二百挺の鉄砲が火を吹く。美濃勢先手の鬨の声は凄まじいが、木曽川の流れに阻まれ、渡河の勢いは激しくは無い。

「二つ目、騎乗を狙え…放てっ。防ぎ矢放てえっ、弾込めまだか」

再び二百挺が火を吹く。幸い風は川下に流れている。発砲煙が晴れると、死屍累々であった。







 「与兵衛…四つ、よくて六つほどしか放てまい。後は殿(しんがり)に任せよ」

指示を聞き終えた河尻与兵衛が幕内を出て行くと、柴田権六が口を開いた。

「では殿はそれがしが」

「いや、俺だ。いい餌であろうが」

自分がやると言い出した信長に、皆が言葉を失った。

「先手はそれがしでござる。我等柴田勢が残りますれば大殿は…」

信長は柴田権六の言葉を、俺でなくては駄目なのだ、と遮った。

「権六、思い浮かべてみよ。河尻に散々に撃ち据えられて怒り心頭であるところに、俺が意地悪にも顔を出すのだ。逃すまじとますます我先に渡ってくるであろう。敵は乱れる一方、収拾がつくまい。殿に似せた策のうちじゃ」

一体何を想像したのか、柴田権六の顔は笑っている様な怒っている様な不思議な表情である。

「されど万一…」

「心配するな、無理はせん。俺が刻を稼げば、与兵衛がまた鉄砲を撃てようが。そこで柴田勢、佐久間勢で総当たりじゃ」








 味方の美濃勢の戦ぶりに、先手の大将、不破太郎左衛門と介添の竹中善左衛門は苦りきっている。

戦ぶり、というか戦らしい戦もせぬうちにどんどん撃ち減らされているのである。倒れた者が皆死んだ訳ではないが、戦の頭数にならなければ、それは死んだも同様である。

「敵ながら見事よの。案山子撃ちにされとる。されど、ああも数珠繋ぎに撃てるものかえ」

「織田のうつけ殿は前から鉄砲好きじゃからのう。自ら鉄砲を撃つそうな…。ご隠居のところにうつけ殿が会いに来た事があったろう」

「帰蝶さまの嫁入り前か」

「ほうよ。あの頃すでに鉄砲を三百は揃えておったそうな」

二人の言うご隠居さま、とは斎藤道三の事である。道三は公式に隠居したわけではないが、実権はすでに息子の義龍が握っていた。

「あんな高いものを、ようも…とそんな事はよい、早う木曽川を渡らせねば。…おい、甚六、早太鼓を鳴らせ」






 「大殿じゃ」

「まことじゃ」

河尻隊が一斉にどよめく。

信長の直卒する五百が、河尻隊の後退を援けるために前に出たのだ。

河尻与兵衛も殿の事は信長から聞いていたが、まさか信長本人が出てくるとは思いもしなかった。

思わず信長の下に駆け寄る。

「あ、危うござりまする、充分な馳走ゆえ、お早くお退きなされませ」

「俺もそろそろ退屈なのでな。ヌシこそ早う退けい」

「さ、されど」

「問答はよいっ、美濃の先手はもう目の前ぞ。退けっ」


 おろおろする河尻与兵衛を尻目に、信長は川岸まで馬を走らせた。眼下には美濃勢先手の先頭が、今にも木曽川を渡りきろうとしているところであった。

「美濃の衆っ、待ちくたびれたゆえ、此方から出向いてやったわ。三郎信長はここぞっ、見事に手柄できるかあっ」

金色の鍬形と織田木瓜の前立に、赤、紫、白、浅黄の色々威の腹巻。その鮮やかな出で立ちは、美濃勢の目を引くのに充分すぎるほどである。


 

 「あ、あれは」

「織田の棟梁じゃ」

美濃勢が俄然勢いづいて、おおお、と鬨の声を上げる。信長の姿は対岸の不破太郎左衛門、竹中善左衛門の両名からもよく見えていた

「不破どの、罠じゃ」

「じゃろうな。されど、首尾よく討ち取れば尾張はそっくり頂きじゃ。若に使いを出せ、信長見つけたり、手勢は小勢、このまま先手は押し渡って信長を討ち取ると伝えるのじゃ」

「…承知した」

「どのみち渡らねば戦にならぬ、竹中どの」


 

 信長はすこぶる上機嫌である。

「ハハハ、此方に上らせるな、叩き落とせっ。伝十郎、気張れ」

信長が指示を言い終わる前に大津伝十郎は駆け出した。

「仙千代、抜かるなよ、手柄せい」

「されど大殿は少し下がられた方が」

「うるさい、ヌシは死んだ爺に似てきたのだはないか」

「そのような」

大津伝十郎も万身仙千代も鑓を繰り出し、打刀を振るい必死である。その二人とも、目尻から笑みを絶やさない主人の姿に開いた口が塞がらない。

「大殿っ、まこと楽しげなご様子とお見受けいたしまするがっ」

「おう、楽しいのうっ。二人共、長口上は舌を噛むぞ。後の戦の手習いだと思え。死ぬるなよっ…平左衛門はおるかっ」

呼ばれた福冨平左衛門が大声を上げる。

「何でござりまするかっ」

「おう、ちゃんと生きておるな。河尻が首尾よく退いたか見てまいれ。退いておったなら、俺が退いたら着いてきた敵をつるべ撃ちにせよ、と言え」

「首尾よく退いておらなんだら」

「佐久間の許へ退け、と言え。兵左、ヌシはそのまま柴田の許へ行き、俺も間もなく退くと伝えよ」

一礼すると、福冨平左衛門は馬に飛び乗って駆け出した。






 笠松城に本陣を置いた斎藤義龍は、握り飯を頬張りながら先手の戦況報告を受けていた。

「鉄砲で足止めされたところにうつけが出てきたか。先手の者共は歯痒かろう」

「小癪な奴腹と云うべきで」

日根野備中はさもは悔しそうな顔をしている。

「されど渡らねば戦にならんしのう。ここは押しの一手かの」

義龍は外に控える使番を呼ぶと、戻って構わず進めと伝えよ、と言って使番を下がらせた。

「若、お味方の害が増すばかりでござるが、よろしいのでござりまするか」

「おう。渡れば勝ちよ。うつけには後詰が居らぬ。岩倉がどうなったかまだ分からぬが、うつけが木曽川を渡って美濃に攻め来たという事は、岩倉を落とす算段があるか、岩倉を気にせずともよいのか、いずれにせよ我等に尾張一統を邪魔をさせない為に出てきたのであろうよ。後詰があったとしてもせいぜい千か二千ほどであろう。後詰があるやもと味方に触れおけば、不意は衝かれまい。それに、うつけを討てずとも押し込んで痛めつけてやれば、彼奴とてしばらくは美濃に手出しする気はおきまい」

「ご炯眼畏れ入ってござりまする」

次の握り飯を頬張りだした義龍に、日根野備中は深々と平伏した。






 織田勘十郎の率いる一千は、一宮で休息、朝餉にかかっていた。

「戦が始まりましてござりまする。鉄砲をさんざん撃ちかけたれども、敵の先手がすでに五百ほど木曽川を渡っておりまする。大殿自ら殿となり、敵を引き付けておられまする」

物見の報告に勘十郎信行はつい床机から腰を浮かしかけた。

「大殿は」

「はっ、さも楽しげに敵をあしらうご様子で」

「…左様か。で何騎ほど残してきた」

「お言いつけ通り二十騎。万身仙千代どのにお預け致しましてござりまする」

「与次、大儀であった」

与次、と呼ばれた長谷川与次は会釈して下がっていった。長谷川与次が去ったのを確認すると、勘十郎信行は平手監物に向き直った。

「監物、どう思うか」

「我等の算段は昨夜のうちに伝えてござれば、美濃勢を引きずり込もうとの目論見かと思われまするが、ちと危なかろうかと」

「それがしもそう思う。木曽川を渡らせ、引きずり込んだ上で我等が横槍かける。がもし美濃勢が我等が後詰としておる事に気付いておるならば如何相成る」

「美濃勢は崩れますまい。逆に我等が敵に囲まれましょう」

勘十郎信行は考え込んだ。

「ふむ…舅の道三どのに密使を送るべきではなかろうか」


 答えるまでも無く、勘十郎の考えは平手監物も理解していた。舅の斎藤道三とその息子義龍は対立関係にある。その斎藤道三に美濃国内で動いてもらうのである。

美濃の実権は義龍が掌握しつつあるとはいえ、道三に心寄せる者は少なくない。当然その動きは義龍に茂伝わる。足元を脅かされまいと、義龍は軍を退いて、道三に備えを向けるであろう。上の上、の策であろう。成功率も高く魅力的な手である。

が、平手監物の答えは、否定だった。

「その儀はいけませぬ」



 

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