事成れり
知多には争いの影は見られない。
河和城の戸田孫八郎も近頃は大人しいし、水野信元も相変わらず岡崎との折り合いが悪いようだ。
田原の戸田弾正が、岡崎の人質を奪って織田に売りつけたと聞いた時は、死ぬほど驚いた。あれからしばらくこの知多も荒れたが、やはり頼るお方は駿府殿じゃな。
「今晩はようけ船が出とるのう。篝火がやたらと目に付くわ」
佐治為景は眠そうな目をこすりながら盃をあおると、二階櫓から外を見渡した。側には一族の佐治与兵衛が控えている。
「今は烏賊が旬にござりまして。篝火をたんと焚いて、明るうすると烏賊が寄ってくるのでござる」
「ほほう。そちは詳しいな」
「それがしの母は漁師の娘でござりまして。母の父に連れられ、よう漁に行ったもので」
「なるほどのう。その祖父は息災か」
「死なぬのが不思議でごさりまして。今晩も漁に出て居りましょう。おおそうじゃ、明日にでも烏賊を届けさせまするか」
「大…丈夫なのか」
為景は、腐りはせぬか、と言いたげな顔をしている。
「祖父の家には海を囲った生簀がござりまして。漁を終えて売りに出すまでそこで活かしておくのでござる」
「そうか。それは楽しみじゃな」
「明日の酒の肴が決まりましたな」
そう二人は笑いあうと、残った酒をぐいと飲み干しそれぞれの寝所に戻っていった。
ここは知多の沖合いだ。目は慣れたけど、未だに篝火以外何も見えない。
先発したのは蜂屋般若介率いる百五十。俺の二百五十も間もなく上陸だ。
「左兵衛さま」
「お。九右衛門か、どうした」
側に寄ってきたのは菅谷九右衛門だ。本来ならこいつも信長の側近なんだが…
「左兵衛さまは、誰に差引を習うたのでござりまするか」
「…は」
菅谷九右衛門の顔には不思議、という文字が張り付いている。
「誰にって…そういえば誰にも習っとらんよ」
「そんな。ではその神算鬼謀は独習でござりまするか」
神算鬼謀て。こそばゆいな、おい。…俺は若手の目標という事にでもなるのかな。先輩面は苦手なんだけどなあ…
「まあ…神算鬼謀というものは、そう見えるだけで、ちゃんと仕掛けがあるんだ」
「ははあ」
「九右衛門。お主はどうやってこの世に生まれたんだ」
「…父上と母者が頑張ってくれたお陰でござりまする」
自分の両親の夜の営みでも想像したのか、九右衛門は少し苦そうな顔をした。
「では、その父上と母者は」
「そのまた父と母と…」
「そうだな。そうやって昔に遡れば、ご先祖様の生きとった頃も、そのまたご先祖様の生きとった頃も」
「はい」
「生きて、死んだら仏になって、の繰り返しだ。そしてずっと戦が続いとる。この日の本のあちらこちらでだ」
九右衛門は俺の一挙一投足、一言も聞き漏らさぬ、という勢いで俺を見ている。
「まったく左兵衛さまの言う通りにござりまする」
「だろう。俺はそのご先祖様たちから戦を学んどるのよ」
「ご先祖様が何か書き残された物でもござりまするのか」
「ああ。たんとある。が、今はもう無い」
…もう無いんだよ、平成の世に戻らないとな。
九右衛門は俺の言いたい事が理解できただろうか。要は歴史に学べ、ということなんだけど。
過去の戦いに答えはある。だから軍事学では戦史が重要視される。
基本的に、大軍が勝つ。正しく情報を分析し、補給を整え、軍を揃え、勝てる条件を整えてから戦う。戦略的に、というやつだ。勝つのは当たり前だ。
大軍が負けた戦いは、全てそうとは言わないけど、大抵どれかが欠けている。
俺の場合、兵の頭数は足りなくても、正解に近い情報をすでに知っていたりする。勝ち負けを知っているのだから、情勢の予測も立てやすい。初対面の人間でも有名な人物なら何をする人、した人なのか知っている。卑怯な話だよなあ、まったく。
「…要すれば、先人に学べ、という事だ」
「それは…兵法書を読め、という事でござりまするか」
「少し違うが…まあ、間違いでは無いな」
「…精進致しまする」
九右衛門は不承不承といった様子だ。期待した答えとは確実に違うだろうからな。
ふと回りを見ると、大きくなった篝火で浜がうっすらと見える。
九鬼籐三郎が寄ってきた。
「間もなく知多の常滑にござりまする。ご支度を」
両軍は日暮れを合図に戦いを止めた。信長の本陣には佐久間半介、柴田権六、河尻与兵衛、福冨平左衛門、万身仙千代が詰めている。
河尻与兵衛が状況を報告する。
「長井忠左衛門は笠松城に退いたげにござりまするが、しかとは判りかねまする…我が方は二十二人が討死、四十人程が手傷を負うておりまするが、美濃勢もおそらくは同様かと」
「そうか。福冨、笠松城は固いか」
固いか、と問われた福冨平左衛門自身が身を固くしていた。
「はっ、そうでもありませぬ。笠松城は小さい上に平普請にて守り難く、美濃勢の大半は柳津城に退いたかと」
聞きながら信長は旨そうに麦湯を飲んでいる。
「大殿、柳津を攻めるならば、まずは笠松を獲らねば」
信長に笠松攻めを勧める佐久間半介も、同じように麦湯を飲んでいた。酒が欲しいところではあるが、信長が飲まぬので遠慮しているようだ。握り飯を頬張る柴田権六も同じらしい。
「福冨。お主の見立てじゃと、笠松にはいかほどの兵がおる」
麦湯を飲み終えた信長は、今度は瓜をかじっていた。ボリボリと小気味いい音が広がる。
「ははっ…百も居らぬかと。繋ぎ城にござりますゆえ」
「ふむ。柳津城は後詰を出すと思うか権六。ああ、飲み込んでからでよいぞ」
「う…っおふ。ははっ。後詰は出しましょうが、攻めかかっては来ますまい。先程は此方の先手だけが当たったゆえ互した戦になり申したが、此方全てを相手するとなると、相手はさらに大垣城より後詰を呼ばねばならぬ仕儀と相成りましょう。遠巻きに見ておるか、攻め来ても一当て二当てほどかと」
一気に喋って権六は、佐久間半介の麦湯をひったくると、これも一気に飲み込んだ。
半介は、そんな権六を忌まわしそうに一睨みすると、ゴホンと咳をして再び口を開いた。
「ところで大殿、これまで黙っておりましたが…何か策が在っての事とは存じまするが、勘十郎さまと監物は何をしておるので」
「勘十郎と監物か。そろそろ報せがある頃だとは思うが。岩倉城と戦じゃ」
そう言うと、信長は笑いながらは二つ目の瓜を食べだした。
「堪らぬな、伊勢守家も」
「尾張一統の為にござりまする。ここまで事を成したからには、一統は成し遂げなければなりませぬ」
「そうじゃの。割り切らねばな」
そう言うと、勘十郎信行は大きく息を吐いた。すると、平手監物がゆっくりと跪き土下座した。
「敵を欺くにはまず味方からとは申せ、主筋たる勘十郎さまを差し置き先手の大将となった事、深くお詫び申し上げまする。これよりは勘十郎さまが先手の大将にござりまする。総追捕使たる大殿の名代として、岩倉城の仕置をせねばなりませぬ。よろしゅうござりまするか」
「面を上げよ監物。それがしは心底、そなたを大将に推したのじゃ、謝る事は無い。これよりはそなたの言う通り、それがしが大将となろう。介添頼むぞ、監物」
「ははっ」
再び監物は平伏した。
「信家、これはどういう事じゃ」
「そ、それがしにも訳が分かりませぬ」
「その様な事云うとらんで親父どのも信家もしかと前を見よっ」
信賢が指差した先には三つ柏の指物がある。山内盛豊の旗印である。
山内盛豊、堀尾泰晴の両名とも、伊勢守家を支えて来たオトナである。オトナであるゆえに先の見通しもついていたし、主家の運命も、自家の運命も、諦めかけていた。
何故、下四郡の国人共が三郎どのになびくのか、伊勢守さまは判らぬのであろうか。
いや、判らぬからこうなったのであろうな。
岩倉勢は大混乱だった。突然、味方である筈の山内勢が攻めかかってきたのだ。
岩倉勢は千五百。山内勢は五百。落ち着きさえすれば岩倉勢も負けぬ筈だが、一宮の清洲勢が動く、という報に接し、さらに留守居の筈の堀尾勢が出現、その堀尾勢七百が横槍をかける事態に至り、岩倉勢は潰走した。
「泰晴どの、せめて伊勢守さま、信賢さま信家さまは、我等の手で押さえねば」
「そうじゃのう。我等で捕らえて我等を憎むようになって貰わねば、後々しこりが残るであろうよ」
「おのれ…盛豊め」
そう言う伊勢守の声には、既に生気が感じられない。
「父上、落ちのびて下され。信家、お主とも色々あったが、父上を頼んだぞ」
「兄者はどうなさるのか」
「そなた達が逃れる時を稼ぐ。と云うより、せめて盛豊か堀尾めには一当てせぬと気が済まぬでの。早うう去ねっ」
信賢は残り僅かな手勢と共に馬首を返す。残っている手勢はすでに馬廻達のみであったが、この状況でもその馬廻達が逃げぬ事に、信賢自身が驚いていた。
「馬鹿だのうお主等も。…嬉しゅう思うぞ」
「此度の勝ち戦、祝着至極に存じまする。伊勢守信安、信家、召捕っておりますれば、宜しくご検分のほどを」
山内盛豊、堀尾泰晴が平伏している。床机には小具足に着替えた織田勘十郎信行。側には平手監物、飯尾茂助、金森五郎八、毛利十郎が控えていた。
「承知した。両名とも、お味方大儀でござった。して信賢は」
「我が家臣、五藤三郎左衛門が討ち取りましてござりまする。ご検分のほどを」
幕下から、五藤三郎左衛門でござりまする、と進み出た者がいた。小脇に抱えた首台の上に載せられているのは、綺麗に化粧を施された信賢の首である。
毛利十郎が首台を受け取ると、うやうやしく勘十郎信行の前に差し出された。
「五藤三郎左衛門、よき首じゃ。陣中ゆえ何もない。差し当たってこれを取らす」
勘十郎信行が腰の脇差を与えると、五藤三郎左衛門は礼を述べて下がっていく。
「残りの仕置は岩倉城にて行う。皆、信賢どのに手を合わせよ。戦は終いじゃ」
勘十郎信行は手を合わせ、深々と頭を垂れた。
「勘十郎さま、皆が困っておりますれば…」
長田五表衛が側でささやく。
「済まぬ。もう少し、もう少しだけじゃ」
そう言って手を合わせ続ける勘十郎は、いつまでも顔を上げようとはしなかった。