希望と失望
お蓉にとって懐かしい、鳴海の春庵の店。
人払いをし、左兵衛たちとお蓉たちが入ったのは、この懐かしい場所であった。
南蛮船というだけでも物珍しい上、女のお蓉が船大将、ましてそのお蓉は年頃の娘である。それだけで好奇の目に晒される。目立つ。
が、目立てば目立つほど、その影は見えにくくなるものである。
「お久しゅうございます。恙無く」
店の離れに入ると、お蓉が深々と頭を下げた。同じように平伏する侍がもう一人。…こいつも元気なようで何よりだ。
「やあ、お蓉さん。此方も恙無く。そして、鳴海新九郎、お主も達者なようだな」
「はっ。只今帰参仕ってござる。お蓉どの守護の主命、何とか果たせたげにござりまする」
そう、鳴海新九郎。
俺としてはお蓉さんよりこいつが周りの目に付くのを避けたかったんだ。船に乗せたままにしておけばよかったんだけど、お蓉さんが一緒に連れてきちゃったから仕方が無い。
南蛮船の船大将が妙齢の女、というのは珍しい事ではあるけれど、極端な話、”それがどうした、だから何なの”の類いの事なのだ。
だけど鳴海新九郎が”山口九郎二郎教吉”であった事実が今バレるのは避けなきゃならない。大事だ。何しろ今川家にとって指名手配犯であって、匿っている事を俺は若旦那にも信長にも伝えていないのだ。
事実、付き添いの蜂屋般若介と佐々内蔵助は鳴海新九郎の顔を見て誰だか判ったのか、怒ったような、鳩が豆鉄砲、といったような顔をしている。
まあ、お蓉さんが目立てば目立つほど、敵の目はお蓉さんに行くはずだ。その影に徹すれば新九郎が目立つ事はないだろう。
後ろから内蔵助が俺を突いてくる。般若介は俺を睨んでいた。
「殿、これは」
「後で明かすから今は黙れ」
「は…はっ」
この光景を見ていたお蓉がくすくす笑う。
「左兵衛さま、教えていらっしゃらなかったのですか。見た所、ご新参の方達のようですけれど」
「ああ。次の戦ではまだお蓉さん達を呼び戻すつもりは無かったからね」
「まあ。それでは学んだ甲斐が無いというものでございます」
「春庵さんが是非にと云うのでね。俺としては、まだじっくりと南蛮船を学んで欲しかったんだけど」
ふたたびお蓉はくすくす笑う。
「そうでございましたか。春庵さまの繋ぎの者は、『大和さまが急ぎ戻れ、との事でござる』と言って居りましたが」
「お蓉さんが可愛いから、顔でも見たくなったのだろうよ」
「まあ」
話を聞くと、急ぎ戻ってきたものの、乗組員の七割ほどはまだポルトガル人という事だった。乗員の養成には少し時間が足りなかったようだ。
その代わり、お蓉は艦長としては申し分の無い成果をあげているらしい。彼女を教育したポルトガル人の船長が「ジパングの女はすごい」と舌を巻く程だという。
護衛としてつけた鳴海新九郎もよほどやる事が無かったのか、砲術を学んだらしい。甲板での各種作業の指示や、砲員への指示、接舷切込などの指揮は新九郎がやるという。
お蓉が艦長なら、あいつは副長、っていった所か。名艦長にはベテランの片腕がいないとな。新九郎は船の事はベテランではないだろうが、戦闘指揮はお手の物だろう。
まあ、お蓉も戦闘には慣れているだろうけど、洋式船は和船以上に風や操船に気を使うだろうし、船そのものの指揮に専念した方がいいんだろう。適材適所ってやつだ。
うん、照れてるお蓉さんは確かに可愛いな。
「ふむ。お蓉さん、済まないがこの二人に事のいきさつを教えてやってはくれまいか。後から与力として鳴海に来た身だし、今では俺のオトナだ。懇意にしてやってくれ。それに」
「それに…何でございましょう」
「それに、俺から話すと多分ブツブツ言うんだよ、聞いて居りませぬぞっ、て」
殿っ……ああ、また睨まれた。
刈田から始まった小競り合いは、もう四半刻近く続いていた。
「ふうむ。あれは長井忠左衛門ではないか」
「でありましょうな」
平手監物が率いる先備が動かぬ為、結果として先備になってしまった柴田権六率いる一千。その柴田隊の先手が崩れかけていた。
佐々隼人正とその弟孫介は長井忠左衛門の姿を認めると、崩れ模様の味方の中に馬を乗り入れた。
「もうじき日も暮れる。今日は押し返して終わりたいもんじゃ。のう、孫介」
「はい。それがしが皆の尻を叩くゆえ、兄者は差引を」
兄の隼人正、弟の孫介共に小豆坂七本鑓と云われた剛の者であり、派手さは無いが、その実直な武者ぶりは有名であった。
「おう。勝介、柴田どのに使いせよ。…敵は長井忠左衛門。手助け無用、敵を押し返すゆえ、このまま敵の夜討に備えなされよ、と」
夜討と聞いて、呼ばれた勝介は膝が震えだしている。
「て、敵は夜討を仕掛けてくるので」
「ばか。夜討を仕掛けられても慌てぬよう、先に飯を食ろうて休んで下され、という事じゃ」
「な、成程」
「わかったか…あ、合点はいいから早よう往かんか」
隼人正がそう怒鳴りつけると、勝介は一転び二転びしながら駆けていった。
それを見た皆が笑っている。隼人正と孫介が出張って来た事で、先手勢に落ち着きが戻ってきたようだった。
「あ奴…あんな臆病者がよう柴田どのの小姓になれたものじゃ。そうは思わぬか、兄者」
「臆病者ほど長生きする、と云うぞ、孫介」
「そうかのう」
小競り合いの敵将が長井忠左衛門であることは、すぐに柴田権六から本陣の信長に伝えられた。
「長井忠左衛門。長井…マムシの一族よな、確か。仙千代、福冨を呼べ」
呼ばれた福冨平左衛門が信長の前に跪く。
「平左衛門参りましてござりまする。用向きは」
「来たか。お前の親父は美濃の出であったな。平左衛門、長井忠左衛門を知っておるか」
「は。長井忠左衛門は、長井隼人佐どのの倅でござりまする。また隼人佐どのは、大殿の舅に当たられまする道三どののご庶子でござりまする」
「ほう。庶子とな。ではマムシとは仲がいいのか」
信長の言葉に、とんでもありませぬ、という顔をした福冨平左衛門は、再び顔を引き締めると、続けた。
「隼人佐どのは、嫡男義龍どのと仲が良いそうにござりまする。庶子扱いを逆恨みしておるそうにござりまする」
平左衛門の答えに信長は笑いだした。
「ああ、済まぬ。平左衛門、お前はよく知って居るのう」
「今でも叔母や遠縁が美濃に居りますれば…平にご容赦を」
「よい。よい話を聞かせてくれたの。美濃が落ち着いたら清洲に呼べ。一族皆尾張に移るがよい。用は終わりじゃ」
福冨平左衛門が下がると、幕内には信長と万身仙千代の二人だけになった。
「…麦湯などお召しになされまするか」
「うむ。ハハハ」
信長は再び笑い出した。目には怒りがある。