敵を騙すには…
清洲を発した信長率いる軍勢は五千。
先手は平手監物、中備は柴田権六、本陣たる信長、後備は佐久間半介がそれぞれ指揮している。
墨俣から抜けて長良川を渡り、親子喧嘩の始まりそうな美濃、斎藤義龍を牽制する。信長の立場は当然、舅たるマムシこと斎藤道三側だ。
五千の織田勢は順調に進んでいる。
「監物よ、このまま美濃に出張ってよいと思うか。いくら舅の危機、清洲の守りの当ては付いているとは云え、上四郡攻めをほおっておいてよい筈がない。軍議では敢えて言わなんだが、今清洲を留守にしたら伊勢守家は必ず攻めてくると思うが」
平手監物にそう尋ねた織田勘十郎は、心穏やかならぬ顔をしている。主筋として有り得ぬ事だが、彼は今度の出陣に際して、平手監物の副将たる地位にあった。
”筆頭家老とは云え、家臣たる平手監物が先手の大将で、弾正忠家当主の弟がその副将、というのは可笑しいのではないか。
勘十郎様を大将に据えて戦巧者たる平手監物は副将に置き、介添させるべきでは”
という意見が軍議でも大勢を占め、また平手監物自身も、
「家臣たる身で主人の弟君の大将にはなれぬ、勘十郎様を大将に」と先手大将を辞退したのだが、
”介添が戦巧者であっても、大将が弱ければ戦は勝てぬ。勘十郎が弱いとは思わんが、戦上手かと言われれば、それはまだ分からぬ。ならば戦巧者たる監物久秀を大将に据え、今度の戦は勘十郎にはじっくりと進退を学んでもろうた方がよい”
と信長は頑として譲らなかった。また勘十郎自身も、
「戦巧者が居なければ、戦下手が指図せねばならぬ。戦上手が居るのだから、その者が先手大将になるのが至極尤もなはなしでござりまする」
と平手監物を推し、自ら副将、介添の地位に甘んじたのである。
「犬山城で、丹羽五郎左と森三左衛門が目を光らせて居りまする。此方に降った生駒蔵人も動いて居りますれば、心配なさる事はありませぬ」
平手監物は小さく笑ってそう言った。
「されど、此度の出陣、道三どのは知っておるのか」
「知らぬかと」
「知らぬ。…では後詰にならぬではないか。道三どのの味方と云うても、我等が清洲を出た事を道三どのが知らぬとあっては、戦にならぬ。下手をすると義龍どころか道三どのも敵になるぞ」
「ハハ、確かに」
勘十郎信行の言う事は尤もな事であった。平手監物は笑ってごまかすしかない。
さすがに六月半ばともなると暑い。エアコン無しの生活に慣れたとはいえ…ああ懐かしい。
「左兵衛さまっ…く、くすぐったい」
せきの膝をくすぐる。せきはこそばゆそうにしながらも団扇を振り続けてくれている。
うん。せきの膝枕は心地いい。たまにはこういうのんびりした時間もいいものだ。
俺は、織田家の東の旗頭、という事になってしまった。本当に俺でいいんですか…。
が、なってしまったものは仕方がない。
しばらくは今川が手出ししてくる事はないだろう。だがそれはそれ、尾張と西三河の国境は固めねばならない。清洲から東を眺めると、大体、
那古野、鳴海、刈谷、安祥、岡崎、
と、東に続いていく。大高、沓掛の二つを手に入れたので、刈谷の水野党との連絡がつけやすくなった。
…これからどうすればいいだろう。
だましだまし、というかほぼ火事場泥棒的に手にいれたこの二つの城。
沓掛城は水野党の物に。
大高城は織田家の物に。臨時の措置として、俺が城代にさせられてしまった。
城代は城主とは違う。土地、城はあくまで織田家、信長の物で、俺は城の運営の責任者、という訳だ。
だけど、傍目から見れば二つの城を持っているようなもので、そのネームバリューは半端じゃない。
鳴海城主・城持衆筆頭にして大高城代、大和左兵衛尉一寿、なのだ。
城持衆、というのは今度の尾張統一に向けて新しく出来た制度で、城持ちの国人領主の事を指す。
柴田権六や若旦那のような人達も城と自分の領地を持っているけど、彼等は弾正忠家の譜代だから、城持衆とは呼ばれない。彼等は徳川幕府における譜代大名、俺は外様大名、といった様なものだ。城持衆は俺だけじゃない。星崎の岡田直教、あと刈谷の水野信元。
俺を入れて三名。これだけしか居ないから、今のところは東尾張衆、といったところだ。
判りきった事だけど、確実に歴史が変わってるな。俺の知っている戦国時代と似た、少し異なる戦国時代。リアルな「信長の〇望」って事だ。
コンティニューもセーブも無い。のんびりしてる暇は無いな。
菅谷九右衛門が入ってきた。彼も般若介や内蔵助と同じ措置が取られる事になった。与力ではなく、俺の家臣になったのだ。
「左兵衛さま、水野どの、岡田どのが参って居りまする」
「分かった。通してくれ」
岡田直教と、水野信元が入ってきた。入れ違いにせきが居間を出て行く。まったく、せきとのまったりタイムを邪魔しやがって。…呼びつけたのは、まあ、俺なんだけども。
「これはお二方、一別以来でござりまする。息災か」
「大和どの、立派になられたのう。見違えたわい」
「息災でござる。沓掛受領のお力添え、忝うござった」
岡田直教は笑って、水野信元は畏まって、それぞれ頭を下げてきた。岡田どのとは守山救援のとき以来会ってなかった。そんな昔の事じゃないけど、懐かしい。
水野信元が深々と頭を下げたのには訳がある。沓掛を彼にあげろ、と若旦那に進言したのは俺なのだ。
大高、沓掛とも城代を置いて管理しよう、というのが当初の案だった。だがそれでは命令とは云え水野党はタダ働きになってしまう。不満が溜まれば彼を今川方に追いやりかねない。何しろ松平竹千代の叔父なのだ。どう転ぶか分からない。小城一つで済むなら、そっちの方が安上がりなのだ。
「いやいや、信元どのの力添えがあったからこそ、三河で上手く立ち回れたのでござる。大高、沓掛も信元どののお力によるものじゃ。口添えくらい当たり前でござる」
水野信元はさらに恐縮してしまった。なんだか…うける絵だな。
「ワシも水野どのにあやかりたいもんじゃ…大和どの、今日が城持衆の初顔合わせじゃ。とりあえずの指図を決めて下さらんか」
とりあえず…か。一応方針は決まっているんだけども、城持衆だけでやれるかどうか。
岡田直教と水野信元は帰っていった。
家臣たちが溜まりに集まっている。城持衆の初会合がどんな内容になったのか、思い思いに話していたようだ。俺が入るとシンとなった。
「お、そろってるな。…皆一斉に見つめるなよ、ちゃんと話すから」
「岡田どの、水野どの、お二方とも笑うておられた。初の談合は首尾良く終わりました様で」
佐々内蔵助が口火を切る。
今までであれば蜂屋般若介が悪乗りして話を茶化す所だが、静かに座っている。
この様子ならオトナ筆頭としてやっていけるだろう。まあ、信正あたりにきつく言われての事だろうが…。
「そうだねえ。二人共、すぐ支度にかかりまする、って帰っていったよ」
…支度にかかりまする、とはいったものの、二人は半信半疑だった。悟られぬ為に笑いながら出て行ったのだろう。
「何の支度をなさるので」
すかさず八郎が訊ねてくる。
「何だと思う、八郎」
「それがしの見立てでは…岩倉攻めの加勢かと」
「何故、そう思うんだ」
植村八郎は皆に目配せすると、言葉を続けた。
「大殿は今、美濃攻めに出ておられる。かといって伊勢守家をほうって置く事が出来ましょうや」
「ほほう。まあ、出来ないな」
「であれば、犬山に丹羽どの、森どのが居られまする。我等は清洲回りから攻め上がり、犬山勢と岩倉城を挟み撃ちにすれば、あっという間じゃ」
皆が八郎の言葉に肯く。多分、皆で話した結果がこういう結論になったのだろう。まあ、そう考えるだろうなあ。
当然、出陣した後の事もちゃんと考えている…んだろうな…。
「分かる話だが…鳴海、いや、三河との境は誰が守るんだ」
心配要りませぬ、と八郎が続けようとしたのを遮って、今度は乾作兵衛が口を開いた。
「心配いりませぬ。今川が攻めてくるとなれば、当然三河の岡崎党が先手として参りましょう。が、その先手たる岡崎党は密かにとは云え既に我等の味方でござる、八百長の戦をするだけじゃ。刈谷や鳴海が抜かれる事はありませぬ」
作兵衛の言葉に、またも皆が肯いた。今川勢に手出しさせないように三河で頑張ったんだし、まあそうなるかな。
「皆、よく思案し抜いたな。陣触れだ。九右衛門、触れさせよ」
「はっ」
九右衛門が出て行った。きびきびしている。若いっていいな。
せきを呼んで皆の膳の支度をさせる。
俺は軍議をする時に飯を出すようにしている。飯食って一服してそれから軍議だ。
「殿、陣立ては」
小平太が、まぜ飯をほお張りながら訊いてきた。飯粒をきちんと拾え…というか、どれだけ食うんだ、お前。
「まあ、とりあえずは行軍だ。ここ鳴海に岡田どのも、水野どのも集まる手筈になっている。集まるのは明後日」
「腕がなりまする。まさか我等の腹と殿の腹が同じとは…思案し抜いた甲斐があったというもんじゃ」
皆、笑っている。
小平太だけじゃなくてお前等、本当によく食うんだな。…だから、飯粒を拾えってば。
…こうやって皆が揃って飯を食えるのはいつになるかな。次は本気で厳しい戦いになる。
俺も食わなきゃ。