駿府行
無理に攻めるなと言われても、何もしない訳にもいかない。今日も末森城への攻撃が行われている。
「しかし、彼奴等もしぶといのう。元々は同じ弾正忠家の郎党同士ぞ。これだけ戦えば、降っても辱しめる者など誰も居るまい」
織田信広はそう言うと、傍らの柴田権六に向き直った。
「元々は勘十郎さまを立てる為に叛したのでごさろうが、犬山信清めが出てきた為に事がこじれて居りまする。これまでを見ても、簡単には降りますまい」
と、柴田権六は諦めの表情を隠さない。
「そうは言うてものう。…あやつなら、どうするであろうか」
「あやつ、とは」
「左兵衛よ」
大和左兵衛なら、どうするであろうか。
権六も、左兵衛ならどう対処するか興味が湧いてきた。
「左兵衛でござりまするか…今頃何をしておるのか」
「三河、というより今川に対して策を練っとる最中、と聞いておる。松平の分家筋を語ろうて、安祥を落としたそうじゃ」
「なんと」
「うむ。さらに、落ちた安祥を取り戻そうとした今川の岡崎代官を虜にした、と云うぞ」
「やりますな、されどそこまでやれば駿府が黙っておりますまい。その辺はどうするつもりで居るのか」
「だな。まあ、何とかするであろうよ。何とかせねば、左兵衛どころか我等まで滅ぶわ。今川とて、裏で我等が絵を描いておる位、気が付かぬ程間抜けではあるまいて」
「岡崎より使者が参りました」
今川義元は脇息にもたれかかってつまらなそうに本を読んでいる。近習の報告で座りなおすと、大きな欠伸をした。
「ほう。で」
「代官を取り返す為の出陣の是非を求めて居りまする」
「取り返す、だと」
「使者はそう申しておりまするが」
「ここへ呼べ」
「はっ」
まさか駿府までくる事があるとは思わなかったな。いい所じゃないか。
ここまで来ると富士山がかなり大きい。実際にはまだ距離はあるけど、こんな近くで富士山を見たのは初めてだ。
「大和どの。ではそれがしが使者に立ちまする」
「いや…鳥居どのは行かぬ方が良いような」
「何ゆえでござる」
松平竹千代の事があるからだ。彼の処遇や進退について話が及べば、冷静に話が出来ない様になるかも知れないからだ。イエスマンになってしまう。
義元本人や太源雪斎に、では俺が三河に行って片付けようか、という事になっても困る。岡崎衆には表面上は拒む理由もないし、また拒めるはずも無い。
今川に泣きついてきたのは誰だ。竹千代の親父ではないか。
と言われたら、岡崎譜代は何も言えない。岡崎代官による間接的な統治ではなく、義元が直接統治する、という事態になれば、三河は完全に今川家の分国にされてしまう。岡崎の譜代衆にとって、それだけは絶対に避けなければならないし、織田にとっても困る。
「竹千代様の事を気にしては、交渉など出来ますまい。鳥居どのだけでなく、他の譜代衆や中嶋どのでも、それは変わらぬと思いまする」
…なんて言わなきゃよかった。
鳥居忠吉の名代、一族の鳥居一忠として、結局俺が行く破目になった。
鳥居一忠なんて人間はもちろん居ない、ばれなきゃいいが。…春庵め。
「ならば左兵衛さまが行くしかありませんな」
と、黙って話を聞いていた春庵がボソリと言う。
「え」
「要するに、しがらみの無い方が良いという事でございましょう。ならば左兵衛さまが最も適して居りましょう」
「いや、それはそうだけど…安祥の後片付けとか色々やる事があるし…」
「それこそ我等に命じておけば済む事でございます」
確かに春庵の言う通り…なんだけど、俺が今川義元にものを頼むのか。いやはや何とまあ。
近習が使者を連れてきた。廊下の端で平伏している。
「ご、ご尊顔を拝し奉り…」
「世辞はよい、直答許す、近う」
「は、はっ。岡崎奉行並、鳥居伊賀の名代、鳥居一忠にござりまする」
貴族趣味で織田信長にしてやられた暗愚な武将。
後世、そういうイメージの強い今川義元だけど、どうなんだろう。
「鳥居一忠と申したな。代官を取り戻す、とは岡崎代官の事か」
「はっ」
「先月の事にございまする。水野党と桜井の者達が安祥城を落としましてござりまする。それで代官が陣触れじゃ、と。我が主は止めたのでござりまするが…」
「続けよ」
「は、はっ。我が主が諫言致しますると、怒った代官は今川勢だけで行くと申されまして、その」
「負けた。負けた上に質にされたか。ところで、そちの主は上野介に何と言うたのじゃ」
「代官はあくまで代官であって、軍配を渡されて居るわけではない、駿府館に報せた上で、岡崎が揺らがぬ様鎮めるのが代官の任であろう。駿府の許しも得ずに兵を出すなど従えませぬ、それに勝てばまだよいが仮に代官が討死にでもなされたら、誰が岡崎をまとめるのか、とも申されました」
「ふむ」
義元は閉じた扇子をぽん、ぽん、と叩いている。そして深呼吸。
こんな大物を相手に小芝居しなきゃならんとは。…小芝居じゃないな、大法螺かな。
「至極尤もな諫言じゃ。上野介も手柄を焦ったか。しかし、勝てばまだよいが、とは鳥居伊賀もよく言ったものよのう、ハハ」
「は、はあ。その言葉に代官もお怒りになられまして」
「ハハ、さもあろう。…で、これからどうするか」
「我が主は出陣の許しを請うて参れ、と申されました」
「ふむ。水野党と桜井家次を討ち、安祥を取り戻すか」
「いえ、安祥城はすでに取り戻してこざりまする。実は、代官は一揆の者共に捕われて居りまして」
「一揆とな」
義元の目が細くなる。
「代官は、安祥に籠もる水野党の足軽どもを降らせ、入城致しましてござりまする。されどそこが彼奴等の策であったようで。代官の軍勢が城に入りますると、火矢が降り注ぎ、あらかじめ用意されてあった薪や高く積まれた柴に火が着き、瞬く間に城は業火に」
「…ほほう」
「城から出、皆取り乱して居るところに、どこからともなく一揆勢が」
「……一揆勢は一向門徒か」
驚いた。どうして解ったんだ。背中を冷や汗が流れるのが分かる。
「ご慧眼恐れ入るばかりでございまする。御館様は事の始めから知っておいでにござりまするか」
俺の言葉に義元は違うとばかりに笑い出した。
「三河の各宗門に矢銭を課したのは知っておろう。本証寺等の一向門徒だけが応じぬ。そなたらはここ駿府に竹千代が居るのに一揆を興すか。興さぬであろう。百姓達とて同じ。年貢は上げて居らぬし、むしろ公平、そなたらの取り分が少なくなっただけ。残るは宗門となる。ならば矢銭を出さぬ一向門徒が答えとなろう」
全然暗愚なんかじゃないぞ、むしろやり手だ。東海一の弓取りと言われただけはある。
考えてみれば、馬鹿にそんな異名が付く訳ないじゃないか。馬鹿ならとっくに織田どころか武田北条に攻め滅ぼされていただろう。
「まことその通りにござりまする。恐れ入るばかりで」
「そう恐れ入らずともよい。しかし水野党が動いたという事は、桜井、一向宗をそそのかしたのは織田のうつけ殿か。うつけなどではないではないか、ハハ」
義元はなぜか上機嫌だ。いい暇つぶしが出来たとでも思っているのだろうか。
「信秀の倅も中々やり手のようでござりまする。…織田という事なれば、御館様自らご出馬なされまするか」
思い切って聞いてみた。そこが一番気にかかる所なのだ。
義元自身、または雪斎禅師あたりが出てくるとなれば、それは三河の直接統治を意味する。岡崎衆を使うために竹千代は生かされるであろうが、彼が三河の国主になる目は無くなる。今の時点でそうなってしまったら、織田にとっても岡崎衆とってもかなり困る。
「ちと、出張るか」
「……」
言葉が見つからない。最悪だ。
「ハハハ、そう固まるな。そなた等に任せよう。予自ら出てもよいが、それではそなた等の立つ瀬があるまい」
「…立つ瀬とは」
思わず聞き返してしまった。
「案ずるな、竹千代は殺さぬ。いずれ松平も継がせる。ゆえ、岡崎衆にもそれ相応に働いて貰わねばならぬ」
義元は笑っていたが、声色は随分と落ち着いたものになっていた。
…これじゃ岡崎衆もやり切れんな。よく諦めなかったものだと感心するよ、まったく。
「ははっ。お言葉、我が主も喜びまする」
「鳥居伊賀は他に何か申しておらなんだか」
鳥居忠吉は特に何も言ってなかった。竹千代が戻ってこない以上、彼は現状を維持して耐え凌ぐ、という事しか考えていない。
でもこれで岡崎に戻るなら状況はちっとも変わらない、使者は俺でなくともよかっただろう。
「…代官をどうなさるか、と申しておりました」
「代官を変えよ、と云うのか」
「代官は三浦さまのままでもよろしゅうござりまする。されど負けて質にされた上に我等が助ける。云わば貸しを作る。三浦さまが代官に戻られたとして、我が主はともかく、皆が服するとも思えませぬ」
「ふむ、尤もな話じゃ」
義元は口をへの字に曲げている。
「岡崎衆に政事を任せて頂きとうござりまする。そのお墨付きを頂ければ尚有難く」
「岡崎衆にのう。評定方、と云ったところか」
「左様にござりまする。代官は据え置き、駿府への上納はこれまで通り。岡崎衆が政事を執るとなれば、従わぬものはそれすなわち織田方か、今川家に弓引く者にござりまする。そういった者たちをあぶりだすのにも好都合、土地の者が政事を執る、と云う事で畏れ多きことながら、今川家への反感も少のうなりまする」
「…成程のう」
「我等、今川家に弓引く者ではござりませぬ。成った暁には、岡崎衆のより一層の働きを御覧なされませ」
義元は再びぽん、ぽん、と扇子を叩いている。
「即答は出来ぬ」
「……」
「が、悪くない考えじゃ、とは思う」
「左様でござりまするか」
これ以上は押せない。何しろこっちは主君が人質なのだ。立場は弱い。
無理押しして臍曲げられても困る。
でも感触は良かった。即答できないところにそれが表れている。駄目なら即拒否だろう。
「さしおき、三河に戻って一揆勢を片付けよ」
「畏まってござりまする」
「下がってよい。そうじゃ、竹千代に会うていくがよい」