安祥攻め
鳥居忠吉は、中嶋清延からの使いを武者溜まり、では無く、離れへと伴った。
「清延どのは息災かな」
「それは恙無う。こうして相対してみると、ご老体も益々かとお見受け致しまする」
「世辞はよいわい。して、用向きは何じゃ」
鳥居忠吉は苦笑した。
「主人から、『お引き合わせしたいお方が居る、三河のため』と。竹…ではない、御曹司の為になる話かと思われまする」
「ふむ…されどワシは岡崎の留守居を命ぜられてのう。代官が居らぬ今、城を空けるわけにもいかぬ」
「その代官でござりまするが」
「その代官が」
「負ける手筈になって居りまする」
「…夜五つ、戌の刻。そちらへ出向くと伝えられよ」
春庵も清延もこの短歌の意味が分かるのか。
ううむ…若旦那からの手紙はひとまず置いて、吉兵衛の話を聞くとするか。
「若旦那は清洲だ。留守居といっても、手持ち無沙汰にしている訳じゃないだろ」
「はっ。美濃を探っておられまする。まあ、清洲を離れるわけにも参りませぬ。探るというより、美濃衆が尾張に仕官したい、と向こうから出向いて来るゆえ、その方々の話を聞いて何やら思案なされておりまする」
美濃。…美濃かあ。これまた厄介な。
でもマムシと言われる斉藤道三とは仲がいいはずだよなあ。
俺の表情から何か読み取ったのか、吉兵衛が言を続ける。
「マムシどのとその御曹司、義龍どのの仲がひどくお悪いようで。美濃は崩れる寸前かと」
…まずい。
「春庵さん、さっきの若旦那の手紙だけど、どういう」
「はい。…読んでみれば、小田木瓜は、おだもっこう。木瓜は弾正忠家の家紋でございますれば、小田は織田、大殿でございましょう」
…おだきうり、じゃなかったのか。なるほど、暗号みたいなもんか。
「犬山殿は…多分織田信清。徒歩いぐさは、かちいぐさ、勝ち戦にござりまする」
「じゃあ…葵は、……松平か。葵の水は後の事かな…松平、要するに三河の事は後回しって事だろうか」
後回し、と聞いて、中嶋清延がぎょっとした顔をする。俺の言葉に春庵は少し首を傾げたが、
「後回し…まあ、一旦戻れとの事ではございませんか」
一旦戻れ。
向こうで何かあったのか。だけど、こっちも途中で投げ出したくは無い。どうしよう。
…と悩んでいると、慌しく中嶋家の用人が入ってきた。中嶋清延が、どうした騒々しい、とたしなめる。
「も、申し訳ございませぬ…岡崎城の今川勢、まもなく出陣かと。数はおよそ千」
用人の報告に、皆が一斉に俺の顔を見る。
…五郎どのには悪いけども、やっぱり尾張に戻るのはもうちょっとだけ先だ。
「吉兵衛、安祥城に急ぎ使いせよ。かねてから示し合わせた通りじゃ、と。それがしも追っ付け駆けつけると。それから、一向勢が安祥周りに伏せて居る。味方だ、彼等に会え。会って中嶋家からの使いと申して般若介か内蔵助に取り継いでもらえ。手筈通りとな。般若介も内蔵助もそれで判る」
「はっ。城方と一向勢、伝える順序はどちらでもよろしいので」
「今川勢の城攻めが始まる前に伝われば、どちらでも良い。使いが終わったらそのまま清洲に戻るのだ。五郎どのには、後一月ほどかかると伝えてくれ」
「はっ。…鳴海のご内儀には何も伝えずともよいので」
「うるさいっ、早う行け」
気が利くのかおせっかいなのか…。さあ、支度だ。
三浦上野介の率いる一千の軍勢は、安祥城攻めを開始しようとしていた。
安祥城は静まりかえっている。物音一つしない。
「ふむ。こちらの軍勢を見て縮みあがって居る…という訳でも無いようだのう。静か過ぎる」
安祥城大手門から三町ほどの所に陣を敷いた三浦上野介は、叔父の三浦左馬介、従兄弟の三浦四郎を呼んだ。
「おう、何じゃ」
「叔父御、静か過ぎるとは思われませぬか」
「確かにのう。城に籠もっておるのは水野党とか。彼奴等は小勢じゃろ、一挙に片を付けるか」
我は岡崎代官ぞ、と勢い込んで出張って来たものの、自らが大将となって采配を振るうのはこれが初めての三浦上野介である。叔父の言う通り一挙に片付けたい。
が、決めかねた。
「小勢とは云え、侮りは禁物。ちと様子を見まする」
三浦左馬介、四郎は拍子抜けしたのか、用があればまた呼べ、と言って自らの陣に戻って行った。
大木の天辺から安祥攻めの様子を見ていた蜂屋般若介は、その大木からするすると降りると、佐々内蔵助と酒井将監に笑いかけた。
「始まったぞ。されどまだ城には取り付いては居らん。あの様子では、我等の思惑には気付いとらんようじゃ」
「物見物見と、これだけ居ったら散らばっとるとは云え、物見で無うて先手じゃ。怪しいとは思わんのかのう。まあ、気付かれても困るがの」
内蔵助も笑った。それ聞いて、酒井将監が苦笑しながら口を開いた。
「代官もおのれ自ら差引きするのは慣れとらんようじゃ。それに我等皆で口裏合わせてあれば、代官で無うても誰も疑わぬわい。この安祥攻めはいずれ駿府にも漏れ伝わる。ばれても、勝てば勝手に城攻めした言い訳も出来ようが…。これから代官も大変じゃの」
内蔵助が腕組みしながらいかにも、という様に頷く。
「大和どのが味方でよかったわい……お、あれは吉兵衛じゃ。手筈通りという事じゃな」
いくら三浦上野介は自分達の周りに伏勢がある事には気付かなかった。
無論、何も見咎めなかった訳ではない。安祥城へ進軍中、何度も具足姿の集団を発見していた。が、
「岡崎留守居の鳥居さまより早馬が参りまして、物見に出て居るのでござりまする。佳き勝ちを」などと言うのである。所属を確かめても、
「我等は大草松平にござりまする。お疑いなら鳥居さまや我等の主人に問うてもろうても構いませぬ。何かあれば、すぐに注進言上いたしますゆえ、このまま進まれて安祥に籠もる水野党を懲らしめて下されませ」
とか、
「桜井松平の手の者にござる。安祥城に今のところ動きはござりませぬ」
という塩梅なのだ。
敵ならば逃げるか手向かうだろう。遭遇する全ての集団の受け答えがいちいち腑に落ちたし、中には三浦上野介の見知っている顔もあり、三浦上野介は疑う事をやめてしまったのである。
「酒井ではないか。近々とんと顔を見なかったのう」
「これはこれは岡崎様。一向の者たちを鎮めるのに忙しく、出仕を怠る破目に。真に申し訳ありませぬ。が、安祥へご出馬と聞き、いざ鎌倉と馳せ参じましてござりまする」
酒井将監は馬を降り、急いで平伏した。
三浦上野介とて、酒井将監が一向門徒であることは聞いて知っていた。
酒井将監が岡崎の譜代衆とは一線を引いている事、一向宗に課そうとしている矢銭の事で一向門徒と今川方との仲立ちをしようとしている事も知っていた。
ほう。こやつ一向者と訊いて居ったが、我等に付きたがって居るのか。しかも俺を岡崎様などと。こそばゆい奴じゃ。
「そうかそうか。将監、ヌシの忠勤は駿府館さまにも伝えよう。励めよ」
「はっ。では我等が安祥への先手を勤めまする」
「いや、よい。此度は我等今川だけで片を付ける。織田ごときに乗せられて、二度と歯向かう者が出てこぬようにな。心意気だけ貰うておくわ。三河の為じゃ、分かってくれよ」
「ははーっ。ではそれがしはこの辺りにて大物見に努めまする」
「うむ。馳走有難く。では安祥を落とした後にな」
…落とせるかの。
今川勢が安祥城を囲んでから半刻ほどが過ぎた。相変わらず城方は静かなままだ。
試しに三浦上野介は軍使を大手前まで出してみた。降伏勧告である。開城し、降ってくれるならそれが一番有難い。
答えは無論、否であった。軍使が戻ってくると同時に矢が盛んに降って来る。
「ふむ。城方も無駄に矢を使いおるわ。射返せ」
今川勢が弓で応戦すると、しばらくして城方の矢が止んだ。
「おおい、寄手の今川衆ううっ、参ったあ。おとなしく城を出るゆえ、咎め無し…よいかあ」
と大きな声が聞こえてきた。城方だ。
ふん、興も冷めるわ。初めからおとなしく降ればよいものを。
龍興→義龍の誤りでした。訂正させていただきます。




