兆し
本証寺に続々と人が集まっていた。岡崎攻めの準備の為である。
大元の原因は租税問題であった。
三河に入った今川家は、宗門にも税を課してきたのである。
一向宗に限らず、寺領というのは元々その寺の持ち物だったり、領主や檀家からの寄進であったりするもので、税など無いのが普通であった。
それに税を課す、という。
特に一向宗の場合、一般の門徒がそのまま宗門の戦闘員と化し、大きな武力すら兼ね備えているので、領主などからは目の敵にされやすい。
この課税問題も、在地勢力と一向宗の切り離しを狙ったもので、三河に限らず一向宗の盛んな土地では珍しいものではなかった。
いきなり改宗や退去を迫るのは確実な対立を生む。まずは課税というところから様子を見るのだ。
松平家にはそれが出来なかった。が今川は違った。
「…成程のう。三河も大変じゃな。が、岡崎攻めなどすれば今川も黙ってはおるまい。遠江、駿河と今川衆が寄せて来ようが。三河の一向宗は潰されるぞ」
佐々内蔵助は首を傾げながらそう言った。蜂屋般若介は黙って酒を飲んでいる。
「確かに潰されるであろうの。じゃが、一向宗が潰されようとワシには関わりのないことじゃ。ワシは一向宗徒では無いからの、ハハ」
酒井将監は笑いながら盃をぐいと空けた。キョトンとした内蔵助と般若介を見ながら、空いた盃に手酌で酒を再び注ぐと、言葉を続ける。
「合力はしておるが、一向ではない。ワシは松平の譜代じゃ。まあ、味方も欺かねばならぬゆえ、一向宗と思われておった方が万事都合がよい」
「わざと欺くためにわざと松平党や今川と敵対なされておるのか」
「わざと、では無い。本家の左衛門尉どのは、まごう事無く松平党じゃ。ゆえに松平党と酒井家が心中する事は避けねばならぬ。我等なり、本家なり、どちらが滅んでも酒井は残る。欺いてでも敵対せねばならぬ」
酒井将監は遠い目をして笑った。黙って酒を飲んでいた般若介が口を開く。
「なにゆえそこまでして」
「敵がおらねば三河は今川の色に染まろう。竹千代様も飼い殺しにされよう。かと言って今川憎し、で敵となれば容赦無う潰される。今川の色に染まらぬ為に我等は一向宗に付いておるのよ。宗門ならば今川もさほど文句も言わぬ。言われぬ上に宗門が大きゅうならぬように見張っておく事も出来る」
「三河を今川に与させぬために、という事か。成程大変じゃ。余計に大暴れせねばならぬのう、将監どの」
将監どの、と言うと般若介は銚子ごと酒を飲み干した。
岡崎城では出陣の支度が進められている。
率いるのは岡崎城代・三浦上野介。介添として一族の三浦左馬介、同四郎。兵は合わせて一千。
出陣に先立って鳥居忠吉が出した物見の報告では、安祥城方はおおよそ二百。確かに三浦上野介の言う通り、負ける算盤が出るはずはなかった。
城代に命じられて本証寺に向ける兵の手当てをしていた鳥居忠吉は、家人から来訪者があることを告げられた。
「して、誰が来ておるのじゃ」
「は、茶屋の二代目、と申しておりまする」
内蔵助と般若介は、自分達の身分を明かす事にした。
「将監どの、我等は尾張者にござる」
「それは聞いておる。織田を飛び出し仕官先を探しに来たのであろ」
「いや、それがしとこの蜂屋般若介、織田の身内にして鳴海城主、大和左兵衛の与力にござる」
騙していて済まなかった、と二人は酒井将監に深々と頭を下げた。
「なんとまあ…そのような事もあるやも知れぬ、とは思うておったが、まさかあの大和左兵衛どののお身内とは」
「まだ身内でのうて与力にござるが…将監どの、まさかとはどういう」
般若介は聞き返さずにはいられなかった。
「いや、大和左兵衛どの言えば、本多肥後守を討った、すぐれて剛の者と聞いておる。そのようなお方がここまで調略の手を伸ばすとは、中々もって出来るお方よのう、と思うてな」
間近で左兵衛を見知っている内蔵助と般若介の二人は、思わず噴出しそうになったが、
「左兵衛どのは十手、いや百手先を見通すお方にござる。三河についても何か存念がありそうでござった。将監どの、味方になれとは言わぬ。が、我等いや織田は敵ではない。それだけは分かってくれぬであろうか」
両名はそう言うと、酒井将監に深々と平伏した。少し間をおいて酒井将監が再び口を開く。
「…安祥は再び落とされたが」
「左兵衛どのの策の内でござる。一向宗徒を動かしやすくする為にござる」
と内蔵助は顔を上げて将監の目を見据えた。
「三浦上野介が動く事も読んでおられたのか」
内蔵助は、左兵衛が本当にここまで先を読んで計を練っているのか半信半疑であったが、
「…読めずに策を立てるお方とも思えませぬ」
と自信満々の笑みを浮かべてそう答えた。般若介も一瞬チラリと内蔵助の顔を見たが、内蔵助に合わせて微笑していた。
「…まあ話は分かった。岡崎攻めまで間もない。支度は整っておろう、とりあえずはそれまでゆるりとなされよ。後でまた顔を出すゆえ」
酒井将監は笑いながら庵を出て行った。内蔵助と般若介は顔を見合わせて、ホッと一息ついた。二人とも盃に手を伸ばす。
「……内蔵助」
「なんじゃ般若介」
「言い切ってよかったのか」
「読んでなければ安祥攻めなどするものか。…ものかのう」
「おい」
般若介は大笑いしている。
今井修理亮は唖然とした。馬鹿か、物狂いか何かなのであろうか。
物身と思われる前田又左の一隊が、味方の先手に突っ込んできたのである。数はおよそ馬乗五十騎ほど。
鉄砲や矢に当たらぬよう、先手の前を横切って、右に左にそれを繰り返しながら突っ込んできた。
「ふむ、小兵の扱いは上手いようじゃ」
林佐渡は笑って見ている。が、今井修理亮には笑う余裕などなかった。先手を任されているのは彼なのである。彼の主の弟・林美作が亡き今、林家のまとめを托されているのは修理亮なのだ。
「殿、ちと行って又左どのをあしろうて来まする」
主君・林佐渡に頭を下げると、今井修理亮は駆け出した。
出てきた前田又左は寡兵、と言うのも憚られる少人数だが、いいようにこちらの鼻先に食いついている。いずれ下がるであろうが、その時にはこちらの先手がずるずる前に出るであろう。それを潮に那古野勢の本隊も動くはずだ。
状況をそう見て取った今井修理亮は大したものであった。大半の者は相手の意図を読めずに混乱し、良いように引きずり回されてしまう。
が、修理亮に分かる筈も無いが、この場合の彼の読みは外れていた。
前田又左は暴れたかっただけなのである。赤母衣衆とは云え、彼はまだ若者であった。指揮より暴れている方が楽なのだ。
又左隊と言われていても、実際の指揮を執るのは、彼の兄の利久であった。弟が目立つ為に影に隠れがちだが、器量は目立つ弟より確実に上だろう、と言われていた。
実際、前田家の次期当主は彼なのである。
「林衆が弱いのか、犬山勢が弱いのか、どっちだっ」
などと言いながら前田又左は暴れまくっている。
しかしただの暴れ者では無く、その鑓先は鋭い。既に末森勢は彼一人のためにに三十人以上は失っている。
又左隊も強者揃いであった。又左がいつも暴れまわるので、彼を護る為に、そして自らを守るために自然と強者にならざるを得ないのである。
それは、その又左隊を指揮する前田利久にも同じことが言えた。
結果として又左隊は強く、末森城先手衆を任されている今井修理亮の当面の悩みになりつつある。
「そのうち退くっ。無理に当たるな、押し返せっ」
と、今井修理亮は声を張る。
彼が前に出た事によって城方先手は落ち着きを取り戻しつつあった。
「退くものかっ。俺が前田又左よ。先手の大将、相手をしろ」
前田又左は朱鑓を高々と上げて、名乗りを上げた。
又左隊は既に三十を切っていた。もうどう押しても敵の先手は崩れることはないだろう。
「又よ、そろそろ潮じゃ、退くぞっ」
利久が又左に向かってそう叫ぶと、
「もう少し暴れられるわっ」
と又左が鬼の様な顔で返している。
「一騎打ちなどと、呑気な」
と、今井修理亮は笑って見ていたが、名乗りを上げた前田又左と大声で言い争う小奇麗な具足を身に付けた若者が目に留まった。修理亮は自分の従者に訊いてみた。
「あれは誰じゃ」
考えをまとめる為にふと訊ねただけだったが、意外にも従者は答えを知っていた。
「あれは…前田利久どので。又左どのの兄、前田の若旦那にござりまする」
「ふむ」
…隊伍をまとめる冷静な兄と暴れん坊の弟。兄を狙えば隊は崩れようが、怒り狂った弟が手を付けられなくなるだろう。狂われては敵わぬ。…弟を狙えば兄は退こう。
「おい、鉄砲では人数がいる。弓の手練れを此処へ寄越せ」
言われて間もなく古強者のような弓頭が二人。
今井修理は細い目を更に細めて笑った。
「…前田又左とやら。これでもくらえ」
「大和どの。清洲より使いが参っておりまする」
中嶋清延が連れてきたのは、吉兵衛だった。久しぶりに会ったけど…老けたな…。
「おおお、吉兵衛じゃないか。元気だったか」
「元気……ああ、恙無う息災に過ごしておりまする。殿も同じく。…まあ世話話の前にこれを」
吉兵衛は懐から手紙を取り出した。五郎どのからだな。
「分かった。読み終わったら呼ぶから、隣で膳でももらえ」
「はっ」
折目正しい中島清延には、俺に対する吉兵衛の態度は気に食わないものらしく、吉兵衛を睨みつけながら
こちらへ、と隣へ連れていった。…んで、何て書いてあるんだろう。
小田木瓜 犬山殿に徒歩いぐさ 葵の水は後の事かな
五郎
……
………
……。
…おい。
戻ってきていた中嶋清延に声をかける。
「清延どの、済まぬが春庵さんと吉兵衛を呼んで来てはくれまいか」
「ははっ」また中嶋清延が部屋を出て行く。
俺の「三河のため」宣言以来、まるで従者のように俺の動きを見ている。彼はそうではないけど、いわゆる小姓、近習というのはこういう物なんだろうか。慣れないと相当居心地が悪いぞ。
「お呼びでございますか」
春庵さんと吉兵衛が中嶋清延に伴われて部屋に入ってきた。
「春庵さんにも聞いてて欲しいんだ。疑念があれば春庵さんからも吉兵衛に尋ねてくれ。で、作兵衛」
「はっ」
「どうなっているんだ」
吉兵衛は手紙読んで分からないのか、といった訝しげな顔をしたが、
「はっ。末森を密かに出て参った信清どのは那古野を南から突こうとしておられた様で。逆に那古野の南から大回りに末森に向かおうとしていた大殿の軍勢と一合戦。大殿がこれを破りましてござりまする」
「五郎どのは清洲の留守居か」
「はっ。大殿から若旦那に文が参りまして、『末森攻めはヌシに任せればよかった』との事で」
「なぜだ」
「前田利久どの討死、前田又左どのは大怪我を負われ、清洲に引き返されましてござりまする」
「…なんと」
思わず春庵さんが声を上げる。俺は前田利久に会った事は無いけど、思慮深くて沈着冷静、との評判だった。
吉兵衛は春庵の甲高い声に驚く風もなく、続ける。
「利久どの討死を潮に、信広さまの軍勢と末森方の林勢がぶつかり、その隙に信光さまの軍勢が林勢と末森城の繋ぎを断ったげにござりまするが…」
「吉兵衛さん、ならば我等大殿方の勝ちではありませんか。戦の事は素人でございますが、それくらいなば、私めにも目算はたちますよ」
春庵の言葉に、吉兵衛は黙ったまま俯いた。
単純に景色を想像してみる。
末森方の林勢は前面の信広勢、後ろに回った信光勢に挟み撃ちにされる。二倍の敵に挟まれて、林勢はたまったもんじゃないだろう。普通ならそこで終わる。春庵の言う通り俺達の勝ち。
でも、末森城の留守部隊の中に気の利いた奴が居れば、城から部隊を繰り出して信光隊の更に後ろを取るだろう。馬乗百騎ほどでいきなり現れられたら、信光勢は混乱するだろうし、混乱させるだけで、挟み撃ちは意味を成さなくなる。五百とか来られたら、壊滅必至だ。
断ったげにござりまするが…か。その後はどうなってんだ吉兵衛。
「大殿は末森に向かわなかったのか」
「のようで。…若旦那さまの文には何と」
「お前さんが捕らえられた時の事を考えたんだろう、これしか書いてないんだよ。この短歌には季語が…まあいいか」
俺は五郎の手紙を吉兵衛に見せた。春庵も中嶋清延も覗き込む。
皆、難しい顔をしている。
「…これは」
仕事柄、連歌会なども催す春庵や中嶋清延にも、若旦那の短歌はひどい歌に見えたらしい。
「何か、他の事を言いたい様にございますな」
……違ったらしい。
「こんな矢ごときで俺が討てるかっ」
又左の肩に一筋の矢が突き立っている。それを引き抜き、次の矢を巧みに避わし、朱鑓で払うも矢は次々と向かってくる。又左隊の者も我先にと又左を庇う。
今井修理亮の指揮する林勢の先手はじりじりと退きつつあった。
又左隊はこれを機に下がるべきだったが、激昂している又左を下がらせるのは兄の利久ですら困難事であった。
信広勢本隊からも又左隊の苦戦はありありと見えている。
織田信広は何も言わないが、前田又左を出したのは柴田権六の独断であった。
権六がどうにかせねばならない。が、本隊の進退は織田信広が決める。
「信広さま」
「何であろうか、柴田」
「末森…林勢が下がっておる様に見えまする。信光さまに使いを走らせ、末森勢の背後に回って頂くと共に我等で釘付けにせねば」
「使いは既に出して居るわい。柴田よ、金森と塙で前田に助太刀させよ。ワシの手勢も連れていけと申せ」
「それがしは」
「そなたは此処で差引きせよ。ぬし等も大将として大勢を率いる時が来よう。その修練よ」
「は…ははっ」
「兄者っ、敵は下がって居るのに何故我等が退かねばならんのじゃっ」
敵前であるのに、前田又左は兄・利久に掴みかからんばかりの勢いで迫った。
「たわけがっ。我等の役目は終わりじゃ。偽りかも知れぬが、我等だけで敵を退かせたのだぞ。充分じゃ。あそれに後ろを見ろ。後は金森どのや塙どのに任せるのじゃ」
「されど」
しかめ面の又左を見て利久は笑った。
「功は我等のみで占めてよい物ではない。それに我等のこの数ではもう何も出来ぬ…又っ、あぶないっ」
又左が敵の方を向くのと同時に、利久が馬から飛んで又左に覆い被さった。
「ぶ、無事か」
「兄者」
無事か、と弟に問う利久の体に次々と矢が立っていく。
「兄者」
「ふ、ふ……次の当主はお前、だ…な」
「あ、兄者」
又左が初めて抱える兄の体はすごく重く、さらに重くなってくる。
「親父…どのを、悲しませるな、よ」
又左はそれ以降物を言わない兄の姿に一瞬呆然としたが、地を響いてくる物音と、又左、と呼ぶ塙九郎三右衛門の声に我に返った。
「生きておったか。抱えておるのは誰…まあよい、退け。柴田どのがお主を死なすなと言うての」
塙九郎三右衛門はそう言って前田又左の肩をぽんと叩くと、そのまま前に駆け出した。
末森勢が更に下がっているのだ。
その場に残ったのは弟と、彼に先ほどまで兄者と呼んでいた者だけだった。
長い中断申し訳ありませんでした。長い中断の後でかなりブランクがありますが、読んでやって下さいませm(_ _)m
登場人物がこんがらがってしまうと思いますがご容赦下さいm(_ _)m