殿軍
服部小平太が俺の側に寄る。緊張しているようだ。
「…殿、地鳴りが聴こえませぬか」
確かに聴こえる。地鳴りだけど、地震じゃない。地震じゃないとすれば、何かが移動している。地響きとして伝わってくるのだ。
「信広さまっ」
「何だ左兵衛、急に青い顔をして」
「勘十郎さまや皆を連れて、守山城に退かれませ。早くっ。敵が迫っておりまする」
「何だと」
「何だと、ではござりませぬ。早うなされませっ。殿軍は…それがしが勤めまする」
この場において、死んでもよい人材と言えば、俺、菅谷長頼、服部小平太しかいない。菅谷長頼はまだ十四歳。殿軍の指揮など執れない。小平太ではまだ小者過ぎて兵が従わぬだろうし、必ず逆に突っ込んで死ぬだろう。消去法的に俺しか居ない、ということになる。
「良いのか左兵衛。無理はするな、生きて帰れよ」
信広は言うが早いか、勘十郎信行、柴田権六と共に走りだした。
「守護代から我等が来ると聞いて居らなんだのか。信友どのも、酷な仕打ちをするのう、ハハ」
織田信清は満面の笑みを湛えている。
末森城は、犬山勢で埋めつくされていた。およそ二千五百の兵が屯している。
「策が漏れるのを防ぐためにござりましょう。信行様が変心なされたのは残念にござりまするが、犬山どのが居るならば千人力でござる」
林佐渡にとって信行の変心は残念どころの話ではなかった。今回の行動は全て、信行を当主に擁立するためのものなのである。
「信行どのはいかがなされたのじゃろう。当主になる望みは捨てたのでござろうかのう」
信清は疑問のように言いながらも顔は笑っている。
千人力ではあるが、林佐渡は不安だった。
このままでは末森どころか弾正忠家は押領されてしまうのではなかろうか。なにしろ策を練った当の守護代はもういないかも知れないのである。
「信清どの、清洲の様子はご存知か」
「清洲からの報せで出て参ったのじゃが…三郎信長に攻められて居るという事までは知っておる。おっつけ、物見が帰ってくるはずじゃ」
「そうでござりまするか」
清洲はすでに落ちているだろう、と林佐渡は思った。
となれば、このまま織田信清の下につく事になるのだろう。
末森城を与えられるか、切られるか。
彼とて切られたくはない。
「信清さま」
「何でござろうか」
「それがしにはもう戻る処が在りませぬ。このまま信清さまの臣として仕えとうござる」
織田信清は一瞬迷ったそぶりを見せたが、
「よい心掛けじゃ。この末森はそちに与えるゆえ、忠勤励んで貰おうか」
と、笑った。
地響き、地鳴りは続いている。
…どうやって追撃してくる犬山勢を止めようか。
「小平太、柵木を止める縄はあるか」
「ありまするが、何をなさるので」
「足の高さ、腰の高さ、あと頭の高さ、馬の背の高さに縄を張れ。木と木に渡して柵の替わりにするのだ。道端の枯木も道に引っ張ってこい。二、三本積んで逆茂木にしろ」
「逆茂木は判りまするが、縄など騎馬が突っ込んで来たら役には立ちませぬぞ」
小平太は首をかしげる。
「幾重にも張るのだ、一間進むごとに張っていけ。五重に張ったら、道の両側に弓をを潜ませろ。三十おく。…早く」
「はっ」
「五度ほど矢を放ったら下がれ。張った縄の此方がわに長柄を三十、差引は俺がやる。小平太、俺が合図したら構わず弓組と共に退けよっ…菅谷どのっ」
「はっ」
「残りを皆連れて行って、一町ほど下がって鉄砲を三十、道の両側に潜ませて下されよ。小平太の弓組、俺の長柄組の順で下がってくるゆえ、我等が下がって配置につくまでひたすら鉄砲を撃たせて下され、行けっ」
「はっ」
「おい、橋本十蔵、長田五兵衛っ。来い」
俺が呼ぶと、二人が駆けて来た。
「はっ」
「ははっ」
「主らは菅谷どのと共に行き、残りを率いて、菅谷どのの更に二町ほど下がって篝火をうんと焚いて明るくしろ。旗指物は地面に全て突き立てよ。間もなく敵が来る。皆早駆けで行け」
兵達が動き出す。
果たして上手くいくか。自分でもよく分からない。あの面子からすれば、俺が言い出さなくても殿軍を命じられるのは確実だったろう。
何しろ俺は成り上がりの出来星大名なのだ。
織田家には俺が死んでも替わる人材は幾らでもいるし、これからどんどん出てくる。
だったら自分で殿軍を買って出て、幾分か落ち着いて指揮出来る方がいい。負けかけて追撃されるよりは余程ましだ。
それに夜間には大軍は動かせない。混乱しやすいし、一度混乱すると指揮がとれないからだ。
そして道は狭い。
行軍ならともかく、全速力で追撃となるとまず先駆けは騎馬だろうし、下手に松明などで灯りをだすと此方に松明の数で追撃してくるおおよその人数をばらすことになる。
それに犬山勢は小数だ、と俺はみている。
末森に攻めかかった守山勢先手の規模から、こちらの数を推測しているだろうからだ。
…来た。敵先頭の松明が見える。
「小平太、よいか」
小声で小平太に確認する。同じ小声で、よいぞ、と返事が返ってくる。
「うわっ」
敵の先頭が逆茂木に足を取られ縄に突っこんでいく。後続がそこに突っ込み、敵は混乱していた。
「小平太、かかれっ」
俺の号令と共に矢が放たれる。…いいぞいいぞ。
「長柄、鑓構えっ…突けっ」
縄は五重に張ったうち、二列ほど残っていた。そこに長柄鑓を突かせる。
人だろうが馬だろうが関係ない。鑓を出さねば向こうが出てくる。
「っ小平太、そろそろじゃ、先に菅谷どのの陣まで退けっ」
「承知っ」
小平太の指図で、道の両側の弓組が退いていく。が、当の小平太は退く気配がない。
「おい小平太」
「殿より先に退けるかっ。生きるも死ぬも一緒ぞっ」
「こ、こいつっ。俺はまだまだ死なぬぞ」
パニックになりそうな状況ながらも、少し目頭が熱くなってくる。
「判って居るわい。ワシが殿を死なせるものかっ」
小平太は笑っていた。…この状況で笑えるなんて大したもんだ。
「小平太、馳走は充分じゃ、下がって菅谷どのを助けよ。今度は下がらぬと怒るぞ」
「わ、分かった」
小平太が下がっていく。
…俺もそろそろ下がらないとヤバいな。
敵は立往生する馬たちが邪魔で、まだ団子状態になっている。
俺は三列に分けていた三十人の長柄たちを、後ろから一列ずつ退かせた。
逃げる時はもちろん、全速力で駆け足だ。約一町後ろの菅谷長頼の所まで逃げる。怖いが俺は最後尾だ。
「皆、早う行けっ」
敵に対する最前列が最後尾となり、駆けだす。
よし。俺も。
と思って馬ごと後ろを向いたとき、右肩の肩甲骨辺りに衝撃と痛みが走った。
馬から落ちそうになるのを必死に耐えながら肩越しに見ると、矢が刺さっていた。
「菅谷どのっ」
「おお、服部どの」
菅谷長頼が嬉しそうに、向かってくる服部小平太に声をかける。
初陣を済ませたばかりで今度は殿軍を務めるなど、かなり心細かったに違いない。
小平太は菅谷陣に着くなり、声をあげた。
「弓組は鉄砲の後ろで防ぎ矢じゃ。…左兵衛さまが見えたら菅谷どの、火蓋を」
「相分かった」
小平太と菅谷長頼が道の両側に別れると、大和左兵衛の指揮していた長柄たちが続々と駆けてくる。
「…殿はまだか、殿は」
服部小平太は、やきもきしていた。すると、暗闇の中から声がする。
「こ、小平太っ、もう着く。火蓋切れっ」
大和左兵衛は馬ではなく駆け足で道端に転がりこんだ。
「 あっ、殿っ。…菅谷どの、もう来るぞ」
「承知っ。…火蓋切れっ、目当ては道の上……放てっ」
「防ぎ矢っ」
鉄砲の斉射と共に防ぎ矢が放たれた。前方の暗闇から悲鳴が聴こえてくる。
服部小平太は大和左兵衛を気遣った。背中に二本の矢が立っている。
「と、殿」
「だ、大事ない。退く支度をしておけ」
ぃ痛いっ、死ぬほど痛いっ。馬に投げ出されたけど必死で走った。弓矢を馬鹿にしてたぞ。小平太、死んでないんだからそんな情けない顔するなよ。
「と、殿」
「だ、大事ない。退く支度をしておけ」
三度目の斉射だ。そろそろだな。
「菅谷どの、退けっ」
「畏まってござりまするっ」
菅谷長頼と鉄砲が駆け出す。
と、小平太が俺の肩を叩いた。い、痛いっ。
「敵が止まって居りまする。それにこちらの矢もそろそろ」
…矢種が尽きるか。よし。
「よし、退け。…小平太、肩を貸せ」
足をだす度に痛みが走る。
…まじで痛い。もう弓矢を馬鹿にするのはやめよう。
本当に敵の足は鈍っているようだ。
痛みで中々早く走れないので、小平太と共に最後尾で長柄の指揮を執ることにした。
俺の下の三十人の長柄たちは、何度か追い付かれる度に足を止めて反撃させているので、既に十人を切っていた。
多分二度の伏撃を喰らって、慎重に物見を兼ね、付かず離れず追撃して来ているのだろう。
多分、撃退した連中のすぐ後ろには追撃本隊がいるのだ。
…橋本十蔵たちの篝火陣が見えた。
助かった。もう敵の追撃隊にも篝火の灯りは見えているはずだ。
「大和左兵衛じゃあ、撃つなよ」
一応声をかける。味方に撃たれてはかなわない。
しかし、想像していたより規模が大きい。
ここだけ昼間のようだ。まあ、これくらいが丁度いいかもな。十蔵たち、よくやってくれたもんだ。
枯木を利用して、道の上に柵の様に食違いに逆茂木も置いてある。
逆茂木を抜けて、篝火の裏に出ると、守山城に置いてきた筈の蜂屋般若介の姿があった。
「般若介、何故ここに」
「城に居ても暇でござってのう。途中信広さまや、なんと勘十郎さまとすれ違った。訳を聞いて得心した。間もなく守山に着く筈でござる」
…よし、勝った。あ、勝ってはいないか。まあ、目的は達した。
俺の到着を聞きつけて、菅谷長頼、橋本十蔵、長田五兵衛と、皆が揃う。皆、篝火で明るくしている事に疑問があるようだ。
代表したかのように般若介が訊いてきた。
「…左兵衛どの、このように明るくしては不味いのではなかろうか。伏勢を置くなりして、追い撃ちを止めねば」
「いや、これでいい」
俺は痛みに耐えながら笑ってみせた。
「なぜでござる」
と、今度は菅谷長頼が訊いてきた。
「欺くためだ。我等はもう二百を切っておる。信広さまと守山を出てきた時に、率いれるだけ連れて来たために、守山からはもう援兵はない。これ以上我等が兵を失うては、守山も守れなくなる。追撃を絶ち切る為には策を講じねはならぬ」
「ははあ」
「我等は二度伏勢を使って敵の足を止めた。二度有ることは三度ある、と言う。敵は次の伏勢を怖れている。篝火を煌々と焚いて、さも迎え撃つようにしておれば、逆に敵は何かある、と思うて止せては来ぬ。…十蔵、兵を率いて守山に迎え。…早う行け、ゆっくり駆けて足を止めるな。…般若介、小平太、菅谷どの、長田五兵衛。馬に乗り鉄砲を持て。俺が合図したら鉄砲を放て。あとはゆるりと逃げるだけじゃ。この手は、三河の徳川が…あ、いや何でもない」
俺は再び笑った。
皆、呆気に取られて俺を見ている。
「成る程のう。鳴海を落としただけはある。流石じゃ」
般若介が感心して大きく頷いている。菅谷長頼は目をキラキラさせていた。
橋本十蔵が兵を率いて出て十分ほども経ったろうか。
物音一つしない。篝火のパチパチいう音だけが聴こえる。
…敵の先頭が現れた。騎馬ではなく徒歩立ちだ。駆けて寄せてくる気配はない。
「よし、皆前に出ろ。出たら皆一斉に撃て。撃ったら逃げるぞ」
俺も交ざって敵先頭に向かって一斉に鉄砲を撃つ。敵の誰かしらに当たったのか、悲鳴が聴こえた。
「よし、逃げるぞ。ゆっくりとな」
敵は追っては来なかった。
…まだ見ぬ徳川家康どの、策をありがとう。




