始まり
平井信正が入ってきた。
「殿、那古野より使者が参っておりまする」
「おう、通せ」
那古野の使者、米津甚八郎が入って来た。
「大殿のご口上、申しあげまする。…清洲攻めにつき、我等との繋ぎを密にせよ…との仰せにござりまする」
「それだけか」
俺はキョトンとした。それだけなら言われずともやる。清洲攻めの日時だけ教えてもらえればよい。
「いえ、仔細はこれに」
米津甚八郎は懐から書状を取り出した。これ、信長が書いたのだろうか。…こっちを先に出してくれよ、もう。
読み進むうちに、目が止まる。
「ふむ。米津どの、使者の役目ご苦労でござった。何のもてなしも出来ぬが、ゆるりと那古野に戻られよ」
「はっ。お気遣い有難く」
米津甚八郎は下がっていった。
「おい、皆を集めてくれ」
「はっ」
側に控える岩室三郎兵衛に皆を呼びに行かせる。三郎兵衛は乾作兵衛が推挙した若者だ。
近習、馬廻りとして仕えさせている。
「信正、あれから各郷の頭たちは何か言ってきたか」
「ちらほらと返事が来ておりまする。殿に仕えたいという者もそこそこ居る様にござりまする」
「そうか。皆同心してくれるといいんだが」
「このまま今川を防ぐ事が出来れば、皆が殿に靡きましょう」
信正と二言三言話していると、皆が入ってきた。
平井信正。
乾作兵衛。
服部小平太。
植村八郎。
岩室三郎兵衛。
与力として、蜂屋般若介。
佐々内蔵助。
俺に対して、皆が一斉に平伏する。
「顔を上げてくれ。集まってもらったのは、まあ、評定だ。今後の方策を談合するためのな。各々、言いたい事があれば言ってくれ。それと、守護、斯波義統様が守護代に殺された。ご嫡子の義銀様より大殿は総追捕使に任じられた。それゆえ大殿は清洲を攻める。事があれば動けるようにしておけ、との事だ」
一同がざわつく。そのざわつく中から、服部小平太が切り出した。
「我等も清洲に向かうので」
「小平太、我等が居るのはどこだ」
と、小平太の言葉に乾作兵衛が相打つ。
「鳴海に決まっとる」
「では我等はこの鳴海で何をしておるのだ」
「今川勢を抑え…あ。では清須には行かぬのか」
小平太は自問自答のようにつぶやき、残念そうな顔をする。
「清洲より今川、三河じゃ。橋介どのの仇を討たねば」
植村八郎が憤りを隠さずにつぶやいた。その八郎のつぶやきに、平井信正が釘を差す。
「仇は殿が取っておる。いつまでも仇、仇と了見の狭い事を言うな」
「な、何だとっ」
八郎が信正に掴みかかろうとする。
「やめよっ。いがみ合うてどうする。そのような事をするために談合しとるのではないぞ」
俺は皆を一喝した。すると、今まで黙っていた佐々内蔵助が口を開いた。
「左兵衛どのはどのようなご存念でおられるのであろうか」
「俺か。…言われたとおりの事をするだけだ。他に何がある」
どういう意味なのだろう。意味が分からない。内蔵助はさらに続ける。
「…大殿を裏切る、という事はありませぬか」
内蔵助の言葉に、皆が再びざわつき出す。
「ハハ、ないない。大殿あっての俺だ。裏切るなど有り得ぬ」
「…で、あればよろしゅうござる。我等与力はこれからも左兵衛どのの下知に従いまする」
内蔵助と般若介は深く平伏した。
内蔵助と般若介は、清洲攻めと聞いて織田家のいろいろな内情を想像したに違いない。それで俺が信長を裏切って守護代や、末森城の信行につくのではないか、という考えが頭をよぎったのだろう。それで内蔵助が代表として俺に訊いてきたのだ。
内蔵助たちがそう考えるのも分からない話ではない。俺の前の城主は現に裏切って今川についたし、鳴海がどの信長以外のどの勢力に付いても、信長は清洲攻めなどしている場合では無くなる。
…でも内蔵助、般若介、あんた達の大殿が勝つから心配するな。
俺は皆を再び見回した。
「我等の役目は小平太も言うた通り、今川を抑える事だ。ゆえに鳴海を軽々しく動く事は出来ない。…が、大殿の清洲攻めの最中に何か事が起こるやも知れぬ。今川と大殿に従わぬ者と両方に備えなければならない。作兵衛、今、我等の手勢はいかほど居る」
「はっ。およそ三百にござりまする」
「三百か。…信正、八郎、三郎兵衛、それと内蔵助と般若介。村の各郷に触れ回れ。皆で力を合わせる時が来た、俺に付き従う者はこれよりすぐに鳴海に集まれ、陣触れじゃ、と」
「ははっ」
「作兵衛と八郎はいつでも動けるよう兵達に出陣の支度をさせよ」
「はっ」
「それと米津どのを呼んで来い。まだ母屋に居るはずじゃ」
八郎に伴われて、米津甚八郎がやってきた。
「米津どの」
「はっ」
「これから那古野に戻られるか」
「はっ」
「では大殿宛てに使いを頼まれてもろうて宜しいか」
「何なりと」
「末森への手当ては万全にござる、とだけ申してくだされ」
「ははっ」
「大殿、支度整いましてござりまする」
ワシは出陣の支度が揃うた事を、大殿に報告した。
「おう。五郎右衛門、頼むぞ。…が、隠居の爺まで留守居に使うて済まぬの」
大殿は嬉しそうにそう言うと、頭を下げてきた。
「いえ、親父も喜んでおりましょう、お気になさいますな」
「おう。ところで…分家共はなんか言うて来たか」
「…いえ。守山、松葉、深田。あとは日和見にございまする」
「そうか。まあ、それだけ居れば充分よ」
大殿は、そう口では言うて笑うておったが、目は怒りの色に染まっていた。