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戦国異聞  作者: 椎根津彦
抱卵の章
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後始末

 「ほれほれ、織田勢はへっぴり腰よ、ほれほれぃ」

ほれほれと井伊谷の爺、修理亮が自慢の朱鎗をぶんと振ると、一度に二、三人の鳴海勢の長柄が倒れていく。八郎や九右衛門もこれには難儀している様だった。

「全く強え爺さまじゃ、皆、怯むな、かかれかかれっ」

「あの朱鎗の馬上を打ち落とした者にはこの九右衛門が褒美を呉れてやるっ。かかれかかれっ」

鳴海勢は元々百姓だった者が多い。城を守る様な地の利のある戦いは粘り強く戦えても、野戦となると彼等を率いる物頭達の質に左右される面が大きかった。既に鳴海勢の矢弾は尽きかけており、今の勢いを維持出来る時間は限られていた。

 「殿、あの朱鎗爺ィのせいで分が悪うござりまする。早う何とかせねば」

「分かって居るわいっ…よし、皆よいか……かかれっ」


 

 「鳴海の棟梁自ら出て来るとは、大和左兵衛とやらは気でも触れたかっ」

朱鎗爺ィ、井伊修理亮は再びぶぅんと朱鎗を回すと、自分めがけて向かってくる大和左兵衛率いる集団に、くるりと馬を向けて走り出した。修理亮を一人で行かせては、と馬廻があわてて修理亮を追いかけていく。

「それ、朱鑓爺は居なくなったぞ。皆押せ、押せっ」

八郎が長柄隊を励まし井伊勢を押し返すと、井伊勢は川岸まで後退していった。

「味方はおおよそ退いたか…左兵衛ごときに首を渡すのもつまらん、我等も退くぞ。殿戦はこのまま儂が務めると伝えてまいれ」

朱鑓爺が味方の退き際見て大きく手を振ると、天野小四郎が了とばかりに手を振り返す。それを合図にここぞとばかりに井伊勢から鳴海勢に向けて矢が放たれた。


 「これはたまらん。殿っ、退けっ。我等も退きまするっ」

八郎の叫び声に小平太が応じる。

「分かったっ…殿、朱鑓爺の首を取るのはまたの機会じゃ」

「そうだな……よし、退けっ」

大和左兵衛率いる二十騎程の集団が退いて行く。左兵衛は無事に川を渡り切ると、味方を叱咤した。

「矢を放てっ。井伊勢を渡らせるな」

「殿、最早射ち尽くして居りまするっ」

「なんだとっ……」

小平太の言に左兵衛は悔しがったが、井伊勢は最早渡河しようとせず、少しずつ退いて行った。

「殿、追いまするか」

「いや、追わずともよい。信広様を待つのが先決じゃ。皆、集まれっ」



 退いてくれたか……川があって助かった。川が無かったら味方も敵も退き際が分からなかっただろう…。

「殿、危のうございましたな」

土手を駆け降りて来た佐々内蔵助が、ホッとした様に大きな息を吐いた。

「ああ。井伊勢は強いな」

「はい。我等と同じ小勢ながら、中々侮れぬ相手にござる」

内蔵助に続いて勘十郎信行が土手を駆け降りて来た。

「左兵衛、兄上が着到なされた。此処はワシの手勢が引き継ぐ故、鳴海勢は下がってよい。兄上に報告致せ」

ありがたく下がらせてもらうか…鳴海勢はもう一杯一杯だ。矢も鉄砲も射ち尽くした、戦力として使えるのは長柄のみ…。鉄砲は強力だけど弾が無いとどうしようもない。特に今回みたいに鉄砲隊がまるまる残っている場合は尚更だ。何か手を考えなくては…。

「信広様、朝比奈勢は既に退き申した。殿戦の井伊勢も退く様子でござりまする」

「うむ。勢いは我等にある様じゃな。更に良い報せがある、美濃に出張って居る大殿から、三千の助勢じゃ。今は那古野に着いておる頃じゃろう」

三千か!ありがたい!信広、勘十郎信行、水野党と合わせて五千から六千ってところか……今川勢が何処まで退くかによるけど、これだけいればもう大丈夫だ。

「無論、合力した後はオヌシの鳴海、そして刈谷も奪い返すつもりじゃが…今川勢は何処まで退くかのう」

うーん…。知多常滑の情勢が分からんからなあ…岡崎党を運んだって事は今川方になってしまったのか、それとも面従腹背を貫いているのか…。

「知多の国人衆次第かと。鳴海まで出ましたら、藤四郎どのに知多に向こうてもらい、安堵状を出されては如何かと」

「安堵状をな」

信広は閉じた扇子をポンポンと叩いている。本来、所領の安堵状は大殿…信長が出す物だ。兄とはいえ自分が出していいものか考えているのだろう。

「相分かった。大殿には儂から話そう。藤四郎どの、先触れの件、宜しいか」

「畏まってござりまする」

「うむ。素直に従う者にだけ出せばよい。従わない者は、藤四郎が沙汰せよ」

「はっ、ははっ。屹度、知多を治めてみせまする」

思い切ったな信広…。藤四郎の沙汰に任せるという事は、以前の約束通り知多半島は藤四郎の伐り取り勝手という事になる…。

「藤四郎、無体はするなよ」

「はっ」



 撤退する朝比奈、井伊勢はひどい目にあわされていた。鳴海を抜ける大高道に入った途端、織田の水軍から砲撃を受けたのである。これあるを知らなかった朝比奈勢と井伊勢は、我先にと刈谷に向かって逃げ出してしまった。逃げ足は刈谷で止まらず、そのまま庵原勢が待機する安祥城に向けて逃げ出してしまったのだ。

撤退援護の為に鳴海城外に待機していた岡崎勢は、この光景を呆気に取られて見つめていた。

「織田の水軍は大したものじゃ。一艘の戦船で今川勢を追い散らしてしもうたぞ」

「我等は既にあの戦船を知っております故驚く事はないが…知らぬ者からすればあの大鉄砲は肝を潰すでしょうな」

「落ち着いて見ておれば、大鉄砲は刈谷まで届かぬ事も分かると思うがの。退き戦ではそうもいかんか」

鳥居彦右衛門と石川助十郎がそれぞれ感想を漏らすのを聞きながら、松平元信は雪斎禅師が死んだ時の事を思い出していた。彼はその時昏倒していたから、禅師が死んだ場面を見た訳ではない。だが、この様に死んだのだろうという想像が事実となって彼の脳裏に映し出されていた。

「あれ程の大軍がこのざまとはのう。彦右衛門、これも大和左兵衛の仕業であろうか」

「かも知れませぬ。最早何が起きてもこの彦右衛門、驚く事はありませぬ」

「そうか……味方も居らぬ様になってしもうた、我等も安祥まで退くとするか。流石に今川勢も安祥から先には下がる事はあるまい」




 鳴海に戻れたのはいい事だけど、ひどいなこりゃ…。

「仕方なき事とは云え、ひどい有り様じゃのう」

鳴海城はもぬけの殻だった。平手の若旦那が言う通り、鳴海城は痘痕面の様な状態だ。彼は信長からの増援の将としてここにいる。率いて来た手勢は信広に預け、前線視察として俺に着いて来たのだ。

「申し訳ありませんね、ホホ」

お蓉は謝ってはいるものの、言葉と態度が正反対だった。

「ま、まあいいさ。今川勢を追い返したんだ。鳴海ひとつで済んでよかったよ」

「戦のお代金は後ほど算出致します。宜しゅうございますか」

「お、おう」

ペコリと頭を下げるとお蓉は武者溜まりを出て行った。ため息をつく俺を見て、若旦那が大笑いしている。

「あれが噂の女船大将か。中々よいオナゴよの」

「そうなんだけどな。きっちり代金取られるんだぞ、たまったもんじゃない。また春庵さんにぶつぶつ言われちまう」

「大殿に言え。払って下さる」

「…よかったあ」

「されど、ようやったな左兵衛。まこと雪斎坊主は死んだと思うか」

「うーん…誰も見てねえからな。でも今川勢が退いたって事は国許で何か起きたか、戦を続けるのに不都合が有ったかって事だろう。知多に向かった水野藤四郎の働きぶりで具合が分かるだろうよ」

突然、若旦那が笑い出した。何か変な事でも言ったかな…。

「オヌシ、暫く見ない間に大きゅうなったのう。えらく肝が座ったというか、もう一端の大将じゃ」

笑いながら、俺の青瓢箪を握ろうとする。慌てて払いのけると、再び笑い出した。

「やめろやめろ。そりゃあ東の事を全部任されたらこうもなるさ。大変だったんだぞ」

「難儀をかけたのう。この通りじゃ。ヌシはこの先暫く戦に出ずともよい。鳴海の復旧に専念してくれ。信広様には話はつけてある」

「ありがたい。此方こそ済まねえ」

俺のぶっきらぼうな物言いに若旦那が深々と頭を下げるのをオトナ達が呆気に取られて眺めている。若旦那が武者溜まりを出て行くと、皆が遠慮しがちに寄って来た。

「暫く戦は無しでござるか」

流石に疲れたのだろう、普段なら威勢のいい般若介もホッとした顔をしている。

「そうだな。般若介、信正と村々を見て来い。狼藉を受けた者はいないか、略奪を受けた者はいないか、細かく見て来るのだ。信正の他にも何人か連れて行け」

「はっ」

そういえば藤吉郎の姿が見えない。昨晩から対岸の物見に出たままだが…。

「八郎、藤吉郎を見てないか」

「見て居りませぬ。あ奴、逐電したのでは」

「まさか。居らんのなら何かやっているんだろう。そのまま今川勢や岡崎勢の動きを探っておるのやもしれんしな」

「ところで、それがしは何をすればよいので」

「お前と三郎兵衛、九の字は城内の片付けだ。手空きの兵達を使うてよい」

「かしこまってござる」

藤吉郎の事だ、そのうちひょこっと戻って来るだろう…。




 「殿、大和左兵衛どのからの使いと申す者が追いすがってごさりまする」

松平元信は右手を上げて隊列を止めると、その追いかけて来たという大和左兵衛からの使者に相対した。

「そなたは木下藤吉郎とかいう…しかして何用じゃ…助十郎、しばし休息とするぞ」

簡易な陣幕が用意された茂みの中で、藤吉郎は深々と平伏した。

「ご尊顔を拝し奉り恐悦至極にござりまする。岡崎どのにおかれましては…」 

「まだ戦の最中じゃ、前口上はよい…して、何用じゃ。左兵衛どのの使いなのであろう」

「これはこれは…使いと申せば使い、でござりまするが、さりとて使いを我が殿に頼まれた訳ではござりませぬ」

そう言って笑い出した藤吉郎に、石川助十郎が警戒の色を見せた。

「石川さま…でござりまするな。その様に怪しまれては言いたい事も申せませぬ、何卒ご容赦を…」

薄ら笑いを止めようとしない藤吉郎を見て、元信はおかしくなった。使者でもあるし使者でもない、どうやら目の前の藤吉郎という男は、自らの算段で動いている様なのだ。

「大和どのの使いで無いとすれば、貴殿は何なのだ」

「そうでござりまするなあ…お節介とでも申せば宜しゅうござりましょうか」

「お節介…」

「左様にござりまする。どうやら此度の戦、今川方の負けの様で」

「どうやらその様じゃ。織田の水軍にあの様な戦船が居るのではなあ…足軽共も腰が引けておる」

「あれは南蛮の船にござりまする。それがしも、あの船が戦うておるところは初めて目にしたのでござりまするが…いやはや、雪斎禅師は残念でござりました」

「藤吉郎とやら、禅師は死んではおらぬぞ。ご高齢故、臓腑の病を発されての。万一を取って退き戦になったまでじゃ」

「そうでござりましたか、これは失礼…まあ、織田にとってはどちらでもよいのでござりまするが…それはさておき、ここから申す事が岡崎の皆様には肝心要でござりまして」


 陣幕の内に居る誰もが皆、そう言う猿面の口の動きに惹き込まれていた。一瞬警戒したのは石川助十郎だけで、あとの者達は早く続きが聞きたいと言わんばかりなのである。

「松平さまは、この戦の後、どの様になると思われまする」

「この戦の後…」

元信は言い澱んだ。今川義元の後見と目される雪斎禅師が死んだのだ、おそらく時を置いて復仇戦が催されるであろう事は想像に難くない。当然その事は眼前の藤吉郎だけではなく織田方も予想しているだろう。それが判るだけに、その事を軽々と口にしていいのか判断に戸惑ったのだ。

「左様。当然仇討ちの先手は岡崎党でござろうな。雪斎禅師は松平さまの師にあたるお方、仇を討てと駿府屋形が申されるのは必定でござる。それに松平さまは駿府屋形のご連枝衆として岡崎に戻られました。となれば尚更西三河を侵される訳にはまいりませぬ、名と実が揃うては松平さまも否とは申せますまい」

藤吉郎の言う通りだった。仇を討てと言われたら断る訳にもいかず、岡崎の党主としても織田の侵攻を許す訳にはいかないのだ。故郷に戻れたとほっとしたのもつかの間、自分が岡崎にいても居なくても郎党達は両国に挟まれて擦り減らされていく運命にある…。

「禅師が死…いや、急病となれば駿府屋形は尚の事駿河と遠江の固めを一にしましょう。駿東の後背定まらず、甲斐の武田も怪しいとなれば、駿遠の軍勢は大事にせねばなりませぬからなあ」


 「藤吉郎、そなたの申す通りじゃ。岡崎の党主たる儂は、どうすればよいかのう」

後に大大名となる松平元信もまだ若かった。自分の双肩に岡崎党の生活と生死がかかっているとあっては、即座に答えが見つからなかったのである。

「そうでござりまするなあ…大和どの、これはそれがしの主でござりまするが、しばらくの間は鳴海の固めで動けませぬ。尾張の東を任されて居るのは織田の大殿の兄、五郎三郎さまにござりまするが、このお方は無理をなさるお方ではありませぬ。おそらく知多常滑はそなた様の伯父御にあたる水野藤四郎どのに任せる算段でござりましょう。となれば岡崎党は当面の間水野どのとの戦になりまする。相手が水野どのであれば、松平さまとて無理をなさる事もありますまいか…とそれがしは考えまする」

「では儂は知多攻めのお許しを屋形様に貰えばよいという事じゃな」

「左様。されど相手が水野どのという所が要でござりまするぞ、ご無理は無さらぬ様に。そうでないとそれがしが主に叱られまする」


 藤吉郎は本物の猿の様に姿を消した。果たして藤吉郎が話した事は本当に織田の方針であったのか…大和左兵衛の家中となれば織田の大事を知っているとも思えるし、藤吉郎個人の考えか謀略の類とも考えられる。だがどちらであってもいいと元信は思っていた。

「安祥にて戦支度をせねばならんのう。彦右衛門、爺に使いを出せ。それと朝比奈どのにもじゃ」




 「ここの作事はどうすればよいのじゃ九の字」

「それがしにもさっぱり…とりあえず人足達に綺麗に片付けてさせておればよいのでは」

「そうさのう…般若介どのも内蔵助どのも、殿のお供で清州に向かわれたままだし、信正も百姓と町屋の相手で忙しい。我等だけでは城の手直しなぞどうにもならんぞ」

「されどご城代、どうにもならんと申されても」

「…もう一度言うてくれ」

「は?」

「もう一度申して呉れと言うたのじゃ」

「どうにもならんと申されても…」

「そこではない、その前じゃ」

「ご城代のところ、でござるか」

「うん。ご城代…なんと響きのよいお役目かのう」

戦の終わった鳴海では、鳴海勢が城の復旧にてんやわんやの日々を過ごしていた。そして鳴海勢の仕事は城の復旧だけではなかった。城代として植村八郎を置き、その介添として菅谷九右衛門、岩室八郎兵衛。服部小平太と木下藤吉郎は知多の鎮撫の軍監として水野藤四郎の側にある。そして城主の大和左兵衛は三郎五郎信広、平手監物と共に清州にあった。美濃攻めから一時帰国中の大殿信長への報告の為である。


 「どうやら雪斎坊主は死んだ様だな。ようやった左兵衛」

「お褒めに預かり恐悦至極に存じまする」

「もしやこれを狙うておったのか」

「いいえ、はい、狙うた様なそうでない様な…されど今川勢を退却に追い込むには雪斎禅師に前に出て来て貰わねばならんとは思うては居りました」

「そうか。流石監物の見込んだだけの事やある。これを取らす」

「ははっ、有難く頂きまする…これは…茶入にござりまするな」

「判るか」

「大殿が平素茶を嗜んで居られる事はよう聞き知っておりますれば、下さる褒美が何かくらい解らねば奉公は務まらぬものと思うておりまする」

「カカカ、追従も中々よのう、下がってよい」

「はっ、左兵衛一寿これにて下がりまする」


 …ふう、疲れた。こんな堅苦しい場面は久しぶりだったから、ちょっと頭がテンパりかけたぜ…。信長の茶入か。売ったら幾らになるんだろう…じゃない、早く鳴海に戻りたいんだけどなあ。城も気になるし、水野党の知多攻めも気になるし…こんな事を言っちゃアレだけど、清州なんかでやあやあどうもどうもなんてやってる場合じゃないんだよねえ…。

「待たせたの。儂の屋敷に行くか」

「大殿の話は終わりかい?」

「うむ。大殿は急ぎ小牧に戻られるのでな。どうやらまむし様が義龍どのを稲葉山まで下がらせた様じゃ」

「若旦那は着いて行かなくていいのか?」

「ああ。儂は後からでよいの事じゃ」

「なんで?」

「お主、忘れて居るのでは無かろうな」

「何を?」

「もうそろそろ産まれる頃じゃ、ヌシの子が。せきに頬つねりされても知らんぞ」

「あ、ああ…そうか、俺の子が…」

「おそらく女児であろうと産婆が申しておった。男でないのがちと残念じゃが子は子じゃ。伯父御としては嬉しい限りよ」

俺に子供が出来る…俺だって嬉しいよ。平成の俺と妻の間には子供はいなかったから、尚更だ。だけどなあ、戦国の世の中だ、家の為にどこかへ嫁ぐ、もしくは取りたくもない婿を迎える…なんて事を考えなきゃいけない訳だ。それを考えると色々複雑だけど、今のところは素直に喜んでおこう。


 「どうじゃった、せきの様子は」

「落ち着いていたよ。若旦那、いろいろと有難う」

せきは若旦那の屋敷で出産を待っている。本来なら清州に充てがわれた俺の屋敷で出産するのだけど、今川との戦で俺の家中は皆鳴海に出払っていて女手すら足りない有様だったから、里帰り出産という事になったのだ。

「大事な妹じゃ、当たり前の事よ。子が産まれた後も、鳴海が落ち着くまではこの屋敷に置くとよい」

若旦那の屋敷で盃を酌み交わす…随分と久しぶりな気がする。若旦那は信長の許で、俺は東尾張の国境でそれぞれ働いている。俺は城持衆として中々鳴海を離れられないから、最早若旦那とオールなんて出来やしない。

「ところで美濃攻めはどうだい?」

「うむ…義龍を稲葉山に押し込めはしたが…今の塩梅はどう見てもまむし様と義龍の親子喧嘩のやり直しでの。落とし所がない」

まむし様…斎藤道三が生存している以上、美濃攻めは若旦那の言う通りまむしと義龍の親子喧嘩の再現だ。この時代の親子関係はどれも規模が大きい。どれも武力を背景に置いているから、どうしても国全体を巻き込んだ戦いになってしまう。巷説に従えばまむしは一代で美濃国主に成り上がった梟雄、その息子の義龍は先代国主の側室の子ではないかとまで言われた男…その上まむしが信長に美濃を譲る腹づもりであるという流言が飛び交えば、そりゃ親子関係も不穏になるのも当たり前だ。

「本陣はどこに置いているんだ?」

「龍音寺よ。火車山だ」

火車山?龍音寺?……ああ、お乳観音か。じゃあ火車山ってのは小牧山の事か?


 「なあ若旦那、大殿は美濃攻めはどう決着を着けるつもりなんだ?まむし様も居る事だし西美濃の調略は進んでいるんだろう?」

「うむ、調略は進んで居る。じゃがのう」

「日和見が多いのか」

「うむ。おそらく義龍の首を上げねば美濃は治まらん」

首、首か…首実験には俺も立ち会う事がある。慣れたとは言いたくないけど、あまり見たいもんじゃない…。

「火車山に城を作ったらどうだろう?」

「城、じゃと?砦ではなく城をか」

「一時の滞陣ではなく城を構えれば、西美濃の国人達にも大殿の覚悟が伝わるだろう?今度の戦は本気なんだ、ってさ。それにいちいち清州から進発してたら面倒だろう?」

「ふむ…」

「そのまま蔵屋敷や町屋も建ててしまえばもう根城も同様だし、小荷駄も楽だ」

「成程のう!しかし義龍が普請の邪魔をせんかのう」

「稲葉山に戻った以上、武田勢が岩村に居る間は出て来ないだろうよ。もし出て来ても今の内なら武田勢と挟み撃ちに出来る。だけど今のまま長滞陣を続けたら兵達の士気も落ちるだろうし、武田勢だって稲刈り前に兵を退く。城の縄張りだけでも決めたらどうだ?」

「そうさのう、いや、それがよい!目から鱗が落ちたわ!」

せきが産気づいたのはそれから一刻ほど経った時だった。産まれたのは女の子、俺の名前から一文字とって、寿(ことぶき)と名付けた。




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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。 鳴海の百姓兵のくだりで、「そういえば、信長の有名な雇い足軽の常備兵って、いつ頃から彼の軍勢の主力になったんだろう?」とふと思いました。 史実に比べて信長が美濃に重心を置いて…
びっくりした。更新されたかと思った。
更新ありがとうございます。お待ちしておりました。
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