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戦国異聞  作者: 椎根津彦
抱卵の章
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反撃

 退却、しかも夜中に、という突然の方針変更に、朝比奈勢は動揺していた。退却援護として派遣された井伊勢は落ち着いているものの、朝比奈勢はこの戦いの最初からやられっ放しである。何とかして織田勢に一矢報いたい、という気持ちを彼等の首脳部は持っていた。

 「跡を濁さず退き陣など…沽券に関わる話じゃ。承服しかねる」

「本陣で決した事にござりまする。代将として指図なされて居るご連枝殿は、今川の方々を無事に駿府に戻したいと申された。今頃は刈谷から岡崎勢が鳴海に着いておる頃でござる」

「何故ご連枝どのが差引なされて居るのじゃ」

お耳を、と言って内匠助は朝比奈太郎の傍にひざまづいた。

「…まことかそれは」

「お年故、お体が優れぬ体にてご連枝殿が差引なされて居る…という塩梅にはなっておりまするが」

「庵原どのは何も申されなんだのか」

「…庵原どのはすでに駿府勢を連れて、安祥に向かって居られまする」

「なんと…」

「多分岡崎勢も鳴海城には入らず城外にて待機するものかと…海より織田の水軍が大鉄砲を撃ちかけてまいります故…朝比奈勢が退いた後は岡崎勢が殿となる覚悟とみえまする」

「ご連枝どのが殿戦とな」

「その覚悟があればこその差引かと」

朝比奈太郎としては松平元信がいくら今川一門とは云え、そこまで借りを作りたくなかった。一門とはいえ他国者、しかも初陣の若者だった。鳴海攻めで世話になった上に初陣の者に殿軍を任せたとあっては今川家は甲斐性無しと言われかねない。

「それでは駿府勢は意気地無し、おのれのマワシで相撲も取れぬ痴れ者と言われてしまう」


 内匠助にも朝比奈太郎の言いたい事は理解できた。

だが戦闘序列が決まった今、前線でそれを覆す訳にはいかなかった。

「意地で死ぬおつもりでござりまするか…執権たる禅師がお倒れになった今、お屋館様を輔け給うのは誰でござりまするか。譜代筆頭たる朝比奈さまではござりませぬか。寿桂尼様とてご高齢、いつまでも家宰たる訳には参りませぬ。そこをよくお考え下されませ」

「意地の悪い言い方をするのう」

「物の筋にござりまする。それがしも小身とはいえ一門の端くれでござる、お許しくだされ」

「相判った。済まぬ」




 やはり朝比奈勢は撤退の支度をしていた。撤退援護の為の援軍も到着している様だ。

「般若介どの、急ぎ戻られよ、朝比奈勢は退く気配、助勢はおそらく井伊勢じゃ。それがしは残って今しばらく物見に努めまする」

「一人で大事ないか」

「それがしも元は今川侍、何とでもなりまする。ささ、早う」

「相判った。無理はするなよ」

言うが早いか、蜂屋般若介は川に入った。来た時の様に河童の様に静々と泳いで行く。

「もう少し、名残惜しそうにしてくれてもよさそうなものを…」

そう言いながら藤吉郎は林の奥に消えた。




 日も上りかける頃、笠寺の織田勢本陣には米之木川に布陣する大和左兵衛からの早馬が到着していた。

「朝比奈勢が退いただと」

織田信広は思わず床几から立ち上がっていた。信広の代わりに言葉を続けたのは勘十郎信行だった。

「朝比奈勢が中入をかける恐れがあると左兵衛は申して居ったが」

使者の乾作兵衛は左兵衛に云われた通りに状況を説明した。鳴海を海上から奇襲させた結果ではないか…。

「左兵衛が雇うて居る南蛮船じゃな。鳴海城に大筒を撃ったのか」

「はっ。船大将のお蓉どのの使いが申すには、昨日の暮れあたり、鳴海城の本丸館に大筒を撃ち込んだ辺りから今川勢の様子がおかしくなったそうにござりまする。夜半には今川勢が鳴海を離れ、替わりに岡崎勢が鳴海に到着したと…」

「ふむ…鳴海の今川勢は朝比奈勢の後詰であったのは間違いなかろう。それが退いて岡崎勢が鳴海に入る…今川勢が退く事自体が面妖じゃ。左兵衛は何かあったと思うたのじゃな」

「はっ。今川勢が退く…となれば駿府からの指図か、攻手の大将に何か起きたかでござりまする。大筒を撃ち込んだ後から様子がおかしい…我が主は雪斎坊主に何か起きたと考えて居りまする」

「成程のう。それで岡崎勢がまたぞろ出張って来る訳じゃな…兄上」

床几を立ったままその場をうろうろしていた信広は、手にしていた軍扇を発止と叩いた。

「よし、朝餉の支度は止めじゃ。米之木川に出るぞ」




 「丸に橘…井伊勢か…弓手は少ない様じゃ。内蔵助、鉄砲の差引任せたぞ、土手にあげろっ」

「畏まったっ」

内蔵助の指揮する鉄砲組が土手を駆け上がって行く。それと同時に岩室三郎兵衛の弓手達も同じ様に駆けて行く。

「内蔵助どの、防ぎ矢致すぞっ」

「有り難き…目当て付け……放てっ」

土手下の川原では般若介と小平太が、まだか、まだかと配下の者達を抑えている。

「殿っ、よいかっ」

さあ、反撃だ。

「かかれっ」




 中野越後が舌打ちした。

「まだ明けても居らぬというに…こうもビュンビュン撃たれたのでは頭も上げられぬわっ…目暗でよい、放て放てっ」

「敵が出ますぞ。御曹子、我等も出てようござるか」

御曹子、と問われた井伊肥後守は義父である内匠助を返り見た。出てよいか、と聞いて来たのは伯父の新野左馬介である。義父と伯父に挟まれては井伊肥後もやりづらくて仕方なかった。

「肥後どの、この場の差引はおことに任せる」

「はっ…左馬介、長柄を前へ。陣太鼓を鳴らせっ。越後、弓手は遠当てじゃっ、かかれっ」

井伊勢が動き出した。対岸の織田勢も遅れじと動き出す。



 井伊勢から少し離れた所で藤吉郎は両軍の戦いを見物していた。

「勢いは殿…数は井伊勢の方が多い…果たしてどうなる事やら」

藤吉郎の推察通り、押しているのは鳴海勢の方であった。両軍は川の中央辺りで鑓襖同士がぶつかっていた。数は井伊勢の鑓襖の方が多かったが、鳴海勢が川土手の上から矢弾を降らす為に井伊勢は中々頭を上げられずにうまく踏ん張る事が出来ない様であった。米之木川はそれほど大きな川ではないが、両軍がぶつかっている辺りは大人の腰ほどまでの深さがある。一度倒れたら下手をすると流されかねない。

「あれは…井伊のオトナの新野どのじゃな。ようやっておるわ。じゃが…これからはやはり鉄砲かのう…あっ」

藤吉郎は小さく叫んだ。藤吉郎の目には狙撃され、倒れる新野左馬介が映っている。

「井伊勢は堪えられるかのう…よし、戻るなら今じゃな」



 「大事ないかっ」

小者に運ばれてきた新野左馬介の肩からは、どくどくと血が流れ出していた。

「何のこれしき…面目無うござる」

「手当て致せっ」

短く叫んだ井伊肥後は実父の仇とばかりに飛び出した。崩れかかる鑓襖を叱咤する。

「掛かれ掛かれっ。井伊谷の意地を見せよっ」

赤熊威の兜を着け、大きな鈴を付けた鑓を振り回しながら井伊肥後は馬を川に入れて行く。勇気づけられた鑓襖達が鳴海勢を押し返し始めた。



 「殿っ、もはや弾がござらん」

「何だとっ…八郎、般若介、我等で後詰じゃ、急げっ」

「応ともっ」

「内蔵助、矢は」

「矢ならまだありまするが、そう多くはござらん」

「くそっ、勘定しながら放て。途切れさせるなっ…掛かれ掛かれっ」

「判り申したっ」

大和左兵衛の号令で、鳴海勢の予備隊が繰り出される。

「おっつけ本隊が駆けつける、押せ押せっ」



 鳴海勢の本隊が土手を駆け下るのが井伊内匠助からも見て取れた。

「鳴海の大将は機を見るのが聡い様じゃ。じゃが織田の後詰は来て居らぬ……越後、飯尾どの、天野どのと一当て致せ」

「はっ」

「下がらせれば、しばらくは出て来ぬであろう。深追いするな」



 「向こうも新手か…長柄は負けるなっ。般若介、当たれっ」

数が多くて羨ましいぜ…誰か判らんが第二陣が出てきた、こっちに来るのは…誰か判らん…おい、八郎!

「鳴海の植村八郎、逃げも隠れもせんっ、備の大将は誰じゃっ」

一騎討ちなんて止めろ止めろ!



 「八郎とやら、犬居の天野小四郎じゃ。命有っての物種ぞ、惜しめやっ」

天野小四郎の馬上鑓は鋭かった。すんでのところで八郎は躱したものの、川の中である、そのまま倒れてしまった。

「助太刀推参、菅谷九右衛門なりっ」

倒れてた八郎を見て、あわてて九右衛門が手にした鑓を天野小四郎に投げつけると、これにはたまらず小四郎も落馬してしまう。

「九ノ字、忝ないっ…徒立ちならば遅れはせぬ、小四郎お覚悟っ」

「それはこちらも同じ事、往生せいっ」

互いに鑓を結ぶ事十合を越え、それぞれが大きく肩で喘いでいた。

「中々やる……替われ九ノ字っ」

かしこまった、と飛んで掛かる九右衛門、天野小四郎は身をひねったが躱しきれず、組み打つ形になってしまった。互いに鎧通しを握るも、中々決着は着かない。

「若殿討たすな、掛かれ掛かれっ」

小四郎を討たすまいと、天野勢が助太刀に入ってきた。こうなっては首を取るどころの騒ぎではない、天野勢と植村勢の乱戦が始まってしまった。

「皆、押せ押せっ…惜しかったのう、九ノ字」

「何の、首を取るのはこの先幾らでも取れまする」

すでに乱戦は植村勢と天野勢だけではなく、両軍全体が乱戦になってしまっている。



 「鳴海勢も小勢ながら中々やるのう。戦上手の大和左兵衛とはまことの様じゃ」

井伊内匠助は小勢ながら一歩も退かずに戦う鳴海勢に感心していた。大和左兵衛という鳴海の大将が、岡崎党を織田方に引き入れようと画策していた事も朝比奈太郎から聞き知っていたし、それを知ってからは殺すには惜しい人物とも思っていた。だが今は敵味方である。敵に情けをかける様な内匠助ではなかった。

「さて…爺さま。手空きでござろう。婿どのが押されておる故、ちと手伝うては下さらんか」

内匠助は、傍らの床几に座り瓢箪の酒ばかりあおっている自分の祖父に声をかけた。

「あれしきの敵をいなせぬ様ではのう…仕方ない、戦見物も終いとするか」

督戦を請われた内匠助の祖父、修理亮は赤柄の片鎌鑓を手にすると重い腰を上げた。

「出るぞっ。馬廻続けっ」



 あとどれくらい保つのか…乱戦なら物頭達さえやられなければ負ける事はない。そろそろ信広の本隊が後詰に現れても良さげな時間だが…なんだ小平太?…あの馬乗達がどうかしたのか?

「井伊谷の朱鑓爺でござりまする、ちと難儀な相手かも知れませぬ」

「あの立ち橘の指物を背負った馬乗だな。朱鑓爺…爺さんなのか」

「はい。爺さまのクセにめっぽう強えのでござりまする。あの爺さまが出てくるだけで井伊谷の連中は勢いづくという塩梅で」

「そんなにか」

「般若介どのも中々じゃが、あの爺さまはちと荷が勝ち過ぎまする」

小平太だって世が世なら今川義元にひと太刀浴びせた豪の者だ。そんな小平太が強いと言うんだから、ちょっと想像出来ないな…。

「…よし、内蔵助はこのまま此処で八郎と九ノ字を支えてくれ。俺、小平太に三郎兵衛、そして般若介、四人で押し包めばどうにかなるだろう」

「四人でも討てるかどうか判りませぬぞ」

答えた小平太の顔はひきつっていた。そんなに強いのかよ……討てなくとも下がらせる事が出来れば、味方が一息つけるきっかけにはなるだろう。ちと気張るか…。



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