米之木川の戦
明けた十五日の昼過ぎ、織田勢一千四百と鳴海城を出た今川家の朝比奈勢三千五百が米之木川を挟んで対峙していた。信広勢と水野党合わせて二千はそのまま笠寺に本陣を敷き、岡田どのは星崎城に入った。ここを抜かれたらもう星崎城、那古野城は目と鼻の先だ。ここで踏ん張るのは織田勘十郎の手勢一千と鳴海勢四百。
「見たところ今川勢は三千五百程にござるな」
「その様にござりまするなあ」
俺と同じように土手に登って話しかけて来たのは勘十郎に付けられた久松佐渡守だった。彼は松平元信の生母、於大の方が松平家を離縁された後、新たにその夫となった人物だ。元信にとっては義理の父という事になる。
「いやはや、寄せて来たのが朝比奈勢でよかった。岡崎党であったら於大が悲しむ所であったわ」
「鳴海で会うた元信どのは立派な大将でござった。奥方さまにもそうお伝えくだされ」
「これは…かたじけのうござる」
「腹を痛めた子が敵方とは、世の習いとは云え辛い事でござる…駿府の人質の折より見てまいりましたが、やはり元信どのも三河武士でござる、律儀一徹、今川に受けた義理は果たさねばならぬ、とお考えの様でござった」
「人質の折よりとは…そなたは」
「いや、どうにか岡崎党を織田方に鞍替えさせようと動いておりましたが、そうも上手くいかず…まさか駿府屋形が元信どのを三河に返すとは思いませなんだ」
「…この戦が終わったら、いや、無事生きて居ればじゃが、於大…奥に会うてはくれぬか。おばば様…華陽院様が元信どのについておるとは云え、奥もずっと案じておるのじゃ。敵方では文の便りも目通りも叶わぬでな。儂が伝えるよりそなたから直に聞かせてもろうた方が奥も喜ぼう」
「では是非とも生き残らねばなりませぬな」
「さもあろう。お互いな」
久松佐渡は再び今川勢を見つめている。知っている事とは云えめちゃくちゃ複雑だよな…朝比奈勢ではなくて岡崎勢が出て来るという事も想定には入っていたんだ…久松佐渡としては後添えの息子が敵の大将と知っていても手心を加える訳にはいかない。やりきれないよなあ…。
「殿」
「どうした小平太」
「お蓉どのより報せが…雪斎禅師が安祥城を出たそうにござりまする。およそ五千ほどだそうで。常滑の岡崎党も刈谷に向けて再度進発したそうにござりまする」
む…となると今頃刈谷で雪斎と元信が合流した頃になるのか。岡崎勢が戻って来るとすれば合わせて七千か……。
「お蓉の使いはまだ居るか」
「は、居りまするが」
「雪斎禅師の今川勢が鳴海を通る時、うんぽる号で何とかせよと伝えてくれと使いに申せ。褒美は織田の大殿が下さるゆえ心配するなとも伝えるのだ」
「お…おお!それは良いお考えじゃ。早速伝えまする!」
間に合えばいいけど、どうなるか…。
「左兵衛、聞こえて居った。雪斎禅師が動き出したそうじゃな」
「はっ、これで敵は勢いづきましょう。まもなく始まるかと…」
米之木川の対岸から陣太鼓の打ち鳴らされる音がどんどん、と聞こえてくる。
「始まった様じゃな。左兵衛、介添え、頼むぞ」
「はっ」
今川勢の陣太鼓が打ち鳴らされ始めた。
「かかれっ」
米之木川に向けて長柄が動き出す。
「…では親父どの、行ってまいります。なあに、野戦ならこっちの物じゃ」
「心せよ」
伜の右京亮に心せよと言った朝比奈太郎の顔は笑ってはいなかった。
「承知して居りまする。では吉報を」
「鳴海の恥を注ぐのは今ぞ、かかれかかれっ」
菅沼織部が逸る。鳴海での恥を注ごうと必死なのだ。
「織部どの、まずは矢盾じゃ、織田勢は必ず鉄砲を打ちかけてくるぞっ」
「…そうじゃそうじゃ、矢盾前へっ。竹束も忘れるなっ」
阿部大蔵に諭され菅沼織部は矢盾やら竹束の支度を始めたが、その阿部大蔵が云うか早いか、対岸の織田勢から矢の雨が降り注ぐ。それを契機に今川勢も矢を放ち出した。
「織田勢は矢いくさのみじゃ、渡りきれば勝ちぞっ」
菅沼勢には矢盾、竹束をと言っておきながら、阿部勢は矢盾も持たずに飛び出していた。
「待たれよ大蔵どのっ、オヌシ等だけで河原を抜けては駄目じゃっ。竹束を待たれよっ」
「味方の足場を作らねばっ」
諌める岡部五郎兵衛を尻目に渡河を終えた阿部勢、最早用無しと竹束を置き捨て続く菅沼勢。ばらばらと河原を駆け上がり、土手を超えていく。しかし土手を越えた彼等が目にしたのは延々と連なる柵木と、そこで鉄砲を構える織田勢だった。
「かかりおったわ…目当てはいらぬっ、放てっ」
織田勘十郎の一際甲高い号令が下った。赤い轟音の後に辺りにもうもうと立ち込める白煙、それが晴れると柵木に迫ろうとしていた今川勢の多くが倒れていた。
「それっ、動く者にとどめを差すのじゃっ、かかれ」
柵木と柵木の間から、倒れた今川勢に向けて織田勘十郎の手勢が走り出す。
「左兵衛、鉄砲も前に出すぞ、よいか」
「なりませんっ、柵木の前に出るのは長柄と物頭のみでござるっ。これは守られよっ……皆、追うてはならぬっ、逃げるに任せよっ」
これでいいんだ。今はまだ分からんだろうが、これからは戦のやり方が変わる…目をやると、土手の上に立つ岩室三郎兵衛が大声を張り上げていた。
”駿府侍は腰抜けかあ、悔しければ掛かってこいっ“
土手の上のあちこちで、物頭達が三郎兵衛と同じように対岸を煽るのが聞こえて来た。
「左兵衛よ、上手く行ったのう。じゃが、今川勢は再び渡って来るかのう」
「彼奴等は是が非でも渡らねばなりませぬ。朝比奈勢は今川の先鋒でござれば、せめて川を渡って足場を作らねば雪斎禅師に合わせる顔が有りませぬ。鳴海の戦の不手際で、朝比奈勢はその様な立場に追い込まれてござる」
「…鳴海は落ちたが悪い事ばかりではなさそうじゃな」
「はい。されど朝比奈勢も次は本腰を入れて来るでしょう。それがしも土手に上りまする故、勘十郎さまはこのまま鉄砲の差引をお願い致しまする」
「心得た」
「長柄、弓手の組頭は誰かっ。来い」
俺の声に反応したのは長谷川与次、橋本十蔵だった。
「馳せ参じましたっ。長柄頭の十蔵にござる」
「弓手頭の長谷川与次にござる」
「おお、お主等か。十蔵、ヌシの組下はいかほど居る」
「はっ、長柄鑓組が三組、百五十にござりまする」
「よし。では与次、弓手組はいかほどか」
「二組、二百にござりまする」
「よし。まず十蔵、長柄共に二列で鑓襖を組ませよ。土手を下って待ち構えるのだ。あまり前に出るなよ、かかれ」
「はっ」
「与次、先程の様に土手越しに川の中程を射て。十射でよい」
「はっ。それがしも土手の上に出て弓手共を差引してもよいのであれば細かく指図が出来まするが…」
「それでよい。では与次は俺と共にあれ。合図は俺がする。かかれ」
「かしこまってござる」
長柄足軽、弓足軽がパッと散り出した。
「小平太、三郎兵衛、鳴海の指物があったろう、持って来い」
「旗指物など…どうなさるので」
「土手の上に立って、対岸に見える様に振ってやれ」
ああなるほど、と合点が行ったのか、小平太が二旒の大きな俺の家紋の入った旗指物を持って来た。
「鳴海勢ここにありと示せば、助けた恩を忘れたかと朝比奈勢は攻めかかってくるだろうよ。よし、登るぞ」
「面白うござるな…なあ三郎兵衛」
「生きた心地がせんわい」
対岸の様子を目を細めて見ていた岡部親子、息子の五郎兵衛は思わず唸ると、朝比奈太郎の下に駆け寄った。
「太郎どの…あの指物、やはり鳴海勢は対岸の織田勢に加わって居りまするぞ」
「さもあろう。儂からも見えて居る」
「さもあろうとは…これは心外、きっと罠でござるぞ。我等の矛先を釘付けにする為の。対岸には鑓襖が待ち構えて居りまする」
朝比奈太郎もそれは解っていた。先程の対岸の土手の向こうの轟音…あれが鉄砲の音である事も解っていた。右京亮や阿部大蔵、菅沼織部は手勢の半数以上を失って、命からがら戻って来た。
「どうも、戦の仕方が変わりつつある様じゃ…土手沿いに長柵木まで拵えておるとはのう。川は水掘、城攻めと同じ体じゃ…我が方も鉄砲を揃えねば話にならん。じゃが…」
「罠と解って進むには小勢では無駄死にとなりまする」
「そうよな。陣立てを変える。今日の戦は終いじゃ」
「…まだ日暮れまで一刻はござるが、宜しいので」
「うむ。織田勢が川を渡って来る事はあるまい。退き太鼓を鳴らせ」
「はっ」
「まだ暮れても居らぬのに、もう退き太鼓が鳴って居るわ。やはり駿府侍は呑気じゃのう」
旗指物を振り回した甲斐がない、とばかりに小平太が大声で対岸に向かって囃し立てた。確かに早い。
「何か企んで居るのでは」
暇を持て余していたのだろう、藤吉郎がいつの間にか土手の上に上がっていた。
「藤吉郎、持場を勝手に離れるのは止せ」
「腰が軽いのが藤吉郎の信条にござりますれば…また阿部どのあたりが怒り狂って攻めて来ると思うて居りましたが、当てが外れた様で」
鳴海の旗を見せたのが不味かったかもしれない。
「今川勢は攻め手を変えて来るのではござりませぬか。我等が川を渡らぬのは向こうも承知でござりましょう」
「そうだろうか」
「鳴海城、先程の渡し戦と、こちらの鉄砲の凄まじさは向こうも解って居りましょう。今日の戦は止めにして、明日には陣立てを変えて来るのでは」
攻め手を変えると言ったってなあ…ここから下流は深くて渡河には適してないしなあ…。上流から中入りするにしても、笠寺に抜ける間道が一本あるだけだ。獣道の様な間道で無論橋なんてかかってないし、あたりもぬかるんでいて渡河には…。
「藤吉郎、ここで今川勢を見ておれ」
「かしこまってござる」
土手を駆け下って…勘十郎はどこだ……あんな所に居た。
「左兵衛、兵共にちと早いが夕餉の支度を…」
「それは構いませぬが、メシを食ろうたら勘十郎さまは笠寺の本陣へお退きなされませ」
「何故じゃ。そなた達だけではここを支えられまい」
「今川勢が攻め手を変えてくるやも知れませぬ。彼奴等はここに陣取るのが鳴海勢と知って退き太鼓を鳴らしたと思われまする…力攻めでは抜き難いと、笠寺に抜ける間道を使うの恐れがありまする」
「されどあの間道は獣道のような物…大軍では抜けられぬぞ」
「万が一、夜中に抜けられてからでは遅うござる。それがしの目算か外れた時は星崎まで下がって戦いまする故、その時は改めてご助勢下され。それはそれで朝比奈勢を挟み撃ちに出来まする」
「相判った。では日が暮れた後に少しずつ退く…夕餉の焚火はそのままにしておく、その方が都合がよかろう」
「まことにその通りで。勘十郎さまも戦馴れしてまいりましたな」
「ハハ、何を抜かすか…無理はするなよ、奥方が泣くぞ」
「はっ」
川原と土手沿いに隊伍を組んでいた橋本勢と長谷川勢達と入れ替わりに鳴海勢が配置に着く。心細いが鉄砲は彼等に返さねばならない。対岸でも同じように組足軽達が交替していた。お蓉達が鳴海で雪斎禅師を上手く足止め出来れば、一日は稼げる。どこまでやってくれるか…。




