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戦国異聞  作者: 椎根津彦
抱卵の章
105/116

盤面図

天文二十三(1554)年 四月十七日 鳴海城


 鳴海城の広間にオトナ達が集まった。折角なので、林佐渡にも臨席してもらっている。

「雪斎入道が率いる今川勢、一万六千でござるか。それを鳴海で相手にせねばならんとはいささか…」

酷、とでも、手に余る、とでも言いたいのだろうか。佐々内蔵助はそれきり黙り込んでしまった。

「我等で敵全てを相手する訳でもあるまい。一万六千と云うても鳴海に打ち掛かってくるのは精々…三河勢の二千であろうよ。三河勢相手に臆するのか、内蔵助」

「三河勢に臆した訳ではないわ」

「じゃあ何じゃ」

「三河勢が恐ろしいのではない、その後に続く一万四千が恐ろしいのだ。考えてもみよ、我等が三河勢と血みどろになっている所に朝比奈勢四千が掛かってくるのだぞ。我等が三河勢の相手をしているうちに、雪斎入道の駿河勢が那古野に寄せるわ」

「はっは、それを臆しておると云うのよ」


 佐々内蔵助と蜂屋般若介。

いつの頃からか二人はお互いの役割分担を決めている様だった。内蔵助はあくまで冷静に、般若介は豪胆に。戦働きは二人ともお互い引けをとるものではないから、二人にそういう暗黙の了解がある様だ、と信正が話してくれた。

オトナ筆頭格の二人が慎重論と積極論の口火を切る。それを聴いて他のオトナ達が自分の考えをまとめて意見として話せるだろう、という目論見でござろう、と信正は言っていた。

言われると確かにそういう風に見える。しかし今回はそうではない様だった。

敵の規模が大きすぎる。一万六千と言われても見当がつかない、多分オトナの誰も想像が出来ないのだ。俺だって一万六千の軍勢なんてピンとこない。美濃との戦に参加しているなら兵力規模も大きいし話は別だろうが、俺も含めて鳴海勢がやってきたのは、敵味方合わせて精々千や二千の戦いしかない。それでも充分に大いくさなのに、万を越える人間が一斉に動くなんて考えた事がない。思考停止に陥らず、相手は三河勢と割り切った般若介、三河勢だけに限らず今川勢全体の動きを考えている内蔵助は大したものだと思う。


 「俺もおヌシも、最早蓮っ葉の猪武者ではないのだぞ。事態がこの様になってしまっては、知多や水野は向背が判らぬ。鳴海がいくさ場となるのは必定じゃ。となると真っ先に戦うのは我等じゃ。我等の働き如何で駿河勢の動きが変わるとなれば、高所から見定めねばならぬ。それを臆したと云うのは筋違いというものじゃ」

「その様な事…指図は殿が考えて下さるわい。四の五の云わんで命をかければよいのよ。なあ殿」

般若介と内蔵助のやり取りを作兵衛たちはじっと見ていたが、般若介の言葉で皆の視線は俺に注がれた。

信長はどう考えているか。若旦那や旗頭の織田信広がどう考えているか…。

史実の桶狭間の戦いとはまるで違う。目的が全く分からない。そりゃ勿論尾張を取る事なのだろうが…。うまく撃退できたしても今川家の崩壊や松平家の独立という事にはならないだろう。

そもそも今川義元治世時の今川家は、内政は今川義元が、軍事外交は雪斎入道が、というような体制だったと記憶している。桶狭間の戦いで今川義元が自ら戦陣を指揮したのも、甲相駿三国同盟の成立に尽力した雪斎入道が死んで、義元自身が軍事も行わなくてはならなくなったからなのだ。織田家や松平家が飛躍出来たのは義元が倒れたからこそなのだ。

しかし…あれ、待てよ、史実通りだと雪斎入道は今年三国同盟を成立させて来年には死ぬんだよな、本当に史実通りなら。

「善四郎」

「はっ」

「岡崎に帰参せよ」

「…それがしの奉公に何か足りぬものでもござりまするか」

大草善四郎は顔を硬ばらせている。

「そうではない。介添には藤吉郎を付けるが…これで呑み込めたか。…今から文をしたためる故、皆メシでも食ろうて待っとってくれ」

俺が居なくなれば、後は藤吉郎なりが話すだろう。



 殿は文をしたためると云うて、林佐渡さまと広間を出て行かれた。それがしに岡崎に帰参せよ、とはどういう事であろうか…。

「善四郎どの、殿はあなた様に細作働きをお頼み申されたのじゃ」

木下藤吉郎が笑いながら話しかけてくる。

「藤吉郎どの、それはどういう事であろうか…。岡崎での細作働きはそなたが受け持っていた筈。それがしは細作などした事は無いし、不得手でござる」

「ハッハッハ。殿は善四郎どのに今川に対する目眩ましになって欲しいのじゃ。それがしを介添に、と殿は申されたでござろう、岡崎は取り締まりが厳しくなりましての。外からの探りではちと厳しいのでござる。これでお分かり申されたかな」

「それがしの帰参を隠れ蓑に、そなたが細作働きを続けると云う事でござるか」

「もちろん善四郎どのもでござるよ。善四郎どのが岡崎方の内懐に飛び込んで得られる物、それがしが探り出す物、双方突き合わせて、殿は策の糧になさるのでありましょう」

「返り忠というやつでござるな」

「はい。善四郎どのは鳴海に殿に仕えて居るとは云え、立派な大草松平の跡取りでござる。元々織田に長く仕えて居った訳でもなし、帰参してもおかしゅうない。今川や岡崎でも、むしろ織田方の内情が判ると喜ばれましょう」

成程のう…。されど殿は本当にそう考えていなさるのだろうか。


 「藤吉郎、ヌシの申す事はまことか」

小平太どのが口を開いた。皆を見ると小平太どのだけではなく、作兵衛どのや八郎どのも言いたい事は皆それがしと同じらしい。

「まことではござらんが、まことに近いであろうとは思うて居りまする。それがしは殿ではない故、殿と一言一句同じ、という訳にはいきませぬ。されど、もう一段深い所を探らねば、敵の思惑は判りませぬ。善四郎どのに帰参せよと申され、それがしを介添にとなれば、そういう事であろうなあと思うたまで。殿がこの場を離れられたのも、それがしに訳を云わせる為にでござろう」

「藤吉郎、おヌシは目先が利くのう。ヌシなら殿が何を考えてござるのか、思いつくのではないか」

「そこまではとても」

藤吉郎がかぶりを振ると、般若介さまが身を乗り出した。

「顔に嘘と書いてある。外れておっても構わん、藤の字、云うてみい」

藤吉郎には殿の目論見がまことに判るのだろうか。皆の視線を浴びて、藤吉郎は珍しく居ずまいを正した。

「では畏れ多き事ながら申し上げまする…殿は雪斎入道を討ち取る、または召し捕る算段をお考えなされて居るのでは…と」

「何だと」

「黙れ八郎…続けよ藤吉郎」


 大声の八郎どのを内蔵助さまが嗜めたが、当の内蔵助さまも呆気に取られた顔をなされている。

「はい。殿が皆さまに申されるかどうかは判りませぬが、それがしが調べたところによると、今川北条の駿東のいざこざが済んだ後、今川と武田、北条はどうやら会盟するようでござりまする」

藤吉郎は一旦そこで言を切って周りを見渡す。そして再び話し始めた。

「この事を殿に申し上げましたところ、殿は『やっぱりそうなるか』と申されました」

「それで」

今度は信正どのが先を促した。

「それがしが、お見通しで、と申すと、殿は『自明の理』だ、と申されました。駿東で暴れたのも、この三国が会盟するのを防ぐ為にだったそうで」

三郎兵衛どのがジメイノリとはどう書くのだ、とブツブツ申されるので、藤吉郎どのが指文字で教えている…藤吉郎どのは俺も殿に教わったのだ、と笑っている。


 内蔵助さまが腕を組んだ。

「今川、武田、北条が手を結ぶなどにわかに信じられぬが…殿が自明の理と申すならそうなのであろう。それなら何故駿東で乱を起こしたのも得心がいく。俺は単に、此方に今川の目を向けさせぬ為、と思うておったがなあ」

「並の策なら遠くと結んで近くを攻めるのが定石じゃが…隣合わせの三国が互いの背を守る様に手を結ぶ…これはこれで妙手じゃぞ」

内蔵助さまの言に般若介さまが相槌を入れた。お二人はこう見えて仲が良い。

「おや、臆したのか般若介」

「違うわい」

二人のやり取りに、場が笑いに包まれた。…殿に仕える事が出来て、まことに良かったと思う。

「されど藤吉郎、おかしゅうはないか。今の話だと、今川の尾張攻めは三国の盟が成って後の方が良いと思うが」

「信正さま、それがしもそう思うておりまする。会盟成った後の方が楽でよい。されど今川は攻めてくる。何故でありましょうか」

信正さまの疑念は尤もな事だ。確かに今此方に攻め寄せてくるのはおかしい。


 「何か戦を急ぐ訳があると云うのじゃな」

「はい。表の事柄だけ見れば、これまで勢いがあったのは我等織田方でござりまする。殿が鳴海を陥とし、それを潮に大殿の尾張一統が始まった。更に殿は知多に目を向け常滑を引っ掻きまわし、大殿は尾張を一統、まさに織田方は日の出の勢い。その分今川方はしてやられる一方にござりまする。それがしは元々駿府に仕えて居りました故、多少なりとも向こうの懐具合は判るつもりでござりまする。織田方にしてやられた故、岡崎に松平竹千代どのを返さざるを得なかった。無論駿東でのいざこざも、織田方のやった事と思われて居りましょう」

「されど、地固めの為とは云え岡崎に竹千代どのを返しては、岡崎党が織田につくやもしれんのだぞ。竹千代どのは水野藤四郎と甥伯父、その上竹千代どのご生母は阿久居の久松どのに再嫁しておる。織田方についてもおかしゅうないとは考えんかのう」

いやはや…それがしも松平のはしくれだが、このお方たちはそれがしなどより余程三河に詳しいではないか。見習わねば…。

「それは有り得ませぬ。今川と松平の義理は松平の先代広忠どのからのもの。岡崎党をこき使う為に竹千代どのを質に取ったとは云え、今川家は松平を取り潰さず、竹千代どのを殺さず、無事に元服させて三河に戻した。形の上では今川家は立派に義理を果たしたのでござる。今川家は松平家の寄親ではないが、頼うだる人には間違いはない。これを裏切ったとなれば松平家は信義も恥も何もない、没義道の集まりと思われましょう…竹千代どのとて肉親の情より義を取らねば、郎党への面目が立ちませぬ。別に松平家が遮二無二織田方へ付かねばならぬいわれもないのでござりまするからなあ…それはさておき、今川は譜代の朝比奈太郎と寄騎四千を付け、竹千代どのを岡崎に返した。織田方が何か企んでも揺るがぬ様、三河の地固めでござるな。これは妙手でござった、誰も今川治部が竹千代どのを三河に返すとは思わなんだのでござりますからな」


 そうだ。まさか今川治部が竹千代どのを三河に返すとは、誰も考思うて居らなんだのだ。

松平家、岡崎党の苦衷もそこにあった。織田に対する為とは云え、今川治部もよくも戻したものだ。藤吉郎の云う通り、これで松平は今川に弓引く事はないだろう。

「そしてまた織田方を見ると、日の出とは申せ、中々厳しい。なんせ美濃の親子喧嘩に巻き込まれてしまいましたからな。しかもこの親子喧嘩を仲裁する方が居らぬ、大喧嘩でござる。此方はマムシ殿がお味方じゃが、美濃勢は二万近い大軍じゃ。故に大殿も美濃に対しては簡単に動きが取れぬ。云わば織田は前門の虎、後門の狼に挟まれておる、という案配でごさりまするなあ」

皆が苦虫を噛んだ様な顔をしている。臆した臆さぬの話では無くなってきた。

「要するに、織田を討つのは今、と今川が思うたと云う事か」

八郎どのが藤吉郎どのを睨みつけた。

「細かい事の是非は置くとして、左様にござりまするなあ」

「ござりまするなあ、などとのんびりしておる訳にはいかんのだぞっ」

「左様、故に今その話をして居りまする訳で。織田家の置かれた立場がどのようなものか判って頂かねば…」

「判って居るっ、早う先を話せっ」

八郎どのは藤吉郎どのの仏頂面が気に喰わぬらしい。仏頂面というより猿面冠者というような物であろうか…。

「話したいのは山々でござるが、一人で口を開いて喉が乾き申した。ちと台所で水を飲んでまいりまする。ついでに殿の申された通り、膳の支度をさせます故、皆さまちとお待ち下され」

藤吉郎はそそくさと広間を出て行った…。

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