其々の思惑
天文二十三(1554)年四月吉日
甲府躑躅ヶ崎館には大勢の武田家家臣が集まっていた。館の外にも陪者や領民達が鈴なりに連なっている。皆、尾張から嫁いでくる花嫁を心待ちにしているのだ。
「聞けば雛人形のようなお方でおわすとか」
「四郎さまもまだお人形のようなお方じゃて、お似合いの夫婦じゃのう」
「されど嫁を娶るにはちと早すぎはせんかえ」
「婚儀はまだ先じゃと。三年先とよ」
晴信の居間に、嫡男の太郎義信が訪れていた。
「父上。今となっては遅うござりまするが、この太郎、此度の婚儀には反対でござる。何故教えてくれなかったのでござる」
太郎義信は晴信の名代として信濃の巡察に出ていて、今度の織田家との婚儀の話は聞かされていなかったのである。
「そちは必ず反対すると思うておった。それ故言わなんだ」
「では尚更でござる。それがしは父上の跡を継ぐ身でござるぞ。この様な大事を聞かされず、それがしが黙って居られるとお思いでござるか」
「…父には父の存念がある。そちは今川や北条との事を気にしておるのだろうが、儂の存念が判らぬ様では、跡を継ぐなどとは言うては居れぬと思わっしゃい」
「…考えてみましょう。答えが出たらまた来ます故、これにて」
太郎義信は顔に怒気を漲らせて居間を出て行った。
「お屋形様、申し訳ござりませぬ。それがしがよく申し聞かせます故…」
居間の隅で瞑目していた飯富兵部が、そう言いながら晴信の前に居直った。
「構わぬ。あれはあれで家の事をよう考えておる。小言ばかり考えておると赤備えの矛先が鈍るぞ」
「はあ」
「そちも反対か」
「太郎さまと同腹、とまではいきませぬが、収まっておるものをわざわざ波風立てんでもよかろう、という思いはありますな」
「ハッハ、よくぞ言うたわ。…冬には太郎も縁組じゃ。今川から姫を迎える。兵部、太郎に申しておいてくれ」
四月某日 鳴海城
「殿、清洲より林どのが参られておりまする」
「林どのが。信正、通してくれ」
林佐渡か。会うのは久しぶりだな、反乱起こした後は蟄居してた筈だけど、出仕が許されたのかな。
「久しぶりじゃのう、左兵衛」
「お久しぶりでござりまする。林さまは息災で居られましたか」
「息災も息災、出仕が再び許された後は、京へ行んだり国友へ行んだり…息つく暇もない程よ」
「成る程。ところで此度は何かありましたか」
「ふむ…。それよそれ。おぬし、まさかとは思うが謀反は企んではおるまいな」
「は…?」
「城普請の事よ」
「城普請…と申されますと、この鳴海の、でござりまするか」
「そうよ」
「謀反、それは一体誰が申されたので」
「儂が来ておるのじゃぞ、大殿に決まっておろうが」
おかしい。届け出も出している上に信広や水野からも人足を出してもらっているんだぞ。讒者でもいるのか?
「…城の縄張を見て貰えば一目で判ると思われまするが…。全て今川勢への備えでござる」
「さもあろうのう」
…どういう事だ?
「ハハ、冗談じゃ。まあ、あながち冗談でも無いがのう。それほど鳴海の去就は目に止まると云う事じゃ」
「それがしの忠義は織田家に有りまするが…」
「それは判っておるわい。が、そうは見ぬ輩も居るのじゃ。よいかの、おヌシは端から見れば今川勢を一手に引き受け、知多を引っ掻き回す無類の小戦上手じゃ。古い者共など若い頃の春巌さまの様じゃなどと申す者もおるのよ。そんな輩が鳴海に居ってみい、しかもその者は織田のオトナでも譜代でも無い成り上がり者ときて居る、妬む者も多い。ヌシは平手どのの妹婿じゃ、謀反など有り得ぬ。されど大殿とてそういう輩の云う事も聞かねばならぬ。難儀な事よ」
林佐渡は煙草盆を呉れぬか、と言って、一服やり始めた。
「ははあ」
「ははあ、ではないぞ。今川からの調略の手が伸びてもおかしゅうない場所に居るのじゃおヌシは。そこで大殿は人質を取ることにしたのじゃ」
「人質…でござりまするか」
「おヌシだけではない、国じゅうの主だった者から全てじゃ。鳴海の質は、儂が随行して連れて参れと云われて居る。二日待つ故、支度させよ」
聞きたくもないし想像もしたくないが…想像はつくが…。
「やはり、質と申さばそれがしの妻でござろうか」
「知れたことよ。世継ぎはまだ居るまい。平手どのも居られる、しばらく里帰りだと思うて我慢せい」
主だった者、か。身代がでかくなるのも考えものだな、家族は質に入れなきゃいけない、部下の面倒は見にゃならん、周りとの兼ね合いも考えなきゃならん…おまけに大いくさが待っている。もっと自由にならんかな…。となるとやっぱり身代はでかくせにゃならん訳で、せめて切り取り勝手、くらいにはならないといかんのか…。ううむ、先は長いなあ。
「ちゃんと聞いておるのか左兵衛よ」
「は、はっ。畏まって承りまする」
「よし」
では、と言って林佐渡は広間から出ていった。野駆けに行くようだ。
しかし、なんでこの時期に今川は攻めて来るんだ?せめて三国同盟が成立して落ち着いてからだろう?キッカケは俺のみみっちい策が起こりなのは分かるんだけど…せきもそのせいで人質という訳か…ごめんな…。
「林さまの用件は何でございましたかな」
信正が入れ替わりに広間に入って来た。
「人質だとさ」
「お方さまを?」
「そうだよ。国じゅうの主だった者から人質を取るそうだ」
「お受けなされましたので」
「当たり前だろ」
ぶす腐れた俺の顔を見て信正が笑う。
「ハハハ、それだけ殿も重くみられて居るのでござりまするよ。殿を疑うての事ではございますまい」
「人質を取るのにかい?」
「人質にも色々ありまする。謀反を恐れる人質、大切な存在を預け置く人質、忠義の証としての人質…」
「俺は何れなんだろうな」
「それは殿がどう思うかでござろうな。受け取り方、お気持ち次第でござる」
受け取り方、お気持ち次第ねえ…。自分から望んでって訳じゃないからな…せきが死ぬ確率は減ったから、よしとするか…とでも思わないとやってられんな。
そうだ、考えないと。なんで今攻めてくるんだ。何か攻めなきゃいけない訳があるはずなんだ。確かに俺の策が起こりとしか思えない、でも他にも理由があるはずなんだ…。
「殿、再三でござりますが、やはり大いくさでござりまするか」
「そうだな。岡崎に松平竹千代…今は元信か、その元信を返した事がその証さ。そこに朝比奈太郎と四千の今川勢を付けている。岡崎党と合わせておおよそ六千、そこに今川の本隊が詰めて来る訳だから…駿東に押さえを置いても二万は寄せてくるだろう。少なくても一万五千は下るまいよ」
「西三河の軍勢と合わせて…二万一千から二万六千の今川勢でござりまするか…翻って此方は」
「美濃の抑えに六千、ってところだろうな。となると動かせるのは四千ほどって事になるな。後は水野党が此方に着くかどうか」
「水野が味方したとて合わせて五千ほどにしかなりますまい。常滑の連中がどう出るか…これとて合わせて七千ほど。我等は三倍から四倍近い敵と戦わねばならんと云う訳でござりまするか」
「そう。酷いもんだろう」
信正がしかめ面をした。
「殿、他人事の様に仰られて居りまするが、矢面に立つのは殿ですぞ」
「まあ、そうだな」
そうなのだ、東の旗頭は俺から織田信広に変わったけど、彼は織田家の人間だ。織田にとって死んでいい存在ではない。水野藤四郎は松平元信と甥伯父だし、織田方とはいえどう転ぶか分からない。常滑の土豪たちもどう転ぶか分からない。
今川方は岡崎で軍勢を集結させるだろう。そして池鯉鮒、鳴海の線で進む筈だ、大軍を通すにはその線しかないんだからなあ。
当然、鳴海が焦点になる…。そりゃ人質も取るわな。
俺がウンウン唸っていると、台所の方から大声でご苦労様でござりまする、と騒がしい声が聞こえてきた。
「殿、藤吉郎ただいまたち帰ってござりまする。息災にござりまするか…おや、難しき顔をして、どうなされたので」
「おう、お帰り。今川とのいくさの事だよ」
「そうでござりまするか。いやはや、駿府も岡崎も、うさんな者や素性のはっきりせぬ者はビシビシ召し捕られて居りまする。細作働きも厳しくなってまいりました故、一旦戻る事にした次第でござりまする。ところで殿、二つご報告がござりまする」
「なんだ」
「此度の尾張攻めの今川の大将は、雪斎入道でござりまする」
「今川治部ではないのか」
「はい。元々駿府屋形どのは長滞陣になるようないくさは好んでは居りませぬ。武田、北条に睨みを利かせる為でもありましょう、今川屋形は出られませぬ」
一応、駿東に備えている、という訳か。俺のやった事も全くの無駄にはならなかったみたいだな。
「それで、もう一つは」
「今川勢の先鋒は岡崎勢二千、相備えに朝比奈太郎率いる四千、そして雪斎入道率いる駿河勢一万。合わせて一万六千にござりまする。更に駿河には一万が抑えとしてとして残りまする。尚、この抑えの一万のうち六千は、駿東の情勢次第ではいつでも尾張に向け進発出来るよう支度を整えておる由」
「本隊一万六千、遊軍が六千て事だな」
「左様にござりまする。それともう一つ」
「なんだ、もう一つあるじゃないか」
「まだ確かではござりませぬが…駿東が落ち着けば、今川、武田、北条が盟を結ぶ流れになっておるそうにござりまする」
「そうか…やっぱりそうなるか」
「おや。殿にはお見通しでございましたので」
「考えてみろ。北条は関東、武田は北信と越後、そして今川は俺たちだ。それぞれ異なる方向に敵がいる。手を繋ごうと思うのは自明の理だろうが」
「自明の理、自明の理…言い得て妙でござりまするな。いやはや、確かに自明の理でござる。殿はこうなる事を見越して、駿東で事を起こしたのでござりまするな」
「そうだ。上手くいかなかったけどな」
「常に物事は諸事上手く行くとは限りませぬ。流れを止めぬ事が肝要でござりまする」
「よく言うな」
「言うのはタダでござります故…言わねばならぬ事を言えぬ様になったら、奉公も終いでござりまする」
「物を言えぬ様になったら奉公は終い、か」
確かにそうだ。お家騒動、戦の敗北、家の滅亡は、正しい物の見方が出来なくなって起きるものだ。主人を諌められなかった為に、主人の過ちを正す事が出来なかった為にそれが起きる。城を枕に討死、武人の花を咲かせる…死んだら終わりだ。その直後は鮮烈な印象を残すだろうが、いずれ悲しい昔話になって終わる。長いものに巻かれろとはよく言ったもんだ。奉公ってのは大変だよ。俺が信長を諌める日が来たりするんだろうか…




