異なる流れ
正月も明けた八日、甲府躑躅ヶ崎館に来客があった。
「左馬助さま、客は織田の使いと申して居りまするが」
と息を切らせながら宿直の者が言う。
躑躅ヶ崎館の留守を預かる武田左馬助はうーんと唸った。
「はて。織田とな…まあよい、溜まりに通せ。火桶を忘れるな」
よりによって武田とは。三郎様もとんだことを思い付くものだ、と平手監物は思った。
甲斐武田家は織田家にとって全く縁がない相手ではない。
武田先代の当主、信虎の娘が今川家に嫁いでいる関係もあって、今川家との戦の折りには武田家からの援軍が今川勢として参戦していることもあった。
近年の武田家は信濃攻略に力を注いでいる事もあり直接戦場で戦う事はないが、織田家にとっては敵国も同然だった。
「お初にお目にかかりまする、織田三郎が名代、平手監物にござりまする。してこれなるは生駒蔵人と申しまする。年明け早々からの目通り、至極恐悦にござる」
「生駒蔵人でござりまする、以後お見知りおきを」
「武田左馬助にござる。ご両名とも遠い所はるばるよう来られた。如何でござる、甲府の冬は寒かろう」
「左様にござりまするな。火桶を近う寄せてもようござるか」
「これはこれは」
左馬助がぱんと手を叩くと、スッと襖が開いて近習が近寄る。
火桶を増やせ、と左馬助が言うと、近習はスッと消えていった。
「失礼致した。して、平手どの。織田どのが使者とは珍しい、何ぞござったかな」
「我が大殿三郎様には妹君が居られましてな。それで、いずれは嫁ぎ先を探さねばならんと三郎様が申されまして」
「フム」
「それで三郎様が妹君にどのような相手がよいか好みを尋ねられたのでござる」
「ほほう。織田どのはよほど妹君を大事になさって居られるようじゃのう」
「それででござる。妹君は何と答えたと思われまするか」
「いや…何と答えたのでござるか」
「まあ、ありきたりではござるがの。文武に優れた若君がよいと申されまして」
「ほう」
「当然と云えば当然の事ながら、中々そのような若君となると限られてくる訳でござりまする」
「それで当家に目をつけた…いや、当家にお目がねに叶うた若君が居った、という訳でござるな」
「左様」
左馬助は考えた。
話を聞いた体でここでこのまま追い返してもいい。が、相手は織田信長本人の名代として来ている。どうしたものか。
兄の晴信に瓜二つ、とまで云われた左馬助である。
“兄なら無下に追い返す事はしまい。此方の得になる処を探す筈だ。虚心に訊いてみるか”
左馬助は訊ねた。
「それを聞けば兄もさぞ喜ぶと存ずる。それはさておき平手どの…ときに、縁談の話に武骨とは思うが、美濃をどう思われまするか」
「我が大殿は美濃を獲る算段を巡らせて居りまする。既にお聞き及びかと思いまするが、斎藤道三どのも我が大殿の元でその手伝いをなされて居りまする…なんぞ、美濃との国ざかいにご懸念でも」
「いや、織田殿からの使いと聞いて、ちと気にかかりましてな。されど、義龍どのも非人の所業をなさるものよ…まあ我等も人の事は言えぬが、父を殺そうとまではせなんだ。まあ五十歩百歩でござるかな、ハハ」
「どの家も似たようなものでござりまする。親子の争い、兄弟喧嘩、巧くまとめた家だけが強うなりまする」
「左様でござるな。その点、織田殿はよい当主を持たれた。良い当主を持つ家は、当然ながら強うなる。それがしは婚儀の話、佳い話であると思うて居りまする、が我等は今川とも盟を結んで居る。その辺りを織田殿はどうお考えであろうか」
「さもありましょう。左馬助どの、今からそれがしの云う事は我が大殿の直の言葉と思し召め下さりませ。…武田殿は海が欲しいのかのう、越後の海に出ようとせずとも、駿府の海があるではないか…」
平手監物の言葉に左馬助は唸った。
「…戯言でござるか、それは」
「戯言のような…されど戯言ではござらぬ、とそれがしは思うて居りまする。大殿は真顔でござった。ふと思いついた様な、そうでもないような…大殿の言葉にそれがしはこう答え申した。北信濃が片付くか、駿府と盟を結んで居っても利は無い、と武田殿が思わぬ限りそれは有り得ませぬ、と」
「ふむう…して、織田殿はまた何か申されたか」
「勿体ないのう、ワシが武田殿なら越後と和して駿府を獲るがのう、と」
「越後と和して、のう」
「越後の上杉殿は関東管領の名跡を継がれたお人じゃ。長尾景虎と名乗って居られた頃は、実より名が必要であったのじゃ。が、今はどうであろう。土豪、国人、小名共が関東管領の名を頼って来る故、せんでもよい戦をせねばならぬ羽目になっとるではないか。名など後からいつでも付いてくるわ、と」
「……」
「いやはや、それがしも初めは戯言かと思うて居りましたが、聞いて居る内に戯言とは思えぬ、と思うたのでござる。まあ、何れにしても武田殿には武田殿の都合がござりましょう、とそれがしが答えてその場は終わり申したが…」
「何かござったか」
「有り申した。有った故、それがしは今此処に居るのでござりまする。何にせよ、是非とも婚儀の話、武田殿にお伝え頂きたい。いやいや、左馬助どのに会えてよかった。では我等はこれで。蔵人どの、お暇じゃ」
「待たれよ平手どの。三日、いや、二日いただければ兄者の思案が聞けましょう。それまでこの甲府でお待ちいただく訳にはいかぬかのう」
「おお、そういう事ならいくらでも」
「誰か居らぬか。…おお、使いの方々を客間へお通し致せ。……早速、膳の支度をさせまする。山国故、大したおもてなしも出来ませぬが、そこは堪忍して下され」
天文二十三(1554)年二月一日
海からの風は堪える。
那古野に習って鳴海も総構を作る事にした。
中島砦を城構に取り込んで、海岸線一杯まで濠を穿つのだ。これで鳴海城から中島砦に至る一帯は四つめの曲輪という事になる。四つ曲輪の中にもあちこち空濠を作る。敵の動線を固定するためだ。そして溜まり曲輪を嵩上げする。まあ、一朝一夕、という訳にもいかない。信広どのや水野藤四郎にも頼んで人足を出して貰っている。
今川が総動員をかけているのは明白だ。岡崎以東の連絡がつけ辛くなってきている。岡崎にいる藤吉郎達もそろそろ引き上げさせた方がいいかも知れない。
何故かというと、岡崎の様子が芳しくない、と言って来ているのだ。今川が約束を守っているのだから、このまま今川の庇護下でもいいのでは、という意見が多い、という。
元信が戻って来たのがよほど嬉しいんだろう。いい飴だよ、全く。それに岡崎が怪しいとなると、知多も怪しくなる。水野党はともかく常滑の連中はどう動くか…。
これは…詰んだか。
しかし…総動員が何で今なんだ。元々知多や西三河は織田と今川の係争地だ。甲相駿の三国同盟すら成っていない状態で此方に攻め寄せるものなのか。駿東だってそうだ。今川と北条の係争地だ。俺が茶々入れたとは云え、イザコザが起きる余地は充分にあるんだ。若旦那は武田と同盟を結ぶ、と言っていたけど…。
くそッ、何かあるはずだ、今川が事を起こす理由が…
「殿、火に当たって来ても良うござりまするか。寒うて敵わん」
「ああ、一息入れよう。八郎、人足の皆にも酒を配れ」
「はっ、有難く戴きまする…いや、待ってましたっ」
「焼餅も配れよ。味噌をたんと付けてな」
八郎と入れ替わる様に、作兵衛が側に寄って来た。
「殿、まことに今川と大いくさなのでござりまするか。岡崎方も近頃ではとんと静かじゃ。確かに国ざかいで小競り合いは起こって居りまするが…」
「小競り合いしか起きてないだろう、だからさ。いつもなら直ぐに助勢が来るだろうが」
「左様にござりまするな」
「今は向こうだって小競合いで済ませたいんだ。当然我等も向こう側に兵を出す余裕が無いのは知れている」
「何故でござるか」
「大いくさの支度をしているからだよ」
「されど岡崎党は今川に…何と言うたか…そう、面従腹背…なのでは」
「俺が駿府に出向いた頃とは違う。ヌシが岡崎の譜代だとして考えてみろ。駿府は竹千代どのを元服させて嫁取りまでさせた上、約定通り返してくれたのだぞ、しかもその嫁は駿府館の姪ときている」
「はい…」
「その上駿府譜代の軍勢まで岡崎に寄越した。単なる後見ではない、立派な今川一門の扱いだ。岡崎譜代としてはどうだ」
「うーん…答えを出さねばなりませぬなあ…」
「だろう。岡崎党、松平家にしてみれば先代からの義理だ、果たさねばならんだろう。いくら面従腹背と言ってもそれは岡崎譜代の限られた者しか知らんのだから、頼うだる人はやはり今川、となる」
作兵衛は腕を組んで考え込んでいる。そりゃ考え込みもするだろう。どう考えても鳴海が最前線だからな。
「で、殿はどうなさるので」
「どう、とはどういう意味だ」
「このまま織田家に付かれるのか、今川に付かれるのか」
「決まってるだろう、このまま織田方として戦うさ」
「安堵致しました…では戦の見通しは」
作兵衛もしれっととんでもない事言うな…。裏切る訳ないだろうが。信長はともかく、若旦那…監物どのを裏切る訳にはいかない。大事な友達なんだ。
「見通しねえ…駿東の抑えに五千ほど置いて…大体二万の今川勢が攻めてくるだろうな」
「に、二万…大いくさどころの話ではござらぬ、負けたら織田が無うなる」
「仕方ない、今川は西に向かうしかないんだ。我等が駿東でチクチクやった結果、こうなった。まあ…やらなくてもいずれはこうなった筈さ」
「まことに攻めて来るのでござりまするか。駿東での策が効を奏して東に向かうのやも知れませぬ」
作兵衛が俺を案じる様に言う。
今川や北条にしてみれば、何もない所に火をつけて回ってるのは織田、って少し考えれば分かる事なんだ…我ながら馬鹿な事をしたもんだ。
「有り難う、作兵衛」
「殿に礼を言われるなど、こそばゆうごさるな…さて、殿は早う戻って御方様の腹でも撫でてやりなされ。いやはや男かのう、女かのう」
「お、おう」
恥ずかしながら…というかいずれはこうなっただろうけど、子供が出来た。
子が出来た、と分かった時のせきの喜びようは半端じゃなかった。俺は側室なんて興味無かったし、当然せきを人並以上に愛しているつもりだったから、子供が居なくても全然気にして無かった。でもせきはそうじゃなかったらしい。産まず女には用は無い、と言われていた時代なのだ。子供が出来ない事に相当悩んでいたようだった。俺がその点に関しては何も言わないもんだから、余計に責任を感じていたようだ。
「若でしょうか…そうだといいのですけれど…」
「どちらでもいいよ。無事に産まれてくれるならそれが一番だ」
「はい」
せきの不安は家中の皆が知っていたらしい、気づかないのは俺だけだった様だ。俺が子が出来た、と皆に告げると、皆それはもう狂ったような喜び方だった。
「やっとでござるか。これで更に精進出来るのう」
「そうよそうよ。殿は子作りはからきし駄目じゃからのう。我等が支えまする故、鳴海の身代を更に増やさねば」
子供、大いくさ。簡単には死ねない。