戦支度
年が明けた。天文二十三年。
無事に年を越せたから、まあ目出度いんだけども…。
鳴海の周り、特に西の方がきな臭くて全然目出度くない。
駿東でこそこそやった結果、今川と北条の国ざかいでは今でも小競り合いが起きているようだ。今川の目を駿東に向けさせるためにやった事なんだけども、そうはならずに三河岡崎には今川の譜代、朝比奈弥太郎が四千の兵を引き連れて予定通り進駐した。織田にとっても俺にとっても非常にまずい。
そして岡崎の松平党にはいいことが起きた。嫡子竹千代の岡崎帰国が許されたのだ。墓参りの為の一時帰参からそのまま、松平党の当主としての帰国だ。朝比奈弥太郎はその後見、という訳だ。
しかも朝比奈弥太郎は岡崎代官として赴任したわけではないようだ。となると、松平竹千代が三河の主と言うことになる。今まではムチだったが、これからはアメ、というわけだ。
うん、非常にまずい。
「一さま、どうなされたのでしょう」
せきが心配そうに俺の顔を覗き込む。やっと俺の事をカズと呼ぶことに慣れて来たようだ。
いくら年下とはいえ、自分の嫁にまで殿とか左兵衛さまとか呼ばれるのは心地悪い。せめて名前で呼んで呉れと言ったら、畏れ多いとかいうから、敬称をつけるのは大目に見よう、ということで一さま、になった。
「いや、ちょっとね」
「藤吉郎からの便りに何か不都合な事でも」
そして少しだけ領主の妻らしさが出てきた。少し前までは家臣たちにも服部どの、とか、更に年下の八郎にまで植村どのとか呼んでいたんだけど、最近は敬称をつけることなく呼び捨てにしている。
『小なりと云えども大名にござりまする。郎党を敬うて呼ぶのはよくない。主の妻が家臣に気を使う様では家は崩れまするぞ』
と平井信正がせきを諭したのだという。せきは決して権高い女ではないから、人を呼び捨てにするのには抵抗があったはずだ。
…若いのに健気でいい女だ。
「せき、おいで」
「はい」
今だに抱きしめるだけで頬を赤らめる。
うん、本当にいい女だ。
「春庵さんの所に戻らないか」
「…訳を聞いてもよろしゅうございますか」
「大いくさが始まりそうだ。当然、鳴海がいくさ場になる。俺もどうなるか分からない。お前には死んでほしくないんだ。だから…」
「嫌でございます」
「何だって」
「わたくしは一さまの妻でございます。死ぬ時も同じでございます」
「でも」
「一さまが遠国ではなく、この現つ世の方ではない所から来られた事も春庵さまより聞き知って居りました。…そして奥方が居られる事も」
あいつめ…。
「この世ではわたくしが一さまの妻。誰にも渡しません。死ぬのならご一緒に」
いつまでたってもこういう愁嘆場は苦手だ。
「…ありがとう」
「そうか。松平党はそれほど喜んで居ったか。岡崎への馳走としてはこれ以上の物はあるまいて」
「左様心得まする。これで拙僧もひと安心でござりまする」
「ひと安心とは」
「近頃いくさが疎ましく感じるようになりましてな。仏に仕える者としてはいくさなど言語道断でござりますれば。次のいくさを終わらせたなら、本道にたち戻りとうござりまする」
「さもあろうの。禅師には苦労をかけるのう」
「お言葉勿体のうござりまする。試みにお訊ね申しまするが、駿東はあのままでよろしいので」
「ハハ、ひと安心と申したばかりではないか。…禅師は後顧の憂いを断ちたいのであろう。それは判るがあれでよいのだ。北条に此方に本気で攻めかかる余裕などないわ。坂東で手一杯じゃからの。それに此方も何もしとらんのだから、押し返すだけでよい。頃合いを見て予から頭を下げるわ」
「頭を下げまするか」
「面子を立ててやればよいだけの事だ。いかほどの事でもない」
「それを伺って、ひと安心でござりまする」
「またひと安心か、まあよい。では禅師、甲斐と美濃に使いを出してもらおうか」
「承りましょう」
…ふう。
姫初めはいいもんだ。
なんて言っている場合じゃない。
「せき、紙と硯を。書き終わったら広間に行くから、皆に集まるよう伝えてくれ」
皆が集まった。
佐々内蔵助、蜂屋般若介。
平井信正、服部小平太、乾作兵衛、植村八郎。
菅谷九右衛門、岩室三郎兵衛、大草善四郎。
春庵さんは清洲、木下藤吉郎は細作として岡崎にある。
「皆、昨日の酒は抜けたかい」
皆が般若介と小平太を見て、クスッと笑う。
「殿、やはり新年は良うござるなあ。毎日新年を迎えたいものじゃ。のう小平太どの」
「そうじゃのう蜂屋どの。殿、今夜も無礼講でござるか」
昨晩は村の長者も集めての新年会だった。
朝まで飲んでた連中もいたから、生酔いのやつらもいるだろう。本当にみんな酒好きなんだよな…。
「いや、違う。信正、城付きの兵を除いて、動かせるのはどれくらいだ」
「はっ。七百…無理をすれば八百はいくかと」
「ふむ。水野党、久松党に陣触れかけてどれくらいになる」
「多くて二千。少のうても千七百は下りますまい」
動員出来る兵の数の話になって、皆の顔が自然と引き締まる。
「知多衆までいれたらどれくらいだ」
「はっ…。水軍衆を除いて…合わせて三千ほどになると思われまするが。何故でござりまするか」
皆が緊張している。
三千。途方もない数だ。俺もとんでもない数だと思うよ。
「…何故か。皆が待ち望んだ大いくさが始まるんだ。小平太、この文を持って清洲の監物どのの処へ往け。明日発て」
「はっ」
「内蔵助と般若介はこ三河本証寺へ。酒井将監どのにこの文を渡せ。お前たちも明日発て」
「承ってござりまする」
「信正は九右衛門と共に兵糧と矢玉の買付だ。春庵さんの処へ」
「ははっ」
「善四郎は俺と共に来い。岡崎へ参る」
「ははっ」