1話
そこは一面緑しかない草原。高層ビルもなく、車も走っていないことからここが元いた世界とは違う事を感じさせる。扉は後ろにあるが、戻る気などさらさらなかった。
今、太陽が昇ろうとしているが、あたりはうす暗い。 まだ早朝なのだろうか。
黒衣の青年は時間も、見える風景も違うこの世界に、興味を持ったようで口元に笑みを浮かべる。
しかし次の一歩を踏み出す時には元の無表情に戻り、感情を読み取ることはできない。その足取りには迷いはなく、黙々と歩き続ける。
少女は花摘みをしていた。まだ早朝ではあるがそれが少女の日課である。その視界に黒衣の青年が入る。
横顔しか見ることはできないが不思議と目が離せなくなるほどの美貌。その一挙手一投足に見入ってしまう。
気づいた時には足が青年の方に向かって駆けていた。
「お兄ちゃんは誰?」
青年は一瞬驚いたような表情をするが、すぐに無表情になって答える。
それもそのはずである彼の世界に入るはずもない猫耳の少女がいたのだから。否、正確には居るにはいたがあれは紛い物でしかない。しかし、目の前にいる少女はどうだろう? 忙しなくぴくぴくと耳を動かしまるで生まれた時からそこにあるのが当然のようである。
「お前こそ誰だ? 人の名前が聞きたければ自分から名乗れ」
少女は彼のいいように思わず一歩引いてしまうが、すぐに笑みを浮かべ名乗る。
「アタシは夏澄だよっ。お兄ちゃんは?」
「……」
彼は答えない。代わりに黙って歩きだす。
「ねえ、ねえってば」
夏澄は彼の前に立ち話す。
「アタシは名乗ったよね。じゃあ、今度はお兄ちゃんが名前言ってよ」
夏澄は彼の顔を見上げて言う。その瞬間、彼の切れ長の目で睨まれる。
「悪いが俺は名乗るとは言ってない。好きに呼べ」
「えー、教えてよー」
「断るっ」
それっきり彼は口を閉ざし、再び歩き出した。
「ん~、もうっ」
夏澄も今までの作業を忘れ彼に付いていく。ただひたすらに。
「ねえ、どこから来たの?」
「……」
「どこに行くの?」
「……」
「決まってないならアタシの村に案内してあげようか?」
「……」
夏澄の問いに一つも答えず無視を続ける青年。夏澄も無駄と分かったのか、問いかけることはなくなったが只黙って彼の背中を追い続けた。
それからいくらか沈黙の時間が過ぎたころだろうか。不意に彼は口を開いた。
「お前はなんで付いてくるんだ?」
その声には鬱陶しさがこもっていたが、夏澄は話しかけられたことが嬉しくてニコニコしながら答えた。
「う~ん、なんとなくだよっ」
そう元気よく答える。その答えに彼は若干のいらつきを覚え、再び黙る。
夏澄も青年の事が分かってきたのか、青年が口を閉ざすと話をやめる。
歩き続けるうちに道が2つにわかれる岐路にやってきた。一方は道の草木が刈られきれいに舗装されている。しかしもう一方は獣が通った後で出来たような獣道しかなかった。
「お兄ちゃんこっちの道の方がいいよ」
夏澄が慌てたように言う。だがその様子に青年は興味を覚え獣道に入っていく。
「え!? ちょっと待って。そっちは危ないよ」
夏澄は青年の服の袖をつかみ必死に引き戻そうとする。だが次の瞬間の向けられた視線で恐怖を覚え離してしまう。
「離せ」
その声には何の感情もこもっていなかった。しかしその眼には明らかな敵意が浮かんでいる。見る者を竦ませるような冷たい目だった。そして何も言わずに歩き去ってしまう。
夏澄はまだあまりの恐怖に動けずにいた。我に帰った時には青年の姿が小さくなっていた。彼女は迷うそぶりを見せるが首を横に振り、彼の後を追って走り出した。
「お兄ちゃんっ。待ってよ~」
彼はその声に振り向き驚く。あれだけひどい仕打ちをしたのだ、付いてくるはずもないと思っていたのだろう。だが彼が思う以上に彼には底知れない魅力があった。夏澄もその魅力に取りつかれた1人なのだろう。
「ねえ、本当にこっちは危ないから戻ろうよ」
「お前に指図されるいわれはない。戻りたければ一人で戻れ」
そして彼は淡々と続ける。
「それに死んでもかまわない」
彼の声はあまりにも小さく夏澄に届くことはなかった。
「お兄ちゃん。なんでそんなに悲しそうな顔をしてるの?」
先程の一言は届くことはなかったが、夏澄には青年の横顔がひどく悲哀に満ちているように見えた。
「別に哀しくなどない」
「ホントに?」
夏澄には彼の言葉が嘘に聞こえ、思わず聞きなおしてしまう。
「ウザい」
「……」
その言葉を聞いて夏澄は静かになった。
再び沈黙が辺りを包み草原を進んでいると、周りから不穏な気配を青年は感じ取った。
「……」
いきなり立ち止まる彼に夏澄は不思議に思った。
「どうしたの?」
「うるさい。話しかけるな」
彼の返答はただの問いかけに対し理不尽な物だったが、そんな事は意に反していなかった。それよりも今彼が気にかけていること、それは辺りに増え続ける気配である。
どこかで獣が鳴く声が聞こえる。夏澄はその声を聞き戦慄を覚える。そして見る見るうちにその顔が蒼くなっていく。
「どうかしたのか?」
この状況でも平然を保っている青年を見て夏澄は多少の落ち着きを取り戻す。
「ええと、ナフィが来るよっ」
その体は小刻みに震えていた。さすがに異常だと気付いたのか、歓喜する気持ちを押し殺し夏澄を安心させようとする。
「まずナフィとはなんだ?」
一切感情の籠っていない声音ではあるが、それが逆に落ち着きを取り戻させる。
「えーと、ナフィードウルフの事だよ」
まだ気が動転しているのだろう。答えになっていないが、青年はウルフという言葉を聞き、だいたいの事を理解する。
そして一言、
「面白くなってきたな」
口元がつりあがり必死に笑いをこらえようとしているのだろう。だが見る者には恐怖を与える程であった。近づいて来ていたナフィの群れが一瞬動きを止める。
そしてそれは近くにいる者には安心感を与えた。いや、さらなる恐怖で感覚が壊れてしまったのかもしれないが。案の定夏澄の震えは止まった。
「離れていろ、俺が殺る」
その言葉に夏澄は黙って頷いた。
青年は自らの指を噛み、血を出しナフィたちの気を引いた。それに釣られるのを確認すると、走って夏澄から距離をとる。彼は自分の楽しみを他人に取られたくはないから距離をとったのだが、傍から見れば夏澄を庇っているように見えるだろう。そして少女は見事に勘違いしてしまった。
「お兄ちゃん、カッコいい」
陶然とつぶやく。この戦いが何れ一国の王となる青年の初陣である。
彼は走りながら自分の手によって血の海に沈むことを考え、さらに笑みを深くする。ここまで彼が感情を表に出すのは珍しい。そしてついに待ち望んだ瞬間が訪れる。
彼は急に歩みを止め、接近していたナフィに振り向きながら肘鉄をくらわせる。その流れのまま足で踏みつける。
飛びかかってくる2頭目をを脇と腕で抑え、そのまま地面に頭から叩きつける。
攻撃の反動で地面に横になる彼を狙い一斉にナフィたちは襲いかかる。だがその動きは彼にとっては予測済みであり、転がり、躱し、全身のばねを使い飛び上がるや否や後ろから追撃をする。
顎の下に手をかけ背中に膝を当て、無理やり引っ張る。ナフィは悲鳴を上げ必死に抵抗する。だが彼の手でがっちりと固定され離れる気配はない、そして背骨の折られたナフィは立ち上がることはなかった。
この間に向き直り、再び襲いかかる敵には左手は固く握り躱しつつすれ違いざまに拳を側頭部に打ち付け、右の肘と右足の膝を使い、挟み込むように別の敵を迎撃する。
この一連の流れで青年は息を切らすことはなかった。元の世界では只の20歳の学生である彼がなぜこのような事が出来るのか?
その答えは単純明快である。彼には全てのことに対して天賦の才があるのだ。今まではその才能が彼を追い詰め、自殺をさせようとした大きな理由の一つであったが、今の彼には無くてはならない物であり、そしてその力を如何なく発揮していた。
「ふっ」
不意に笑いがこぼれる。青年は感じていた。この世界に来てからやけに体の切れが良くなっている事を。それは時間が経つにつれ、より顕著な物となり、今では一発攻撃を入れるだけでナフィの骨を砕き仕留められるほどになっていた。
そして彼が先程想像していた通りの光景に徐々に近づいていく。段々と動いてるものよりも死んで、動かなくなっている者の方が多い。
「残り9頭か……」
その呟きには多少の寂寥感が籠っている。やはり彼の圧倒的な才能の前では、どのような力であっても敵わないのかもかもしれない。その事実が彼の死への渇望を強める。
その思いが極限まで強くなったからであろうか。突然彼の動きが止まる。諦めたのだろうか? いや、違う。彼の戦い方が変わっただけだった。
好機とみたナフィたちが襲いかかる。しかし彼に避ける気配はない、攻撃を自らの腕で防ぎ、苦痛に顔を歪ませる事も悲鳴を上げる事もなく、いつもの無表情のまま、噛み付いて離れない敵を力いっぱい殴りつける。殴るたびに骨が砕ける音が響き、地面に倒れ伏す魔物たち。
そして最後の1頭。その数に物足りなさを感じながら体をひねり回し蹴りを繰り出す。綺麗に胴に決まり、痙攣して動かなくなった。
「つまらないな……」
吐き捨てるようにつぶやいた。
夏澄が駆け寄ってくる。
「大丈夫? お兄ちゃんっ」
周りはナフィの亡骸と血に塗れていた。
「見ての通りだ」
彼の服装はびりびりに裂かれ、血で真っ赤に変わっていた。だが、そのような状態であっても表情一つ変わらなかった。そして何事もなかったかのように歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ。大変。うちの村に案内するからついて来てっ」
彼の手をとり強引に引っ張っていく。いつもの彼なら嫌がるだろうが、今は事情が違う。戦いをより楽しむためとはいえ服が台無しになってしまっていたからである。
そこで彼は村に行けば何か着る物もあるだろうと思い、されるがままというわけである。
村に近づいて行くと、彼らを見た門番であろう人は慌てて誰かを呼びに行ったようだ。
「よかった~。晴志おじちゃん、人を呼びに行ってくれたみたい。もう大丈夫だよっ」
晴れやかな笑顔でそう告げる夏澄に対して、彼は口にはしないが何てお節介な、と思う。
「俺は別にどうなろうと構わないんだがな」
そうポツリと呟いた。
「何言ってるの、お兄ちゃんっ。そんなの夏澄は許さないよ」
夏澄の見せる初めての怒りに少し驚くが無表情そのままに、
「お前に許されなくてもどうでもいい」
その言葉を聞いてまた怒ろうとするところに一人の女性が駆け寄ってくる。彼には及ばないものの切れ長の目が見る者にきつい印象を与える。さらに、輪郭も鋭いことが拍車をかける。だが、それを補って余りあるほどの艶やかで長い茶髪。バランスのとれたスタイル。この女性もまた猫耳がついている。
(人種が違うのか?)
「夏澄様、どうされたのですか?」
青年の傷だらけの体を見ても慌てることなく問う。見た目と合う低く落ち着いた声。
「あ、未希お姉ちゃん。大変なんだよ。お兄ちゃんがっ」
「そのようですね。では、夏子様をお呼びいたしましょう」
「ホントっ!? なら安心だね」
会話が終わると未希と呼ばれる女性は呼びに行った。
彼は少女が全幅の信頼を寄せる夏子という人物に興味を持つが、未希と一緒に走ってくる女性が夏子なのだろうと思い、興味が消え失せた。なぜならネコ耳が付いている事を除けば只のおばさんだからである。
「まあ、大変。あんたっ、ちょっと来なさい」
怒涛の勢いで連れて行こうとする夏子にうんざりし、抵抗する気も起きない。
そのあと未希の案内でどこか広い家に通されるとすぐに寝かされ包帯を巻かれ、傷口に薬草を当てられた。
「……」
その間彼はずっと無言である。この程度の傷どうってことないと思っていた。
それはそのはず普段とは比べ物にならないスピードで傷がふさがっていくからである。その様子に夏子も気づき目を見開いて驚いていた。
「あんた、技能が使えるのかい?」
「何だそれは?」
「知らずに使ってたのかい!? そんなの聞いたことないよ。でもまあ大丈夫そうだね。一応この薬を飲んどきなさい」
「これは?」
彼は丸薬を見て訝しげに思う。
「それは毒消し薬だよ。ナフィは毒を持ってるからね。傷が治ってるってことは大丈夫だとは思うけど飲んどきなさい」
「ふうん、そうか」
それを聞いた上で彼は薬を飲まなかった。
「なんで飲まないんだい。あんたはまだ助かったわけじゃないんだから飲んどきなさい」
怒気をはらんだ声で言うが、彼は怯まない。
「俺はもう大丈夫だ。お節介はうんざりだ」
彼は自らの体調が普段と変わらない事を認識していた。
「な、何を言ってるんだい」
夏子は怒りで顔を真っ赤にしている。間違いなく彼は夏子の逆鱗に触れたのだろう。しかし気にする様子もなく問う。
「そんな事よりもここら辺で服が買えるところはないか?」
あまりにも傍若無人の言動に一瞬動きが止まるが、この青年には何を言っても無駄だと悟る。
「はぁ~、それならこの家を出て左手の方に歩くと、武器屋があるからそこで色々売ってるよ」
「そうか」
そう言って出て行く青年を見つめ夏子は大きくため息をついた。