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自転車ヒーロー

作者: 沢山書世

共感してくださる方がいるとうれしいです。

「昨日、自転車を盗まれちまってよー、まいったよ」

「えーっ、ひでー奴がいるなー」

「鍵をつけてんのにだぜー」

「つけていても、かけとかなきゃダメだろ」

「ちゃんとかけてたよ、あたりまえだろ」

「えっ、それでも持っていかれちまったのかよ」

「ああ、そうだよ。誰がやったかわかんねーけど、許せねーよなー」

「とろい鍵だったんじゃねーのかー?」

「そんなことはねーと思ってたんだけどなー。まー、自転車屋に普通においてあるダイヤル式のチェーンキーだけど、みんなが使ってる代物だしなー。それを切られちまって」

「そーかー」

「もっとガツンとした鍵をつけなきゃダメだな」

「絶対に壊せない鍵っていうのはねーのかなー」

「あるといいんだけどなー」

「うーん」

「そういやー、エイジ、おまえはどんな鍵をつけてるんだよ?」

「え? 俺?」

 エイジはドキッとした。

「ああ、お前の自転車の鍵だよ。参考までに教えてくれ」

「差し込んで、カチャッとやるやつ」

「ふーん、古典的なのを使ってんね」

「まー、物持ちがいいっつーことかね」

「で、その鍵を付けていて、自転車を盗まれたことはねーのかよ」

「ああ、ないよ」

「ふーん、被害に合う合わないは、鍵の良し悪しだけじゃなくて運もあるんかねー」

「そうかもなー」

「そうかといって、運が悪かったで済ましていたんじゃ、これからも盗まれかねないからなー」

「そうだ!。サトル、このさい鍵を十個くらいつけてみたらどうだ?」

「あほかー、自転車よりも鍵代の方が高くついちまうだろーが」

「でも盗まれるってことはなくなるだろ」

「そりゃそうだろうけど、鍵の開け閉めも大変だよ」

「そうかー。じゃー乗らないときはタイヤの空気を抜いちまうってのはどうだい」

「勘弁してくれよ」

「降りたら、自転車を背負っちゃうっていうのはどうかな。肌身から離さなければ安心だ」

「お前なー、本気で心配してくれてんの?」

「もちろん。俺なりにだけどね」

「おちょくっているようにしか聞こえねーぞ」

「悪い悪い」


「あれ? そーいえばさー、俺、お前が自転車に乗ってるとこ、見たことあったっけかなー」

 エイジはドキッとしながら、

「そりゃー長い付き合いなんだから、見た事あんだろ」

 サトルが首をゆっくり横に振りながら、

「いんや、一度も無いなー。記憶にねーもん」

 うろたえたエイジが、

「ど忘れだろ、しっかりしてくれよ」

 サトルがエイジの顔を覗き込みながら問い詰める。

「あー。ひょっとして、おまえ自転車に乗れないんじゃないの?」

「そんなわけねーだろ。なにをバカなこと言ってるんだよ」

 と返事をしたが、エイジは汗汗の状態。

「自転車に乗っている人間が、さっきみたいなへんてこなアイディアをだすとは思えないんだよなー」

「さっきのは冗談で言ったんだよ。本気で言うわけがないだろ」

「そーかー?」

「さっきはふざけ過ぎた。俺が悪かったよ」

 エイジは謝って済まそうと思ったが、疑い始めたサトルは引かなかった。

「じゃーよー、今度会うときに、お前自転車で来いよ」

「自転車で? めんどうくせーなー」

 何とかサトルを諦めさせようとするエイジ。

「お前が自転車に乗れるっていう証拠を見たいんだよ」

「自転車に頼ると、足腰が弱っちまうからなー」

「大丈夫、荷物を積んでくりゃいいよ。いい運動になるぜ」

「重いと足腰を痛めちゃうからなー」

「つべこべ言うなよ。一回でいいからさ、なっ」

「ゼロ回じゃだめか」

「ダメだ!」

「一回もゼロ回もいっしょじゃん」

「うんにゃ、全然違うだろ!」

「あのよー、お前は俺を信用しないってわけ?」

 エイジは少しばかり逆切れをして、サトルを諦めさせようと試みた。

「もちろんいつも信用しているさ。だけど今回だけは信用しない」

 サトルには逆切れ作戦は効かなかった。

「今回も信用しろよ、いつもどおりのお前でいろよ」


「まいったなー。一週間で自転車に乗れるようになんなきゃ、俺の面子が立たねー。乗れないっつーことがあいつにばれたら、あたりに言いふらすだろーからなー。世間に知れ渡ったらかっこ悪くて街を歩けねー」

 エイジは小さい頃、自転車に乗る練習をするにはしていた。しかし散々転んだ末に乗れないまま挫折していたのである。そんな幼いころの苦い経験を思い出し、

「まいったなー、あん時、諦めずにやっておけばよかったなー」

 と、独り言をつぶやいた。

「まー、いまさら後悔しても始まらねーや。練習しよう、まずは自転車を手に入れなきゃな」

「俺は形から入らねーと、やる気が沸かないタイプだかんなー。みてくれのいいやつを探しにいこう」

「近場で買うと知り合いに目撃されてしまう可能性が高いなー。一駅さきにある、隣街の自転車屋を覗いてみるか」


 エイジはキョロキョロと見まわし、知り合いがあたりにいないことを確認しながら自転車屋の中へ入っていった。中ではつなぎを着たおやじが自転車を磨いている。おやじはエイジの入店に気付くと、作業の手を休めて、近寄ってきた。

「おやじさん、ごつい自転車が欲しいんだけど」

 とエイジがおやじに声をかけた。

「いらっしゃいませ、ごつい自転車ですね」

 相手は専門家である。すぐに店の奥から、一台の自転車を見つくろってエイジの前に持ってきてくれた。かなりごつい代物だ。

「これなんかはどーです? 男っぽいでしょー」

「うん、丈夫な感じがいいねー」

「ちょっとやそっとじゃ壊れませんよ」

「ほー」

「まー、あんまり、転んだり、ぶつかったりはしないでしょうけどね。乗っていて安心は安心ですよ」

「ほほー」

「試しに乗ってみてくれてもかまいませんよ」

「え? いや、目で見れば解るから、乗るのはいいっすよ」

「いやいや、見た目だけじゃわからない部分もありますから。さあ、遠慮なさらず乗ってください」

 エイジの気も知らず、おやじは試乗を勧めた。

「大丈夫、大丈夫」

「いえいえ、大丈夫なもんですか、大きな買い物なんですから、乗り心地を味わってから決めてくださいな」

「いいって」

 エイジはおやじからの試乗の勧めをかたくなに拒否した。なにせ乗れないのであるから、提案を受け入れるわけにはいないのである。秘密を守ったままで、ここを乗り切りたいとエイジは思っていた。ところが相手は専門家である、エイジの執拗な拒絶に何かを感じとったらしい。おやじがニヤッと笑いながら、

「お客さん、ひょっとして・・・」

「な、なんだよ」

「自転車に・・・」

「自転車に、なによ」

 おやじは、もったいぶった後に言った。

「乗るのが久振りなんでしょ」

 それを聞いたエイジは少しホッとした。自転車に乗れないことが、おやじにばれてはいないと思ったようだ。

「まあ、久しぶりと言えば久しぶりだな」

「どれくらい乗っていらっしゃらないんですか?」

「けっこう経つかな」

「あたしが当ててみましょうか?」

 おやじは追及の手を緩めない。

「別に当ててくれなくてもいいよ」

「遠慮しなくてもいいですよ。ズバリ、百年振りですね、ヒッヒッヒッ」

「なんだよ、百年っていうのは」

「つまり、早い話が、お客さんは自転車に乗れないんですね、ヒッヒッヒッ」

「な・な・何を言っているんだよ! 人聞きの悪いことを言うなよ」

 エイジは否定するが、図星だと顔に書いてあった。

「わかりました、わかりました、こうしましょう。あたしと一緒に練習しましょう」

 おやじは両手をエイジの肩に乗せて力強く協力を申し出た。

「練習なんかいらねえよ、濡れ衣だ」

 おやじの手を振り払うエイジ。

「濡れ衣ですって? お客さん、専門家を前にして往生際が悪いですよ」

「何が悪い、濡れ衣だから濡れ衣だと言っているんだ」

「怖くありませんよ。あたしが後ろから押さえていてあ・げ・ま・す・か・ら」

「いいよ、一人で練習するから。・・・あっ、いけね」

 エイジはつい、口を滑らせてしまった。

「ヒッヒッヒッ。お客さん、とうとう白状しましたね」

「きったねー、ひっかけやがったな」

 エイジはおやじにくってかかった。

「まーまー、もうばれてしまったんだから、やせ我慢はこれくらいにして、一緒に練習しましょうよ。あたしをお父さんだと思ってくださってけっこうですから」

 おやじはエイジにやさしく言葉をかけた。

「おことわりだ。俺は反抗期なの!」


 隣街の道を、今購入したばかりの自転車を引いて、てくてくと歩くエイジ。目指す目的地は河原だ。人目に触れやすくはあるが、広々としているため遠目には誰だかの判断がされにくい場所だ。エイジはそこで特訓をすることに決めていた。横を小学生の乗った自転車が追い抜いていった。エイジは通り過ぎて行った小学生を睨み付けると、

「ぼうず、今に見ていろよ。いずれ、おまえを抜き返してやるからな、首を洗って待っていろよな!」

 と叫んでいた。


 河原についたエイジは早速、自転車に乗る練習に入った。ペダルをこぎ始めたそばから車体がグラグラし、すぐに足を着いてしまう。わずか2メートルすらも進んでいかない。エイジは転ぶのが怖いのだ。

「いかんいかん、怖がって足をつくな。たとえふらついたとしても、粘って乗りこなさなきゃ。よーし、今度こそ乗りこなすぞ、そりゃ、ゴー」

 エイジは自分を叱咤激励しながら何度も挑戦した。足をつかないようにしたところで、それなら乗れるようになりますよ、といったあまいものではない。足を地面につかなければ、今度は体ごと地面にたたきつけられてしまう。

 ガシャン。

「い、痛た」

「うーん、いくらやっても二秒しかもたねーなー」

 エイジは考えた。

「こうなったらスパルタだ」

 エイジは自転車を土手のてっぺんまで引いて登ってゆき、その向きを百八十度かえて河原と対峙した。意を決したエイジはサドルにまたがる。目の前には下り坂が待ち構えている。

「怖ええ。下るというよりも、落ちるって感じだな」

 恐怖心は、いとも簡単に決心を揺るがしはじめる。

「人間は自転車に乗れなくても、移動ができる生き物じゃん」

 と、特訓から逃れるための都合の良いささやきが頭をよぎる。

 その時、エイジは突然背中をドンと押された。

「おわわわわっ」

 背中を押された勢いで、自転車と身体が土手の平坦な部分から下り坂まで押しやられ、心の準備が整わないままエイジは滑降のスタートを切らされてしまった。

 エイジは自転車のハンドルにしがみつき、めん玉を大きく見開いたままで土手の下り坂を落ちてゆく。やがて坂道が終わり、次は平地の河原を突き進んでゆく。残念なことにエイジはまだブレーキの使い方を知らなかった。自転車とエイジは、スピードを緩めることなく、アーという声を地上に残して川面に着水した。

 ザッバーンンン。


 エイジが自転車を引きずりながら、川から岸にあがっていくと、そこには腕組みをした自転車屋のおやじが立っていた。エイジがおやじに大声で尋ねた。

「おい! いま俺の背中を押したのはおまえか」

「押したのではない、押してあ・げ・た・のだよ」

「あげただとー。俺はあんたにそんなことを頼んだ覚えはないぞ」

「さっきお前が支払った自転車の代金には、コーチ代が上乗せしてある」

「なにぃー、勝手なことをするな!」

「もう遅いよ、契約は成立しているんだ」

「それにしたって、いきなり押すとはどういうつもりだよ。怪我したらどーするんだ」

「怪我をしたのか」

「いや、してないけど」

「だったらいいではないか」

「何がいいんだ、いいわけないだろ、この不良おやじ」

「コーチと呼びなさい!」

「父親になったり、コーチになったり、どこかの野球漫画みたいなやつだな」


「つべこべ言わずに聞け。お前は今、俺が押したおかげで自転車を乗りこなせたじゃないか」

「えっ? まー確かに乗れたわな。それは紛れもない事実だけど・・・」

「この訓練を繰り返せば願いがかなうことを、お前は身を持って学習したのだ。さあ、訓練を再開しようか」

「再開するだー? これを繰り返すだとー。いやなこったい、何度も川に飛び込みたくはないね。俺は魚じゃない。えら呼吸はできないんだよ」

「自転車に乗れないうえに、泳ぎもだめなのか」

「違うよ、自転車は陸の乗り物だ、ずぶ濡れにはなりたくはないと言っているんだ」

「わがままな奴だ。しかたない、別の方法を使うか」

「別の方法があるのかよ」

「ああ」

「だったら、それを教えてくれ」


「まず聞くが、お前は、止まっている自転車に乗っていられる人間を見たことはあるか」

「ないなー」

「そうだろ。つまり、自転車が動いている場合に限って、人は自転車に乗っていられるわけだよ」

「うんうん」

「スピードが遅ければ遅いほど自転車は止まっている状態に近い。つまり倒れやすくなるんだ」

「ああ」

「びくびくしてスピードを押さえてしまうと、余計によろけてしまうのは、これで説明がつくだろう」

「なるほど」

「逆に言えば、スピードが速いほど、自転車は安定してくれるということだ」

「そうかー」

「さっき坂道でお前が倒れずに自転車を乗りこなせたのはそういう理由だ」

「理屈は解った。しかし、もう坂道は使いたくない。また川に飛び込んでしまうからな。おやじは坂道を使わないで済む方法を知っているんだろ、それを早く教えてくれ」

「うん、ちょっと待っていろ」

 おやじは土手の上に登って行き、ここまで乗ってきたバイクを押しながらエイジのところに戻ってきた。

「これを使う」

「このバイクを?」

「そうだ」

「どうやって使うのよ?」

「お前を乗せた自転車とこのバイクを紐でつなぎ、引っ張りながら走るんだ」

「スピードが出そうだな」

「そうだ。これなら坂道を使わずとも、平地で先ほどと同じ効果を得られる」

「川に飛び込まなくても、さっきのように乗れるっていうわけか」

「そうだ、解ってくれたようだな」

「うん。ちなみにこのバイクはどれくらいのスピードが出るんだよ?」

「喜べ、百二十キロまで出せるぞ」

「そんなスピードは必要ないだろ」

「百キロを超えると、気持ちいいぞー」

 おやじはわくわくしながら説明した。

「そこまでは上げないでくれ。そんなスピードには俺の体も心も耐えられそうにないよ」

「そうか、しかたない。ほどほどのスピードにするか」

 おやじはちょっと残念そうに言った。

「くれぐれも頼むよ、おやじ」

「ああ、解った。もし万が一スピードが出過ぎたら、その時は言ってくれ」

「了解」

「あっ、それから念のため、ブレーキの使い方を教えておくか」

「そうだな、教わっておけば保険になる」

 おやじはエイジにブレーキの説明を始めた。

「ハンドルの下についている取っ手があるだろう」

「これか」

「そうだ、それがブレーキだ。左右両方についているからな。これをハンドルと一緒に握ればブレーキがかかるようになっている」

「解った、これで安心だ」

「よし、じゃあ始めるとしようか」

「おう、早速やってくれ、おやじ。いや、コーチ」


 おやじがバイクにまたがった。後ろを振り返り、エイジに一声かける。

「いくぞ」

「いいよ、オッケーだ」

 元気に返事を返すエイジ。

 ブロロロロロー。

 けたたましい音とともに、おやじの乗ったバイクがスタートした。自転車とつないだ紐が、まずピンと張り、続いて自転車にまたがったエイジを引っ張っていった。エイジの足が、軽く地面をこすりながら進む。


 二台が河原の風を切ってどんどん進んでいく。自転車の車体が安定しだした所で、エイジは勇気を出して、地面から足を離してみた。

「どうだー、乗れているかー」

 おやじが後ろのエイジに声をかける。

「おう、おやじ、やったよ、乗れてるよ、わははははー」

 エイジは笑いながら、おやじに返事をした。


 バイクがスピードを上げていった。当然自転車のスピードもだんだん早くなっていく。やがてエイジの中に小さな恐怖感が湧いてきた。それはスピードが上がっていくにつれてどんどんと膨らんでいった。自転車の車体がきしみだしたころに限界が訪れ、

「スピードはこれくらいで充分なんじゃないかな?」

 と、エイジがおやじに再び声をかけた。走りはじめよりもスピードが増した影響で、バイクの出す音もそれに比例して大きくなっていた。エイジの声が音でかき消されてしまいおやじに届かなかったのか、バイクのスピードはなおも増すばかりであった。

「おーい、やめてくれー」

 エイジが何度か大声を張り上げたのだが、スピードはどんどん増し、やがて体感速度は百キロほどに達していった。

「もう限界だ」

 エイジがブレーキを握りしめた。

 ギュッ。

 自転車のブレーキは、人がこいでいることを前提に作ってある。百キロで走っているバイクと自転車を一度に止められるようには作られてはいない。どんな状況の時にブレーキをかけるかは持ち主の勝手であろうが、製品実験でも経験がないような重量とスピードでかけられた強大な負荷に、ブレーキは耐えられなかった。

 ブチブチッ。   

 ブレーキのワイヤーがブチ切れした。

「あーっ」

 思いっきりハンドルとブレーキを握った力と、運転しているエイジの心の動揺が自転車に伝わり、車体は一気に不安定な状態になった。

 グシャ。

 ゴロゴロ。

 バシャアアアアン・・・。

 車体は倒れ、横に振り落とされたエイジの体は河原を進行方向斜め前に向かって転がり、やがて川の中へと吸い込まれていった。


 カチャカチャカチャ。

 おやじが自転車を修理している。そばではエイジが膝を抱えて座っている。完全に疲れ切った様子で、茫然と川を眺めている。

「丈夫な自転車だろ、ブレーキ以外はびくともしていないからな」

 おやじが修理をしながらエイジに話しかけた。

「いい自転車を売ってくれて、どうもありがとうよ」

「これは有料修理になるぞ、いいか」

「どうぞご勝手に」

 カチャッ。

「さあ、できたぞ。修理完了だ」

「そうかい、お疲れ様」

「さあ、気を取り直して、特訓の再開だ!」

「ええっ? まだやるのかよ」

「あたりまえだろ。まだ乗れるようになっていないんだもの」

「もういいよ」

「そんな弱音を吐くな。さあ、立てよ」

 おやじがエイジを盛り立てようとする。

「おやじのやり方だと、俺の体がもたねーよ」

 乗り気にならないエイジ。

「今度はさ、安全な方法でやるからよ」

「ほんとかー?」

 疑うエイジ。

「ああ、作戦変更、スパルタはやめだ」

「そいつはありがたい話だけど・・・」

「こんどは基礎からいこう」

「だったらつきあうよ。俺にだって、自転車に乗りたい気持ちはまだ残ってはいるんだ。でもそれは、命あってのものだからな。基礎からやるっていうのなら、そんな心配はいらないだろう。ひとつお手柔らかに頼みますよ」


 エイジがまたがった自転車の後ろの荷台を、オヤジが両手で持った。

「おれが支えているからよ、安心するんだ。そっとペダルをこぎ始めてみろ」

「わかった」

 ギーコ。エイジがこぐ。

 少し自転車が進んだ。

「よし、いいぞ」

 おやじがエイジに声をかける。

 ギーコ。エイジがまたこいだ。

 また少し自転車が進んだ。

「なんだか、ちょっと重いな」

 おやじがつぶやいた。

 ギーコ。

「やっぱり重いよ」

 おやじが、自転車を押し続けながら、前でこぐエイジの様子を見た。エイジの手がブレーキを強く握りしめている様子がおやじの目に止まった。

「おい、何をやっているんだ、何を。ブレーキを離さなきゃ、自転車は動いてくれねーだろ」

「いやだ。離したくない」

 エイジは極度のスピード恐怖症になってしまったようだ。ブレーキを離してしまうと、先ほどの恐怖の再現になってしまいそうな気がするのであろう。

「このやろう、前に進みたくはないのかよ」

 怒るおやじ。

「ブレーキを離さないで前に進む方法はないのかよ」

 無理を言うエイジ。

「あるさ。お望みなら、やってやるよ」

 とおやじはそう言ってポケットからハサミをとりだし、エイジの前に出るとブレーキワイヤーを切ってしまった。たしかにこれならブレーキを握っていても自転車は進んでくれる、おやじは嘘は言っていない。

 おやじはすぐに後ろに戻ると再び荷台を押し始めた。

 ズルズルズル。

 摩擦音がする。エイジは切られてしまったブレーキの代わりに、足のブレーキを使って抵抗を続けていた。足の裏を地面につけて離そうとしないため、その摩擦で自転車がスムーズに進まない。

「おい、足を地面から離しやがれ!」

「いやだ、怖いよ」

「足をペダルに乗せろ」

「絶対いやだ」

「じゃあ、諦めるのか」

「それもいやだ」

「めんどくせー野郎だなー。つきあいきれねーぞ」

 おやじは押すことをやめた。自転車が止まった。

「おやじ、諦めるな」

 エイジは後ろを振り返り、おやじに訴えた。

「わかってるよ、おまえを見捨てたりはしないさ」

「ありがとう。恩に着るよ」


「とはいうものの、恐怖心が邪魔をしているかぎりは、訓練になりゃしねえな」

「なんか名案はないのか?」

 エイジがすがるような目でおやじを見つめる。

「うーん」

「無い知恵をしぼりだしてくれ」

「そうだ!」

「なんか浮かんだのか?」

 エイジの目に希望がさす。

「ああ、浮かんだ。酒を使おう」

「酒? 酒を使ってどうしようっていうんだよ」

「酒が入れば、気が大きくなる。恐怖心なんかはすっ飛んでしまうさ」

「俺は未成年だぞ、酒は飲めないよ」

「飲まなきゃいい」

「飲まなきゃいいって、いったいどうするんだよ?」

「酒を尻から入れる」

 エイジは固まった。

「ちょっと待ってくれよ、俺は尻も未成年だ」

「だめか」

「別の方法にしてくれ」


「対処療法は諦めるか」

「そうしてくれ」

「とすると、根本治療だな。それを考えよう」

「それだよ、それで行ってくれ」

「まず、お前が何を恐れているのかを聞かせてくれ」

「痛いのが嫌なんだよ。転ぶと痛い、それが怖いんだ」

「痛いのがいやなんだな、よしわかった」

「なにか策が出たかい?」

「全身麻酔をしよう」

「手術じゃないんだぞ」

「麻酔を使えば転んでも痛くないぞ」

「転んだ痛みは感じなくても、五メートルおきに転んでいたんじゃ、歩いたほうがまだ速いぞ。乗れなきゃ意味がないよ」

「そうかー、うーん。やっぱり乗れるようにならなきゃだめなんだよな」


「二人乗りで乗ってみよう。初めは俺が前でこぐからさ」

「それが役に立つのかよ」

「自転車っていうのは乗れるようになれば、一生体が忘れないらしいからな。乗れている感触を体で味わってみるのが役に立つかもしれないだろ」

「それ、痛くなくてよさそうだな。試してみようよ」

 さっそく二人は二人乗りに取り組んだ。

「しっかりと、俺の体にしがみついていろよ。ギュッと抱き付いて離すな」

 と自転車の前に乗ったおやじが指示を出す。言うとおりにする後ろに乗ったエイジ。

「なんか、体がべたっとくっついて、気色悪いなー」

 とエイジ。

「我慢しろよ。一体にならないと、運転している俺の感覚がお前に伝わらないだろ」

 とおやじ。

 運転したのはおやじである、二人乗りでの走りは見事なものだった。それを三回こなしたのち、こんどは、前後を入れ替わった。

「今までの感覚を忘れないうちにいこう」

「賛成」

「初めは後ろにいる俺がペダルをこぐからな、しばらくして車体が安定したら、俺は飛び降りる。それを合図に、今度はお前がこぐのを引き継げばいい」

「説明を聞いているだけだと、うまくいきそうだな。はたして現実は俺たちの味方をしてくれるかな」

 エイジの懸念は当たった。順調に進み始めた自転車からおやじが降りた後、エイジはペダルをこげずに、あっさりと河原に足をついてしまった。自転車にまたがったままで立ちつくすエイジにおやじが声をかけた。

「やっぱり怖いのかー」

「面目ない」

 へこむエイジ。

「身を守るために、ついやってしまうんだろうな」

「条件反射だから、俺にはどうしようもないよ」

「条件反射!それだよ、それ、条件反射を使おう」

 おやじに何回目かの名案が浮かんだようだ。

「えっ、いったいどうやって」

「靴の中に画びょうを入れておこう。地面に足をつけば、画びょうが足の裏に刺さって痛いだろ」

「そりゃあ、体重が画びょうにかかれば刺さって痛いだろうね」

「十回くらい痛い思いをすれば、条件反射で足をつかなくなるよ」

「いやだ、痛い思いをするのは一回でもごめんだね」


「じゃあ、足をペダルに縛り付けて走るってのはどうだ?」

「狙いは何よ」

「足をつきたくてもつけないってわけよ」

「俺が地面に転がって痛がっている姿がはっきりと想像できるよ」

「だめかー」


 二人は河原に倒れこみ、空を見上げた。万策尽きたようだ。

「俺は昨日今日自転車に乗りたくなったわけじゃないんだよ。本当は小さい時から自転車に乗りたかったんだ」

 エイジがしみじみと語りだした。

「そうだったのか」

「正義の味方にあこがれていてね」

「ふーん」

「正義の味方って、乗り物で登場するだろ」

「そういやそうだったな。あっ、ひらめいたぞ! その手がまだあったか」

 おやじは起き上がると、河原を百メートルほど走り、ピタッと足を止めた。そして、振り返りざまエイジに向かって叫んだ。

「俺は今、悪の組織の手によって人質にされている。お前は、正義の味方だ。正義の味方は、乗り物で登場するぞ。ヒーローになりきったイメージを持って自転車に乗ってみろ」

「今度はイメージトレーニングかよ」

「早くしないと悪役が登場するぞ。人質を助けたければ、自転車に乗って、ここまで来い」

「やれやれ、つきあってやるか」

 エイジは起き上がると、自転車にまたがった。目をつぶり、自分がヒーローになっているイメージを膨らませた。記憶が過去に見たヒーローをよみがえらせた。エイジはヒーローになりきった。

「うおー。人質よ、待っていろ。今から助けに行くからな」

 エイジはペダルに足をかけると、思い切り踏み込んだ。

 グシャ。


「ダメだったか」

「人質がおやじじゃ力が湧かないよ」

「人のせいにするな」

「今度こそ、本当に万策尽きたな」

「いや、あきらめなくていいよ。今度こそが、本当の俺の出番かもしれないよ」


 約束の日、サトルの前にエイジが自転車に乗って現れた。おやじが突貫工事で作ってくれた幅50センチはあろうかという、どこから押しても倒れそうもない、太いタイヤがつけられた自転車に乗って。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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[一言] 読みやすかったので、最後まで読ませていただきました。登場人物の言葉遣いが、全員オヤジくさいのと、最後のあたりが、昭和を感じるので、60代以上の方でしょうか。もっと子供向けにするか、大人が読ん…
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