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おひとよしのダコタ夫人~夫がメイドと駆け落ちしたら、求婚が殺到しました。皆さん買いかぶりすぎですわ~

掲載日:2026/07/05

 朝、目が覚めたら夫がいなかった。空っぽのベッドに書き置きがひとつ。


『ダコタへ。真実の愛をみつけた。すまない。探さないでくれ。シルヴァ』


 何度も何度も読み返した。でも少しも意味が分からない。こんなに短い文章なのに、ちっとも頭に入ってこない。


「真実の愛って? 探さないでくれ? どういうことかしら?」


 体のバランスが崩れて、立っていられなくなる。床にへたり込んだら廊下から声をかけられた。


「奥様? どうかなさいました?」

「マーサ、これ。シルヴァが書いたみたいなのだけど、意味が分からないの。どういうことだと思う?」


 侍女のマーサが書き置きを読んで顔色を変える。


「奥様、まずはソファーにお座りくださいませ。床ではお体が冷えてしまいます」


 ソファーに座るとクッションが背中にあてがわれ、毛布でくるまれた。


「さあ、お茶をどうぞ。飲みたくなくても飲んでくださいましね」


 渡されたカップにはお茶が少しだけ入っている。でもちょうどよかった。お茶が嵐の日の湖みたいに揺れているから。

 少しずつお茶を口に含むと、世界の揺れがましになった。


「奥さま、ほんの少しだけお待ちいただけますか。大至急調べて参りますので」


 頷くと、マーサはものすごい速さで出て行った。



***


 マーサは激怒した。必ず、かの無知蒙昧の男を除かなければならぬと決意した。

 使用人室に駆け込むとひと言。


「あいつ、やりやがった」


 マーサの言葉に使用人たちがざわつきながら集まる。


「どいつ?」

「なになになに」


 マーサは男の書き置きを掲げる。


「ダコタへ。真実の愛をみつけた。すまない。探さないでくれ。シルヴァ。はああああああ? どういうことーーーー?」


「旦那様、どっか行っちゃったの?」

「そういえば、今朝はまだ見てない」


「ええーい、静まれーい。点呼ー。いち」

「に」

「さん」


 きちっと姿勢を正して発声する使用人たち。十人目が「十」と言ったあと首を傾げる。


「あれ、十一人じゃなかったっけ」

「誰がいない?」


 十人はお互いの顔を見た後、声をそろえた。


「ローズ」

「誰か、今すぐローズの居場所探してきて」

「はーい」

「あたしはローズの部屋見てくるー」

「私は旦那様の持ち物が減ってないか見てくるー」


 使用人たちがわらわらと散っていき、しばらくしてまた集合した。


「報告ー。ローズの荷物がすっからかん」

「旦那様の服もいくつかなくなってる」

「奥様はお部屋で一点を見つめてボーッとしてます」


 マーサはごくりと唾をのみこむ。喉がカラカラで嫌な感じだ。


「これは、あれだな」

「うん、最悪だ」

「どれ? あれってなに?」


 鈍い使用人の肩に手を置く。


「旦那様がローズと駆け落ちした」 

「キエー」


 叫ぶ使用人の口に手を当てる。


「しっ、奥様に聞こえる」

「ご、ごめん」

「で、どうする?」


「遣いを出す。今まで奥様にお世話になったあらゆる人へ。私たちだけではどうにもできない」

 マーサは冷徹に続けた。


「奥様を裏切る恩知らずには必ず後悔させてやる。それに、奥様の自己肯定感がどん底に落ちているから、その対応もしないと」


 使用人たちは手分けして準備を始めた。


***


 ローズは馬車の中でにんまりしていた。この幸運が信じられない。自分の有能さが怖い。


「実家のある領地までもうしばらくかかる。馬車酔いは大丈夫か?」

「はい、旦那様」

「もう旦那様はやめてくれ。シルヴァと」

「シルヴァ」


 そう呼ぶと、シルヴァは高貴な笑顔を浮かべ、ローズの手に優しく口づけする。


 す、すごい。これが貴族のキス。なんて紳士的なのかしら。

 自分がかわいくて魅力的なのは知っていたけど、まさか働き始めてすぐに貴族の主人を落とせるとは思わなかった。かわいいは正義って言うけど、ここまでくると罪だわ。


 ま、まあ、冷静に考えると、旦那様はあたしの若さに溺れてて周りが見えてないんだと思うの。十五歳のあたしの肌と、二十七歳で三人の子どもを産んだ奥様では、比べものにならないもの。


 くくっ、今頃あの人どうしてるかしら。

 嫌いだった。あの、善良そうな微笑み。苦労なんてこれっぽっちもしたことなさそうな、品のいい奥様。


 使用人にもわけへだてなく接して、きつい言葉なんてかけたことのない、理想的な奥様。


 ああいう偽善者、大っ嫌いなんだー。


 使用人の先輩たちは、いかに奥様が素晴らしいか熱く語るんだけど、そんなの持てる者の気まぐれな慈善活動じゃん。お金があり余ってるから、いい人ぶった行動がとれるだけでしょ。


 その日のごはんのことばかり考えてる貧乏人からすると、あいつらの施しにはうんざりする。あいつらは、あたしたちに恵みを与えて聖人の気分を味わってるけどさ、へりくだっておこぼれをもらうこっち側の気持ちなんて絶対わからないでしょ。


 同じ人間なのに。裕福な親を持つ者と貧乏な家に産まれる者では、越えられない壁がある。そんなの不公平じゃない。


 なんとかのし上がってやる。機転が利いて、顔がいいから、これを利用して上の階層に行ってやるんだ。そう決めていた。


 いらつくけど、きっかけは奥様なんだよね。あの人、いい人ぶりっこだから、貧しい農家出身の貧民を率先して雇うんだ。


 上から目線で雇ったメイドに旦那を奪われた気分はどうよ。はははは。


 これからあたしは貴族夫人になるんだ。そしたら着飾って貧民街に行って、寄付をばらまくんだ。貧乏人のありがたがる言葉の裏にある、悔しさ、屈辱なんか、あたしは全部わかった上で、それを楽しんでやる。あたしにはその権利がある。

 

 あたしは努力してのし上がったんだ。お前らもがんばれよって。心の中でそう思いながら、聖母みたいな笑顔を浮かべるんだ。そう、奥様みたいなね。



***



 北風と太陽の物語がずっと頭から離れない。


 以前、父が言っていた。


「いいかい、ダコタ。我が家は恵まれている。お金に苦労することはないだろう。お金はお金を産む。お前がよほどトンチキなことをしでかさない限り心配はない。だから、安心して善行を施しなさい。やらない善よりやる偽善という言葉を胸に刻むのだ。それが持てる者の務め」


 だから、いい人ぶってるって陰口を叩かれても、慈善事業に励んだ。だって世界は、貧しい人には、ずっと北風が吹いているんだもの。わたくしが太陽にならなくて、せめて太陽のフリをしなくてどうするの。そう思ってきたの。


 でも間違っていたのかもしれない。


 ローズを雇うとき、古株の使用人たちからは反対された。


「奥様、おひとよしも大概になさいませんと。言ったらあれですけど、あの娘は油断のならない目をしていますよ」


「マーサ、でも……。あの子を雇えば、他の貧しい女の子たちの励みになるじゃない。努力すればいい給料がもらえるんだって、思ってもらいたいじゃない」


「奥様、世の中は善意が通じない相手ってのもいるんですからね」


 わたくしは、いい気になっていたのだ。正しいことをすれば、いいことが返ってくる。いつか人は分かってくれる。今まで手を差し伸べた人たちは、最初は色々あっても最終的にはうまくいっているもの。


 王都は一日にしてならず、って言うじゃない。面接に来た少女が、多少野心的な目をしていたからといって、他にアラはないなら雇ってあげればいいじゃないの。お金はあるし、仕事はいくらでもあるし、ここで成長したらもっといい給料の仕事に転職すればいいのだし。


 今までも手癖の悪い子、小ウソをつく子、オドオドして話せない子、お皿を割ってばかりの子、口を閉じて食べられない子、どうしようもなく不器用な子、色々いたじゃない。


 でも、みんなそれなりに立派になって巣立っていったわ。

 その度に、ああ太陽が勝ったって気持ちよくなっていたの。わたくしは、いい気になっていた。


 父にはこうも言われたのに。


「たまには北風になる勇気も必要だ。太陽でいるのは気分がいい。だが性根を叩き直すには時に北風もいる。北風、嫌われ役をやるのは気が進まないだろう。だが、お前がやりたがらない嫌われ役を、他の誰かに押し付けてはいけないよ」


 そう。そう言われた。でも、それはイヤな言葉だったから頭の片隅に押しやって、箱に埋めて、地中深くに埋めたの。


 わたくしは、北風になりたくなかったの。嫌われたくなかったの。みんなの太陽でいたかったの。


 奥様、さすがです。奥様、素晴らしいです。また奥様のおかげで貧しい人が救われましたね。奥様は聖母様です。そう言われてちやほやされたかったの。


 わたくしは、なんて最低な人間なのでしょう。

 夫が逃げ出すのも当たり前。

 わたくしは、虫けら。


 

「奥様、こんなときになんなんですが。どうしても奥様にお会いしたいという人が」


 顔を上げるとマーサが心配そうな目をしている。

 いやだ、泣いているのを見られたのかしら。

 慌てて指で目元をさっと拭う。


「マーサ、悪いけど、今は誰とも会いたくないのよ」

「もちろん、そうでしょうとも。分かっておりますとも、ただ先方がどうしてもどうしてもどうしてもと引きません」


 マーサはその気になれば国王陛下だって追い払える侍女だ。そんなマーサが断れないなんて、どういうことだろう。


 マーサの困っている顔は見たくない。少しだけ会って、寄付金を払えばいいでしょう。お金はあるもの。


 さあ、聖母の笑顔にならなければ。


 無理矢理に優しい表情を作って応接室に行くと、青年が立ち上がった。


「奥様。ダコタ夫人。お久しぶりです。クリスです」

「クリスさん?」


 はて、どこのクリスさんかしら。クリスさん、クリスさん、クリスさん。控えめで、でもとこか熱のあるこの目は。


「ひょっとして、以前に子どもと使用人たちに家庭教師をしてくれたクリスさん?」

「そうです。そのクリスです」


 クリスがホッとしたように笑う。ああ、覚えている、このはにかんだ笑顔。でも、昔はもっとこう、ずぶ濡れの子犬みたいだったのに。やせっぽっちでメガネで髪はボサボサだったような。


「立派になられたのね。今も教師をされているの?」


「はい、今は侯爵家でお世話になっています。たまたま里帰りをしていて、知らせを受け──ゴホッゴホッ。失礼、いえそのあの、どうしても奥様にお礼を申し上げなければと駆け参じました」


「まあ、お礼を。わざわざいいのに」


「いいえ、奥様。ただ頭がいいだけで、人づき合いの下手な陰気な僕を試しに、気軽に、あまりに簡単に雇ってくださったではないですか。僕は、その御恩に応えようと必死で教え方を考えました」


「クリスさん、あなたはとてもいい先生でしたわ。子どもたちは勉強が好きになりましたし、使用人たちも読み書き計算ができるようになりましたもの」


「どうすれば子どもの興味をひけるのか。飽きっぽい子どもたちに授業に集中してもらうには。色んな出自の使用人たちに理解してもらう方法は。雇ったことを後悔されない教師になりたくて、必死でした」


 クリスの目が涙で光っている。まあまあ、そんなに切羽詰まっていたなんて、知らなかったわ。悪かったわ。追い詰めていたのね。


「やっと教師としてそれなりになれた、そう思えたとき、奥様は僕に紹介状をくださいましたね」


「ああ、そうだったわ。伯爵家で家庭教師を探していらっしゃったの。男爵家の我が家から、伯爵家への転職ならあなたの将来にいいだろうと思って強引に勧めたんだったわ」


「僕は苦しかった。僕に不満があるのか、ここまできて僕は捨てられるのかと」


「まあ、捨てるだなんて。そんなつもりはこれっぽっちも」


「分かっています。マーサさんに背中を叩かれました。ひよっこがメソメソするな。立派な男になって、奥様にお礼を言いに戻ってくるのが筋だろうと」


「まあ、マーサったら」


 マーサの忠義心は海よりも深く空よりも高く、時に困惑する。


「東の国に出世魚というものがあります。モジャコと呼ばれる稚魚は中型のハマチになり、最後は立派なブリになります。北の国には出世チーズという概念があります。若いチーズが中熟になり、高級な特熟チーズになります」


「はあ」


 急に魚とチーズの話をされて、頭がこんがらがっていると、クリスが跪ずいてそっとわたくしの手を取る。えええ、どうしちゃたの。


「やっと教師としてブリになり、今の僕は高級チーズです。今までは言えなかった。言う資格もなかった。やっと言えます。あなたが好きです、ダコタ夫人。どうか、あんな見る目のない男は捨てて、僕があなたの隣に立つことをお許しいただけないでしょうか」


「はああああ? えええ、だってクリスさん、あなた随分年下じゃないの」


「たった七歳の違いです。僕は二十歳、あなたは二十七歳。なにも違和感はありません」


「そ、そ、そんなことは……。そうなの?」


「大丈夫です。当時の子どもっぽい僕ではあなたにはまったく釣り合いませんでした。でも、今なら胸を張って求婚できます。どうか、僕と結婚してください」


「いやいや、ちょっと待って。わたくし、子どもがいるのよ。もうおばさんよ。それに、子どもたちがなんて言うか」


「お母さま、クリス先生が新しいお父さまになってくれるなら、わたしは大賛成よ」


 七歳の娘が突然部屋に入ってきた。


「お父さまはかわいいメイドがいるとその子ばっかり見るもん。気持ち悪かったもん。お母さまを泣かせるお父さまは好きじゃない」


「まあ、なんてこと」


 動転しているとマーサが入ってきて、またお茶を出してくれた。


「奥様、まずはお茶を飲んで気を落ち着かせてください。そしてクリスさん、今日のところはここまでにして、一旦お帰りくださいませ」


「分かりました。ダコタ夫人、また来ます」


 クリスは名残惜しそうな顔をしながら出て行き、マーサと娘は顔を見あわせてニコニコしている。


 いったいぜんたい、何が起こっているのか。どういうことなのー?



***



 シルヴァは若い恋人の甘い香りに鼻をくすぐられ、思わず笑みをこぼした。

 優しく手を握ると、ローズはポッと頬を染める。なんと初々しいのだ。


 ダコタにもこのような時期があったのだが。いつからかすっかり色あせた。


 ワインと妻は古い方がいい。そんなことわざがあるが、まったく同意できない。


 花と恋人は若い方がいいに決まっているではないか。みずみずしい肌は桃のように柔らかで産毛までも愛らしい。やはり女は十代、せめて二十代前半だ。老婆はこりごり。


 ダコタのすっかり艶を失った肌や髪を思い出すと、ぞっとして身震いが止まらない。


 子どもを産んでからダコタの良さは加速度的に失われていった。抜け毛が増え、額がどんどん大きくなっていった。私が愛した少女は母となり、すっかり輝きをなくした。


 その上、あの子が大変、この老人が病気、野良犬野良猫がかわいそう、捨て子への支援が必要、メイドの家族が困っているだの、いちいち厄介ごとに首をつっこんでは忙しそうにしている。


 女というものは、妻というものは、夫だけを見ているべきではないのか。いつのまにか私は、ダコタに二の次三の次にされてしまっている。そのようなこと、断じて許せない。


 だがしかし、終わったことだ。老妻は殺さず、ただ捨て去るのみでよい。男は黙って新しい少女と新たな旅路に出るのだ。これこそが先進的な男のなすこと。


 ローズがダコタのようにならないよう、きちんと監督指導してやらないと。


「ローズ」

「はい、シルヴァ」


 名前を呼ぶだけで真っ赤になるローズ。実に愛い。


 なに、ローズならダコタのようにはならないはずだ。無知で後ろ盾もない平民。自我を持つことはおろか、よもや貴族である私に歯向かうこともなかろう。


 結婚すると言ったら目を輝かせていたローズ。バカな子だ。貴族と平民が結婚できる訳もないと分からぬのだな。花の盛り、最もみずみずしい時期をつまみ食いして、枯れてきたらポイと捨てられるかもしれないと、分かっていないのだな。


 だが、その無知がかわいらしい。バカな女ほど愛おしいものだ。


 さて、実家に寄って金をもらってから旅にでよう。実家にいる間は、なんだかんだ理由をつけてローズは宿に泊まらせておけばいい。家族には、所用があってひとりで来たと言えば納得するだろう。


 なぜかダコタは私の家族にかわいがられているからな。捨てて来たなどと知られては面倒だ。


 ローズの隣で、老いたダコタの打ちひしがれている様子を想像するのは爽快だ。



***



 夫がメイドと駆け落ちし、落ち込んでいたら七歳も下の青年に求婚されてしまった。


 まだ状況が少しも理解できない。これからどうすればいいのか考え込んでいると、またマーサがどうしてもお断りできない客が来たと言っている。


「今度は何なの。寄付であってくれればいいけれど」


 応接室に入るとまたしてもイケメンが。思わず後ずさりすると、青年が一足飛びで近くまで寄ってきて跪く。


「ダコタ夫人、いえ、間もなく晴れて夫人と呼ばなくてもよくなるダコタ様」

「はあ、まあ、そうね。手続きをしたら離婚ということになるでしょうから、夫人ではなくなるわね」


 なんと呼ばれるのかしら。捨てられダコタ、元既婚者ダコタ、おひとよしダコタ、いい人ぶってるダコタ、偽善者ダコタ、なにかしら。大体は想像がつくわ。うっかりどんよりしていると、青年が咳払いしている。


 あら、意識が飛んでいたわ。さて、彼は誰かしらね。なんだかかわいらしい顔をしているわ。


「トムです。俺をお忘れですか? いつぞやダコタ様の財布をすって、人生を変えていただいたトムです」


 トム、財布をすったトムねえ。そういえば、そんなこともあったような。やんちゃな子猫のように威嚇していた少年がいたわね。


「ああ、あのトムね。あらまあ、すっかり見違えて。今は何をしているの?」

「ダコタ様の財布をすったとき、マーサに腕をつかまれて切り落とされそうになったじゃないですか」


「マーサったら」

 

 思い出した。マーサはわたくしの害になる者には容赦しないんだったわね。慌てて止めに入ったんだったわ。


「スリをせずに生きていけるよう、何か手に職をつけなさい、そう言ってダコタ様は俺を工房に紹介してくれました」


「ええ、そうでした。元大泥棒の職人にあなたのことを任せたんだったわ。悪い道に入るとどうなるか、抜け出すにはどれぐらい苦労するか。経験者の話を聞けばあなたも道を改めるかと思って」


「そうなんです。親方に朝から晩までこき使われて、しごかれまくって、根性を叩きのめされて、俺は今では独立したんです」

「まあ、おめでとう。それは素晴らしいことだわ」


「色々作って売ってるんですよ。スリに遭わないよう、財布とベルトを結ぶチェーンとか」


 どこからともなくじゃらりと取り出したチェーンはドクロがついていてなんだかおどろおどろしい。


「すごいデザインだわ」

「かっこいいでしょう。これが若者や冒険者に大流行りなんです」


 トムは誇らしそうに顔を輝かせる。あのシャーシャーと暴れていたあの子がまあ。

 

 ちょっぴり涙が出てきて、指で目元を触っていると、左手をそっとつかまれた。


「ダコタ様、俺は孤児の平民で元スリだけど、今では手に職もあるし金もあります。俺では身分が合わないのも分かっています。でも、もしも、もしもダコタ様が困ったことがあればいつでも駆けつけます。許されるなら、求婚したいぐらいです」


「いや、ちょっと待って。あなた、わたくしより大分若いでしょうに」


「そうでもないですよ。実は俺、二十五歳です。栄養失調でガリガリだったから小さかったけど、親方のところでちゃんと食べさせてもらったらそれなりに伸びました」


 確かに、あの時の子猫っぽい面影は一切ない。


「おかあさま、その人、トムチェーンの人って本当? 僕、あれが大好きなんだ。おかあさまがその人と結婚するなら、僕は大賛成」


 今度は五歳の息子が部屋に入ってきた。


 なんなの、なんなの、うちの子どもたち、聞き耳たて過ぎじゃなくて。


 また来ますと言うトムを、マーサと息子が満面の笑顔で送っていく。


 みんな、どうしちゃったのよ。わたくしを美化しすぎよ。目を覚ましてー。



***



 ローズを宿に置き、屋敷に向かう。


「シルヴァ様」


 扉を開けた執事はそれだけ言って絶句している。


「無言とはご挨拶だな。父上と母上は?」

「しばしお待ちくださいませ」


 執事が慌ただしく去って行く。


 なんと言って金をもらおうか。考えながらワインを飲んでいると、両親が足早に部屋に入って来る。


「お前というヤツは」

「こ、このバカ息子めっ」

「父上、母上、なにごとですか」


 いつも穏やかな両親の目が吊り上がっている。見たことのない形相で、あっけにとられた。


「なにごとですかとはなにごとです。シルヴァ、あなたのせいで。ああ、わたくしはあなたの育て方を間違いました」

「自分のしでかしたことが分かっているのか。お前、我が家がどれほどダコタ嬢の実家から支援を受けていると思っているのだ」


「支援? 我が家は伯爵家ですよ。ダコタの実家は男爵家。支援も何も、格が違うではないですか」


「ああやっぱり、何度か説明したと思ったけれど、あなた聞き流していたのね。分かっているの? わたくしたちがお願いして、ダコタさんにあなたと結婚してもらったのよ」


「いや、伯爵家と結婚することでダコタの実家に箔付けをつける意味合いが大きいはずでは」


「それは建前です。世間一般的に向けてはそうなっていますが、実際のところは我が家の窮地をいつも支援してもらっているのよ」


「そんな」


「お前がどこにいるか分からん中、ダコタ嬢の遣いが知らせを持ってきた時は肝が冷えた。取り急ぎ詫び状をあれに持って行かせたが、うまくいっているかどうかやきもきしておったところだ。それをお前、のこのこ呑気に帰って来よって」


 目に火花が散って、気が付いたら床に寝ころんでいた。

 じわじわと頬が痛くなってくる。まさか、殴られたのか? あの父に? 今まで一度も殴られたことがないのに?


「バカ者め。結果が分かるまで屋敷から一歩も出るな」


 なぜだ、なにがどうなっている?



***



 毎日落ち着かない。子どもたちはそうでもないのが救いだ。元々、夫は子どもとの関わりが薄かった。子どもたちにとってはいてもいなくても変わらないのだろう。


 クリス、トム、夫のことを交互に考えては、ため息を吐いている。

 するとまたマーサが断れない客人が来たと言うではないか。


「まさかまた求婚なんてされちゃわないわよね」

「さあ、それは私にはなんとも分かりませんが」


 客間に入ると、知っている人だ。


「エズラ」

「ダコタ義姉さん」


 夫の弟エズラは、跪いた。

 いやだ、またなの?


「父の詫び状です」

「まあ」


 たまに会うだけだが、いつも優しくしてくれた義父の顔が目に浮かんだ。


 手紙を読むと、切々とひたすらに詫びてくださっている。不肖の息子が申し訳ない。許してくれとお願いできる立場ではないが、なんでもするので許してほしい、そんな内容だ。


「はああああ」


 深いため息が出てしまった。


「バカな兄貴があなたをないがしろにして深く傷つけたこと、心からお詫びします。兄の代わりにいくらでも殴ってください」


「そんなことできないわ」


 人を殴ったことなんてないし。エズラに罪はないもの。ただ兄が最低だっただけで、義姉に殴られるなんて、ひどい話じゃないの。


「バカ兄貴は捨ててゴミのように扱ってください。もし許されるなら、私があなたのそばにいたいぐらいなのに。あなたを姉と思えたことは、ただの一度もなかった」


「ひええええ」


 なんなの、またなの、みんなどうしちゃったのよ。

 あ、分かった。父の援助が必要だから、誰かがわたくしと結婚しなきゃいけないってことね。なるほどね。ああ、驚いた。


「支援とかは関係ありません。兄との結婚式であなたにひとめ惚れして、それ以来ずっと密かに思っていました」


「うっ」


 そんなわけ、そんなわけ、あるわけないじゃないのよー。


「おかあちゃま、エズラおじちゃんとけっこんするなら、ぼくはだいさんせいだよ」


 三歳の息子が部屋に入ってきて、おかしなことを言う。

 もう、もう、もうもう。どうしたらいいのー。


 

***



「ほらよ、お嬢さん、着いたぜ。降りな」


 馬車から降りると、御者は冷たい視線をチラリと向けただけで、さっさと去って行った。


「なにがなんだか、どういうこと? シルヴァ、どこにいるのよ」


 叫んでも、シルヴァは現れない。


 宿でのんびりくつろいでいたら、突然男たちが現れて荷物を勝手にまとめられて、馬車に放り込まれたのだ。そのまま、なんの説明もなされないまま田舎町に帰って来てしまった。


「こんなところ、二度と帰って来ないつもりだったのに」


 王都に行って、貴族の屋敷にもぐりこんで、貴族のおぼっちゃまをたらしこんで玉の輿。そういう計画だった。大体うまくいっていたのに、なぜこうなっちゃったの?


 家になんて帰りたくない。小汚い、家と呼ぶにはおこがましい小屋。お屋敷の家畜小屋の方が大きかったぐらい。


 いやだいやだいやだ。あの品のない家族と暮らすのはいやだ。なんの娯楽もない、楽しみといったら誰それがどこいった、あの子とこの子がいい感じらしい、そんなくだらないウワサ話ぐらい。仕事なんてなんにもない。畑を耕し、家畜を世話するので精一杯。


「ローズ、戻って来たのか」


 振り向くと、小役人の息子だ。そうだ、こいつに色目を使って、メイドの推薦口をもらったんだった。


「ローズ、お前はマジでなんてことをしてくれたんだ。せっかく父さんに無理言ってメイドの紹介枠を優先してもらったのに。お前、屋敷のご主人と恋仲になったんだって? どうすんだよ。お前のせいで、町人はもう誰も貴族の家で働けなくなるんだぞ。自分のしでかしたこと、分かってんのか?」


「うるさい。うるさいうるさいうるさーい」

 こんな、田舎のちんけな男に説教されるなんて。あたしは、貴族に見初められた女なのよ。


「お前、ちゃんと反省した様子を見せないと、町の誰からも相手にされなくなるぞ」

「うるさい。ほっといてよ」


 そんなの関係ない。あたしはこの町のマドンナ。みんながチヤホヤしてくれた。あたしはこの町では女王様よ。


 そうたかをくくっていたのだけど。

 町は、針のむしろとはこのことかって感じだった。


「ローズ、このバカ娘」


 親からは叱り飛ばされ、弟妹たちからは白い目で見られ、町を歩くとヒソヒソささやかれる。


 だって、知らなかったんだもん。ダコタ夫人が貧しい家の子を率先して雇ってくれてるおかげで、色んな貴族がそれを真似してくれたなんて。あたしの行いが、みんなの将来の道を潰しちゃうことになるなんて、思いもしなかったんだもん。


 知らなかったんだ。あたしは悪くない。あたしはかわいいから、また誰かを落としてみせる。


 貴族は無理でも、そうだ、例の小役人の息子とか。仕方ないからあいつで我慢してやる。


「ねえ」

「俺に話しかけんな」

「えっ、ねえ、ちょっとー」


 あいつだけじゃない、どの男も女もあたしと話してくれない。なんで、なんでよおおお。

 早く結婚しないと、あたしおばさんになっちゃう。ダコタ夫人みたいなおばさんになる前に、誰かと結婚しなきゃ。


 誰か、誰か、あたしを見つけて。あたしを助けて。


「そういうの、自業自得って言うんだって」

「姉ちゃん、ちゃんと畑仕事しなよ」


「うるさい、うるさいうるさいうるさーい」


 誰もあたしの価値を分かってくれない。あたしは、シルヴァに惚れられた女なのに。

 こんな田舎じゃ誰もあたしのことを正しく評価してくれないんだ。


 でも、どうしたらいい? 町から出るお金なんてない。あたし、ずっとここで生きていきゃいけないの? そんなのいやだ、いやだいやだ。助けて、助けてダコタ夫人。


 ごめんなさい。あたしが悪かったわ。ちょっとだけだけど。あたしが悪かったかもしれないわ。だから、もう一度お屋敷で働かせてください。なんでもします。


 あたしの願いは届かなかった。あたしはずっと、この田舎町で生きていくしかないみたい。



***



 徐々に気持ちが落ち着いて、笑うこともできるようになったある日、またマーサが断れない人が来たと言う。


 今までと違って、マーサがとてもいやそうだ。


 客間に入ったら、シルヴァがいた。


 痩せて、髪も服もだらしなくて、とても老けている。


「ダコタ、会ってくれてありがとう。私が悪かった。一時の気の迷いだったんだ。どうか、許してくれ」


「いいえ」


 その言葉は勝手に口から出た。あら、おひとよしでいいえと言えないダコタ夫人と呼ばれていたのに、いいえってスルッと言えたわ。あらまあ。


「なんでもする。ほら、子どもたちにも父親が必要だろう」


「いいえ」


 それは絶対にない。そう思う。後で子どもたちに確認はするけど、あんな父親ならいらないでしょう。


「ダコタ、君だけを愛する。大事にすると誓う。だから許してくれ」


「いいえ、もうあなたなんて、いらないの。わたくしの屋敷から出て行って。さあ、今すぐ」


「そんな、ダコタ。冷たいこと言うなよ。他の貧乏人には優しくしてるじゃないか。私にも少しは優しくしてくれてもいいだろう」


「マーサ、お願い」


「はい、喜んでー」


 マーサが使用人たちを連れて客間にぞろぞろと乗り込んできた。手早くシルヴァに縄をかけ、全員で担ぎ上げる。


「不要な場合は、近くのダンジョンに投げ入れてよしと連絡が来ております」

「そうしてちょうだい。迷惑をかけることになるから、そのダンジョン近くの冒険者ギルドに寄付をはずむわ」


「奥様、さすがでございます」

「うそだ、ダコタ、うそだと言ってくれー」


「うるさいですねえ。もう二度と奥様の名前を呼ばないでください。あなたにその権利はありませんから」


 マーサがシルヴァの口の中に布を詰め込む。

 魚のようにびちびちしているシルヴァは馬車に押し込まれ、ダンジョンに向けて旅立っていった。


「ささ、奥様。塩でございます」

「いつもありがとう、マーサ」


「いやですよう、奥様。お礼なんてそんな。いくらでも言ってくださいまし」

「ふふふ。ありがとうありがとうありがとう」


「あっ、それぐらいで十分です。すみません調子に乗りました」


 マーサや他の使用人たちと笑いながら塩をまく。

 塩が太陽の光でキラキラしている。


「さあ奥様、求婚者たちがまたやってきましたよ。どなたにするか決まりましたか?」

「それがねえ、まだよく分からないのよ」


「ゆっくり時間をかけてお選びくださいませ。まだまだきっとたくさんこれからも来ますからね」

「不吉なことを言わないでよ」


「モテモテなのは素晴らしいことだと思いますけどね」

「みんな、わたくしを買いかぶりすぎなのよ」


「皆さん、奥様の価値をよくよくよーく分かっていると思いますよ。ええ、もちろん使用人一同もです」


 そうだったらいいな。虫けらではなく、人でありたい。

 おひとよしって笑われてもいいの。太陽でありたいの。でも、北風にもなれるようにならなきゃだわ。


 風がそっとわたくしの髪を揺らす。

 ゆっくりで大丈夫。そう言ってくれているみたい。



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― 新着の感想 ―
お父様の、北風と太陽の教えが素晴らしい。 本人も自覚したことだし、今後はファンに傅かれながら一人でも生きていけるのでは?
釣った魚にエサをやらない御仁多いですよねえ。自分だって、同じく年を取っておっさん化してるのにね。それでも一緒にいるカプが多いので、不可思議ですなあ。 私には永遠の謎なんだろうな。 でも、釣った魚にエサ…
伯爵家もまともな弟と結婚させるべきでしたね。
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