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栞と渚

贈り物の、理由

作者: takenoko
掲載日:2026/04/19

 土曜日の午後、街は人が多かった。

 朝霧栞は駅を出た瞬間に、少し後悔した。人の流れが、どこへ行っても途切れなかった。まるで荒波に揺られる小舟のように人混みに揉まれる。栞はそれが苦手というわけではなかった。ただ、疲れた。今日は欲しい本があって、それだけのために来たのに、その本を手に取るまでにこんなにも人の波をくぐらなければならないのかと思うと、少し気持ちが萎んだ。

 本屋の自動ドアが開いた瞬間、空気が変わった。

 静かだった。人はいるのに、声が低くなる。誰もが、少しだけ息を潜めるような場所。紙の匂いがして、棚が整然と並んでいて、通路の幅がちょうどよかった。栞は入った瞬間に、ここが好きだということを毎回思い出す。街の中にあるのに、街の外みたいな場所。人がいるのに、一人でいられる場所。

 目的の棚へ向かいながら、栞は少し息を整えた。

 本はすぐに見つかった。

 背表紙を確認して、手に取り、目的の本と確認して、買うことにした。迷わなかった。欲しいものが決まっているときは、早い。レジで会計を済ませて、紙袋を受け取った。

 さて帰ろう、と思いながら、もう少しだけここにいたいと感じていた。外はまだ人が多い。本屋にいる間だけは、その波から離れていられる。栞は棚の間をゆっくりと歩いた。特に何かを探しているわけではなく、ただ歩いた。

 文庫本のコーナーを抜けて、雑貨のコーナーに差し掛かったとき、ふと、足が止まった。

 棚の端に、ブックカバーが並んでいた。

 その中の一つに、目が留まった。

 リネン生地でできているようだった。藍で斑に染められていて、濃いところと薄いところが、規則なく広がっていた。模様というより、染みのようだった。でもその染みが、どこか、砂浜にかかる波に見えた。寄せては返す、白い縁のある波。浜辺の潮騒が、耳に届いてくるような気がした。

  その模様を見て、栞はある名前を思い出していた。

「……渚だ」

 声に出していたことに、気づかなかった。

 気づいたらブックカバーを手に取っていた。手に持ってみると、意外と生地は厚手で、ずっしりとした感触があった。また、背表紙には編み込まれた紐がついていて、紐の先端に、藍で染めた木製のビーズが付いていた。小さくて、丸くて、少しだけ冷たかった。サイズを確認すると、文庫本ほどなら使えそうだった。

 渚が、文庫本を読んでいた姿を、思い出した。

 渚の部屋で2人で過ごしていた時、本棚から取り出して開いていた。タイトルは見えなかったけれど、文庫本だったことは覚えている。ページをめくるとき、栞の方を見なかった。あの静かな集中の顔。

 そういえば、渚とはあまり物を贈り合うということはした事がなかった。もちろん、誕生日の時はお互いに何か贈るということはあったが、それ以外ではあまり記憶がない。

 渚がこのブックカバーを使う所を想像してみると、結構様になっている。

 ブックカバーを持ったまま、先ほど通ったレジに向かった。

 店員は、先ほど本を購入していた栞のことを特に気にした様子もなく、バーコードを読み込もうとした。

「あの、贈り物なので、包装してもらってもいいですか」

 店員は、その言葉を聞いた瞬間、無感情に作業をしていた様子から、ニコッと笑った。箱と包装紙を取り出して、手際よく包んでいく。折り目が丁寧で、テープの貼り方が均等で、見ていて気持ちのいい手つきだった。

 その様子を見ながら、栞は気づいた。

 今日の目的の本を買うときより、心が浮足立っていた。

 読書家の彼女なら、使ってくれるだろうか。

 喜んでくれるだろうか。

 この贈り物を渡したとき、渚はなんて言うだろう。

 考えて、すぐに、答えが浮かんだ。

 きっと実務的な渚のことだから、ありがとう、と一言だけ言うだろう。それからさっと包装を開いて、中身を確認して、自分の本に合わせてみて、すぐに使い始めるだろう。余計なことは言わない。でも、使う。それが渚だった。

 前なら、それを少し寂しいと思ったかもしれない。

 でも今は、思わなかった。

 渚と関わっていくうちに、少しずつわかってきたことがある。渚の「ありがとう」は、短い。でも軽くない。渚がすぐに使い始めることは、その人が選んだものを信頼しているということだ。余計な言葉より、行動で返す人。それが渚なりの喜び方で、感謝の形だった。

 包まれたブックカバーを受け取りながら、栞は口角が緩むのを感じた。

 本屋を出ると、街はまだ人が多かった。

 でも、来たときより少し、気にならなかった。

 渚に渡すとき、何か言おうか、と少し考えた。

 波みたいだったから、と言えばいいか。あなたの名前みたいだと思って、と言ってもいいか。

 でも渚なら、そんな説明をしなくても、きっと気にしないだろう。

 栞はそれで、十分だと思った。

 帰り道の人混みの中で、栞は小さな箱を少し、胸に近いところで持ち直した。

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