氷帝と呼ばれる私が、悪役令嬢の虜になった理由
「クロティルド・オリオール! たった今をもって、私は貴様との婚約を破棄し、聖女エマと共に生きていく!」
(なんだこの茶番は)
王宮で開かれている煌びやかな夜会。
本来、紳士と淑女の情報交換をメインとする社交場に響きわたる不相応な内容。
それを発しているのが義弟ソフィアンであることに、皇帝ギュスターヴ・オリオールは美しく整えられた眉をわずかに潜めた。
彼は腹違いの弟ソフィアンのことを、それなりに優秀な男だと評価していた。
それがいま、ソフィアンは傍らに小さな花のような愛らしい令嬢――聖女との誉れ高き男爵令嬢エマの腰を抱いて、自身の婚約者である大輪の華のように美しい公爵令嬢クロティルドに婚約破棄を突き付けている。
(水面下で書面を交わさず、わざわざ社交界で宣言する。仮にも婚約者であったクロティルド嬢を貶めようという悪意だな)
白けた気持ちで、氷帝と呼ばれる所以の冷えた眼差しを大立ち回りをしているソフィアンに注ぐ。
内心で彼への評価を一変させ、そのまま婚約破棄を突き付けられた哀れな令嬢クロティルドへと視線を向ける。
彼女は不条理な言葉にも凛と背筋を伸ばし、表情一つ変えていない。
理不尽な状況で涙を見せることなく、強気の態度は感心出来た。
白磁の肌に、少し釣り目の瞳、薔薇色の頬に赤く小さな唇。
艶やかで豊かな長い髪は背中まで伸ばされ、彼女に品を添えている。
公爵令嬢として、そして将来皇族に連なる者として、磨き抜かれた気品と美貌を持つ少女。
(確か、今年で十六だったか)
ソフィアンは先日十七歳の誕生日を迎えてる。
年のころの釣り合いがとれているから、と結ばれた婚約だったと記憶していた。
玉座に座る彼の傍に控えている右腕の青年――レオナ・ベレグリニがギュスターヴへ視線を向けてくる。
この騒ぎを収めるかどうか、眼差しだけで意見を聞いてくるレオナに、彼は軽く手を振った。
(余興だというのなら、精々楽しませてもらおう)
そう思考して、暫く静観することに決める。肘掛けに肘をつき、握った拳で頬を支える。
欠伸が出そうなほど退屈な毎日を過ごしている彼にとって、たとえ義弟の醜聞だろうが退屈を紛らわせられるものならなんでもいいと思っていたのだ。
▽▲▽▲▽
(婚約破棄)
告げられた単語を内心で繰り返す。
クロティルドは誇り高き少女だが、同時に現実を直視できる令嬢でもあった。
(少し前からソフィアン様の心が離れていることはわかっていたわ。繋ぎ留められなかったわたくしの落ち度ね)
ちら、と彼に腰を抱かれているエマへと視線を流す。
華やかな美貌を持つクロティルドとは逆に、愛らしさを前面に押し出す小動物のような守りたくなる女性がソフィアンの好みだった、ということだ。
「ふん。顔色一つ変えないか。やはりお前は情を持たない。――性悪の悪女だ」
吐き捨てられるように告げられた言葉に、表情は眉ひとつ動かさないまま内心でため息を吐く。
将来、皇族に加わる人間の教養の一つとして、いついかなるとき、どんなに不利な局面、例えば己の命を脅かされるシーンでも。
感情は表に出さないように徹底した教育を受けてきた。王弟であるソフィアンとの婚約が決まった五歳のときから施されてきた教育は、彼女の心を鋼のように固くしたというのに。
(貴方がそれを仰るのね)
冷えた心でそう思う。
彼女の父が宰相であり、二人の年が近かったために結ばれた婚約であったから、最初から愛があったわけではなかった。
だが、貴族の結婚において政略結婚など当たり前だ。
婚約者となってから十一年の間に、少しずつ愛を育めたと思っていたのは、彼女だけだったのだろう。
ソフィアンは冷徹な女より、愛らしい花を選んだ。
彼の隣で悲しそうに視線を伏せているエマは、けれど口元が歪んでいる。
(表情を取り繕うこともできないなんて。本当に王弟の妻として、皇族が務まるのかしら)
蔑みを込めた気持ちを押し込め、再び視線をソフィアンへと戻す。彼女は冷ややかな声音で問いを口にした。
「わたくしを婚約者から外すまではともかく、悪女というのはどういうことでしょうか?」
心当たりがない、と言外に伝える彼女の言葉に、ふん、とソフィアンが鼻を鳴らす。
「貴様は高慢な女だ。可憐で愛らしいエマに嫉妬をし、醜い嫌がらせを繰り返した!」
エマの腰を抱いていない空いた手で、糾弾するように指を差される。
クロティルドは浅く息を吐き、手にしていた扇を広げ口元を隠した。
「わたくし、そのようなことは一度もしておりません」
彼女は誇り高くあれと自身に課している。
幼い頃から施された教育の成果でもあったし、そもそもクロティルドは曲がったことが大嫌いな性分だ。
「わ、わたし! クロティルド様に色んなことをされました!」
「具体的に仰ってください」
どこまでも冷静な彼女の言葉に、エマが眉を寄せ、ソフィアンが不快そうに目元を吊り上げる。
「貴様の罪状は揺るぎない! 聖女を甚振り、王弟である私を謀ったことは女神と帝国への叛意である。己の犯した罪を恥じ、生涯を神に祈るがいい!」
(修道院に入れと仰るのね。それも一生出てくるな、と)
さすがに目を細めたクロティルドの前で「それとも」と得意げにソフィアンが口を開く。
それは、事態を見守っていた王侯貴族たちが一斉に眉を潜めるような、下劣な提案だった。
「名誉の死を望むならばくれてやる」
パチンと指を鳴らしたソフィアンの背後から、彼の従者がゆっくりと歩み出る。
その両手には銀のトレーが握られており、上には透明なワイングラスに真っ赤な葡萄酒が注がれていた。
(……毒)
賜死を与えようというのだ。
毒の混ぜられたワインを飲み、この場で死ねという。
あまりにむごい、と誰かが呟いた声が耳朶に入る。
そこまでしなくとも、と密やかな囁きが届く。
だが、聖女に害をなしたのならば、と諦観の言葉もまた聞こえてきた。
(味方はいない。お父様に迷惑はかけられない。修道院に行くくらいなら、わたくしは)
生に執着がないわけではなかった。
生きることに嫌気がさしたわけでもない。
ただ、どうしようもない虚無感が胸にあった。
生まれ落ちてから十六年。王弟の婚約者になってから十一年。
よく耐えたと自分を褒めたい。
過酷と評していい教育を経て、彼女の心は皇族より皇族らしかった。
だから。
「なっ!」
「――貴方が勧めたのです」
迷いなく従者の持つトレーからワイングラスを受け取る。
彼女が毒を呷るとは思っていなかったのか、驚愕するソフィアンを傍目に、彼女が毒入りのワインを躊躇なくあおろうとした、その瞬間。
「待て」
高い位置からもたらされた、耳に心地よい低い声が彼女の動きを止めた。
▽▲▽▲▽
現在二十五歳のギュスターヴには二年前まで、今は亡き妻がいた。
権謀術数に巻き込まれ、表向きは病死と発表されたが、その実毒殺された愛する妻。
彼女との間には子に恵まれなかった。
後妻をとれと散々に周囲から説得を重ねられていたが、その全てを跳ねのけ続けた。
次に娶った妻も殺されるかもしれないと思えば、無残に命を散らした亡き妻の顔がちらついて、到底皇后を迎える気にはなれなかったのだ。
(私に万が一があっても、ソフィアンがいる。そう思っていたが)
実際、義弟の存在を口実にいままで縁談を遠ざけ続けてきた。
だが、跡を託しても良いと考えていたソフィアンが恋に溺れ盲目になったのならば、話が変わってくる。
「クロティルド、死は怖くはないのか」
氷帝の問うかけに、ワイングラスを持ったまま大輪の華のような美貌を持つ彼女はにこりと笑う。
「はい。怖くはありません。わたくしが最も恐れるものは」
一拍、間をおいて。
「醜態をさらすことにございます」
凛と言い切ったその姿を、好ましいと思った。
ふ、と口元に笑みが浮かぶ。そこまで言い切る覚悟、度胸。
さらには実際に毒を煽ろうとした決意。
どれを取っても。
(国一番の大輪だ)
氷帝と渾名されるほど、普段から表情が変わらないギュスターヴが笑ったことに、場にどよめきが走る。
彼は片手をあげてざわめく貴族たちを静めた後、楽しげな口調で告げた。
「私の妃となれ」
(この娘ならば、毒を呷ってもあるいは)
悲しみは少ないかもしれない。
そもそも、放っておけばこの場で毒を飲んで死ぬ少女の寿命を少し伸ばすだけだ。
自身の意思で飲む毒と、他人に盛られた毒では意味合いが違うかもしれないが、そこはあえて目を瞑ろう。
氷帝の言葉は絶対の意思を持つ決定事項だ。異議を唱えることは何人たりとも許されない。
「兄上?! 本気ですか!!」
驚愕の声を上げたのはソフィアンだった。その隣では、エマが大きく目を見開いている。
「お前はいらぬのだろう。私が引き取ろう」
「その女は!」
「すでに彼女は我が伴侶。皇帝の妻を貶すか」
鋭い眼差しでを注ぐと、途端にソフィアンは小さくなって「申し訳、ありません……!」と絞り出すように口にした。
さて、これで終わりかと思いきや、次に声を上げたのは、立場を弁えない聖女の方だ。
「陛下! お考え直しください! その方は――」
「くどい」
バサリと切り捨てる。絶対零度の視線を向けられて、エマが咄嗟に口を閉じる。
最低限の危機感は備わっているらしい。
「異論はないな、クロティルド」
「はい、陛下。命を救っていただき、ありがとうございます。このご恩は必ずお返しいたします」
毒入りのワイングラスを立ち尽くす従者の持つトレーに戻し、彼女は綺麗な淑女の礼をする。
その姿を満足げに眺めるギュスターヴの隣で、彼の往年の友人であり右腕であるレオナだけが、浅くため息を吐いていた。
王弟の婚約者から皇后へとなったクロティルドは、帝国を背負うにふさわしい貴婦人になるべく、日々勉学に励んでいる。
教養やマナーはギュスターヴが新しく宛がった教師たちが感嘆するほどに素晴らしく、教えることはほとんどないと報告を受けていた。
そしてもう一枚。
レオナが提出した報告書に目を通した彼は一つ鼻を鳴らして執務机に書類を投げた。
「いかがいたしますか、陛下」
「もう少し泳がせろ」
口角を吊り上げて告げたギュスターヴに、レオナが少しだけ眉を寄せた。
その瞳には心配が色濃く浮かんでいる。
「大丈夫でしょうか。クロティルド様は」
レオナは自身が氷帝に提出した書類へ視線を落とす。
そこには聖女エマがクロティルドを失脚させようとあれこれと画策した証拠が並んでいる。
例えば、彼女に関する黒い噂を流す。
ソフィアンを奪ったときも同じ手法を使っているが、これはうまくいっていない。
皇后となることが確定している彼女は、王弟の婚約者であった時より、皆が噂を口にするのを慎重になっているためだ。
何より、夜会での凛とした姿を見た者たちは、エマが流した浅い噂に疑問を呈している。
結果、悪し様に罵る噂は広がることない。
次に毒を盛ろうと試みた形跡もあった。
しかし、これもまた王弟であった頃より厳重に、それこそ先の妃の件があり慎重になっている周囲によって防がれた。
なにより、今の彼女には毒見役がついている。
本当に毒が盛られたとしても、彼女の口に入ることはない。
ならばと、金を握らせた不届きものの騎士にクロティルドが襲われるように仕向けた形跡まであった。
金を握らされた忠誠心の欠片もない騎士はすでに捕らえられ、エマの指示だと拷問の末に告白した。
「この程度をあしらえずして、未来の皇后など務まらん」
「手厳しいのですね」
「期待しているのだ」
誇りを胸に、理不尽を飲み込んで毒を呷ろうとした姿に心惹かれたのだから。
今後、彼女が皇后として国を共に背負うならば、これ以上の理不尽が襲い掛かってくる。
(折れてもらっては困る)
国一番の凛と咲く美しい花を手折るのは、伴侶であるギュスターヴだけでいいのだから。
クロティルドがギュスターヴの伴侶になって一か月後。
王宮で彼女のお披露目の夜会が開かれることとなった。
主催はギュスターヴとクロティルド、出席者には当然ながら王弟のソフィアンといまだ泳がされているエマも参加する。
すでに来賓たちは到着しているが、氷帝とその伴侶は一番最後に姿を見せなければならない。
控室でギュスターヴはクロティルドに声をかけた。
「お前がこのパーティーでなにかを企んでいるのは知っている」
「はい」
「好きにやれ。後始末はなんとでもしてやろう」
特に相談されたわけではない。
だが、誇り高い少女がやられっぱなしのまま引き下がるとはギュスターヴも思っていなかった。
仕掛けるならば今日の夜会が最も適している。
ギュスターヴの煽るような言葉に、彼女は花開くように微笑む。
「畏まりました。ご温情に感謝いたします」
にこりと笑ってクロティルドは完璧な淑女の礼をする。
ドレスの裾をつまみ浅く下げられた頭に、ぽんとギュスターヴは手のひらを乗せた。
そのままぽんぽんと軽くなでると、彼女は戸惑っているように硬直している。
「ふ、俺はお前の夫だからな」
「……はい」
小さく笑ったギュスターヴに、クロティルドもまた嬉しそうに微笑んだ。
その様子を警護として眺めながら、レオンは『恐ろしいご夫婦だ』と内心でぼやくのであった。
磨き抜かれた大理石はシャンデリアの明かりが乱反射して美しい。
立派な紋様が刻まれた柱は城が建てられてからの年月を感じさせた。
前回開かれた夜会と同じ会場だが、それ以上に煌びやかで華やかに目に映るのは、今回の夜会はクロティルドが未来の皇后として使用人たちの指揮を執り準備させたからだろう。
会場のテーブルに並ぶ料理やドリンクも今までより洗練されている。
彼女の腕前に感嘆する王侯貴族たちが、社交の合間に軽食やワインを楽しむ様子を玉座に座って眺めていたギュスターヴは、視界の端でこちらを睨んでいるエマの姿をあえて度外視していた。
(聖女の力に偽りはないようだが、男を使ってソフィアンに近づいているあたり、権力には貪欲だな)
レオナが調べたエマの経歴だ。
聖女だが、同時に男爵令嬢である彼女がどうやってソフィアンに取り入ったのか、事細かく優秀な右腕は調べ上げてくれた。
エマは爵位が自分より少し高い子爵令息に最初に取り入った。
そこからどんどん男を乗り換えてとうとう王弟であるソフィアンに近づくことに成功したのだ。
そうやって取り入った男たちを水面下で侍らせていることも裏がとれている。
彼らはエマの言いなりになってクロティルドを害する噂を率先して流したり、毒を取り寄せたり、実行犯の騎士を引き込んだりしたのだ。
(まとめて掃除が必要だな)
わずかに視線を細める。
退屈なパーティーだが、不穏分子をあぶりだす場としては最適だ。彼の思惑を知ってか知らずか、隣に座るクロティルドが声をかけてから立ち上がる。
「陛下、聖女様にご挨拶に行ってまいります」
「ああ」
さて、どんな余興が繰り広げられるのか。
退屈だけはしない予感に、彼は小さく唇の端を歪めたのだった。
▽▲▽▲▽
今日のために仕立てた最高級のドレスを身に纏い、一段高い玉座の隣から降りたクロティルドは、迷いのない足取りでまっすぐにエマの元に向かった。
元婚約者のソフィアンは挨拶回りで彼女の傍を離れている。仕掛けるなら今だ。
「ごきげんよう、エマ様」
にこりと微笑んで挨拶を口にすると、エマはどこか引きつった表情でそれでもカーテシーを披露する。
貴族としてはギリギリ及第点。王弟の伴侶しては脱落のカーテシーだ。
「お久しぶりです、クロティルド様」
憎々しげな声音が隠せてもいない時点で、貴婦人としても二流。
冷静にエマの採点を内心でしながら、彼女は片手を軽く上げた。
合図を待っていたレオナが給仕に紛れる格好で、トレーに二つの葡萄酒を注いだワイングラスを乗せて近づいてくる。
「今日はエマ様に贈り物がございますの」
楽しげにころころと微笑みながら告げると、エマは露骨に怪訝そうに眉を寄せた。
「おくりもの、ですか?」
「はい。本来なら、我が公爵家の荘園でとれた年代物の葡萄酒をお持ちしたかったのですけれど」
給仕に扮したレオナが差し出したワイングラスを一つ手に取る。
普通のワインより濃い赤色をした葡萄酒が注がれたワイングラスを片手に、彼女はひどく愉快な気持ちで口角を吊り上げる。
「こちら、先日わたくし宛てに匿名で送られた葡萄酒です。とても素敵なプレゼントを頂いたので、ぜひお裾分けしたくて。エマ様もどうぞ」
「っ!」
クロティルドの言葉にエマの表情が変わる。
思わずといった様子で一歩後ろに下がった彼女に遠慮なく近づいたレオナがトレーを差し出した。受け取れ、という無言の圧。
将来の皇后からの気遣いを無下にすれば、聖女とはいえただでは済まない。
葛藤で表情を歪ませたエマが、酷い眼差しでワイングラスを睨んでいる。
(このワインには毒が混ぜられている。一口でも飲めば、全身に麻痺が広がり、遅効性の毒によってじわじわと命が蝕まれていく)
毒見役の侍女が一人、命を落とした。
魔術解析でも毒の存在は確認されている。
エマによって送られた品、というところまでクロティルドは突き止めたが、確たる証拠は手に入らなかった。
だから、カマをかけることにしたのだ。
(この反応はアタリ。なら、飲んでもらわなくては困るわ)
内心を綺麗に押し隠し、彼女はにこりと美しく微笑んだ。
公爵令嬢として恥ずかしくない、そして未来の皇后に相応しい凄みのある笑み。
「わたくしも一口いただきますわ」
そっとワイングラスに口をつける。
こくりと一口だけ嚥下してみせると、エマは驚愕に目を見開いた後、恐る恐るワイングラスを手に取った。
無味無臭の毒だ。欠点を上げるなら、ワインの色が少しだけ濃くなる程度。
見た目で判断することは困難である。
だからこそ、目の前でワインを飲んで体調を崩さないクロティルドの態度はエマに「これは毒ではない」と思わせただろう。
恐る恐る、ワイングラスに口をつけたエマが彼女同様に一口口に含んだ。その瞬間。
「あっ……!」
がしゃん、とワイングラスを手から取り零して赤い液体をその場にぶちまける。
二人のやり取りをひっそりと見守っていた周囲が驚いたように一歩後ずさる。
その場にしゃがみこんで、喉を抑えて苦しむエマにクロティルドは鮮やかに笑って、グラスの中の残りのワインを彼女の頭に注いだ。
「毒を混ぜたワインの贈り物をありがとう、聖女様。わたくし、毒の耐性がありましてよ。淑女の嗜みですわ」
「ぁ、っ、ぐ……!」
喉が焼けただれて声が出ないのだろう。
それでもクロティルドを睨みつけるエマをにこにこと見降ろす彼女は、レオナが懐から素早く取り出した小瓶に入った解毒薬を受け取って一息に煽った。
幼い頃から皇族に嫁ぐ身として、毒の訓練を受けてきたが、解毒薬は飲んだ方がいい。
もう一つ取りだした小瓶をレオナがエマの口に雑に突っ込む。
げほごほと咳き込みながらも解毒薬を飲み込んだエマが涙を浮かべた目で彼女たちを睨む。
彼女が声を上げるより早く、騒ぎを聞きつけたソフィアンが駆け付け、庇うようにしゃがみ込んでワインまみれのエマの肩を抱いた。
「貴様……!」
「あら、お久しぶりです。ソフィアン様」
「何をしたかわかっているのか!」
激怒している彼に、けれど怒られる理由が見当たらない。
軽く首を傾げたクロティルドの背後から、騒ぎを最初から最後まで見守っていたギュスターヴがゆっくりと近づいてくる。
皆が場を明け渡すように道を開く。人垣の中から現れた氷帝の表情は、面白そうな色を瞳に宿していた。
「ははは! お前は最高だな! さすが我が妃だ!」
楽しげに笑う氷の帝王に周囲は静まり返っている。
ただ二人、クロティルドは「おほめに預かり光栄です」とカーテシーをし、付き合いの長いレオナがそっと肩をすくめた。
「糾弾の相手が違うのではないか、ソフィアン」
「兄上……!」
クロティルド相手には強気のソフィアンも、帝王である兄に睨まれると何も言えなくなるらしい。
絞り出すようにギュスターヴを呼んだ彼から、すぐに興味が失せたように視線をそらした。
「衛兵! 我が妃に毒を盛った不届きものを連れていけ!」
「はっ!」
騒ぎを聞いて待機していた兵たちがエマを囲う。
解毒薬を飲んでなお、喉を抑えている彼女は反論の言葉を紡げずにいる。
けれど、憎々しげに歪められた表情が言葉より雄弁にクロティルドへの殺意を現していた。
今もってそんな反抗的な目をすることで、己の首を絞めている自覚がないらしい。
冷めた気持ちでクロティルドは夫である氷帝の裁可を待つ。
「兄上! エマは聖女です! これはなにかの間違――!」
エマの代わりに反論の声を上げたソフィアンに、彼の背後に回っていたレオナが懐から短剣を取り出して喉元にあてた。
氷帝の右腕であるレオナの行動は氷帝の意思の表れ。
誰よりそれをよく知っているはずのソフィアンは、ごくりと唾を飲み込んで、冷や汗を流している。
「戯言に貸す耳はない。その女はたしかに聖女だが、性根が腐りきっている。『それ』が我が妃に対して行った罪状は十分な証拠と共に揃っている。共に断頭台に上がりたくなければ、言葉を気をつけよ」
「っ」
取り付く島などどこにもない、氷帝から注がれる絶対零度の眼差しにソフィアンは力なく項垂れる。
ギュスターヴが『氷帝』と呼ばれる所以は、一度過ちを犯せばどんな身内にも厳しい処罰を下すことが一因だ。
噂は本当らしいとクロティルドは微笑んでしまう。
犯した罪には相応の罰が必要だという考えは、彼女の中でも共通している。
彼女は小さくなっているソフィアンの隣で、いまだ瞳から憎しみを消さないエマに一つだけ言葉を贈ることにした。
「この程度で死なないでくださいませ。生き地獄はこれからですわよ?」
未来の皇后を毒殺しようとした罪は、いかほどのものか。その身に刻んでもらわなければ困るのだ。
(だってわたくし、あんなにも大勢の前で恥をかかされたんですもの)
やられたらやり返す。倍返しどころか百倍返し。あるいは気が収まるまで復讐する。
宰相の父から叩き込まれた公爵家の家訓だ。
ますます笑みを深めたクロティルドに、ようやくエマは敵に回してはいけない女を敵に回した自覚が出たのか、少しだけ青ざめた表情で唇を引き結んだ。
▽▲▽▲▽
その後、クロティルドは華やかなお披露目を経て、正式に皇后となった。
美しい華を手に入れたギュスターヴは、面白半分で傍に置いた少女の有能さに舌を巻き、徐々に彼女を溺愛するようになる。
氷の帝王と呼ばれた彼が愛した女性は、二人だと後世には伝えられる。
一人は病で儚くなった最初の妃。二人目がクロティルド。
彼は彼女との間に五人の子供をもうけ、皇族を追放された義弟の代わりに、有能な跡取りに恵まれたという。
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