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だが真実は逆だった。  作者: しげみち みり


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第2話 教室の空席

(視点:玲央)


 黒板のすみに、うっすら白い手形みたいな粉が残っている。昨日の数学のとき、先生が消しゴムのカスを手のひらで払って、そのまま手形をつけていったのだ。朝のチャイムが鳴る少し前、教室に流れるざわめきは、いつもと変わらない。机がこすれる音、椅子の脚が床を引っかく音、スマホでこそこそ撮った写真を見せ合う笑い声。

 変わらないものの中で、ひとつだけはっきりと空いている。窓側の三列目、後ろから二番目。結衣の席。六月が終わりかけて、プリントの束も、配られると同時に一枚分だけ余ることに皆が慣れてしまった。


 「今日も来ないのかな」

 誰かが言い、誰かが相槌を打つ。返ってくる声は、軽い。

 「心配だよね」

 「だよねー」

 ほんとうに心配しているなら、こんな軽さにはならない。軽さで包めるうちは、誰も傷つかないし、面倒も起こらない。僕は保健室登校だから、一時間目だけ顔を出して、二時間目には抜けることが多い。教室の空気は時々遠いテレビの音みたいに感じる。それでも、空席の輪郭だけは目に強く刺さってくる。


 「ホームルーム始めます」

 担任の声。欠席者の確認。いつものように、結衣の名前のところで小さく間が空く。出席番号、二十九。呼ばれない声は、呼ばれないまま過ぎていく。

 僕は出席簿の紙の上で、二十九のところだけ指でなぞってみる。それは意味のない癖だ。けれど、そうしないと、何か大事なものを置き去りにしている気がした。


 結衣は、春の始まりまでは、ちゃんと来ていた。読書ノートを誰より丁寧につける子で、行間に小さく感想を書く癖があった。クラスの読書係が回収して、後で返す。その時、僕は何度か係の手伝いをした。理由は簡単で、保健室に行くまでの時間を埋めたかったからだ。ページをめくると、結衣の字だけは、いつもゆっくりとした呼吸があった。

 「優しさは、刃物の形をしている」

 春休み前の最後のノートに、そう書いてあった。引用か、結衣自身の言葉かは分からない。僕はその一行を、ノートのふちに鉛筆で写した。消しゴムで消しても、薄い跡が残った。

 優しさは人を助ける。でも、ときどき、誰かを切る。刃物に柄がある限り、握った誰かがいる。

 その一行が、なぜか今朝は、ずっと頭の奥で鳴っていた。


 HRが終わると、すぐに女子の輪ができた。中心にいるのは、真帆。体育祭の応援団衣装の写真を、机に並べて見せている。笑顔が大きくて、声も通る。学級LINEの管理も、係分担の仕切りも、何でも上手にやる。先生にとっては助かる存在で、クラスにとっては「頼れる子」。

 けれど、頼れる子は、ときどき人の手を離さない。握っている感覚が好きになると、離すと自分が軽くなる気がして、余計に握る。

 結衣が休み始めた頃、真帆は何度か「皆で色紙を書こう」と言い出した。表向きは優しさだった。けれど、机の上の寄せ書きの輪に近づいて、ペンを持つ手が泳いだ人は、何人かいた。何を書けば正解なのか、分からないから。

 正解のある優しさだけが、許される場所。僕はその輪に入れなかった。というより、足が止まった。


 二時間目の始まり、教室の隅で僕は保健室行きの連絡帳を担任に見せた。先生は短くうなずき、「無理はするなよ」と言った。あの言葉が、嘘ではないことを僕は知っている。先生は何度も保健室で僕に声をかけてくれた。

 それでも、教室での「心配」の軽さは、先生の「無理はするなよ」と同じ重量ではなかった。音だけが同じで、中身が違う。

 廊下に出ると、黒い掲示板に貼られたポスターが揺れた。養護教諭が作った「心とからだの相談室」の案内だ。青いインクで書かれた文字。僕は、ふと、その青に見覚えがある気がして立ち止まった。


 保健室の前で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。扉の向こうは、ほんの少しだけひんやりして、消毒液の匂いがする。

 「おはよう、玲央くん」

 養護教諭の穂高先生が、柔らかい声で迎えてくれる。僕は会釈して、窓際の簡易ベッドに腰を下ろした。横になるほどしんどくはない。ベッドの端に座ると、窓の外の校庭が見える。野球部が声を張って、ランニングしている。音だけは、元気だ。

 机の上に、落とし物の箱が置いてある。ペン、ハンカチ、ヘアゴム、ミニタオル、そして封筒が数枚。

 僕の目が止まったのは、その便箋だった。白地に、うっすら桜の透かし。角に金色の細い縁取り。――見覚えが、ある。教室で見た色紙の上に貼られたメッセージカードと、同じシリーズ。去年の文化祭で、真帆が「可愛いから」と大量に買ってきたものだ。

 「それ、靴箱のところで拾ったの。誰のか分からなくて」

 穂高先生が言った。

 「開けてないけど、宛名もないのよ。困っちゃう」

 宛名が、ない。


 僕はその封筒を手に取って、指で縁のあたりをなぞった。青いインクの染みが、封の裏側から薄く透けている。ペン先が強く当たったところだけ、紙がわずかに凹んでいる。

 「預かっておきますか?」

 と、穂高先生。

 「……もし持ち主が分かったら、僕から渡します。昇降口で拾ったんですよね」

 「ええ、さっき。授業の合間にね」

 靴箱の前。人がたくさん行き交う場所だ。落としたというより、わざと落としたのかもしれない。拾ってほしい相手がいるなら、目立つところに、目立たないふりをして置く。


 封は、閉じていない。折り返して差し込んであるだけだ。中身は便箋が一枚。僕は、ためらって、それでも、少しだけ引き出した。

 「見ちゃダメ?」

 自分にそう問いかける。

 宛名のない手紙は、誰に向けられているのか、文字が決める。見なければ、誰にも向かないままだ。

 角度を変えて覗くと、最初の行だけが目に入った。

 ――君の居場所はここにある。

 胸の奥が、ぎゅっと掴まれた気がした。

 青いインク。柔らかい丸みのある字。文末の小さな癖。

 僕は、見覚えがある。

 真帆が配った寄せ書きに、彼女がよく書く言い回しがあった。「みんなで」「待ってるからね」「私たちは味方だよ」。言葉はまっすぐで、音だけを切り取れば優しい。

 けれど、結衣の読書ノートの一行が、耳元でささやく。

 優しさは、刃物の形をしている。


 「玲央くん?」

 穂高先生が、僕の顔色をのぞきこむ。

 「大丈夫」

 僕は便箋をもとに戻して、封筒を閉じた。

 「持っていきます。落とした人に、心当たりがあるかもしれないから」

 先生は少し考えてから、うなずいた。

 「責任持ってね」

 「はい」


 保健室を出るとき、僕は封筒を鞄の内ポケットに入れた。心臓の近くで、紙のすれる音が微かにした。

 昇降口に向かう廊下の途中で、僕は立ち止まる。掲示板に貼られた行事予定表のところで、真帆と、その取り巻きの二人が話していた。彼女らの声は明るい。

 「結衣ちゃん、ほんと大丈夫かなあ」

 「うちら、色紙もう一枚つくる?」

 「先生にも言っとく。クラスでちゃんと“心配してます”ってアピるの、大事だし」

 “アピる”。

 その言い方が、僕の胸の中で、カラカラと乾いた音を立てる。

 僕は思わず、お腹の底から声を出していた。

 「真帆」

 名前を呼ぶと、彼女は振り返る。少し驚いた顔。すぐに笑顔でふたをした。

「玲央くん。どうしたの? 保健室?」

 「うん。その前に、落とし物。昇降口に、これ、落ちてた」

 封筒を少し上げて見せる。真帆の視線が、ほんの一秒だけ、封筒の縁で止まった。

 「わたしじゃないよ」

 その返事は早かった。

 「誰宛かも書いてないし、拾ったのは僕だけど」

 「そうなんだ。誰のだろね。こういうのって、怖いよね。誰かが勝手に“優しいふり”してるのかも」

 “優しいふり”。

 言ったのは、彼女なのに。

 僕は笑わなかった。

 「もし結衣宛てだったら、どうする?」

 「渡すに決まってるじゃん。わたし、クラスの子のことはちゃんと気にしてるから。先生にも相談してあるし」

 その言い方は、正解のある道をたどるみたいに滑らかだ。

 「わたし、今日の放課後、結衣の家に行くつもりだよ。前にも何度か行ってるし。お母さんも知ってるしね」

 取り巻きの一人が、うんうんとうなずく。

 「真帆ちゃん、ほんと偉いよね」

 彼女たちの言葉は泡みたいに軽くて、すぐに消える。

 僕は封筒の端を指で押し込みながら、頭の中で結衣のノートのページをめくった。刃物の柄を握っているのは、誰なのか。


 四時間目のチャイムの後、僕は昇降口に降りて、靴箱の列を眺めた。三年生の列、二年生の列、一年生の列。空気が少し土の匂いを混ぜる。靴のゴムの匂いと混ざると、変な懐かしさがある。

 結衣の名前が貼られた靴箱の前で、僕は足を止める。中は空っぽだ。埃がうっすら溜まって、指でなぞると線ができる。

 封筒を取り出して、もう一度だけ、最初の一行を見た。

 ――君の居場所はここにある。

 ここ、ってどこだ。教室か。家か。クラスか。

 優しさは、ときどき、指定席を作る。そこに座らなければ、優しくしないよ、と無言で告げる。

 僕は封筒をもとに戻し、強く息を吐いた。


 昼休み、保健室でパンをかじっていると、窓の外の渡り廊下を、真帆と取り巻きが通った。彼女の手には、花柄の手提げ。中に、色紙がちらりと見えた。

 穂高先生が、「あの子たち、しょっちゅうここから寄り道していくのよ」と笑った。

 笑うしかないことは、笑ってやりすごすのが、大人の技術なのかもしれない。僕はまだうまく笑えない。


 放課後、雲が厚くなった。夕方の光が灰色に緩んで、昇降口のガラスに、自分の顔がぼやけて映った。

 靴に履き替えていると、足もとを白い紙が走った。風が、誰かの落としたメモを押していく。僕はそれを足で止めた。

 白い紙――いや、白い便箋。さっきの封筒と、同じ透かしがある。角が折れて、インクが少しにじんでいる。

 拾い上げると、そこには、誰かの殴り書きがあった。下書き、のような。

 君は一人じゃない

 私たちがついている

 みんなで戻る日を待ってる

 また明日も書きます

 最後の一行に、僕の指が止まる。

 また明日も書きます。

 青いインク。

 僕の背中に、冷たいものが走った。

 あの封筒の中身と同じ言葉。偶然だとしても、できすぎている。

 紙の右下に、かすれたイニシャルのようなものがある。ハートに似た、くせ。この書き方を、僕は知っている。真帆が黒板に書くとき、角のところで必ず少しだけ丸める。写真のポーズで指ハートをするときと、同じ癖。


 「何してるの」

 背後から声がした。真帆だった。

 僕は、振り返らないで紙を握った。

 「ゴミ拾い」

 「へえ、えらいね」

 彼女は、言葉を選ぶときの速さで、僕よりも一歩先に立てる。

 「それ、返してもらっていい?」

 「持ち主、真帆?」

 「違うけど、持ち主、知ってるかも。わたし、クラスの連絡とか預かってるから」

 僕は紙を畳んで、ポケットに入れた。

 「ごめん。これは、僕が届ける」

 「玲央くん、そういうの、勝手にやるとトラブルになるよ」

 彼女の声は柔らかい。けれど、そこに柄の手触りがあった。

 「先生に言おうか」

 「言えばいい。先生には、僕から話す」

 真帆の目が、ほんのわずかだけ細くなった。

 「心配してるだけなのに」

 そう言って、彼女は笑った。その笑いは、写真みたいに作りがよかった。


 僕は昇降口を抜け、校門を出た。風が強くなって、木の葉が舞う。ポケットの中で紙がこすれて、ざらざらした音がした。

 交差点の角に、小さな文具店がある。文化祭の準備のとき、クラスでよく行った店だ。ガラス戸の内側に、あの桜の透かしの便箋が積んである。

 店に入り、レジにいたおばさんに尋ねる。

 「この便箋、いつから置いてますか」

 「春先からよ。中学の子が、まとめて買っていったわね」

 「どんな子でした?」

 「可愛らしい子。よく笑うの。あ、あなたの学校の子たち、何人かで来てたわよ」

 真帆の顔が、浮かぶ。

 「青いインクのペンも、一緒に?」

 「そうそう。あのインク、滲みにくくて人気なのよ」


 外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。コンビニの看板が雨雲を照らし、街路樹の葉に光の色が移る。

 僕はスマホを取り出して、クラスの連絡網から、佐原蓮の名前を探した。彼とは席が近かった時期がある。喋ることは少ないが、図書室で何度か同じ時間帯に居合わせた。静かに本を読むときの姿勢が、好きだった。

 蓮に、訊きたいことがあった。

 ――君は、宛名のない手紙を、信じるか。

 ――優しさは、誰の手にあると思うか。

 画面に指を置いたところで、足が止まる。僕は、結衣の家の方向を見た。

 行くべきか。

 真帆が今日、行くと言っていた。僕が行っていい理由はない。押しかければ、迷惑になる。それでも、胸の中の紙が、じりじりと熱を持つ。

 「優しさは、刃物の形をしている」

 言葉に出してみると、少しだけ落ち着いた。刃物は使い方で変わる。

 僕は、ポケットの中の紙と封筒を取り出し、二つを並べて見た。青いインクの色が、ほんの少し違う。封筒の方が、気持ち薄い。便箋の方は、濃い。筆圧も違う。封筒の字は、ところどころインクがかすれる。便箋の字は、滑っている。

 同じ人間の手から出た言葉ではない。

 僕の背筋に、別の寒気が走った。

 誰かが、ほんとうに「また明日も書きます」と言っている。

 誰かが、それを真似している。


 家に戻る前に、遠回りして川沿いの道を歩いた。夕方の風が水面を撫でて、波が細かく砕ける。ベンチが並ぶ場所に、誰かの忘れ物のマフラーがかかっている。春先に巻いていた薄い紺色。

 このベンチで、誰かが誰かに言葉を手渡したことがあるのかもしれない、とふと思う。

 僕はベンチに腰かけ、封筒の一行をもう一度読んだ。

 ――君の居場所はここにある。

 “ここ”は、ひとつじゃない。

 教室かもしれないし、保健室かもしれない。

 靴箱の前かもしれないし、川沿いのベンチかもしれない。

 “ここ”を指定する権利は、書いた人にはない。受け取る人だけが決められる。

 だったら、僕は。

 僕はポケットからボールペンを出して、封筒の裏に小さく書いた。

 ――刃物は、握り手を選べる。

 それから立ち上がって、家に向かった。


 夜、机に封筒と便箋を出して、電気スタンドの下で見比べた。筆跡の傾き、丸める位置、線の太さ、止めの癖。

 封筒の書き手は、ためらいが多い。ところどころで筆圧が上がるのは、言葉の置き場に迷っているからだ。便箋の書き手は、ためらわない。線が迷いなく前に進む。

 真帆の字は、後者に近い。

 なら、封筒は――

 僕の頭の中で、図書室の背表紙と、窓の外の白い光と、蓮の横顔が繋がった気がした。

 彼は、青いインクを使っていた。

 読み終わったページの端に、誰にも見えないくらい小さく、印をつける癖がある。

 そして、あの日。

 春の始まりの日、図書室の窓際で、蓮が鞄から何かを取り出していた。白い紙。青いインクのにじみ。

 僕は、スマホの画面を開いた。

 ――佐原蓮にメッセージを送る

 指が、躊躇して、進む。

 『今度、少し話せる? 匿名の手紙のこと』

 送信。

 ほとんどすぐに、既読がついた。

 『いいよ。明日、川沿いのベンチで』

 短い返事。そのあとに、もう一行。

 『君の居場所は、君が決めていい』

 僕は、深く息を吸った。

 言葉は、同じ形でも、中身が違う。

 刃物でも、包丁でも、鉛筆でも。手に持った人間の体温で、変わる。

 窓を開けると、雨の匂いがした。遠くで雷が鳴った気がする。

 明日、僕はベンチに行く。封筒を持って。便箋も。

 真帆の「優しさ」と、蓮の「優しさ」。

 どちらも、形は似ている。

 けれど、切るための光か、支えるための光かは、触れば分かる。

 空席を見つめるだけの一日から、少しだけ前に。

 足音は、鉛筆の線より細いかもしれない。

 それでも、僕は線を引く。自分の居場所に向かって。


 電気スタンドを消す直前、机の上の封筒が、小さく反射した。

 その光は、刃物の刃の光にも、明日の朝日の光にも見えた。

 どちらになるかは、僕が、選ぶ。

 そっと目を閉じた。音のない教室の空席が、心のどこかで、ひとつ分、埋まる音がした気がした。

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