吊り下げ箱の合わせ鏡
暑いですね。
連日連夜の猛暑、みなさまはどのように耐えておられるのでしょうか。
私は暑さにめっぽう弱いらしく、三十度を超えるとぐったりして動けなくなってしまいます。まあでも、暑いだけならまだマシで、湿気が加わるともうダメです。
ゲリラ豪雨に巻き込まれたときとか、最悪です。
つい先ほどまで照りつけていた太陽が、ふっと雲に隠れたかと思うと、大粒の雨が落ちてくる。一粒一粒が白く目に映るような雨です。日中に温められたアスファルトが水を吸い込み、熱を空中に逃がすのです。
跳ね返る水しぶきで足元はぐっしょりと濡れ、呼吸すらままならず、地上を歩いていながら水の中を泳いでいるような気分になります。手に持つ傘はバタバタと鳴り続け、まるで子供の掌で叩かれているようでした。
みなさまは、なぜ夏に怪談が流行るのか、ご存じでしょうか?
暑いから怖い話でも聞いて涼しくなりたい?
太陽を避けて日陰や暗がりで過ごすようになるから?
もちろん、それもあるでしょう。
ただ私は、水に触れることが多くなるから、だと思っています。
古今東西を問わず、神や霊魂は水を好むと語られています。人体には水が欠かせませんし、私たちは本能的に水のありがたさや怖さを知っているのでしょう。
六月半ばのことでした。
たしか時間は、午後四時か五時くらい。
天気予報で雨が降ることはわかっていたので、私は傘をもって買い物に出ました。ほんの五分の移動でも汗まみれです。束の間スーパーの冷房で呼吸を整え、買い物を終えて外に出ると、予想通りの豪雨です。いわゆるゲリラ豪雨ですね。
予想の外だったのは、まったく涼しくならなかったこと。
むしろ湿度が高まり息苦しいほどの暑さに包まれたことです。
自宅マンションのエントランスにたどり着いたとき、私はすでにくたびれていました。顔についているのが汗なのか雨粒なのかもわかりません。
ぐちゃ、ぐちゃ、と靴が鳴ります。靴下から水が滲んで不快でした。
空は曇っていますし、中途半端な時間だったからでしょう、エントランスは薄暗いままでした。
そこに。、エントランスの扉と連動し、一基のエレベータがするすると降りてきました。覗き窓から薄っすらと緑がかって見える光が伸びてきます。
私は迷いました。
私の住んでいるマンションには二基のエレベータがあるのですが、片方はバリアフリーのために大きな姿見が設置されているんです。車椅子を押して乗り込んだとき、狭い箱のなかで方向転換ができないため、正面に見える姿見で背後の確認をしながら降りれるようにしているんですね。
ただこれが、どうにも苦手で。
なんといったらいいか……見ようと思ってみる鏡と、見たくもないのに見させられる鏡って違うじゃないですか。朝方に最後のチェックで鏡を覗くのは良くても、帰って来て疲れた顔を映されてもなあ、と。
なんなら、見たくないまでありません?
階段で行こうかな、と私は思いました。
普段はエレベータに乗りませんしね。
でも、階段の設置されている裏口側では、自転車置き場のトタン屋根が雨に打たれて金属質な音を響かせていました。
嫌なものですよ。
吹き込んでくる雨に濡れそうだし、うるさいし、なにより疲れていましたし。
私はため息をついて、エレベータに乗り込みました。
一瞬、鏡に私のくたびれた姿が映ります。
見たくないのですぐに背を向け、エレベータのボタンを押しました。
鈍く重い音を立てつつ扉が閉まり、覗き窓には誰もいない薄暗いエントランスが映ります。箱のなかに設置された扇風機――換気のための天井扇風機です。それが、ふぅぅぅん……、と止まりました。
あれ?
おかしいな、と思いました。
箱が動きださないのです。
暑いんだから勘弁してくれ、と私はもう一度ボタンを押しました。肩に食い込むエコバッグを担ぎ直し、今度は顎を上げて階数表示板を見つめます。
動かないんです。
……おい、やめてくれ。
そう口にしそうになりました。
私の住んでいるマンションは築三十年は経っていますし、エレベータが止まっても不思議じゃないんです。
そう、思おうとしていました。
だって途中でエレベータは入れ替えられていますし、何度となくメンテナンスを入れていますし、いままで一度だって閉じ込められたという話はなかったのですから。
それが今日に限ってだなんて、信じたくないじゃないですか。
ワイヤーで吊り下げられた、不安定で、蒸し暑く、狭苦しい箱。
水気を含んだ粘っこい空気が肌にまとわりつきます。奇妙な緊張と相まって心臓の鼓動が早まり、気づかないうちに首を垂れ、丸まった背中が呼吸を浅くしました。
はぁ、はぁ、はっ、はぁ……。
早く動いてくれよ、と私はボタンを押し込み、やっとの思いで顔を上げました。
そのとき、気付いたんです。
エントランスが薄暗いままなので、覗き窓のガラスが曇った鏡のように薄っすらと私を映していることに。
私の背後にある大きな鏡に、私の背中が映っていることに。
まるで合わせ鏡です。
あ、まずい。
私は思いました。見たくもない鏡にぼんやりと映る私の姿。その奥にさらに暗く透けたようにすら見える私の背中。その隣に立つもう一つの背中。いるはずのない影です。あるはずのない人影。
まずい、まずい、まずい。
私は焦りました。気怠さなど吹き飛びました。頬を伝う汗が暑さによるものなのかわからなくなります。息の吸いかたがわからなくなりました。どうやって胸を上下すればいいのか、喉を絞るのだったか、胸を張るのだったか……。
ごくん、と喉が鳴りました。
正面の覗き窓に映る人影がさらに数を増やしていました。もちろん合わせ鏡に映る人の背中も二重、三重に増えていきます。あれだけやかましかったトタン屋根の音も聞こえてきません。
早く早く早く早く!
早く動いて! 早く動いて! 早く動いて!
私は今にも震えだしそうな手をボタンに伸ばし、ぞっ、と身の毛がよだつのを感じました。
私が伸ばした左手の親指が、一階のボタンを押そうとしていたんです。
――そうです。私は、ずっと一階のボタンを押していたんです。一階から乗り込んで一階のボタンを押してるんだから、そりゃあエレベータは動きませんよ。
「……なんだよ、もぉぉぉぉぉ……!」
バカらしいやら情けないやら、私はそう口に出し、自宅の階のボタンを押しました。エレベータは何事もなく動き出し、ドアが重そうに開きます。
私はエレベータの降り際、たまたま、偶然を装って、姿見を見ました。
肩越しに振り向く間抜けが一人、映っていました。
考えてみれば当たり前の話です。
箱に覗き窓がついているということは、建物側にも窓があるということですから。つまり、五センチほどの距離を離して二枚のガラスがあるわけで、光の入射角の違いや透過光の関係から、二重三重に映って当然なのです。そのうえ合わせ鏡になるわけですから、その反射光もまたガラス側に薄っすらと取り込まれていく。
背後の鏡に映ったいくつもの影は、私の影に違いありません。
――少なくとも、私は、そう信じることにしました。
だって、もし違ったら、なんて考えるの、嫌じゃないですか。
みなさまもエレベータに一人で乗ることは多いでしょうし、まだまだ湿度の高い日々が――水に囲まれた日々が続くでしょうし。
もし勝手に扉が開いたりしたら、動いてないのに揺れたりしたら、この話を思い出していただければ幸いです。