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5、禅問答

永良寺に入山した大心は厳しい修行に取り組んでいく。先輩たちの教えに応えながら、才能を発揮していくが、自らの実家である明全寺ゆかりの明全和尚について大本山永良寺での扱いに疑問を持ち、役僧に禅問答で質問する機会を得る。大心の運命はいかに。

永良寺では、5日間のサイクルで生活を送っている。請益しょうやくの日は住職や老僧が、修行僧や在家の方に対しての勉強会を行う日。入室にっしつは修行僧が老僧に対して、修行や上堂、請益でわからなかったことを1対1で聴く日とされている。念誦ねんじゅとは坐禅堂(僧堂)において、修行の無事や益々精進することへの祈りと誓いをする日。浄髪じょうはつは髪を剃ったり、お風呂に入ったりする日。上堂じょうどうは住職など古参老師が修行僧に説法をする日である。


 大心の永良寺生活も慣れてきた5月10日、上堂じょうどうの日、副監院の柳沢老師が修行僧に説法した。夜の仏殿は観光客がいなくなり、静寂を取り戻している。僧堂や伽藍内の各所から若い雲水たちが黙々と歩いて仏殿を目指して歩いてきている。廊下がきしむ音だけが幽谷に伝わっている。多くの雲水たちが仏殿に集結して合掌する中、副監院がきらびやかな袈裟を身に着けてゆっくりと登場した。全員の目と耳を集中させて説法が始まった。この日の説法は道元が中国に行った頃の話だった。

「開祖道元禅師は1200年の生まれ。12歳で比叡山に入り修業を積み、17歳の頃には建仁寺で栄西の弟子である明全に師事し1223年、明全と共に中国の南宋に渡っています。残念ながら明全は中国で病に倒れ、道元はその遺骨を持ち帰りこの永良寺に納めています。中国で道元は1225年天童如浄から只管打座の禅の思想を聞き、禅を日本に持ち帰り曹洞宗を始めます。」

という内容の説法を話された。

 大心は話を聞き、明全の流れをくむ明全寺の後継として生まれた自分、明全に師事した道元、道元が建立した永良寺で修行する自分。不思議な縁を感じるが、明全寺に生まれながら明全についてあまり知らない自分にやや違和感も感じた。

「明全について調べてみたい。時間を見つけてやって見よう。」

そんな思いから空いた時間を利用して、翌日から毎日コツコツ勉強し始めた。

 主な書籍は役僧寮の古参僧侶の部屋で貸していただいて読み漁った。明全の本は少なかったが道元の人生を紐解くような本には必ず明全が出てきた。栄西は1215年に死んでいるので道元とはほとんど交わりがなかったようだが、栄西の後を受けて臨済宗を引き継いだ明全に師事している。しかしその教義は臨済宗と曹洞宗で似ているようで相違点がはっきりしている。

曹洞宗は黙照禅、只管打座、ただひたすらに座り続けることで自分の中に生まれながらにある「仏心」を見出すことが出来るとしている。普段の生活ではその心に気づくことはないので坐禅を組み、自分の中にある仏心を見出すことを目的としている。また仏心をもつ人間が坐禅によって、身も心もやすらぎを得た姿こそ「仏の姿」と考えているとされている。

 一方、臨済宗では看話禅といわれ、公案と呼ばれるお題(問題)を問答する方法をとる。いわゆる禅問答である。公案に対して考え抜くことで答えを見出し、それにより、悟りに近づくことができるという思想であるとされる。

 座禅を組む組み方も曹洞宗は誰とも話さないで一人で座禅を組むので壁に向かって座禅を組むが、臨済宗では問答があるので顔を見合わせることが出来るように壁を背にして座る。

 監院寮では初めて明全についての本も見つけた。明全は初め延暦寺で修行に入るが、その後栄西に師事して臨済宗の法を継いだ。1223年に道元・高照・廓然らを伴って中国の南宋に渡り、景福寺の妙雲、ついで栄西の師でもある太白山景徳寺の無際了派の下で学んだ。その後病に倒れ、景徳寺了然寮で病死してしまった。道元は明全の遺骨を持ち帰り「舎利相伝記」を表し、明全の戒牒に奥書を記して永良寺に納めたとあった。大心は明全と道元の関係を学ぶうちに曹洞宗の中に明全の教えを一部受け入れているし、明全の供養のため永良寺でしっかりと祀らなくてはいけないのではないかと考えるようになっていた。


3か月ほど経った請益しょうやくの日に大心は思い切って副監院老師に明全について聞いてみることにした。夕方の食事を終えて仏殿に集まった雲水たちに副監院老師が生活そのものが禅の修行であるというお話をされた。話し終えた副監院老師が質問はないかとおっしゃったので思い切って手を挙げた大心は

「道元禅師様は臨済宗の明全和尚に師事し中国に渡っています。明全の死後その遺骨を持ち帰って永良寺に納めていると言われていますが、現在のこの永良寺での明全に対する評価はいかなるものか。お聞きしたい。」

と述べると副監院老師は

「明全和尚が道元禅師の師であったことはよく知られている。9年間にわたり師と仰ぎ、その死後遺骨を持ち帰り、永良寺に納めたと言われているがその生涯について詳しく述べられているものは少ない。この永良寺においても特別な伽藍を設けてその供養をしている場所もない。どこかに納めたらしいがその場所は定かではない。確かに臨済宗を継承した明全に師事したが、臨済宗を真似たのではなく、中国の禅宗5派のなかの曹洞禅を学び、日本に持ち帰って始めたのが曹洞宗である。この永良寺で今更、明全を特別に扱う事は不要と考える。」

とお答えを頂いた。その日の問答はそこで終わったが、大心は納得がいかなかった。納得がいかなかったのは、開祖道元禅師は9年間も明全和尚のことを師と仰ぎ、中国に行けたのも明全和尚がお供をさせてくれたからだ。不幸にして中国で病死した師匠の骨を道元禅師は持ち帰っているのは明全に対する強い感謝の念があったからだ。しかし現在の永良寺では特別な供養はしていない。これは道元禅師の意思を組んでいるのだろうか。明全の流れをくむお寺の跡取りだから余計に明全のことを身近に感じ、曹洞宗でも厚く供養してもらいたい、そんな思いが大心の心を支配したのかもしれない。しかしもう少し開祖道元禅師の意思をくみ取って明全を祀ってもいいのではないか。そんな気持ちが払しょくできないまま、その日の問答は終わった。


 次回の請益しょうやくの日、大心は再び講話をしてくれた監院老師に明全を特別に供養していないことについて聞いてみた。

「老師様、私は疑問があります。明全和尚のことを道元禅師様は師匠と慕い、その遺骨を永良寺まで運んでいます。道元禅師を祀る承陽殿の中に位牌を立ててその功績を称えるべきではないかと考えますが、いかがですか。」

と問いかけた。監院老師は前回のことを聞いていたのでまたかという思いもあったのだろう。厳しい口調で

「その話は前回聞いておろう。副監院が明確な答えを出しておる聞いた。確かに明全は道元禅師の師匠である。しかしその死後、道元禅師は単独で天童如浄に会い、彼から只管打座の禅の思想を会得して日本に持って帰って来た。中国における5種類の禅の中に臨済もあるし曹洞もあるのだ。栄西も明全も臨済が良いとして臨済を学んでいる。道元はその教えに飽き足らず曹洞宗を持ち帰ったのだ。ただひたすらに座禅をすることで自らを省みて、自分の中にある仏心に到達するのが曹洞である。明全たちの考えを超えたところに道元は達したと我々は考えている。その考えに承諾できないならば、そなたは臨済宗の寺へ行くべきだ。いかがかな。」

とお答えになった。大心は引き下がらず

「道元禅師のお考えは明全の遺骨をわざわざ持ち帰ったところから推測するに、自分が立てたお寺に供養する場所をおつくりになりたいとお考えだったからこそ、遺骨をわざわざ持ち帰ったのではないでしょうか。浄土真宗の親鸞は7高僧の中に師と仰いだ浄土宗開祖の法然を源信聖人として正信偈の中にも表しています。浄土宗を少し変化させて浄土真宗が生まれたことは、臨済宗を少し変えて曹洞宗に発展させたことと類似点が多いと思いますが、いかがでしょうか。」

と食い下がった。監院老師は

「大心のいう事もわかるが道元禅師がなくなられてから750年以上たってしまっている。禅師様の御真意を計るすべもない。貫主様とも相談するが結論が出ない問答になってしまった。このあたりにいたせ。」

となだめてきた。大心は仕方なく引き下がることにした。


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