永良寺入山
大心は大学を卒業して禅の研究のために永良治への入山を決意した。厳しい掟を持つ永良治は大心を厳しく迎え入れるが、大心はしっかりと修行の道を見つけていく。若き修行僧がたくましく生きていく。エピソード4
大学を卒業する1943年3月は太平洋戦争の戦況も厳しくなってきた。学徒動員はまだ始まっていなかったので、大学生でいられた間は召集令状は来なかった。しかしこれからはいつ召集されても不思議ではなかった。お寺の長男なので優先順位は低いと思うが、戦況によっては分からない。しかし西田先生の研究に触れて大学に残って研究を続けたいという気持ちも出てきた。しかしいずれは実家に帰って明全寺を継ぐことは必然だった。
最終的に彼が出した結論は実践的な研究を続けるために、2年間は永良寺で禅の修行に励んで純粋経験を積むことだった。3月はじめ大学の卒業を確認するとその足で京都駅から北陸線の列車に乗った。わずかな荷物を持って福井駅を目指し、福井からは京福電鉄で永良寺門前駅まで京都からは半日の道のりだった。上山の作法にのっとり地蔵院に入り必要な品々のチェックを受け、不要物は事前チェックで没収された。いよいよ上山で僧衣に身を固め、足元もわらじに履き替え、同様に上山する同僚5人と共に山門前に並んだ。代表の一人が木の板を木槌で叩くと、木々に囲まれた山深いお寺の境内に大きな音が、澄み切った空気を切り裂くように響き渡った。
「たのもう、たのもう。」
5人が声を合わせて大きな声で山門の奥に聞こえるように挨拶をした。しかし何の音沙汰もない。しばらくたっても何も変わらない。無視されているのかと怪訝に思いながら
「たのもう、たのもう。」
ともう一度声を合わせると、山門から廊下をはさんでつながっている僧堂から1年目の若い雲水がゆっくりと歩いてきて5人の様子を上から下までじっくりと眺め
「帰れ、帰れ。何しに来たんだ。ここはお前たちのような不届き者が来るところではない。ここの雲水たちは自らを鍛え、仏の道を究めるために厳しい修行をしている。そんな修行に耐えられる気構えを持った者だけが入山を許されるのだ。まだ新しい足袋をすぐそこで履き替えたお前たちのような者は到底耐えられない。俺たちの修行の邪魔だ。帰れ。」
と言って足早に奥の僧堂に消えてしまった。残された5人は呆気に取られていたが中の一人が
「あれ、先輩にやられたことを1年たった若い雲水が次の年の上山者にやるらしいよ。永良寺では毎年の恒例行事みたいだって親父が言ってた。」
と東京の大学を出たばかりで実家の禅寺を継ぐ若い修行者が言った。大心はそのことは知らなかったが、鎌倉時代の建立以来、毎年のように新参者を受け入れてきたのだからそういう伝統もあるのだろうとやけに納得した。
彼の言葉に勇気をもらった5人は再び大きな声で
「たのもう、たのもう。」
と声を合わせた。すると今度は比較的早めに先輩雲水が出て来て
「帰れって言っただろ。お前たち、本当にやる気はあるのか。そのやる気を見せてもらおう。」
と言ってまた行ってしまった。それからはこんくらべである。山門前に立ち尽くす5人は約2時間は立っていただろうか。しびれを切らした先輩雲水は
「本当にやる気はあるんだろうな。やる気のあるものだけついてこい。」
と言って5人を僧堂へ連れて行ってくれた。そこには一人分畳1畳のスペースとまん丸いクッションのような座布団が置かれていた。これからは寝るのも座禅するのもすべてこの畳1畳で行うことになる。
「ここに荷物を置いて支度が出来たら廊下に出てこい。」
と指示されたので5人は急いでわらじを脱いで荷物を置き、頭にかぶっていた傘を脱いで廊下に出た。
「今から監院老師にご挨拶に行く。ついてこい。」
と言われたので後をついていこうとすると
「廊下を歩くときは手をこのように組んで溝内の前に置いて歩け。歩いているときも座禅だと思え。」
と教えてくれた。彼の後をついて廊下の階段を歩いて登っていくと永良寺の奥の方の建物の中の部屋についた。
「御老師様、今日の新参者を連れてまいりました。」
と彼が中の高貴な方に声をかけると
「入りなさい。」
と小さな声がした。あとでわかるのだが監院というのは永良寺の山で2番目に偉い、いわば内閣総理大臣。一番偉いのは貫主といって天皇にあたるそうだ。その事務方トップの監院老師は部屋の中で正座して机に向かい何か書き物をしていた。
先輩僧侶が5人の新参者に部屋に入って並んで座るように合図した。正座してその老人に向かい合うと監院老師は5人を見渡し、柔らかいほほえみを浮かべ
「今日はこの5人なんだね。お山に入る覚悟はできているのかな。」
とお聞きになった。
5人は顔を見合わせていると中の一人が
「このお山以外に行くところがありません。背水の陣で臨む覚悟です。是非、上山をお許しください。」
と言って頭を下げ低頭の姿勢をとった。同時にほかの4人も頭を下げ、許可を求めた。するとその老人は
「この寺では来る者は拒まず、去る者は追わず。それぞれが己の修行を達成するまでおるところじゃ。許可などいらん。そのかわり不適切な輩は追放される。不信心な行動をとった場合は容赦ない。とにかく道元禅師のお教えに導かれて、自らの修行を極める事じゃ。」
というお言葉を頂いた。5人は再びお礼をして部屋を出ると僧堂に戻り担当の先輩を紹介された。一人に一人ずつ2年目の先輩が指導役としてついてくれた。大心の担当は教郁さんだった。
「しばらくは指導役の先輩と同じことをするように。」
と言われ早速ついて歩くことになった。教郁さんは大阪府の出身で豊中市のお寺の跡取りだそうだ。昨年、東京の曹洞宗系列の大学を卒業して永良寺に上山されたそうだ。大心たちは朝から山門前に立ち、中に入れたのは昼過ぎだったので中食は終わっていた。かなりお腹はすいていたが夕食を待つしかなかった。
教郁さんに連れられて中庭のはき掃除をしていると4時30分になり夕方のお勤めの時間になった。先輩の後について経堂に入り並んでお経本のページを教えられ、そのページを静かに読んだ。お山に入って初めてのお勤めだった。あまり長くなかったがすぐに夕食(薬石)になった。薬石はそれぞれの部署で食す。大心はまだ配属が決まっていないので教郁さんの配属先である直歳寮で食事を頂くことになった。直歳寮は永良寺の建物の管理や修繕管理をするところで、主な仕事はお風呂やトイレの掃除だそうだ。直歳寮に運ばれた食事を一人分ずつに先輩たちが分けてくれたので、畳に正座して1汁1菜の精進料理を頂いた。朝ご飯や昼ご飯は僧堂の自分の席で食べると聞いていたけれど夕方の薬石は思っていたよりもはるかにおいしい料理を頂いた。しかし作法は厳しく、絶対に話声をあげてはいけないし箸や食器を落としてはいけない。あくまでも食事も修行なのだ。食べ始める前に教郁さんから詳しく教えていただいた。
薬石が終わると後始末をしてしばらく時間があり、僧堂でゆっくりしたあと今日は夜座があるのでそのまま僧堂で座禅になった。これも初めての座禅なので教郁さんからいくつも指導を受けた。7時から御指導をいただき7時30分から50分間座禅をした。夜座は内講になる日もあるらしく、内講の場合は別の部屋に集まって古参僧侶のお話をお聞きするのだそうだ。
大心は実家で小さいころから座禅は体験してきた。基本は出来ていると思ったが永良寺の僧堂での座禅は想像以上だった。3月という事もあり寒さも厳しく、肌を刺すような寒気が大心の剃り上げた青い頭に降り注いだ。昼間は観光客もいたので少しは音もあったが、夜の座禅は周りに音もなく、静寂の中、周りにいる雲水たちの呼吸の音しかしない。僧堂内を照らすろうそくの光は緩やかな風に揺れて光が揺らめく感じがする。
座禅を組んでいる間というのは無の境地にならなくてはいけないと言われたが、実に多くのことを考えてしまう。残り時間はあと何分だろう。警策を持った先輩僧侶は今どこで見ているんだろう。最初には叩かれたくないな。顎が痒くなってきたけどどうしたらいいのかな。ありとあらゆることが頭の中で巡ってくる。まだまだ初心者である。
50分の座禅が終わると9時に就寝に入った。わずか1畳の畳に丸いクッションのような座布団をお尻の下に敷いて座禅していたが、そのクッションを枕代わりにして、畳と同じ大きさの敷布団とかけ布団で眠りに入った。1日目の修行はここまでだった。
2日目は朝4時に起床。衆寮の僧侶が太鼓を鳴らし振鈴で廊下を走り回り、起床時間を知らせた。起床するとすぐに洗面歯磨きを済ませ僧堂での暁天座禅(朝の座禅)を40分間した。その後法堂での朝のお勤め。朝課諷経という。約1時間毎朝お寺の1日でもっとも大切な勤行だ。ここまでで朝起きてから3時間たっていた。7時になり空腹に耐えかねた頃、小食という朝ご飯が始まる。僧堂に運び込まれた大きな食缶から配膳された。正座しながら食べるのだが、玄米粥に梅干し、たくあん、胡麻塩という献立で、とても質素ではあるが、細かい作法と様々なお唱えごとがあるので、食べ終わるまでには坐禅堂に入ってから大体1時間くらいかかる。朝食の後は8時から廻廊掃除。永良寺の廊下を雑巾で365日毎日隅々まで走り回りすごいスピードで拭きあげる。その後は9時半から午前中の作務になる。作務は、庭はきや草取り、冬だったら雪かきがメインだが、この日は梵鐘の前の苔むした広場を草むしりをした。11時から11時半は日中諷経と言うが、今度は仏殿という建物で読経をした。終了後は中食というお昼ご飯になる。僧堂で一汁一菜のお昼ご飯になる。その後は午後の作務で午前の作務の続きと冬の雪囲い外しをした。
教郁さんといっしょに作業しながらお互いの境遇について話し合った。修行の一環なので作務中も口を開くことは許されないが、永良寺では作務中のことについてはそこまで厳しく追及はしないようだ。
大心は大学で哲学を学んできたこと。西田哲学は善を研究しているがその根底には禅があること。その禅を修行する経験が研究に役立つと思い永良寺に来たことなどを話した。
教郁さんは東京の曹洞宗系の大学で陸上部だった。駅伝競走にも出ていたこと。豊中のお寺は檀家が少なく経営が厳しいことなどを聞いた。
大心が教郁さんについてご指導いただいた2週間が終わると新人の彼らもいよいよ独り立ちで配属先も決まった。大心は典座寮の配属になった。大庫院という建物で200名ほどの僧侶たちの食事を作ることになった。朝はお粥だけだが昼と夜は一汁一菜の食事の提供である。大庫院には天井から吊り下げられた巨大なすりこぎがある。このすりこぎに触ると料理が上達するとして参拝客に人気である。またそのすりこぎの前には韋駄天が祀られた場所がある。韋駄天は伽藍を守る神として祀られることが多く、特に足の速い神として有名である。大庫院では忙しく走り回るので韋駄天のイメージと重なったのだろう。
大心は毎日食事の時間の数時間前になると作務や勤行を中断して大庫院に入った。食事を準備する作業そのものが修行である。自然の恵みに感謝し、自然の力を最大限に活かすために旬の食材を使い、新鮮なものは新鮮なうちに利用することに心がけた。
ちなみに毎日200人以上の食事を作るとなると多くの食材業者たちが出入りする。永良寺に出入りするためには御用達の看板を受けることが必要になるため、御用商人たちはこの看板を受けることがステータスとなっているようだ。若い大心たちに対する態度はそうでもないが、大庫院の階段を上がって奥にのぼった監院寮のほうへ付け届けをする業者は多かったようだ。封建制度が色濃く残る世界なので、役僧さんたちの懐に入り込むことは、商売人たちには大切なことで、悪く言えば収賄とか贈賄とか言われるかもしれないが、お会いするだけでも手土産を持参するのは当たり前だし、持ち込んだお菓子などが若い雲水たちの貴重な栄養源であったことも間違いない事実だ。封建制度がすべて悪いわけではないのかもしれない。