13、線刻磨崖仏
失意のどん底に落とし込まれたz大心は放心状態で永良寺に向かい山門で入山の許しを待った・しかし破門された経歴を持つ大心を受け入れるはずもなく、何日も立ち尽くすだけだった。数日後倒れて意識を失ったところを村人に助けられた大心はわずかな食料で命をつなぐ。大きな罪に対する贖罪の気持ちが彼に新たな行動を起こさせる。
大心は朝まで一睡もできず悶々としていたが明るくなってきたので、納屋を出て門前の村を歩いた。永良寺のお寺に向かう参道を歩いてお寺の正門で手を合わせ、最後のお別れをして再び参道を下っていくと電車の駅の近くまで来た。電車に乗ってもいいのだがどこへ行くというのだ。父も母ももういない。実家のお寺は人手に渡っている。自分は永良寺から破門されて僧侶でもない。京都の大学に戻りたいがお金もない。どこかに部屋を借りて住所を役所に届け出ると満州での軍法会議の続きのために召喚されることになるだろう。前にも進めない、後ろにも下れない。八方ふさがりの状態で駅の前に設置されたベンチに座ってぼんやりしていた。
それからどれくらい時間がたっただろう。足元を見つめてうなだれていたが、ふと頭をあげて目の前を見ると川の向こう側に大きな岩壁が目に入った。川沿いの道からそそり立つように20m近く立ち上がっている。柱状節理の岩壁なので、板状にまっすぐに切り裂かれた面がいくつも広がっている。まるで自然の大きなキャンバスのようだ。いくつかの岩盤のキャンバスに仏様が彫ってあるのが見える。大心は好奇心からその岩に彫られた仏様を近くまで見に行った。素朴な彫だが力強く、荒削りながら繊細に彫られている。作者名や年代は彫られていないので、旅の彫刻家か永良寺から帰る僧侶の作なのか、時代も室町のものか江戸時代なのか、見当もつかない。立体的な仏像ならばお寺に安置して信仰の対象にするために彫られるのが一般的だが、崖を磨いて線で刻まれた平面的な仏様は、移動出来ないのでお寺に祀って信仰の対象にするのではなく、製作者自身の思いを表現するために彫られているのだろう。
大心はその線刻磨崖仏を見て、きっと制作者は自らの贖罪のために彫ったのではないかと考えた。罪の意識にいたたまれない気持ちをほぐす為に、経を唱えながら仏を彫ったのではないかと。そう考えているうちに自分も何か彫ってみたい気持ちになってきた。彫ったからと言って何かが変わるわけではない。罪を逃れられるわけではない。そんなことは分かっている。でも何かしないといられない。そんな気持ちが彼に仏を彫る決心をさせた。残忍な殺し方をしてしまった中国人ゲリラの3人に対して、そして命令を無視して銃を向けてしまった国吉小隊長の姿が脳裏に浮かび、生きていることが申し訳ない気持ちで、手のひらを合わせて経を唱えて仏を彫る方法を考えた。
決心した大心は大工村の宮大工の家に向かった。宮大工と言ってもいつも仕事があるわけではないので、山仕事をする山男も兼ねている。作業場らしき建物の入口を開けると棟梁らしき人がドラム缶に火を起こして暖を取っている。作業で出た木材の切れ端を燃やしているようだ。乾燥しきっている建築用材の端材はよく燃えている。
白衣に黒い布袍を着て頭には菅笠をかぶり、足元は白足袋にわらじを履いた僧侶の托鉢の姿をした大心が
「すみません。旅の僧侶ですが鑿と金槌を貸していただけませんか。」
と聞いた。この村では僧侶の姿は珍しくない。永良寺の門前である。いぶかし気に大心の方を見つめた大工の棟梁は火に手をかざしながら
「雲水さん、鑿や金槌は俺たち大工の命の次に大事な道具だ。貸してやるなんてことは出来ない。それにしても鑿や金槌は何に使うんだ。」
と聞き返した。大心は目をギラギラさせながら答えた。
「川向こうの岩肌に仏様が彫られていますが、私もいくつか仏様を掘りたいと思っています。戦争から帰って来たんですが、中国で恐ろしいことがたくさんありました。せめてもの罪滅ぼしに何かさせて欲しいんです。」
と言うとその棟梁は
「石を削るのは俺たち大工が使っている鑿ではうまくいかないけど、石工さんたちが使うたがねがいいんじゃないかな。たがねなら玄関の靴箱の上にあった気がするぞ。」
と言って本家の玄関まで取りに行ってくれた。
「これなら貸してやるよ。去年、墓を作ったときに石屋が置いて行ったんだ。俺はこれを仕事では使わねえから持って行っていいぞ。」
と差し出してくれた。金槌は貸してくれなかったが大変ありがたかった。
「有難うございます。大事に使います。」
と言うと棟梁は
「もう返さなくてもいいからいいものを彫ってくれよ。」
と言ってくれた。
それからはすぐに河原へ行って金槌の代わりになる物を探した。石が良いと思ったが石を削るために鉄のたがねを石で叩くと石の方が割れてしまった。そこでとりあえず木材で柔らかくたたくことにした。
翌日柔らかそうな石を河原で見つけて、その石で崖の岩の平板に輪郭を描いた。まずは中国人のゲリラ3人のことを頭に浮かべながら阿弥陀如来を描いた。大きさは大きすぎず、小さすぎず。岩の平板は限りがある。大心よりも後の時代に同じように仏を彫りたいと願う僧侶が来るかもしれない。節度を持った大きさの範囲で一つ目の仏を描き始めた。苔むした岩に輪郭を描く作業は思ったよりも難しく、全体のバランスを大切にしながら少しづつ進めていった。夕方になると作業を止め駅舎の庇で托鉢姿になり永良寺から帰る参拝客に協力を求めた。納骨や法事で大本山に来た参拝客は午後に帰っていく人が多いので翌日からは作業は午前中に、托鉢は午後に行うように変えていった。托鉢の成果は一日平均10円程度だったが、飢えを凌ぐには十分で、民家でお粥に変えてもらって1日2食食べることが出来た。
彫の作業がはじまるといよいよ摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)を唱えながらたがねと木材で打ち始めた。一打ちしたら般若心経を一行読み、少しづつゆっくりと心を込めて打ち続けた。木材で打つので力が弱く、ほんのわずかずつしか進まない。しかしその分正確に打つことが出来た。午前中いっぱい打ち続けてもわずかに数センチしか進まなかった。
岩壁に仏様を彫り続ける大心の気持ちを支えたのは何だったのか。ストーリーは核心に迫っていく。