11、帰還
満州から命がけで船に乗った大心は敦賀についた。そしてそこから列車で実家のある舞鶴を目指す。しかし舞鶴の実家である明全寺は大きく変わっていた。自らが破門されたことが両親に苦労を掛ける事になってしまう。そこで大心が目指したのは、福井だった。
2日間の航海を終えて敦賀に着いたのは8月22日早朝だった。命からがら帰国した人ばかりで荷物もほとんどない。出身地の土地や建物を売りはたいて満州へ行った人たちなので、ここから故郷に帰っても親戚から歓迎されないことも分かってはいる。しかし死ぬことなく故郷の土を踏めたことの感慨かったようで、みんな一様に涙している。大心のふるさとはここから列車を乗り継いで3時間ほど西へ行った西舞鶴である。
敦賀港から列車が出て敦賀駅を経由して列車は小浜線の美しい景色を見ながら福井県から京都府へ。東舞鶴の軍港は戦争末期にアメリカ軍によって機雷が設置され、港としての機能を失っていた。さらに7月末には大型の爆弾で空襲を受け、海軍工廠は甚大な被害を受け多くの犠牲者を出した。戦後にわかるのだが米軍は原子爆弾投下の試験として各地で模擬投下をしている。舞鶴も模擬投下だったそうだ。
西舞鶴につくと実家の明全寺はこの駅からは歩いて10分ほどだ。ぼろぼろの軍服を着て歩いて行くと程なく明全寺についた。寺の山門をくぐって家の方の玄関にまわり玄関を開けた。
「おかあさん、ただいま、大心です。」
空腹で気分も落ち込んでいたがカラ元気で叫んだ。しかし何の返事もなかった。もう一度帰ってきたことを知らせると中から聞き覚えのない声で返事があった。
「はい、どなたですか。」
母親の声ではなかった。出てきたのは30代の女性でその後ろには同じ様な年ばいで頭を剃髪にして法衣を着た男性が立っていた。大心は両親が出てこないことに違和感を感じながら
「ここは明全寺ですよね。私は坂本大心ですが、私の両親はどうしましたか。」
と聞いた。するとその僧侶は隣の女性になにやら耳打ちして中に入らせ、大心に話し始めた。
「私たちは先月、この寺に入って来た嶋崎と言います。永良寺からこの寺に来るように指示を受けました。」
と言うと先ほどの女性が額に入った指示書のようなものを持ってきた。大本山永良寺が発行した辞令のようなものだ。
「嶋崎霊山、舞鶴市天保山明全寺住職を命ずる。昭和20年7月1日」
とあった。確かに大本山永良寺の貫主の印鑑も押してある。大心は
「私の両親はどうしたんでしょうか。知りませんか。」
と問いかけると
「私もここに来てから聞いたのですが、あなたのお父さんはあなたが永良寺で破門され軍隊に入隊され、満州へ行かれたあと心臓の病気になり、今年の6月の中旬に急性心不全でお亡くなりになったらしいです。曹洞宗では門下のお寺の財産は本山に帰属し、住職がお亡くなりになると後継者がいない場合は別のものがお寺を継いで住職になるという制度になっています。息子さんは破門されていますしお母さまもどうしようもなかったんでしょうね。寺を出たお母さまはご実家の寺へお戻りになったと聞きましたが、ご実家のお寺が福井市内で7月19日の福井大空襲でお亡くなりになったと聞きました。お気の毒です。」
と話し手を合わせて合掌してくれた。
大心は一度に両親と実家のお寺とをなくしてしまって呆然とした。元気に送り出してくれたはずの両親が続けざまに死んで、幼いころから慣れ親しんだ実家の寺は人の手に渡ってしまった。満州から命がけで戻ってきたのは何のためだったのだろう。自暴自棄になり死んでしまいたくなった。新しい住職の嶋崎さんは1泊していくように声をかけてくださったが、大心は行く当てもなく寺をあとにして駅に向かった。頼れそうな人もいなかった。しかしこうなったら行けそうなのはあそこしかなかった。西舞鶴駅に着くと切符売り場で窓口に向かって小さな声で行先を告げた。
「福井まで大人1枚。」
福井行の切符を買った大心はどこへ向かうのか。やはり永良寺を目指すことになるのか。そして満州で犯した罪はどうなるのか。そして彼の生涯を研究している杉下栄吉は彼の人生にどこまで迫る事ができるのか。