10、ソ連参戦
大心が上官を撃ってしまったことで捉えられ軍事裁判(軍法会議)が開かれる。自暴自棄になった大心だったが時代は思わぬ方向へ。必死の逃亡劇が始まる。
事件から4日目、8月6日 大心は1回目の軍法会議が開かれるのを師団本部の独房で待っていた。13時開廷と聞かされていた。この4日間、大心は連続してとどめを刺して殺戮した3人の中国人と撃ち殺してしまった国吉小隊長、そして小隊長に撃たれて死んだ1歳の子供のことを考えていた。敵国の人民だからと言って虫けらではない。人間である。中国人を殺そうとしていた国吉小隊長も国の守りのために撃とうとしていたのであり、国吉小隊長にも本土で帰りを待つ家族がいたのである。そんな人たちの命を奪う権利が自分にあるはずがない。やってしまったことに対する反省と懺悔。さらにどうしたらよかったのかという反省の念。いろいろなものが交じり合って頭の中がぐるぐるしていた。
昼食を摂りしばらく待っていると憲兵が独房前に現れて大心に声をかけた。
「坂本大心2等兵、軍法会議である。出ろ。」
冷え冷えした独房に甲高い憲兵の声が響いた。独房を出たところで手錠をかけられ、憲兵の後に続いて歩を進め大きな建物の中に入った。通常は士官たちの会議に使われる建物だが、今日は机の配置を変えて法廷に装いを変えていた。会場に入ると物々しい雰囲気で原告サイドには検察役の中尉殿、被告代理人席には弁護人役の少尉殿が座っている。大心は手錠を掛けられたまま被告席に座った。傍聴席には同じ小隊の仲間たちが陣取っている。みんな小隊長を撃ち殺してしまった大心を睨みつけている。自分たちの上官を失ったのだから当然である。
起立という号令がかかり裁判官役の大尉殿が入廷した。ここからは一般の裁判とほとんど変わらなかった。被告人の確認、原告からの起訴内容の説明では事件が起きた日の悲惨な情景がありありと再現され、傍聴人たちは涙をこらえるものもいた。午後4時を過ぎて次回の審理の日程が発表された。次回は8月9日13時ということになった。次回は原告から求刑が示される段取りだった。普通ならば死刑(銃殺)が相当の罪である。
再び手錠を掛けられ法廷を後にしようとしたとき、裁判官の大尉殿に耳打ちをする事務官がいた。内容を聞いた裁判官の大尉殿は急に顔色を変え、硬直した表情で法廷内に残った軍人たちに内容を教えてくれた。
「みなさん、本日午前8時ごろ広島市内上空でアメリカ軍が投下した大型の新型爆弾が爆発し、甚大な被害が出ているという情報が入りました。詳しい内容は本土に問い合わせていますが広島がどういう状態なのかはまだわかっていません。この満州への影響も出ると思われます。本土からの情報に気を付けてください。なお、少尉以上の士官の皆さんはこの場にお残りください。」
と上気した声を発した。
大心は新型爆弾がどんな爆弾なのかはよくわからなかった。しかしもしかしたらこの戦争を終わらせる起爆剤かも知れないという思いは脳裏に浮かんだ。独房に戻り3日後の審理まで待つことは大心にはつらかった。どうせ死刑なので早くやってもらいたい。ふるさとの母や父にこのことは知らせずに済ませたい。そんな思いで待つことになった。
しかし、8月9日、事態は大きく変わった。広島の新型爆弾の情報もかなり入って来た。新型爆弾は原子爆弾で広島の町は壊滅的な被害で、何万人の犠牲者が出たのかまだわからないという事だった。しかし事態はそれだけに終わっていなかった。8月8日未明、ソビエト軍は日本大使館に対し対日宣戦布告を通告していた。しかしその電文が日本政府に送られることは遅れてしまっていた。さらに午前11時すぎには長崎に原子爆弾が落とされている。この情報はまだ知らされていなかった。しかしソビエト軍の参戦は8月9日午前0時に始まっていた。師団本部では軍法会議どころではなくなってしまった。南方に勢力を集中していたため北方に残る部隊は数が少なかった。さらに戦車や大砲の数では圧倒的にソビエト軍が圧倒していた。そのため朝から師団本部に入ってくる情報は日本軍が敗走する話ばかりであった。
師団本部があった新京では9日の午前中はまだ作戦会議をする余裕もあったが、午後にはソビエトの飛行機が空爆を始めたのでいかに撤退するかが問題となった。
独房にいた大心はそんな情報も入ることなく軍法会議が始まるのを待っていたが、憲兵から
「軍法会議は延期になったのでそのまま待て。」
とだけ知らされていた。しかし午後5時ごろいきなり事態は急変した。慌てふためいた憲兵が
「ソビエト軍がこの町の近くまで攻めてきた。全員退却するので貴様も獄から出て退却せよ。」
と教えてくれて独房のカギを開けてくれた。
そこからはどっちに逃げていいのかもわからなかったが、周りの兵士たちの後について必死に走った。しかし師団の主力部隊は既に南方へ退却した後で、北方から退却した兵士たちが師団本部に到着したころには飛行機も戦車もなくなっていた。さらに悲惨だったのは武器を持たない民間人たちだった。命からがらソ連兵と中国人の目を盗みながら草むらに隠れ、夜になると暗闇の中を南の港から出る船を目指した。大心も独房から出られたことは良かったが、わずかな兵とともに民間人に紛れて南を目指す群れにまぎれていた。多くの人たちは家財道具と幼い子供を荷車に乗せ、一路南へと足早に急いだ。荷車のない家族は両手いっぱいに持てるだけの荷物を持って歩いていた。
戦争や紛争で住む家を追われ、何万人もの人々が難民となって逃げていく姿は、歴史上何回も起きている。フン族の攻撃でゲルマン民族の大移動が起きた時は玉つきで多くの民族が移動を余儀なくされたし、中東ではジプシーとなって定住しなくなった民族が多くいる事もよく似ている。民族のるつぼであるバルカン半島やアフリカの民族紛争地帯でも難民は多い。今回の満州国へのソビエト軍の侵入は多くの日本人難民を生むことになった。
幼い子供を抱えた母親は逃げきれず幼子を道端に置いていく人もいたし、中国人に託して逃げていった母親もいた。老人も歩くことが出来なくなり、死期を悟ってその場に座り込んだまま動かなかった者もいた。筆舌に耐えがたい地獄絵図の中を大心たちは必死に南を目指した。清津の港に着いたのは8月20日になっていた。10日以上歩いたことになる。後に北朝鮮領土になる清津は当時大きな港町だ。8月15日に終戦を迎えたことはこの港で知った。
清津の港で何時間待っただろうか。日本への帰還用の船は何隻か用意されていたが、乗船しようとする人数がその何倍にも膨れ上がり、後ろからはソビエト軍が迫ってきているので、我先にと争って乗り込もうとするし、満員なのでこれで終わりと宣告されてもデッキの壁にしがみついて乗船しようとする民間人で大混乱になった。大心もそのなかの一人だった。しかし独房から解放されてはいたが罪が消えたわけではないので、目立つわけにもいかず民衆の中に隠れて息をひそめて帰還船に乗れるのを民間人のふりをしておとなしく待つしかなかった。
5隻目でようやく順番がまわって来た。舟の行き先は敦賀。来るときには船がアメリカの空襲に会わないか心配だったが、帰りは戦争が終結していたので空襲はなさそうだ。心配なのは中国人ゲリラの襲撃だったが、船が沖合まで出てしまったので大丈夫そうだった。大心はほっとした気持ちもあったが心中穏やかではなかった。
「このまま内地に戻ったら軍法会議はどうなるのだろうか。日本軍そのものが無くなってしまえば、自分の罪もなかったことになるのか。裁判資料そのものが紛失してしまっていたら裁判のしようがない。でも国吉小隊長の家族は夫に何があったのか調べるだろう。」
考えれば考えるほど心中穏やかではなかった。しかし生きて帰る事はなかったはずの自分が明日には日本に戻れるのだ。漆黒の日本海は8月でも冷たかった。
ソ連の参戦で独房から脱出した大心は本土を目指して必死に逃げる。しかしその心の中には上官を撃ってしまった後悔を引きずることになる。必死に戻りながら日本を目指すが港にはソビエトや中国の力が迫ってくる。