碧人はウェアウルフで大智はキャットボーイだけど 友達になれました
ぼくの名前は犬童碧人。人知れずウェアウルフである。
ここ輝月城学園中等部に入学してから、早三ヶ月が経とうとしているが、生活の基盤が整っている全寮制の生活は、ぼくにとっては天国のようだ。
友達は色々な性格の者がいるけれど、嫌な奴とは関わらなければ済むことだし、概ね可愛い奴がほとんどで居心地は良いし、今の生活は満足している。
が、しかし、寮の同室者が問題なのだ。
彼は広瀬大智と言い、連日ぼくを悩ませている。
何故、よりにもよってぼくと同室になったのだろう。
広瀬は小柄だがしなやかな体をしていて、顔が小さく大きな目が印象的だ。
その大きな目はヘテロクロミアらしく、片方が薄茶色で、もう片方が濃い茶色をしているが、近くで見ないと気がつかないかもしれない。
ぼくはその瞳で見つめられると、とても不安で落ち着かなくなるから苦手だ。
その広瀬は朝が苦手で寝坊ばかりしているため、とうとう寮長がぼくに「犬童君、広瀬君の遅刻が多くて先生方がお怒りなんだ。
頼むからどうにか叩き起こして、授業に間に合うように連れて行ってくれないか」と頼み込んできた。
ぼくは朝七時にアラームをセットするが、彼はアラームが鳴っても起きたことがない。
身支度を整えてから声を掛けても一向に起きる気配がないので、このあたりからぼくのイライラはつのっていく。
二段ベットの下のカーテンを乱暴に開けて、肌掛け布団を剥ぐと、彼はようやくモソモソと体を動かす。
「ねえ、もう七時半だよ。早く起きて! ぼくは学食に行くけど、広瀬君も起きないと朝食抜きになっちゃうよ」
ドアノブに手を掛けふり向いて様子を伺うと、あ! やっぱりまた布団を被った。
プチっと切れたぼくは洗面台に行って、蛇口をひねってタオルをビショビショに濡らし、少しだけ絞ってから彼の枕元まで行き、布団を剥いで、おもいきり濡れタオルを彼の顔めがけて投げつけた。
ビチャッと音がして、
「痛い! 冷たい!……ああ、酷いなあ」
ふわぁと大あくびをしながら起き上がり、彼は呑気に「おはよう」と言った。
「ぼくはもう行くけど、早く支度しなよ!」
冷たい目で一瞥してから、ぼくはドアを開けて部屋を出る。
ちょうど隣室から出てきた隣のクラスの清水桜雅と、廊下でバッタリ会った。
「おはよう、何だか朝から不機嫌そうだね。広瀬君が原因?」
みんな事情は知っているので、同情してくれる。
「うん、そう。いい加減にしてほしいよ。どうして起きられないのかな?」
うんざりして、思わず大きいため息を出してしまった。
「ちょっと耳にしたのだけど」
彼は廊下の隅にぼくを連れて行き、
「岡田君が夜中に目が覚めて眠れなかったときにさ、談話室でゲームでもしようと廊下を出たら、外に人がいるのが見えたんだって。誰だろうと窓の外をよく見ると、広瀬君だったらしいよ。真夜中にいったい何をしていたのかな?」
眉をひそめて言う清水は、見かけ通りたぶん気が弱いと思う。
同じクラスでないので、断言は出来ないけれど。
「え? ぼくは気がつかなかったな。そんなことがあったの? へえ、今度から気を付けてみるよ」
ぼくは考え込んでしまった。
これは広瀬が夜間に外出しているということなのか?
だから朝起きられないのか?
ぼくは何となく胸騒ぎを覚えた。
その日から広瀬を注意深く観察すると、彼はとにかく寝るのが遅い。
ぼくはそれまで先に寝ていたけれど、彼が寝入るまで起きていると寝不足になり、おかげでぼくまで何回か遅刻をしてしまい、寮長から注意を受けてしまった。
そろそろ広瀬の世話は無理だと感じたころに、透磨さんから映画鑑賞のお誘いを受けた。
透磨さんは不思議な人で、ウェアウルフの中でも特にぼくは鼻が利くが、透磨さんのような匂いはこれまで嗅いだことがない。
彼は天才で、輝月城学園で特別講師をしている。
十八歳になったばかりなのに、すでに輝月城大学を卒業しているらしいが、小柄で細く童顔だから、ぼくの同級生と言ってもまかり通ってしまうかもしれない。
ぼくなんかよりも、はるかに偉大な力を持っているが、少しも誇示しないところが透磨さんらしい。
ぼくは彼を尊敬しているから、今度の休日が待ち遠しくて仕方ない。
ああ! 早く休みになればいいのに。
山を下りたところにある街には大型商業施設があり、ショッピングは勿論、書店やゲームセンターからレストラン街も整っている。
映画館もその施設内にあり、今日は透磨さんと推理ものを見る予定だ。
学園から休日に遊びに来ている学生は、ほぼここの施設内にいるから、帰りは誰かしら見つけてタクシーの相乗りで、割り勘で帰るのが学生たちの習慣になっている。
透磨さんに会いたいときは、学園内の図書館に行けば大概は見つけることが出来るが、忙しく調べものや、書きものをしている彼に声を掛けにくい。
だから今日会うのは入学式以来だ。
映画が終わってから同じフロアにあるカフェに入って、ぼくはフルーツパフェを、透磨さんはケーキセットを頼んだ。
「久しぶりだね、碧人君。元気そうじゃないか」
透磨さんはショートケーキを頬張り「うん、美味しい」とニッコリして、
「学園はもう慣れた?」と紅茶を飲みながら訊いてきた。
ぼくはパフェをスプーンですくって舐めながら
「ごめんなさい」と謝った。
「え?」不思議そうに首を傾げる。
「ぼくが続けて遅刻をしたから、そのことで透磨さんにも話がいきましたか?」
透磨の視線に耐えられず、パフェをつつくことに集中する。
「どうしてそう思ったの?」
透磨は面白そうに訊いてくる。
「だって、透磨さんは上映中ほとんど眠っていたから。だから映画を見たくて、ぼくを誘ったのではないでしょう?」
「あはは、碧人君は本当に状況判断が鋭いな。うん、確かに。実は夕べは乗りに乗っていて、徹夜で論文を書いてしまったから、さっきは睡魔に勝てなかったんだ。あの映画は犯人がすぐわかるストーリーだったから、尚更眠くなってしまったみたい。でも、ぼくの方こそごめんね。横で寝てられたら気分が悪かったでしょう?」
申し訳なさそうに謝る。
「いいえ、ぼくがだらしないのが悪いのです」
ああ、透磨さんにこんなことで心配をかけさせてしまって、穴があったら入りたい。
「ふふふ、何があったの? 話してくれる?」
穏やかに訊くが、ぼくはにこやかに話す透磨さんを直視できない。
「はい。広瀬君が夜中に出歩いているのを見た友達がいて、だからぼくは見張ろうと眠いのを我慢して、彼が寝るまで起きていることにしたのですが、逆に寝不足がたたって、寝坊が続いてしまいました。ああ、恥ずかしいです」
碧人は顔を赤くしてうつむいた。
「うん、そうか。ねえ、碧人君、君の本業は学生でしょう。まず、第一に考えるのはそれだよ。寮長に頼まれたことを、忠実にやるのは素晴らしいことだと思う。でも、君の本業をおろそかにしたら、それは本末転倒だから。無理そうなときは、ちゃんと言わなければいけないよ。そのために寮長や生活相談員がいるのだから」
穏やかに優しく、しかし厳しく透磨は教える。
「はい。ぼくもこれ以上は無理だなと感じていました」
「うん、君はこれまで通り、朝起きたときに声を掛けて、後は本人に任せればいいよ。君はちゃんと学業に精を出すように。ところで、ウェアウルフとしては、広瀬君をどう感じた?」
透磨は何かを期待して、目をキラキラさせている。
「彼は……、広瀬君はキャットボーイです。最初は分かりませんでした。もともと彼らの体臭はほとんどないので、同室になって身近に生活しなければ、鼻の利くぼくでさえ気がつかなかったと思います」
「うん、そうか。さすが碧人君だ。この先はぼくらに任せなさい。そうそう、寮長が君に負担を掛けさせてしまったと、すごく恐縮して謝っていたよ」
そう言って満足そうに、微笑んだ。
「用があるから碧人君は先に帰ってくれる? 友達を見つけてタクシーに乗せてあげたら、きっと喜ぶよ」
カフェを出てから、透磨がタクシー代を手渡した。
ここで別れるのは寂しいが仕方がない。
碧人はお礼を言って別れた。
週明けの五日間は、朝の身支度をしてから部屋を出るときに、まだ寝ている広瀬に声を掛けるだけにしたけれど、意外にしっかりと授業には出ていた。
土曜日は起こすこともしないで、様子を見ていたらお昼まで寝ていた。
まあ、いいけどね。
その日は、ぼくも出かけることはしないでのんびり過ごし、夕飯は恒例のバイキングを満足いくまで食べたら、お腹が膨れて早々に眠くなってしまい、服を着たままベットでウトウトしてしまった。
ひと眠りしたころに、窓が閉まったような、微かな音で目が覚めた。
「……広瀬君、起きてる?」
耳を澄ませても、返事は聞こえない。
ベットから起き上がり、彼がいるか確認すると、彼のベットの中は空だった。
急いで窓の外を覗くと、校庭の端を歩いている人影があった。
どうしようか考えたが、明日は日曜日だ。
迷わず後を追いかけようとして窓を開けた……。
まてまて! ここは三階じゃないか!
キャットボーイだからここから飛び降りても平気なのか?
でもぼくには無理だ。
たとえ骨折はしなくても足を挫いてしまう。
急いで部屋を出て、足音を殺して非常口から外に出た。
非常口は、中から外には出られるけれど、外から中には入れない。
入るときはどうしようか……。
まあ、いいや、後で考えよう。
外に出ると、月が異様に白く大きく感じられた。
月光が辺りを明るく透明に照らし、色々な影を作り上げて幻想的な夜の舞台を作り上げている。
風はなく、動いているのは遠く小さな影になっている広瀬だけだ。
はぐれないように後を追うと、山の中腹辺りまで下りたところに建てられている美術館と地域の資料館が、左手に黒い塊となって現れる。
広瀬は二手に分かれているその道を左折し、施設の利用者が使用する駐車場に入って行った。
そこには十数個の影がすでにあり、広瀬は近づいて軽く会釈をしてから、一定の距離を保つように離れたところにあるベンチに座った。
碧人が目を凝らして見ても、会話をするでもなく、誰かが何かをするわけでもない。
二、三十分もしたころにようやく影一つが動き出して、駐車場から出て行った。
その後、一つ、また一つとその場からいなくなり、そんな様子を街灯にとまって、フクロウがじっと観察している。
最後に広瀬が腰を上げて、駐車場から出てきた。
碧人は道の端で座って待ち、目の前を通ったときに声を掛けた。
「こんばんは、広瀬君」
広瀬は相当驚いたらしく「うわ!」と叫ぶとともに、体がピョンっと横に飛んだ。
さすが反射神経が良い。
「え! 誰! 犬童君? こんなところで何をしているの?」
驚きのあまり見開いた目は、彼にはタペタムが備わっているのだろう、反射光のために目が異様に光って見える。
「それはぼくの台詞だよ。夜中に寮を抜け出して、あそこで何をしていたの?」
驚いた様子が可笑しくて、悪いと思いつつ、クスっと笑ってしまう。
「君を起こしちゃったみたいだね。ごめんね」
広瀬は息を整えながら謝るが、理由を話す気はなさそうだ。
「君さ、三階の窓から降りたの?」
「うん、そうだよ。犬童君はどこから?」
「ぼくは非常口から。部屋から飛び降りたら怪我しちゃうよ」
今は夜中の二時ごろかな? 子供二人だけで暗い山道を歩いているのって異様だよ。
誰かに見られたら、大騒ぎになるだろうなあ、と考えながら、あ、寮に入るのに問題があることを思い出した。
「広瀬君は部屋に戻るのも窓から?」
「うん、そうさ」
「ああ、良かった。じゃあさ、部屋に入ったら三階の非常口を開けてくれる? ぼくは三階まで外からなんて登れないからさ」
広瀬は立ち止まって、暗闇の中、光る目でぼくをじっと見る。
「そうだね。ウェアウルフは木登りが苦手だったね」
ニヤッとした表情が見て取れる。
広瀬は核心をついてきた。
それじゃあ、ぼくも。
「ああ。ぼくらが誇れるのは驚異的な持久力だよ。それに比べて、君らキャットボーイは瞬発力と跳躍力だよね」
碧人も広瀬を見つめ返す。
二人だけしかいないという開放感のせいなのか、何だかとても可笑しくなってきて、二人でクスクス笑ってしまった。
笑いながら歩いていくと、学園の明かりが山道に漏れてきた。
「ああ、もう静かにしないと、見つかったらやばいよ。ぼくはすでに一度、寮長に注意されているんだ」
広瀬が「しー」と右手の人差し指を口に当てる。
「うん、知ってる。君が真夜中、校庭にいるところを見た生徒がいるんだよ」
そう言って、碧人はすこし考えてから広瀬に教えることにした。
「あのさ、君が何か問題を抱えているのならば、龍神透磨さんに相談するといいよ。透磨さんならば、きっと力になってくれる」
「あの天才と言われている人? 高等部で特別講義をしているよね」
「うん、そう。ぼくがウェアウルフであることも、君がキャットボーイであることも知っているよ」
「え! 本当?」
光る目が、一層大きくなった。
「うん、だから話しやすいでしょう? 図書館に行けば、会える可能性が高いよ。いつもあそこで勉強しているから」
校庭に着いたのでここで話を止め、ぼくは忍び足で、非常階段で三階まで上がって、ドアを内側から開けてくれるのを待った。
広瀬が身軽にトントンと、外壁の出っ張りに足を掛けて、三階まで一気に登り、窓を開けて入って行くのを見て、曲芸師みたいだなと感心した。
それから開けてもらった非常口から寮に入り、部屋に戻ってから、ぼくらは死んだように眠った。
お腹が空いて目を覚ましたら正午になっていたが、広瀬はすでに学食かどこかへ出かけたようで、ベットはもぬけの殻だった。
広瀬は犬童が目覚める少し前に起きて、今は図書館の出入口の前に佇んでいる。
龍神さんは、ぼくがキャットボーイであることを知っている。
他は?
何か知っているのだろうか?
彼に会うのは少し怖いけれど……意を決して、引き戸を開けて中に入ると、数人が本を積み上げてある間で、せっせと何か調べものをしているようだった。
彼らはチラッとぼくを見てから、視線を手元に戻した。
その中で、じっとぼくを見つめたままの青年がいた。
ぼくは彼の側まで行って、
「龍神さんですか? あ、龍神先生ですか?」と訊ねた。
「ふふ、先生はこそばゆいからいらないよ。君は広瀬君でしょう?」
透磨は興味津々で、目がキラキラしている。
お昼は食べたのか訊かれたので、まだですと答えると、
「ぼくもまだなんだ。今日は天気もいいから、お弁当を貰ってきて外で食べようか?」
透磨は何の用かも訊かずに、机上の本をテキパキと片付けてから「さあ行こう」と広瀬を連れ出した。
「岬には行ったことある? ないの? そっか、中学棟からは行きにくいかもね。景色が素晴らしいところだよ。今日はそこに行こう」
広瀬はオロオロしっぱなしで、透磨に引きずられるように、付いて行く。
水平線がどこまでも続いて見える岬からは、遠くに大型コンテナ船が二隻浮かんでいるのが見えた。
休憩所として東屋が設置されていて、そこに座ると透磨は海風に当たりながら、暫く気持ちよさそうに目を閉じていた。
「誰もいないし、丁度よかった。いい眺めでしょう。ぼくはここで、ぼうとしているのが好きなんだ」
ニコニコしながら広瀬を見つめる。
見つめられて広瀬はドギマギして落ち着かない。
「それで? ぼくに何の用?」
「あ、あの……龍神さんは、ぼくがキャットボーイであることを知っていると、犬童君が言っていました」
伏し目がちだが、ヘテロクロミアであることはわかった。
印象的な瞳だな、と透磨は感じた。
「うん、犬童君はウェアウルフで、君はキャットボーイでしょう。同室でうまくいくか不安だったけれど、大丈夫そうだね」
ニッコリして答える。
「で? ぼくに何の相談かな?」
「…………」
広瀬は何か躊躇していて、なかなか話そうとしないので、仕方なく透磨が話しを進める。
「昨夜、君はキャットピープルの集会に出かけたでしょう? それに気がついた犬童君が、後を追いかけた」
「犬童君に聞いたのですか? でも夜中に帰ってきてから彼はずっと寝ていました。いつ聞いたのですか?」
広瀬は驚いて首を傾げる。
「犬童君に聞いたんじゃないよ。実は昨夜は、ぼくもあそこにいたんだ。誰も気がつかなかったみたいだけど。ふふふ」
広瀬の綺麗な目が、さらに大きくなる。
「あの集会はどんな意味があるの? ぼくには、よく理解できないな」
魅力的な瞳に引き付けられながら、透磨が首を傾げる。
「あれは新参者の挨拶とか、情報交換ですね。まあ、井戸端会議的な感じです」
戸惑い気味に答えると、
「ふうん、君は何の情報が欲しいの?」と突然訊かれた。
「え?」ああ、この人は侮れないと広瀬は思った。
「……君は相談をしに、ぼくに会いに来たんじゃないね。ぼくが、何を知っているか知りたいの? 一体どうしたいの?」
じっと広瀬を観察しているのがわかる。
「……昔のことです。あの駐車場で、子供が迷子になったのを知っていますか?」
まだ判断が付きかねているらしく、広瀬は言い難くそうに話す。
「うーん、ちょっと違うでしょう。じゃあ、ぼくが言うね。十三年前に美術館に訪れていた夫婦が、駐車場で捨て子を発見しました。寒い夜にも関らず、数匹の猫が赤ん坊を温めてくれたので、大事に至りませんでした。その後、夫婦は自分の子として、彼を大切に育てました」
透磨が話しだすと、広瀬はこぼれ落ちそうなほど目を見開き、小さく震えだした。
「そ、そんなことをどうして知っているのですか?」
「だから君は、何を知りたいの? 今更生みの親の消息? 育ての親では不満なの?」
透磨は眉間に皺を寄せる。
「不満なんてありません。父も母も兄も良い人です。実の子と分け隔てなく育ててくれます」
広瀬は目を伏せ、体の震えを止めるように腕を組んだ。
「……ここの学費は決して安くないはずだよ。それなのに、入学早々遅刻で注意されたり、夜中に出歩いたりして、どういうつもり? ご両親に悪いと思わないの?」
らちが明かないので、透磨はイライラしてきた。
「君が何に悩んでいるのか知らないけれど、無理に聞こうとは思わないよ。ぼくに話すことがないのならば、これで終わりにしよう」
ふう、とため息をついてから弁当を片付け、立ち去りかけたときに、手先をじっと見ていた広瀬が、透磨の背中に弱々しく声を掛けた。
「ぼくがキャットピープルの仲間に入らないと、家族が危ない目に遭うんです」
予想しなかった言葉に透磨が振り返ると、広瀬の潤んだ大きな瞳から、今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。
「どういうこと? 最初から話してくれる?」
改めて広瀬の前に座り直す。
「入学早々に、手紙が届きました」
泣かないように気を静めながら、ぽつりぽつり話し始める。
「差出人は書いてありませんでした。ぼくがキャットボーイであることを知っていて、真夜中の集会に来るように、書いてありました。勿論、そんなものに行きませんでしたが、その数日後、兄が駅の階段から落ちて入院したと連絡がありました。誰かに背中を押されたようですが、犯人は分からずじまいです」
広瀬は肩を落としてつらそうだ。
「その後、また手紙が届きました。集会に来なければ、また誰かが怪我をすることになると書いてありました。一体ぼくはどうすればいいのですか?」
頭を抱える広瀬を見て、透磨は可哀そうなことをしたと反省した。
「それで、何が目的なのかわかった?」
「縄張り争いにぼくを引き込んだんです。集会場の近辺一帯は、共有と言うか、あやふやな領域みたいです。それをある一族が、奪うつもりのようです」
「ああ、分かってきた。祢古間一族でしょう?」
「知っているのですか?」広瀬は心底驚いたようだった。
「うん、実は君は、祢古間一族のキャットウーマンと、一般男性との間に生まれたハイブリットなんだよ」
「それは本当ですか?」
驚きのあまり、瞬きを忘れているようだ。
「祢古間一族は、集会ではそれを教えてくれなかったの? もっともあいつらは、君のことなど利用できる単なる駒としか、考えていないようだね」
透磨は水平線に視線を移し、何やら考えているようだった。
「それで、君は何をやれと言われたの?」
「集会に来る者の中で、長に当たるメンバー数人を覚えること。後日ぼくが彼らを襲い、その主要人物を削除してから、自分らのテリトリーを広げるつもりのようです」
「なるほどね」
透磨は、くくっと薄笑いをして、楽しそうに話す。
「広瀬君、入学してから今日まで苦労したね。でも、もう大丈夫だよ。あとはぼくに任せて。君は集会に二度と参加してはいけない。これから君は、この学園でたくさん勉強して、友達を作って、大いに遊びなさい」
ニッコリと微笑んで、透磨が広瀬の手を取る。
「祢古間一族は、ハイブリットだということだけで、君を捨てた。君の育ての親は、君が奇妙な子でも大切に育ててくれた。どちらが君にとって、本当の親なのかわかるね?」
透磨は綺麗な広瀬の瞳を覗きこむ。
「もちろんです。ぼくは家族が大好きです。でも、彼らが危ない目に遭いませんか?」
「うん、大丈夫。ぼくが、そんなことはさせない」
透磨が力強く言ってくれるので、広瀬は不安な思いを和らげることが出来た。
「犬童君もね」透磨は穏やかに語りかける。
「彼がウェアウルフのせいで、小学生の時は孤独で苦労したんだよ。彼ならば、隠し事なしの君と友達になれると思うよ。今朝はまだ犬童君と会ってないの? 彼はきっと心配しているよ。さあ、帰ろうか」
二人は岬を後にして、図書館の前まで来ると、
「広瀬君は、もう遅刻はしないようにね」
と別れ際に透磨に言われ、広瀬は顔を赤くして「はい」と答えた。
寮に戻ると、犬童が不機嫌そうに待っていた。
「どこに行っていたのさ。昨日の今日で、ぼくは心配したよ」
頬をぷうと膨らませて文句を言う。
「ああ、ごめん。教えてもらったように図書館に行って、龍神さんに会ってきた」
「え! そうか。うんうん、色々話せた?」
犬童が嬉しそうに訊くから、ぼくは「うん」と言って、ちょっと考えてから、龍神さんに伝えたこと、言われたことを正直に教えた。
「そんなことがあったのか。酷いやつらがいたものだ。でも、透磨さんが大丈夫と言ったなら、もう安心していいよ」
心底ほっとしたように犬童が言うものだから、ぼくの心も何だか軽くなった。
そして一緒にランチがしたかったのに、とまた彼が不機嫌になったのを見て、可笑しくなった。
それからのぼくは、集会のことは考えないようにして過ごし、規則正しい生活を取り戻した。
前回の集会に行ってから一週間後の土曜の午後に、龍神さんから伝言を貰った。
犬童君と一緒に、今夜は外泊届を出して、夕飯を済ませたら遠藤先生のところに行くように、とのことだった。
何事かとぼくは不安に陥ったが、犬童君は、
「きっときみの問題が解決するんだよ」
とワクワクしているように見える。
「ねえ、遠藤先生って誰? 犬童君は知っているの?」
泊まりの支度をしながら訊くと、
「うん。遠藤先生は高等部で生物を教えていて、透磨さんが唯一、頭が上がらない人だよ。透磨さんは、時々連絡をしないで外泊するものだから、そのたびに、遠藤先生に叱られるんだ」
クスクスと笑い、
「あ、ちなみにぼくの父も、高等部で日本史と世界史の教師をしているんだ」
と思わぬことを口にした。
「え、本当? 知らなかったな」
「中等部では関係ないから、あえて言わないようにしている。何だか面倒くさいし」
犬童は照れながらパジャマや洗面道具を鞄に詰め「ご飯食べに行こうか」と言った。
食事を済ませて遠藤先生に会いに行くと、先生の部屋に案内された。
先生は大柄で、細い黒のフレームの眼鏡を掛けていて、柔道をしていそうな先生だった。
広瀬の兄はスポーツマンで、引き締まった体をしていて、先生よりも小柄だけれど雰囲気が似ていて、優しそうだと感じた。
「碧人君久しぶり。今日は雪哉先生のところに泊まってもらうよ。お父さんと会うのは久しぶりだろう? 明日はゆっくりと親子の会話をするといい」
樹生がココアを入れて碧人に渡してから、広瀬に振り向いて、
「君が広瀬大智君か。初めまして。脅迫されているんだって? 可哀そうに苦労したね。でも早めに分かって良かったよ。たぶん、今日で君の心配事は、なくなると思うよ」
とココアを渡し「君は、ここに泊まってもらうね」とニッコリする。
「先生、今日はこれからどうするのですか? 透磨さんは?」
碧人がココアを飲んで、「ああ、美味しい」と言いながら訊いた。
「透磨は今忙しく動き回っているよ。ふふ、碧人君なら知っているだろう? こういうときの透磨は、行方知れずになるんだ。今夜は透磨が、緊急集会を招集したみたいだよ。僕らはその集会を見学しに行くから、君たちはそれまでここで仮眠を取っていて。僕はまだ学校の用事があるから、ちょっと出かけるね。ココアを飲み終えたら、歯を磨くんだよ」
と言って部屋を出て行った。
暗くした部屋に月明りが差し込んで、広瀬の瞳が光りだした。
とても寝てなんていられない。
微かな寝息が隣から聞こえる。碧人は寝たようだ。
広瀬はベットから起き上がり、窓際に肘をつき校庭を見下ろしながら、これからのことを考えると、心臓がドキドキしだした。
血が血管の中で波打ち、遠くでザアザアと耳鳴りがする。
集会にいるのが、ぼくでなく龍神さんだと知って、祢古間一族がどんな反応をするのだろうか?
不安に飲み込まれる、と感じたときにドアがそっと開いた。
樹生が入ってきて、広瀬が起きているのに気が付くと、
「どうしたの? 眠れなかった?」と小声で話しかける。
「はい。祢古間一族がどんな態度をとるか心配になって……」
「そうか、心配ないといっても無理か……。だからか、透磨が君たちを連れてくるように言ったのは」
樹生は一人納得して広瀬の肩に手を回し、月光に顔を照らしながら、
「僕たちもそろそろ出かけるけれど、君にとって忘れられない夜になるよ。いい意味でね」
広瀬の顔を覗き込んで、静かに言ってから、碧人に声を掛けた。
「さあ起きて、碧人君。雪哉先生も玄関で待っているよ」
先週のように風もなく、月が綺麗な夜だ。
暗い森に蠢く沢山の命が発する音色が、あちこちから聞こえる。
幻想的な暗闇の中を、四人で静かに山道を下っていくと、街灯に照らされた駐車場に、十五、六人の影が集まっているのが確認できる。
ただ、先週との違いはお互いの距離を取っておらず、集まってガヤガヤしていることだ。
「おい、今日の集会は何だ? 龍神って誰だ?」
「緊急って言われたぞ? 何か問題が起きたのか?」
あちこちで不満な声が起こる。
そのとき、街灯にとまっていたフクロウがホーホーと鳴いて、集まっている者の輪の中に舞い降りたため、一斉にみんなが注目した。
フクロウは人型に変化したため、それを見て、驚きのあまり誰も声をあげる余裕がなかった。
「こんばんは。お集まりくださって感謝します。ぼくが緊急集会を招集した龍神透磨です」
茫然としているキャットピープルたちに、フクロウから人に戻った透磨が話しだす。
「誰? 何の用だ?」
みんなが怪訝な顔をしている。
「実はうちの生徒が、あ、そこの輝月城学園ですが、その生徒があなた方キャットピープルに脅迫を受けていまして、大変迷惑を被っています。そこで今日は解決するために、集まっていただきました」
そう言って、祢古間を見ると睨み返している。
「何のことだ?」
祢古間一族以外は、訳がわからないようだ。
「うちの生徒の広瀬と言う者が、ここで行われる真夜中の集会に出ろ、と強要されています。出ないと、彼の家族を傷つけるというのです。実際に彼の兄が、駅の階段から突き落とされて、入院しました。仕方なく彼が集会に出ると、寝不足のために、翌朝起きられなくて授業に遅刻するので、非常に困るのですよ。祢古間さん」
透磨が祢古間を見つめて言うと、名前を言われた祢古間はギョッとしながらも、
「何のことだか分からない」と白を切る。
他の一族は黙って見守ることにしたようだ。
すると透磨の目が、キラキラしてきた。
「広瀬君は集会に参加して、メンバーの長の顔を覚えさせられ、後日襲撃するよう命令されています。そしてあなた方の長が不在の中を見計らって、この場所を祢古間一族のテリトリーにする計画みたいですよ。そうでしょう? 祢古間さん」
透磨がニコニコしながら言うと、あちこちで「何だと!」「本当か!」と怒りの声が上がる。
「嘘を言うんじゃない! 真っ赤な嘘だ!」
祢古間が慌てて否定する。透磨は腕を組んで、目を細めて冷ややかに祢古間を見る。
「広瀬君は十三年前に、ここに捨て置かれました。寒い夜で、猫たちが温めてくれなければ死んでいました。ここに置いたのは祢古間一族です。祢古間一族の女性と、一般男性との間に生まれたのが広瀬君です。だから、彼はハイブリットです。純血種でないため、祢古間一族は彼を見放しました。ぼくは祢古間一族を軽蔑します。でも、もしかしたら、何か理由があるのかもしれないと、調べることにしたのです」
祢古間は微動だにしなかったが、透磨は冷たくジロリと睨んで、
「調べていくうちに、彼の兄を突き落とした犯人を見つけました。犯人は祢古間陸といい、長であるあなたの弟です」
透磨が祢古間の長を指差す。
「全くの出鱈目だ! これは陰謀だ! 我々を嵌めようとしているんだ! こいつが大嘘つきなんだ!」
祢古間が逆に透磨を指差した瞬間、透磨がブチっと切れてトラに変身し、祢古間の顔の前で鋭い牙を剥きだして、身の毛もよだつ声で吠えた。
恐ろしさのあまり、祢古間は目をむいて腰を抜かしたが、それは周りの者も同じだった。
唸っているトラは、今にも飛び掛かりそうで、離れて見ていた樹生は、ハラハラしている。
「透磨はどうしたのだろう。いつになく感情的だ。あんなに怒っているのを見たことがないよ」
樹生が心配していると、
「彼は嘘が大嫌いだと言っていましたから、嘘つき呼ばわりされたので怒っているのではないでしょうか? 先生、透磨君ならば大丈夫ですよ」
雪哉が静かに言った。
広瀬は透磨が獰猛なトラになったのを見て、ビックリして腰が抜けそうになるが、犬童親子も樹生も、それには平気な様子なので、さらに、それにもビックリしている。
透磨はハアハアしながら人間に戻ったが、それでも気持ちが収まらないのか、歯は鋭い牙のままだ。
「ああ! 怒りが収まらない。どうしよう。おまえを食い殺しそうだ」
祢古間を見て、舌なめずりしたものだから、
「やめろ! やめてくれ!」
と頭を抱えて、ブルブル震えながらうずくまる。
それを見て透磨が、ふんっと言って牙を収めた。
「ぼくは、嘘はついていません。証人を連れてきますよ。サン! 連れてきて!」
大きな声でそう言うと、燃える大きな狼が漆黒の森の方から、辺りを炎で照らしながら現れ、口には男を咥えて空を飛ぶようにやってきた。
そして、ポイと透磨の足元に男を放り投げた。
見たこともない大きな狼を見て、キャットピープルたちは、また恐れおののいて、座り込む。
「ありがとう、サン。海斗君のところに戻って遊んでいいよ。ご苦労様」
サンは透磨の手をペロッと舐めて一声咆哮し、また来たほうへ、悠々と戻って行く。
「この男が祢古間陸です。ああ、みなさんは知っていますね。この男が、広瀬君の兄を病院送りにしたのです。おい! そうだな?」
透磨が気を失いそうな男に訊くと、男は弱々しく「そうです」と答えた。
「おまえたち祢古間一族は、ここ一帯のテリトリーを奪おうとしたんだな?」
男はブルブル震えながら「そうです」と答え泣き出した。
「おまえ、警察に自首して、広瀬君の兄の件を正直に話せ。いいな!」
透磨がジロリと睨んで言うと「わかりました」とさらに泣き出す。
「みなさん、だいぶ驚かせてしまいましたね。すみません。ぼくの言ったこと、信じてもらえますか?」
満足そうにニッコリする。
「ええ、もちろんですよ」
祢古間以外のキャットピープルたちは、しどろもどろに答えた。
「ああ、よかった。祢古間一族の処分は、あなた方に任せます。でも、この件に関与していない祢古間たちもいるのですから、そこのところは、よろしくお願いしますよ。……それから、猫田さん、猫俣さん、猫屋敷さんの長の方、ここに来てもらえますか?」
呼ばれた長三名は、何事が起こるのかと、びくつきながら透磨に近づく。
「広瀬君、ちょっとここに来てください」
急に呼ばれた広瀬も、ドギマギしながら透磨のところに行く。
「彼が十三年前にここで救助された子供です。広瀬君、彼らの飼っている猫のおかげで、君は生きられたのですよ」
長三名と広瀬が「え!」という表情をしたが、透磨はそれを見てニヤリとする。
「ありがとうございました」
広瀬が頭を下げて礼を言う。
「そうですか、君があのときの……、りっぱな少年に成長しましたね。良かったです」
長の中でも一番の年長者が応えた。
「彼は優しい両親と兄に育てられて、十三歳になりました。家族は一般の人です。ハイブリットの彼は立場が曖昧で、この先のことはまだ決められない年齢です。ですから彼が親元を離れるまで……、二十歳になるまでは、集会には不参加でお願いしたいのです」
透磨が提案すると、最年長の長が暫く考えていた。
「そうですね。私たちも君のような子は初めてなので、慎重にしたほうがいいでしょう。二十歳になったら声を掛けます。その気になったら、そのときは集会に参加してください。それまでは、そちらの世界で存分に生きてください」
長は慈愛に満ちた眼差しで、広瀬を見て答えた。
「はい、ありがとうございます。ぼくもそれまでに自分を見つめ直します」広瀬も満足そうだ。
「今日はみなさん、お忙しいところありがとうございました。我々はもう帰ります」
「いやいや、龍神さんのおかげで、争いが起こることなく、解決出来てありがたいです。いつかまたお会いしましょう。では、ごめんください」
キャットピープルたちと別れを言って、透磨たちは山道を登って学園へと帰路に着いた。
透磨たちの進む先を月が優しく照らし、その先には遠くに学園のシルエットが浮かんでいる。
彼らはそこに向かって、足取り軽く歩いて行く。
「これで心配事はなくなったかな? 広瀬君」
透磨が輝く星を見上げながら訊いた。
「はい、龍神さん、ありがとうございました。犬童先生、遠藤先生、ありがとうございます。碧人君、ありがとう」
感極まって、声を震わせながら広瀬は礼を述べる。
「君には、この学園にいる間は難しいことは考えずに、沢山学んで充実した学生生活を送って欲しい。大学に行く年齢になったら、その先の人生について、キャットピープルの人たちとの付き合いについて考えてもらいたい。そしてこの生活が出来るのは、ご両親のおかげであることを、忘れてはいけないよ」
透磨が穏やかに言うと、広瀬は「はい」と答えた。
「あのね、ぼくと遠藤先生は、君のお兄さんとも縁があって、よく知っているんだよ」
「本当ですか?」
広瀬は透磨を見て、嬉しそうな顔をする。
「うん、広瀬智也さんは、去年の新入生歓迎登山で大活躍したときに、先程のサンに会っているし、学園で女の子の霊にも会っている。それに海水浴に行ったときには、海神の娘に誘拐されそうにもなったよ。
だからきみがキャットピープルとのハイブリットだと告白しても、きっと驚かないで普通に受け入れてくれると思う。彼は懐が広いし、とても感が鋭いから、もしかしたら、もう薄々感づいているかもしれない」
広瀬の瞳が大きくなって、キラキラ輝きだした。
「ああ、龍神さんはそう思いますか? だとしたら、ぼくはとても嬉しいです。今度兄に会ったときに話してみます」
「それが良いよ」と言ってから、みんなの前に進み出て、
「雪哉先生、樹生さん、来ていただきありがとうございます。碧人君も眠い中ありがとうね」
透磨はニッコリして礼を言った。
「いやあ、透磨君の采配には感服しました。お見事です」雪哉は褒めたたえ、
「うん、何で僕たちを呼んだかよく分かった。さすが透磨だよ」
樹生も真夜中に出かけたことを納得していた。
碧人は大人しくしていたが、訊きたいことがあり、ソワソワしながらタイミングを計っている。
「透磨さん、サンはどこに行ったの?」
さっきから気になっていることを訊く。
「海斗君とこの山一帯の探検をしているよ。サンは火の精サラマンダーと仲良くなったものだから、燃える狼になって、毎晩、機嫌よく出かけている。寮の窓から遠くがぼんやりと明るく見えたら、それはたぶんサンだと思うよ」透磨はふふっと笑った。
「この山で起きていることならば、彼らに聞けば大抵わかる。集会に、うちの生徒が参加しているのを教えてくれたのも、海斗君だよ」
透磨がニンマリして広瀬を見ると、顔を赤くしてうつむいてしまった。
「ねえねえ、海斗君って誰? サンって何?」
広瀬は照れ隠しに、碧人にそっと質問する。
「ぼくも詳しくは知らないけれど、海斗君はこの学園の生徒だったけれど事故で亡くなり、でも行方不明で遺体も見つかっていないので、現世に留まっているんだって。だから地縛霊にならないように、透磨さんがはめている指輪に憑依しているらしい。サンは海斗君のペットで、可愛い犬の霊魂だよ」
「へえ、そうなんだ」
碧人がひそひそ話で教えたが、広瀬が理解するには、もう少し時間が必要だ。
「ぼくはトラになった透磨さんの背中に、乗ったこともあるんだよ」
碧人は嬉しそうに、満面の笑みになった。
そのとき、遠くで犬の遠吠えが聞こえ、碧人と広瀬が目を合わせて「サンだ」と言って、クスクス笑った。
静かな夜で、聞こえるのは虫の音ばかりで、競って演奏している。
ぽっかりと浮かんでいる月を追いかけるように歩いていくと、学園の明かりが見えてきて、校門が目の前に現れた。
「さあ、学園に着いた。今日は日曜日だから、ゆっくりと朝寝坊をしましょうか」
透磨はふあぁ、と大あくびをしながらみんなに提案した。
一学期の試験が済み、修了式までの十日間は、主に体育や芸術に費やされる。
二クラス合同で行われる体育の授業は、三組と四組が一緒で、これから校庭でサッカー試合をする。
ジャージ姿の碧人と大智は四組で、授業の始まる前に校庭の端で、入学してから初めて迎える夏季休暇の過ごし方を話し合っていた。
碧人が夏休みになったら、ウェアウルフパックに長く滞在できることを、楽しそうに話しているのを大智が聞いていると、目の端に黒いものが飛んできたのに気がついた。
視線をそれに向けると、青々と手を広げている枝に、何十羽ものカラスが留まっている。
「ちょっと! あれ見て。カラスがあんなに木に留まっている」
大智が手で碧人の後ろを指し示すと、碧人が振り返る。
「うわあ! どうしたんだろう。ちょっと気味悪いね」
二人はカラスの大群に気づくと、眉をひそめた。
他の生徒も木々を指差して、ひそひそと話しだす。
体育教師が校庭に出てきて、
「何だあ、あのカラスは!」と驚きながらも「はい、整列〜」と生徒を呼ぶ。
試合はクラス対抗で前半はA班同士、後半はB班同士でやる。
碧人も大智もB班なので、取り敢えずコートの外に出ると、ほどなくしてホイッスルとともに試合が始まり、両選手はボールを追った。
選手以外の生徒たちが、自分のクラスの応援に夢中になっていると、一羽のカラスが滑空しながらコートに下りて来て、そのまま脅し飛行をはじめた。
「危ない!」とあちらこちらで驚きの声が上がったが、カラスは選手の頭上すれすれに飛んで木に戻り、ガァガァと鳴くと、木に留まっていたカラスが一斉に飛び出した。
何十羽ものカラスが、青く晴れ渡った空を旋回し、そのウネウネ動き回る影を校庭に映した。
校庭に黒く描かれる様は不気味で、まるで地上に舞い降りた悪鬼が、喜び踊り狂っているようだ。
試合をしていた生徒は、その校庭に描かれる、黒い悪鬼を目にしてコート内で立ち止まり、不安そうに空を見上げる。
ひと際大きく一羽がカッカッカッと鳴くと、上空を舞っていたカラスが一斉に生徒めがけてスレスレに滑空してきた。
それを見た途端、生徒たちは悲鳴を上げて逃げ惑ったが、中には足がもつれて転んだり、逃げるのを諦めてしゃがんで頭を抱えてうずくまる者もいる。
カラスは一人の生徒の頭部を脚で蹴って、そのまま何事もなかったように飛び去った。
「何! あのカラス……ああ、怖かった!」碧人が胸に手を当てて、
「大智君、怪我しなかった?」と訊くと、
「うん、大丈夫」不機嫌そうに大智が答えた。
二人は昇降口まで逃げてきたが、校庭で呆然としている生徒も多くいた。
怪我人は逃げる際に転んだ生徒数人だけですみ、カラスに足蹴りされた生徒に怪我はなかった。
近くにカラスの巣があるかもしれないと、先生が校庭や近くの木を調べ回ったが、どこにも巣は見つからず、結局カラスが威嚇してきた理由が分からず、困っていた。
その後、他のクラスが屋外で体育の授業をしても、カラスは一羽も現れなかったので、この件はうやむやに成りつつある。
しかし土曜日に衝撃な事がまた起こった。
一年三組の学生数名が街に遊びに繰り出した際に、また十数羽のカラスに襲撃を受け、その中の一名がカラスに頭を足蹴りされたそうだ。
詳しく聞いてみると、先日のサッカーのときに襲われた人物と同じらしい。
襲われた少年は酷く怖がっていて、屋外に出るのを嫌がり体育の授業を欠席するようになった。
大智がその情報を仕入れてきて、
「ねえねえ、カラスの件だけどさ、二度もカラスに襲われたのは、隣の部屋の清水桜雅君らしいよ」
碧人に、たった今聞いてきたことを教えると、
「え? 彼が二度も? 何でだろう」
碧人が首を傾げて、不思議そうな顔をする。
「大方カラスを苛めて恨みでも買ったんじゃないの? カラスって頭良いって聞くよ」
ぶっきらぼうに大智が答える。
「清水君は、そんなことをするようには見えないけどな」
碧人はじっと大智を見て、
「君さ、清水君が嫌いなの?」
と訊くので、大智は驚いたようだ。
「え? 何でそんなこと言うの? 嫌いも何もクラスが違うから、彼のことはよく知らないよ」
「だって、このあいだから彼が関わることに、不機嫌そうなそぶりをするからさ」
「ああ、そうだった? ごめん、気がつかなかった。清水君は関係ないよ……。何かぼくは、カラスが苦手なんだよ」大智は大きなため息をついて、
「カラスとは関わりたくないな」とつぶやく。
碧人はそんな大智を横目でチラッと見ながら、
「ぼくはちょっと隣に行って、清水君に会ってくるよ」
と椅子から立ち上がり、廊下に出ようとした。
「あ、待って。ぼくも一緒に行くよ」
大智が碧人に近づいて、彼の肩にポンと手を置き、
「君は困っている人がいると、ほっとけない質だものね」
と言って、ニッコリ微笑んだ。
清水の部屋は昼間なのに、カーテンをぴっちりと閉め、照明を煌々と点けているので、碧人が窓際に行ってカーテンを開けようとすると、清水がそれに気がつき、
「止めて! 開けないで! カラスが見ているから!」
と悲鳴に近い声で叫ぶ。
かまわずカーテンを開けると、目の前にある木の枝に、カラスが一羽とまっていて、碧人とバッチリ目が合った。
「うわ! ビックリした。なんだ、このカラスは、生意気だな。しっ! しっ!」
追い払おうとしても太々しく、じっと碧人を見つめてくる。
さすがに気味が悪くなり、カーテンを閉めた。
見ると、清水は頭を抱えて小さく縮こまっている。
「清水君、大丈夫? えっと、同室の富沢君はどこに行ったの?」
一人きりで怯えているのが気になって訊いた。
「富沢君は……カラスがあそこにずっといるのを気味悪がって、友達の部屋に行っちゃった」
精神的に参っているのだろう、手が小刻みに震えている。
それに気が付いた碧人が、
「ぼくは透磨さんに相談してくるから、大智君はここにいて清水君の話し相手になってあげて」
そう言って、急いで部屋から出て行った。
ずっと下ばかり見ている清水を、どう扱ったらよいか、大智も困惑している。
「ぼくもね、カラスは苦手なんだよ。災難だね……。こんな目に遭う理由わかる?」
隣に腰かけ顔を覗き込むと、涙目の清水と目があった。
「ぼくはカラスを、ううん、生き物を苛めたことなんてないよ。だから全くわからない。どうしたらいい? ねえ、どうしたらいい?」
今まで一人で抱えてきた反動が出たのか、清水は大智の両腕をギュッと強く掴むと、助けを求める瞳で、ひしと見つめる。
「落ち着いて、大丈夫だよ。ぼくも碧人君も君の力になる。きっと大丈夫」
大智は自分も悩んでいたときに、碧人に助けられたことを思い出していた。
「龍神透磨さんって知っているでしょう? 碧人君が透磨さんのところに行ったから、きっと力になってくれるよ」
クラスが違うので共通の話題を見つけて、たわい無いおしゃべりで清水の緊張をほぐしていると、ドアをノックして碧人と透磨が入ってきた。
透磨が閉め切った部屋に入るなり窓際に行き、勢いよくカーテンを開けると、相変わらず窓の真正面に陣取っているカラスが、こちらを睨みつけている。
透磨が手を広げると、右手の中指にはめている指輪が輝きだしたが、それよりも素早く、カァと一声鳴いて飛び去った。
「ちっ、逃げ足が速いな」
透磨が忌々しくつぶやいて、手を下ろし三人に振り向く。
「やあ、大智君。元気そうで安心したよ……。そして、君が清水桜雅君だね。ぼくは龍神透磨です。よろしく」
透磨が、怯えている清水を目を細めて観察する。
「こんな天気の良い日に、カーテンを閉め切っているのは不健康だね。ぼくの友達がパトロールしてカラスを追い払ってくれるから、今日からはカーテンを開けていても大丈夫だよ」
突然現れて、カーテンを開けてカラスを追い払った、先生と呼ぶには若すぎる青年を目の当たりにし、清水が驚いて見つめていると、透磨がにっこりして、椅子を引き寄せ腰かけた。
「と言っても、根本的に解決しなければ、いつまでたってもカラスに追いかけられるよ」
ベットに腰かけている清水と大智の隣に、碧人も座るように促し、透磨は三人を眺めて暫く考えていたが、ふいに瞳孔が開いて、透磨はここではないところに行ってしまったようだ。
何か異様な雰囲気の中、大智が口を開けかけたときに、碧人が手でそれを制し、静寂な時間が流れた。時が凍りついたこの部屋に、透磨が戻ってきたのは数分経った頃だった。
深く息を吐いてから、心配そうにしている碧人と目が合うと、透磨はニコッと笑い、
「清水君は、カラスに追いかけられる理由は、思い当たらないの?」と清水に視線を移す。
「はい。ぼくには訳がわからないです」
清水は今ここに、何故この三人がいるのか理解できなかったが、自分の言うことに、耳を傾けてくれることに、心が救われる思いがして嬉しかった。
「野生動物は無駄な争いは、いっさいしないものだよ。だから理由は必ずあるはず……。単に君が忘れているのかもしれないね」
透磨は外に目をやったが、そこにカラスはもう見当たらなかった。
「少し肩を触るよ」
と言って透磨が立ち上がり、清水の両肩に両手を乗せると、透磨の指輪が光りだし、その光は清水を全て飲み込んだ。
その光が清水から離れると、頭がガックリと垂れて彼は気を失った。
その隣で大智の目が、驚きのあまり異様に大きく輝いている。
清水の前に立つ、清水に似ている人型の光に、透磨が話しかける。
「あなたは何者ですか。どうして彼のなかに?」
「私は名を持たぬ者。しかし、かつて私のことを、ギンと呼ぶ少年がいました。私は森で生まれ、悠久の時を森の仲間と過ごしていましたが、少し退屈していたころに、この少年に会いました」
後ろで眠っているような清水を振り返り、微笑んだように感じられた。
「彼はとても優しい子です。私たちのいる森に捨てられている、空き缶や空き瓶、ビニール袋などのゴミを拾いに、定期的に訪れてくれます。私は彼をずっと見守ってきました。この春にも、彼は森に来たのですが、渓流沿いを慌てて走っていて、前日の雨で濡れた岩場で足を滑らせ、そのまま流されて滝つぼに落ちてしまったのです。ホワイトウォーターの流れの力で、水中深く引き込まれ、なかなか浮上してきません。ようやく彼が水面に現れたときには、息をしていませんでした。私は彼を助けたいと強く思い、彼に触れると、どういうわけか彼の体の中に引き込まれてしまったのです。彼は私の精気を得て、私の存在を感じることなく息を吹き返し、目を覚ましました。私は彼の意識下の奥深く閉じ込められて、出られなくなってしまったのです」
「あのカラスは何ですか?」
体全体がうっすら銀色にサラサラと輝いていて、とても綺麗だな、と思いながら透磨が訊く。
「私が中々戻らないので、森の仲間たちがふてくされて、せっついているのでしょう。あなたは凄いですね。私を彼の中から引っ張り出してしまった」
透磨を見つめ微笑む。
「あなたを彼から引き離すと、彼はどうなりますか?」
透磨が気がかりなことを尋ねると、とてもためらいながら答えた。
「……たぶんこのまま目覚めないでしょう」
それを訊いて透磨も碧人も大智も、言うべき言葉が見つからない。そんな三人を見て、
「彼のお友達も、やはり優しい人たちですね。心配しないで。私は彼の限りある命に付き合いますから。あなた方の時間は、私にとっては、ほんの一瞬の出来事です。ただ……、あなたの力が必要です。事情を森の仲間に伝えないと、怒り出す子もいるかもしれません。ですから、あなたのその力を使って、私を森の仲間に会わせてください」
そう言ってから、後ろで気を失っている清水に触れると、そのまま彼の体の中に吸い込まれた。
暫くすると、清水が身動きして目を覚ました。
三人が自分を凝視しているのを見ると、キョトンとした顔付きになり、
「ああ、ごめんなさい。ちょっと、ウトウトしてしまったみたいです」
と驚いている三人に向かって、頬を染めて恥ずかしそうに言うのだった。
透磨が外に視線を移して、考え込んでいたが、
「大智君、お兄さんの体調はどうなの?」ふいに話題を変えた。
「あ、はい。退院してからは、家で暇そうにしています。体を動かしたくて仕方ないようです」
急に兄の様子を訊かれたので、戸惑い気味に大智が答えると、今度は、
「そう。清水君は夏休みになったらすぐ家に帰るの?」と清水に振り向いた。
「……はい。……そのつもりです」
清水はぼうとして、何も考えられないようだ。
外の景色を漠然と眺めている透磨の体に、青空を飛んでいる鳥の影が黒く映る。
透磨がぼんやりしている清水を見て、
「ああ、彼は大分混乱しているな。今日はこれくらいにしておこうか。碧人君は暫く彼についていてあげて。大智君はぼくと来てくれる? お兄さんと話がしたいな」
そう言って、もの言いたげな碧人を部屋に残して、透磨は大智を引き連れて出て行った。
透磨が中学棟の寮に来てから数日が経っても、碧人の機嫌が直らない。
「透磨さんは、何でぼくには頼まないのかな?」
食堂で、箸でおかずをつつきながら、ふくれっ面でジロッと大智を睨む。
そんな碧人に辟易しながら、
「もう……、 君はまだむくれているの? 清水君が心配だから家まで送ることになったけれど、君とぼくでは、まだ子供で任せられないからでしょう。ぼくには暇している兄さんがいるから、兄さんが保護者として行くことになったんでしょう。 だって君のお父さんは忙しいから、一緒に行くのは無理だもの」
大智がため息交じりで言う。
「君も一緒に来れば? もっとも透磨さんは先に行っているらしいよ。大学関係の宿泊施設が近くにあって、そこで待っているみたい」
碧人の『透磨贔屓』を知っているから誘ってみると、そう言ってもらうのを待っていたみたいだった。
「え! 一緒に行って良いの?」碧人の顔が、ぱあっと明るくなる。
「お父さんの了解があれば、いいんじゃないの? 早速訊いてみたら?」大智はクスクス笑う。
「ぼくね、旅行中に兄さんに、ぼくが何者か告白しようと思う。それに君のことも紹介したいな」
最後のご飯を口に入れると、お茶を飲んで碧人に、
「いいでしょう?」と訊く。
「うん、もちろん。ぼくも大智君のお兄さんに会いたいな」
碧人も食事を済ませ、
「父さんのとこに行ってくるね」
と言い残して、急いで食堂を飛び出して行った。
大智は「ああ、これで碧人君のご機嫌が直るかな」とホッとする。
そのとき校庭で元気そうにしている清水を目にして、サンがちゃんとカラスを追い払ってくれているのだと安心した。
碧人も無事に許しを得て、四人で出かけることになり、透磨と新幹線の到着駅で合流してから、ここから車で小一時間かかる清水の家まで、レンタカーで向かうことになった。
「智也さんが免許証を持っていて助かりました。バスでは時間のロスが多いですからね」
「いやあ、免許取りたてで、運転したかったんだ。田舎道で交通量も少ないし、丁度よかったよ」と智也はご機嫌な様子だ。
「体の調子はどうですか? おかしなことがあったら、言ってくださいね」
透磨が助手席で、智也の体を気遣う。
「ああ、もう何ともないよ。体がなまって仕方なかったんだ。いいリハビリになる。透磨君が、ぼくを駅の階段から突き飛ばした犯人を、見つけてくれたそうだね。ありがとう」
大智がチラッと碧人を見ると、碧人は熱っぽく透磨を凝視していて、それを見て、どんだけ好きなんだか、と笑ってしまう。
後部座席の真ん中に座っている清水は、話の内容が分からずただ黙っているが、家に帰るのに何故か四人もの人数を引き連れてしまうことに、少々戸惑っていた。
車は山道を北上し、県をまたいでグングン登って行くと、しだいにカーブが多くなった。
カーブを曲がるときに、青空が前方に現れるが、まわりに高い木々が無いため、まるで飛行機に乗っているような、空を飛んでいるような、まるで空中に放り出されるような、奇妙な感覚に陥る。
「怖いくらい景色がいいね」碧人が青空を見上げながら言う。
「そろそろ頂上に着くころだと思いますが、少しゆっくり走ってもらえますか。下り坂になってから左折するのですが、とてもわかりにくいのです」
清水がキョロキョロと、周りに注意しだした。
「清水君。ぼくは君と、滝の所まで一緒に行かなくてはならない。カラスの脅威から逃れるためには、必要なことなんだ。ぼくの友達のサンが、カラスを追い払ってくれているけれど、しつこく君にまとわりついているようだよ」
ぐるりと後ろの座席に振り向いて透磨が清水に告げると、彼はおびえた様子で見つめ返した。
「大丈夫だよ。ちゃんと話はつけるからね。滝まではどのくらいかかるの?」
「一時間ぐらい掛かってしまうかもしれないです」
「そっか、今日これからだと忙しいな。明日にしたほうが良さそうだね。宿は『民宿やおよろず』に予約してあるのだけれど、清水君は聞いたことある?」
清水は、彼らがこの村に宿泊すると知って、たいへん驚いたが、それは智也たち三人も聞かされていなかった。
「『民宿やおよろず』は村の一番外れにあり、滝への近道が裏手にあります。周りには何もありません。宿泊だなんて、そこまでしてもらって迷惑かけてごめんなさい」
恐縮しきって、小さくなっている。
「君は気にしなくていいんだよ。みんな旅行が出来て、楽しんでいるからさ。ぼくも久しぶりの旅行で嬉しいよ」
透磨が後ろの三人を穏やかに眺めると、すかさず碧人が、
「ぼくもとても嬉しいです」
と興奮気味に言うので、大智がまたもやクスっと笑う。
「あ! ここです。ここを曲がってください」
清水が慌てて、普通に走っていたら通り過ぎてしまいそうな脇道を指差した。
車は何回か切り返して、ゆっくりと左折し、未舗装の山道を下りだした。
「ぼくたちのことは、何と言ってあるの?」
透磨は、どこまで清水の家族と話したらよいのか、考えあぐねている。
「あの……友達が出来て、一緒に帰ることになったと伝えてあります。母は、帰宅の途中で、我が家に立ち寄ると思っているみたいです」たどたどしく言う。
「うん、わかった。名を持たぬ者が、君の中にいるのは理解できる?」
「大智君と碧人君から聞きましたが、正直わかりません。すみません」
戸惑いながら弱々しく答える。
「ああ、かまわないよ。ただね、これからもっと信じられないことが起こりそうなんだ。それは覚悟して欲しいな」
ここで透磨は後ろを振り向いて、
「大智君と碧人君にも、協力してもらいたい」
と言うと碧人が嬉々として、
「任せてください」
キラキラした表情で、透磨を見つめ返す。大智も、
「ぼくで出来ることは何でもします」
とニヤニヤしながら、碧人をそっと見た。
「え? ぼくは?」
智也が、慎重に山道を運転しながら不満そうに訊く。
「智也さんは、まず自分の体を労わってください。あとは一番の年長者なので、あちらにいる大人たちの相手をお願いします。すこし手間取るかもしれませんから」
透磨が難しい顔をするのを、あまり見たことがない大智は、笑顔を消し緊張して碧人と見つめ合う。
がたがたと揺れる狭い道を、ぐるりと山沿いに十分ほど走らせると、いきなり視界が開け眼下に高原が現れた。
手前から青々とした田んぼが広大に続き、遠くの民家に近づくにつれ、色々な種類の高原野菜へと変化している。
四方は山に囲まれているが、村中は賑わっているようにうかがえる。
「結構大きな集落みたいだね」意外そうに、透磨が口にする。
「はい、こちらの道は狭くて、とても田舎に思われてしまいますが、鉄道を使うと、どうしても帰り道はこの道になってしまいます。土地の者は自家用車で、北側の道を使用するのが一般的です。そちらは広い道なので、そちらから入れば印象が異なると思います。ここは旧街道なんです」
無事に故郷に着けて、清水は嬉しそうに説明した。
森平少年が生まれたのは昭和十年で、その頃日本は世界有数の麻薬大国になっていた。
ケシ本種の未熟果実の表面に浅い傷をつけると、麻薬成分であるモルヒネを含む白色の乳液が滲出し、そのうち黒化する。
これをへらでかき集め、乾燥させたものがアヘンであり、それを精製するとモルヒネに、さらに科学的にアセチル化させたものがヘロインである。
アヘンの生産は国策として行われ、大きな利益を生み国家財政を潤した。
アジア侵略とも関わったケシ栽培は、戦前・戦中に稲の裏作で栽培されて、米だけでは苦しい生活だった農民の良い副収入となっていた。
さらに一九四一年になると、軍需用モルヒネの需要が激増したにもかかわらず、原料アヘンが不足したために、大増産をはかる。
ケシ栽培は森平少年の住む地域でも奨励され、農地以外の空き地で、非農民が栽培することになり、それは太平洋戦争後の一九四六年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が、ケシ栽培を禁止するまで続いた。
森平は五月の開花期の、雪が降ったような広大なケシ畑の白さを鮮明に覚えている。
収穫期の時期は、生アヘンを採取するために上級生が駆り出されるので、一週間程度学校は休みになり、森平ら下級生は、毎日元気に外を駆けまわって過ごしていた。
仲良く遊ぶ日もあれば、ちょっとしたことで喧嘩をして一人で森に入る日もある。
今日はそんな日だ。
貫太と言い合いをしてしまった。
遊ぶ約束をしたのに、父親の手伝いをすると言う。
貫太が悪いわけではないとわかっているが、面白くない。
滝に行く秘密の近道を、貫太だけに教えてあげようとしたのに。
登山道をひたすら登ると滝にたどり着くが、道が悪く険しいので、わざわざ行く者はあまりいない。
森平はこの森が好きだ。
特に滝は地元では『竜の登る滝』と呼ばれているほど豪快で、眺めていると心がスッキリとしてくるので、時間があると行く。
みんなが知らない近道を通ると、少年の足でも大人よりも早くたどり着ける。
近道の入り口は、村外れの一軒家の裏にある獣道である。
その家にはお滝ばあちゃんが、一人で住んでいた。
ばあちゃんは、普段は縁側で座布団の上にちょこんと正座して、ウトウトしていることが多い。
たまに起きていると、森平が家の前を通るときに目が合うので、自然と顔見知りになり、そういうときは二人して、縁側でたわいないお喋りをする。
森平がキキョウやオミナエシやハギにナデシコと言った、色とりどりの小さな花が咲いているお滝ばあちゃんの庭を眺めながら、裏手に回ろうとしたら、ばあちゃんが、手でおいでおいでとしているのに気が付いた。
せっかく呼んでくれるのだから、ちょっと寄り道をしようと縁側に行き、
「おはよう、ばあちゃん。元気そうだね」と言って腰掛けた。
「まあまあだ。坊は滝んとこ行くのか? ちょっと寄ってけや。今、飲み物入れてやるわ」
よっこらしょっと、大儀そうに立ち上がり、腰をトントンと拳で叩いてから、奥に引っ込むばあちゃんの背中に向かって、
「ばあちゃん、ぼくはドクダミ茶はいらんよ。お水頂戴」と声を掛ける。
「ああ、だども体にええのにのう」
ばあちゃんは部屋の奥で、ふふふと笑った。
「坊はいくつだ? 何年生になるん?」
干し芋と、水とドクダミ茶が入った湯飲み茶わんを盆に載せて、
「ほら、お食べ」と森平の前に置いた。
「数えで八歳、二年生だよ」
一口干し芋を食べて、もぐもぐしながら、「美味しい」と水を飲む。
「ほう、孫と同い年だ」
しわくちゃな顔の目を、さらに細めてお茶を飲む。
「へえ、男の子? どこにおるん?」
「女の子じゃ。遠くにおるわ」
暫く森平の食べている姿を眺めていたが、ふっとばあちゃんの目の色が変わった。
「坊、滝の上に行ってはいけんよ。わかっとるね?」心配そうに訊く。
「うん、わかっとる。わかっとる」
親にも、先生にも言われていることだ。
「でも、何で?」大人は危ないから、としか言わない。
「滝の上には、神様の集会所があるんだ。とても神聖な場所じゃけん、無闇に足を踏み入れてはいかんのじゃ」
ばあちゃんは、森平を睨むように答えた。
「神様っていっぱいおるん?」
「ああ、八百万の神と言うてな、山、川、森、木など自然のもの全てに神様は宿るんよ。田んぼにも、台所にも、ふふふ、厠にもおるんよ」
「ふうん、そうなん」
「今日あたりは、坊も神様に会えるかもしれんよ。気いつけて行っておいで」
不思議そうな顔をしている森平を、ばあちゃんは、にこやかに見送った。
小動物専用の獣道では、膝から上は小枝が邪魔をするものだから、開けた場所までたどり着くのに、たいそう難儀な思いをする。
だからこそ森平専用にもなっている秘密の小道であり、不思議とこれまで怪我をしたことがない。
いったん藪を抜けると、ミズナラやブナといった、秋にはどんぐりが実る落葉広葉樹林が現れる。
どんぐりはネズミやリスなどの哺乳類にとって、重要な食料になっていて、さらに奥に進むと、アカマツの群落に囲まれ、中でもひと際太く高い樹木が、でん、と森平の前に立ちはだかる。
ここを通るとき、森平はいつも何かの気配を感じて、キョロキョロと辺りを見回しながら通り過ぎたものだ。
今日も立ち止まって樹木をよく観察すると、枝分かれしたところに白っぽいものが張り付いているのに気が付いた。
訝しげにジッと凝視していると、下にふわりと舞い降りた。
それは人の形をしていて、木立から漏れる太陽の日差しを浴びると、そこだけ銀色に輝いた。
森平は素直に綺麗だなと感じた。
「ぼくは森平。君は? ここに住んでいるの?」
「私が見えるの? 怖くない?」
ころころと、音楽を奏でるような声である。
「怖くないよ。とっても綺麗」
思わず森平は、手を伸ばして触れようとしたが、すっと森平の指先は白い体を突き抜けて、空を掴むだけだった。
「私は君らとは次元が異なるところにいるから触れないよ。ちょっと待って」
そう言うと、森平に似た少年に変身した。
「うわあ! 凄い!」
素っ頓狂な声を上げて、また体に触れようと手を伸ばす。
「ああ、触れる。嬉しいな。一緒に遊ぼうよ。ねえ、君の名前は?」
森平は少年の両手を握り、好奇心で満ちた眼差しで見つめる。
「私は名を持たぬ者。これまで名前で呼ばれたことはない」
そう言って、森平を穏やかに見つめ返す。
「ええ! 名前がないと不便だよ。う〜ん、さっきの君は銀色に輝いて、とっても綺麗だったから、うん、ギンにしよう。よろしくギン。ぼくのことは森平と呼んで」
屈託のない笑顔で提案する。
「わかった。森平に合わせよう」
「ギンは、いつもここで何をしているの?」
この新しい友達のことが知りたくて、知りたくて、仕方がない様子だ。
「ここには沢山の命があって、沢山の出来事が起こるから退屈しないよ。森平は、毎日何をしているの?」
「毎日学校に行ってる。でも今は臨時休校なんだ。だからつまんない」
大木の根元に腰掛けて木に寄りかかり、青空を眺めながらため息をついた。
木漏れ日のなかギンが立っていたが、きっとさっきの姿だったらキラキラ輝いて綺麗だろうなあ、と少年の姿のギンを眺めた。
「ここへ来る前にお滝ばあちゃんから、滝の上には神様の集会所があるから、行っちゃ駄目って言われたけど、ギンは行ったことある?」
すると苦虫を噛み潰したような、複雑な面持ちでギンも森平の隣にドンッと腰を下ろした。
「確かにあそこは神聖な場所で、かつては八百万の神が集まったけれど、今では汚れてしまったから、ここ二年間、神様は誰も近づかないよ」
ギンは指で地面に幾何学模様を描きながら、怒ったようにつぶやいた。
「え? 何で?」
森平が理由を尋ねても、ギンは答えなかった。唐突に、
「ぼく、ウサギと友達になったけど、見たい?」と言って立ち上がる。
「うん、見たい」
森平は動物が好きだ。
野ウサギに会えるとあって、目をキラキラさせてギンに続く。
ギンは歩きながら、チモシーやクローバーといった餌になる葉を摘み、ウサギが隠れやすそうな藪に着くと、しゃがんでプ―プーと鳴いた。
すると藪の中からひょっこりと、子ウサギが顔を覗かせた。
「可愛い」森平はそっとギンに囁く。
ギンが森平に野草を渡し、子ウサギにあげるように促すと、森平は顔いっぱいの笑顔になって子ウサギの前に置いた。
鼻を動かしながらモグモグと美味しそうに食べている子ウサギを、そっとしゃがんでじっと見ている森平を、目を細めて穏やかにギンが見守った。
それからというもの、森平は時間さえあれば、ギンに会いに森に入った。
本当は貫太も誘いたかったが、あれから貫太の姿を見ることはなかった。
ギンと一緒に山を散策すると、野ウサギはもちろん、ニホンザルやリス、タヌキやイノシシなどが大人しく会いに来てくれる。
特にカモシカは、木立の間からまつ毛の長い大きな瞳で、じっとこちらを見つめてくるので、とても可愛くて森平もじっと見つめ返すのだった。
夏には沢に行って、サワガニ取りに夢中になった。
水が冷たくて、火照った体にとても気持ちが良い。
秋になり、木々の葉は紅葉や黄葉して山を美しく染め、豊富な果実を実らせて動物たちを喜ばす。
どんぐりをせっせと運ぶリスやカケスを見ながら、ギンが寂しそうに話しだした。
「森平、そろそろ君とはお別れする時が近づいた」
何を言っているのか、森平が理解するのに少し時間がかかった。
「え、どういうこと?」
胸がドキドキしだした。
森平には思い当たることがある。
夏が過ぎたころから、ギンの気配を感じ取れなくなっていたのだ。
何となく、それが不安だったが、あえて無視していた。
「わかっているでしょう?」
ギンは森平を見つめながら、静かに問いかける。
「ギンの気配が感じられなくなったけど…………。ぼくには輝く綺麗なギンが見えなくなったの? だから?」
森平の目から、今にも涙が溢れそうだ。
「でも何で? ぼくの心が汚れたから? だから綺麗なギンが見えなくなるの?」
大粒の涙が、ポロポロとこぼれ落ちる。
「ああ、森平、泣かないで。そうじゃない。君の心は綺麗だよ」
ギンは森平を、ギュッと強く抱きしめた。
「君が少年に成長しなければいけないからだよ。いつまでもぼくといては、いけないんだ。君らの世界は生きていくのに色々、色々あるから、ぼくらの入り込める余地がないんだよ」
ギンは森平の両腕を掴み、真正面から目を見つめて言う。
そんなことない、と言おうとした森平の口元に、ギンの人差し指が当てられて、仕方なく口をつぐんだ。
ボロボロと泣きながら、ぷいとそっぽを向いて、
「……もう会えないの?」と消え入るような声で訊く。
「いつか会えるよ。会いに行くよ。約束する」
「本当? 約束だよ。忘れないで。絶対だよ」
「うん、いつも森平を見守っているよ……。森平、凄い顔になってる」
森平の髪をクチャクチャっとして、涙で濡れている頬に、キスをした。
「ふふ、しょっぱい……。バイバイ、森平」
それを聞いて森平は離すものかと、夢中でギンにしがみついたが、何の効果もなかった。
ギンはあっけなく消えてしまった。
「ああ! いやだ、いやだ、行かないで! いやだあああ……」
悲しく泣き叫ぶ森平の声が、いつまでも山の中で木霊した。
清水を家に送り、明朝、滝に向け出発する時刻を確認してから、今日世話になる宿に着いたのは夕方四時を少しまわっていた。
この村全体が、タイムスリップしたような感覚に陥るほど昔の趣が残っていて、きっとこの村を出て行った者も、いつしか懐かしさを求めて何れ帰ってくるのであろうと思われた。
宿は、今流行りの農家民宿のような外観だが、中に入ってみると、どこも綺麗にリノベーションされていて驚かされる。
女将は五十歳そこそこの、人のよさそうな笑顔の持ち主で、かつ、ふくよかな体格のため、宿泊者に大いに安らぎを与えてくれる夫人だった。
その女将の歓迎ぶりが、尋常ではない。
「いらっしゃいませ、龍神様。お待ちしておりました。どんなにかこの時を、待ち望んでいたことか……」
そう言うと、目のふちを赤くして微笑み、部屋に案内した。
「どこも新しいようですが、最近改築したようですね? とても落ち着きます」
透磨が女将や、これまた、ふくよかな仲居を観察しながら質問する。
「はい。大切なお客様を迎えるのにあたりまして、新しく致しました。お気に召して頂けましたら、大変嬉しく思います」
女将が満足そうに答え、荷物を持った仲居が後に続く。
「龍神様のお友達は、変わった方ばかり……あら、失礼いたしました。どうぞ、ごゆるりとお寛ぎくださいませ」
部屋に入り挨拶を済ませてから、女将は機嫌よく仲居と立ち去った。
閉じられたドアを見ながら透磨が訊ねる。
「碧人君、彼女たちをどう感じた?」
「はい、透磨さんも気が付きましたか? 仲居は妖狸です。女将は……ぼくがこれまで嗅いだことのない匂いがします」
「うん、そうか。他に何か気が付いたことある?」
「ええ、この宿のどこかに妖熊もいるみたいです。匂いがぷんぷんしています」
「さすが碧人君。頼りになるな」
そう言われて碧人は満面の笑みになり、大智はそんな碧人を可愛いと感じた。
「智也さん、運転ありがとうございました。今日はゆっくり休みましょう。明日は大変な日になるかもしれません」
どこか焦点が合わない眼差しで透磨は言い、暮れつつある外に視線を移した。
翌朝、宿に訪れた清水は青白い顔をしていた。
玄関で靴を履いていた碧人が、
「どうしたの? 顔色悪いよ」
と訊くと黙って外を指差す。
その方向を見ると、青々と葉が茂っている木の枝にたくさんのカラスが留まってこちらを見ている。
「うわぁ! 嫌だ!」
思わず碧人が声を荒げると、大智がカラスに気が付いて「げっ」と憎々しげな顔をした。
「襲ってはこないから、大丈夫だよ。さあ、出発しようか」
透磨も外に出てきて、清水の背中をポンポンと触れ、元気づける。
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
女将と仲居が玄関で見送り、彼らの姿が藪の中に消えてから、二人はひそひそと話しだした。
藪はみんなの髪を引っ張り、露出している肌に容赦なく襲い掛かる。
ようやく抜けた五人の姿は、酷いあり様になっていた。
「あははは、碧人君の髪が凄いことになってる。たてがみみたい」
大智がけらけらと笑うが、
「君だってオールバックになっていて変だよ」
と碧人も負けてはいない。
「凄い近道だね。智也さんは大丈夫ですか?」
広い場所に出られて「うーん」と背伸びをしながら透磨が訊ねる。
「うん、体をひねったりしなければ問題ないよ。清水君は一人でここを行き来していたの? 凄いな」
智也はぼうぼうになった髪を、手で撫でつけながら、周りを見渡す。
木々はのびやかに枝を広げ、青々とした葉を身にまとい、五人に日陰と心地よい風を与えている。
一息入れて先を進むと景色は松林へと変わり、みんなの前に立派な大木が現れ、透磨がその木に触れて清水を呼び、木の根元に座らせた。
「君の中にいる名を持たぬ者は、かつて、ここに舞い降りたみたいだよ。だからここで、彼を解放してあげようか」
そう言うと、透磨はしゃがんで清水の肩に右手を乗せた。
中指の指輪が光りだして清水の全身を包み込むと、それは彼から離れて白っぽい人型になり、清水は静かに眠りに落ちた。
「ああ! 自然の精気が体に入ってくる…………。ああ! 精気を取り戻せました。龍神様、ありがとうございます」
清水から現れた名を持たぬ者は、深々とお辞儀をして慇懃に礼を述べた。
精気を満たした名を持たぬ者は、キラキラと眩いほど銀色に輝いている。
「清水君は、あなたが少し精気を分けてくだされば、目を覚ますのではありませんか?」
透磨は眠っている清水を見てから、名を持たぬ者に視線を移す。
「ああ、すみませんでした。前にお会いしたときは、龍神様をどうしても、ここにお連れしたかったものですから、いい加減なことを言ってしまいました。お許しください。でも、私が彼から離れるには、あなたの力が必要だったのは事実です。では、彼を起こしましょうか」
座っている清水の前にかがみこんで、彼の胸に銀色の細い手を当てると、程なくして彼は目を開け、目を丸くして目前の人物に「ギンさん?」と口を開いた。
「君も私が見えるの? 私を知っているの?」
名を持たぬ者が、微笑みながら訊ねる。
「森平おじいさんから、聞いたことがあります。銀色に輝いてとても綺麗だったと言っていました。でも、こうしてあなたに会うまでは、ずっと作り話だと思っていました。本当のことだったのですね……。おじいちゃんに謝らなくちゃ」
とつぶやきながら立ち上がった。
大智と碧人は大人しく成り行きを伺っていたが、智也だけが、妙な顔をしている。
「あのさ、大智。ぼくには何も見えない。君らには、何が見えてるの?」
大智は自分一人がのけ者になったようで、ふてくされ気味だ。それを聞いて、
「君にも見えるようにしましょう」
と言って、名を持たぬ者はギン少年に変身した。
「ぼくのことは、ギンと呼んでください」
ギンは、かつてのギン少年よりも少し成長させて、清水らと釣り合う様な年頃にしたようだ。
「それで? ギン君はぼくたちに何をさせたいの?」
透磨は、松の枝にとまっているカラスを眺めながら訊くが、ギンは言い難そうにしている。
「……桜雅、君には森平の面影がある。だから、龍神様と一緒に滝の上に行ってもらいたい」
それでもギンが答えるが、
「何故? 何故清水君が行く必要があるの?」
透磨には、まだ全容が見えてこない。
「汚れた土地を浄化するには、龍神様と森平がいないと駄目なのです。でも森平は歳を取りすぎてしまった。桜雅は森平に似ているから、きっと森平だと思って……」
そこまで言って、ギンは黙ってしまった。
「上には何があるの? 危険なのでしょう? ぼくは生徒を危険にさらすわけにはいかない。君を自由にしたし、これで失礼するよ」
冷たく突き放すと、ギンは絶望した眼差しを透磨に向け、手のひらに爪痕が付くほど強く手を握りしめた。
「……ぼくは! 君たちに賭けたんだ!」
ギンが絶叫すると、透磨もみんなも驚いてギンを凝視した。
「八十年待ってやっと、やっと龍神様が現れた! しかも森平によく似た桜雅がいるじゃないか! 今しかない! 不浄の土地を浄化して神様の集会所に戻せるのは、今しかないんだ!」
興奮して一気に言うと、そんな自分に恥ずかしくなったのかギンは黙り、透磨は考え込んだままだ。
智也が一番の年長者らしく提案する。
「透磨君は、いつも自分一人で物事を解決しようとするし、実際そうしてきたと思う。でも一人では大変な場合は、誰かの協力を得てもいいんじゃない? 協力者の意見を訊いても、いいんじゃないかな?」
実際に智也は透磨を見ていて、もう少しいい加減に生きればいいのに、といつも感じていた。
いや、いい加減とはちがうな。もう少し力を抜いて、他人に頼ればいいのに、かな。
「そうですね。でも危険を承知で行くには、情報をちゃんともらわなければ。これは譲れません。それから、君たちの意見を訊きましょう」
それでも透磨は額に手をやり、思いあぐねている。
「まず、包み隠さず話してください。滝の上には何があって、何がいるのですか?」
ここまできたら、手を貸すしかないか。
でも、彼らを危険な目に遭わせたくない。
透磨はため息をついた。
ギンは伏し目がちに話しだす。
「昔、森平が小学生だったころ、アヘンを採取するためにケシ栽培が奨励されました。その時にお金欲しさに、村人に内緒で神の集会所を耕して、栽培した者がいたのです。安藤と言って、息子は森平と仲良しでした。終戦後にケシ栽培は禁止されたけれど、安藤は密かに、ずっと栽培を続けていました。汚された特別な土地で、長いこと栽培されたケシは、突然変異を起こして大木へと変化し、真冬以外は花を咲かせるようになってしまったのです。息子も手伝わされ、同時に彼らの体も変化しました。アヘンを体に取り込まないと、強烈な頭痛がするようになり、性格も荒々しくなって、そんな夫に見切りをつけて、妻は出て行ってしまったのです。暫くすると安藤親子も村を離れ、山中に棲むようになり、二人はケシ坊主を食する怪物へと変貌しました。神の集会所は、今ではケシ林と化し、そこは二匹の怪物以外は、生物は存在しない、静寂で恐ろしい場所になってしまったのです」
そこまで話すと、ギンは透磨を見つめて、
「その場所を清めて欲しい」と懇願した。
「どのようにして?」胸騒ぎを覚えて、ギンから目を離す。
「怪物を殺して、神聖な炎で清めてください」
「ぼくに人殺しをやれと?」
胸がバクバクした。
「すでに人ではありません。ケシ坊主を食らう怪物になって久しい」
「……神聖な炎と、どうして言い切れる? それに、なぜそのことを知っているの?」
「八百万の神々はあなたを知っています……いいえ、あなたの中に存在するものを知っていると言ったほうがいいでしょう。龍神様、あなたが吐く炎は神聖です。間違いありません。どうか、どうかお願いします。私たちを救ってください」
ギンは真正面から透磨を直視し、それから清水に向き合って頼み込む。
困り果てた透磨を見て、碧人が口を開いた。
「透磨さん、ギン君は清水君の命の恩人ですよね。だから頼みを聞いてあげましょう。清水君はどう思う?」
物おじしない碧人は、平然と言ってのけるが、気の弱い清水は怖がっているに違いない。
「清水君はどういう役目?」
彼に無理強いは出来ないと透磨は思い、ギンに訊ねる。
「桜雅は森平の代わりになってもらいたい。安藤の子供と一番仲が良かったのは森平です。だから桜雅に会えば、人であった頃を思い出す可能性がある。そのチャンスを彼に与えたいのです」
それを聞いて清水は黙り込んでしまい、ギンは、途方にくれた目で透磨を見る。
「……やはり生徒には行かせられない。ぼく一人で行きます」
ぼくのことを、もしかしたら、ぼく以上に知っているこの人たちを、見捨てるわけにはいかない。
あまり気乗りしないけれど、透磨は決心した。
「ぼくは行きます。ギンさんがいなければ、ぼくは死んでいたのですから。命の恩人の頼みは聞くのが当然です」
怖がりながらも、清水は気丈に答えた。
「ぼくも行きますよ」「ぼくも」と碧人と大智が後に続く。
「よし! じゃあ、全員で行くことに決定だね。さあ、ぐずぐずしないで行こうか」
智也が年長者らしく仕切って、みんなで滝へと出発した。
ギンは嬉しさのあまり涙ぐんでいる。
松林を抜けると、樹の形が美しいコブシや、沢沿いに雄大な樹形をなすハルニレなどが目に付くようになり、水の流れる音が聞こえてきた。
さらに進むと、壮大な轟音を谷間に響かせている滝が目の前に現れた。
その『竜の登る滝』は大岸壁を二段で流れ落ち、幅十メートル、落差は六十メートル程あって水量は多く、大変迫力がある。
水しぶきが体に当たり、この時期は涼しくなって気持ちが良い。
「ぼくは行けません。ケシの臭いにやられて、動けなくなってしまうのです」
ギンは申し訳なさそうに頭を下げた。
「わかりました。智也さんは、ギン君とここで退避していてください」
「え! ぼくも行くよ!」智也は憤慨気味に言うが、
「ここを登るのは、病み上がりの智也さんには、かなりきついです。どうかわかってください」
智也は滝を見上げて「確かに……」とがっくり肩を落とす。
「碧人君と大智君は、一緒にいて離れないように。危険だと感じたらすぐその場を離れて、ここまで下りて来てください。清水君はぼくから絶対に離れないように、いいですね」
改めて滝を見上げ、その迫力を感じて、
「五月に清水君は、一人でここを登ったのですね。凄いな」
清水の緊張をとくために、ニッコリ笑いかける。
「智也さん、もし大智君と碧人君が下りてきたら、ぼくを待たずに宿まで避難してください」
いつになく、透磨が緊張しているのが感じられて、智也は戸惑ったが、
「ああ、そのときはぼくに任せて。二人をギン君と守るから、透磨君は、自分と清水君のことだけに集中して身を守れよ。気をつけて行ってこいよ」
「はい。ああ、そうだ。安藤の息子の名前は何というの?」
「貫太、安藤貫太です。龍神様、一緒に行けない不甲斐ないぼくを許してください」
透磨の手を握り、
「お願いします。御無事で」
期待と不安と、ごちゃ混ぜの表情で祈った。
「ええ、みんなに怪我なんてさせられません。大丈夫」
自分に言い聞かせるように言い、滝に沿うように登る岸壁の道なき道を眺めた。
「さて、大智君は、ここを登るのはお手の物でしょう。碧人君はどうですか?」
大智はわけないと言い、碧人は岸壁を見上げて、
「このくらいの傾斜だったら大丈夫」
とオッケイサインを出す。
「うん。じゃあ、ぼくはトラになるから、清水君はぼくの背中に乗って、しっかりつかまって落ちないようにね。さあ、行こうか」
そう言うと透磨は巨大なトラになり、清水を驚かせたが、彼を乗せて軽々とジグザグに岸壁を登って行った。
大智も後を軽々とついて行き、碧人が、ややゆっくりと登って行って、あっという間に四人の姿は見えなくなった。
「ああ! 素晴らしい。みんな素晴らしい!」
ギンが期待で興奮して、うるさいほど喜んでいたが、智也もぼくの弟は凄いな、と密かに感心していた。
滝の上に着いても森に入るにはピョンピョンと石の上を飛んで行かなければならなかった。
数メートル先に草むらを見つけ、そこに足を踏み入れてから清水を背中から降ろし、ホッと一息入れた。
後の二人も難なくついてきた。
「碧人君、何かわかる?」
言われて、碧人が注意深く、耳と鼻を使って辺りを伺う。
「異様に静かですね。水の流れる音しか聞こえない。それに辺り一帯に嫌な臭いが充満していて、特にあちらの方から、気持ちが悪くなるほどの悪臭が漂ってきます」
碧人が顔をしかめて言う。
「うん、そこに行ってみよう」
透磨が先に足を進める。
背丈程の野草をかき分けて進むと、微かに清水にも嫌な臭いを感じとれた。
すると徐々に忘れていた記憶が脳裏に現れ、小声で話しだす。
「記憶が……思い出しました。あの日、何故か滝を登りたくなって、ここに来てしまったのです。この草を抜けると、小高い丘の上に出ます。下に目をやると白い花が咲き乱れている木立がありました。花って綺麗なはずなのに、なぜかその花は不気味に感じられ、匂いも、生薬とも違う、とても古臭いような、湿ったような、嫌な臭いがしていました」
清水は目を見開き、急に手を震わせてガタガタ震えだした。
「ああ! 怪物がいました。大きくて黒っぽく、動物のような人間のような異様な形…………。目が、特に悪魔のような目をしていました。それは木に登って何か食べていて、ぼくの気配を感じたらしく顔をあげたので、見つかってしまいました。夢中で逃げましたが、恐ろしくて、どこを走ったのか覚えていません。気が付いたら、全身濡れていて、滝つぼの側で倒れていました。ギンさんが助けてくれたのですね」
「何体いたか覚えている?」
透磨は清水の肩を抱き寄せ、落ち着かせようとする。
「わかりません」
弱々しく答えた。
「碧人君はわかる?」
碧人は鋭い眼光で様子を伺っている。
「はい、二か所から濃く臭いますから、二体だと思います。……透磨さん、サンの力は借りられないの? サンがいれば百人力なのに」
「うん、ギン君のような精霊や、サンや海斗君のような霊魂の類は、このケシの臭いで動けなくなるみたい。ここはあまりにも邪悪な場所になり果ててしまったのだね。ケシの大木なんて見たことないよ。何だか荒涼としているな」
不気味すぎるほど静寂なこの場所を改めて見回し、透磨は気を引き締めた。
生い茂っている野草を抜けると、眼下に丸くケシの白い密林が姿を現す。
まるで古代の円形闘技場コロッセウムのような地形だ。
丘を下りると、ケシの大木は、樹高五メートルは優に超えているのがわかる。
臭いはかなりきつくなり、鼻が利く碧人が、顔面蒼白になっているのに気が付いた。
「碧人君、君は戻りなさい」
透磨が言い終わらないうちに、碧人が嘔吐しだした。
「碧人君、大丈夫か? 大智君も気分悪そうだね。二人は戻りなさい」
二人の様子を見て、透磨が焦りだす。
「……透磨さん……怪物の一匹は、たぶん子供の方……少しだけ、ほんの一瞬だけだったけど……人の匂いが残っていました……」
碧人はもう、目も開けていられない状態だったが、それでも何とか苦しそうに伝えた。
「本当! ありがとう碧人君。良く嗅ぎ分けられたね。希望が持てたよ。大智君、彼を急いで空気の綺麗なところまで、連れて行ってあげて」
大智が碧人を抱えて、来た道を戻りかけた。
一歩足を踏みだし「気を付けて」と言おうと振り返ったとたん、大智の目が驚きと恐怖でカッと大きく見開いた。
「透磨さん! うしろ! 清水が変だよ!」
透磨の後ろにいた清水が、ふらふらと夢遊病者のように、ケシ林の中に入ろうとしていた。
大智と碧人を心配そうに見ていた透磨が、ギョッとして振り返ると、すぐ後ろにいるはずの清水の姿が無い。
「清水君! 待って! 止まって! 大智君は早く行って!」
怒鳴りながらトラに変身し、ケシ林に入って行く清水の後を慌てて追った。
怪物の耳に懐かしい言葉が聞こえてきた。
『清水君』……何だっけ? 清水君って誰?……。
懐かしい顔も見た気がする。
もう、随分前のことのような気がする。
清水君、約束、遊ぼ、ごめん……。
シン……ペイ……。
森平……森平、遊ぼ、ごめん……。
森平が来ているの? どこに? ここに?
森平、会いたい。会いたい。会いたい。
ケシ林の中は太陽の光が届かないため薄暗く、見通しがきかない。
白い花が咲き乱れ、ケシ坊主と言われる果実が沢山生っている。
生き物は獣も鳥も昆虫さえも、一匹も存在しない。
無風で空気は淀んでいて、重く体に押し掛かってくる。
息苦しい中、懸命に清水を捜していると、かすかに前方で土を踏みしめる音がした。
「清水君! 待って!」
呼びかけるが、返事がない。
もう一度呼びかけようとしたときに右脇腹に激痛が走った。
大木に潜んでいた怪物が空中から襲いかかり、鋭い鉤爪で肉を引き裂いたのだった。
脇腹に付けられた四本の爪痕から血が滲みだす。
目の前に現れた怪物の姿は、おぞましいものだった。
全身が、黄色いケシの花粉が付いた短い黒い毛で覆われていて、硬い木を登るために鋭い鉤爪を持ち、堅果となったケシ坊主を食するために、げっ歯類の蚤の形をした一対の門歯を有していた。
一番不気味なのは、目が複眼に変化していることだ。
妖花によって送粉者の役目をやらされているうちに、変化したのだろう。
透磨は怪物に向かって行き、二頭が激しくぶつかり合いながら戦っていると、怪物がトラの右足に噛みついた。
透磨にまた激痛が走ったが、トラの毛皮は分厚く攻撃は限定的にすんだ。
足から怪物が離れたすきに、跳躍して体の向きを変えて、逆に今度は怪物の左肩を噛む。
ベンガルトラは、猫科の中でも最も長い犬歯を持つ。
そのパワフルな歯が肩に食い込んだのだから堪らない。
身の毛もよだつ悲鳴を発して逃げ出した。
逃げ出した怪物の先には、フラフラと今にも倒れそうに歩いている清水がいて、それを確認した透磨がぞっとして叫ぶ。
「清水君! 逃げて!」
透磨も慌てて怪物を追いかけるが、間に合うか?
心臓が早鐘のように鳴っている。
死に物狂いで追いかけるが……、
『ああ! どうしよう、間に合わないかもしれない』
気が狂いそうになったときに、透磨の目の端に黒いものが映った。
それは一回りも二回りも小さい怪物で、ジャンプして傷負いの怪物に襲い掛かる。
二体は塊になって咆哮しながら鉤爪で引っかき合い、お互い血だらけになって、激しく争っている。
体格差はあるが、大きい方は肩に傷を負っているので互角に戦っている。
すでに気を失って倒れこんだ清水を、怪物から遠く引き離し、透磨が二体の様子を伺っていると、大きい方が小さい方の喉に噛みついた。
小さい怪物は悲鳴を上げたが、大きい怪物は噛みついたまま離れない。
透磨が大きい怪物の、今度は右肩にベンガルトラの長い犬歯を深々と貫いて加勢する。
大きい怪物は小さい怪物を離し、激痛に悲鳴を上げた。
その瞬間、小さい怪物が反撃に出て、大きい怪物の喉を鉤爪で深く切り裂いた。
頸動脈が切れて血しぶきが上がり、大量の血液が流れて声を上げる間もなく、大きい怪物は失神し、数分後にピクピクと痙攣して失血死した。
透磨は、喉や全身から血を流して倒れている小さい怪物の側に行き、憐みの眼差しで見つめた。
「清水君を救ってくれてありがとう。……君は……、君は貫太君?」
しゃがんで怪物の頭を撫でてやると、わずかに頭を持ち上げた。
「……あの子、森平なの?……森平でしょう?」
弱々しい声で、苦しそうだ。
「…………そうだよ。君の友達の森平だよ。君に会いに来たんだよ。苦しい? ケシ坊主食べる?」
貫太は首を横に振る。
「ぼく、森平に謝りたかったの。遊ぶ約束をしたのに破っちゃったから」
ごほっと血を吐いた。
「ああ、もうしゃべらないで。森平は君のことが大好きだよ。ここに連れてきてあげるね」
意識のない清水を抱きかかえて、貫太の隣に寝かせた。
貫太は複眼の目で見つめて、そっと鉤爪で清水の髪に触れる。
「森平……会えて嬉しい。会いに来てくれてありがとう……。ぼく……、もう疲れちゃった」
そう言うと、貫太は静かに息を引き取った。
あまりにも哀れで、透磨は暫く動くことが出来なかった。
安藤親子の亡骸をケシ林の中央に寝かせて、透磨は竜になり上空で羽ばたいている。
清水をそっと手で包み込んで、ケシ林の周りを旋回する。
それからギンが言う『神聖な炎』を吐き出し、ケシ林を炎で覆いつくした。
丸く燃え上がるコロッセウムの炎は、上空から見ると、まるで太陽のようだった。
炎が全てを焼き尽くしたのを確認してから、透磨は踵を返して滝の所に戻ろうとしたが、傷を負い、しかも疲れ果てていた。
滝の上空までかろうじて飛んできたが、そこで力尽き、目も見えなくなった。
意識がもうろうとして気を失い、翼で体を覆って清水をかばいながら、頭から先に滝に落ちて行った。
大智は碧人を渓流まで抱きかかえて連れて行き、頭痛や吐き気が治まるまで休ませてから、二人は登って来た道を、今度は慎重に下り始めた。
滝を下りる途中で、上空で何か異質なものが目に入った。
大智が良く見える目で滝の上空を見ると、鳥ではないものが飛んでいるのを目にした。
あれは何だろうと、訝しげに観察していると、大智の目が驚きのあまり大きく見開いた。
「あれは、竜だ! 透磨さんだ! 何かおかしい……。あああああ、落ちるうーー」
大智が絶叫した。
その声は木霊して、滝つぼにいる智也やギンの耳まで届いた。
木霊に反応して、智也が上空で墜落仕掛けている透磨を発見すると、即座にギンに怒鳴った。
「ギン! 何とかしろ!」
「え! え!」
ギンは慌てふためいて頼りない。
「おまえ精霊か何かだろう? 飛んで行って助けろ! 早く!」
ギンをドンと叩いて前に押し出す。
次の瞬間、ギンは本来の姿に戻って、透磨のもとにふわっと飛んで行った。
落ちかけている透磨を、ギンは空気で包み込むようにする。
「八百万の神々、お力をお貸しください」
ギンが祈ると森の至る所から淡い光が集まって、清水を抱えている透磨を包み込む。
淡い光は丸い水晶玉のようになり、その光の中で、竜であった透磨は人に戻り、清水と共にゆっくりと、ゆうくりと智也たちが待つ滝つぼの側まで下りてきた。
ギンがその光に触れると、清水をしっかりと抱いて気を失っている透磨が現れた。
……トーマ……、トーマ……、呼ばれて目を開けると、ぼんやりと少年の姿が目に入る。
誰? 少年の姿がはっきりしてくると海斗だとわかった。
海斗君はここで何をしているのだろう?
ぼくはここで何をしているのだろう? ……そうだ思い出した。
状況を飲み込むまで、少しぼうっとしてしまった。
「……ああ、海斗君、清水君は大丈夫? 碧人君は? 大智君は?」
透磨が酷く心配そうに、立て続けに訊くものだから海斗は、
「まったく、君って人は……、君以外は、みんな元気だよ」
苦笑しながら、ベットから起き上がるのに手を貸した。
「ここは?」
「宿の貴賓室。豪華だよね。君専用なんだって。みんなが羨ましがっているよ」
海斗はフフッと笑い、今起き上がったベットを指差す。
ベットの足元には椅子が一脚あり、樹生がウトウトしている。
「あれ、樹生さんだ。どうしてここに? え! ベットにいるの誰?……ぼく?」
今起き上がったベットには透磨が寝ている。
「もしかして……、ぼく死んだの?」
困惑気味な透磨を見て、海斗がアハハと笑う。
「違う、違う。いつまでも寝ているから、ぼくが起こしたの」
「酷いなあ。びっくりしたよ」
「ふふ……、だって君さ、三日間、ずっと寝ていたんだよ。ぼくは本当に心配で、心配で……」
言うなり、海斗は透磨をギュっと抱きしめる。
「心配かけてごめんね」
海斗の背中をポンポンと叩いてあやまり、友達って素敵だな、そう感じたときに貫太のことが頭をよぎって胸が苦しくなった。
「安藤親子は気の毒だった。貫太君はどうなったのかな? ぼくのしたことは、正しかったのかな?」
落ち着きがなく、不安そうにする透磨。
「何を言っているの。君は貫太君を救ったんだよ。ぼくは霊界に行く前の貫太君に会ったよ」
こんな透磨を見るのは初めてで、海斗が焦る。
「本当? 彼は霊界に行けたの? ああ、ああ、良かった」
透磨は心底安心したように言う。
「うん、彼は少年の姿に戻っていて、『森平に会えて嬉しかった。このあいだは遊べなくてごめんと言えた』と嬉しそうだったよ。八十年近い地獄のような年月は、彼の記憶にはなかったみたい。それはある意味、幸せなのかもしれないね」
海斗は透磨の懸念を、払しょくさせてあげたかった。
「彼は何一つ悪いことはしていないのに、つらい人生を送ることになってしまい、本当に可哀そうだった。でも……そう、最後は嬉しそうにしていたの。……それは良かった」
透磨は自分に言い聞かせるように、ぼそっとつぶやいた。
「そうだよ。君は命を懸けて、貫太君を地獄の日々から救ってあげたんだよ」
今度は海斗が、透磨の背中をポンポンと叩く。
「とにかく、君が無事で本当に良かった。みんなは隣の部屋にいるよ。ちょっと行ってみようか」
悪戯っぽく、にっと笑って透磨の手を取る。
海斗に続いて透磨も壁をすり抜けると、碧人と大智は、かつてお滝ばあちゃんが眺めていたであろう、野の花が咲き乱れている庭を眺めていた。
智也は体のリハビリをしているらしく、その庭先で軽い体操をしている。
「二人とも何事も無くてよかった。智也さんは相変わらず、じっとしていないな」
透磨はフフッと笑い、二人の無事を確認してほっとしたようだ。
「そうだ」と言って彼らの側に行き、手を握って「ありがとう」と礼を言い始めた。
そんな中で碧人が何かを感じ取ったようだ。
碧人の手を取った時に、ひょいっと手を引っ込めたのだ。
そして見えないはずの透磨をじっと見つめた。
「どうかした?」
「ううん。何でもない。虫でもいたみたい」
大智に聞かれて、碧人は頭を振る。
「彼、凄いね」
それを見て海斗が感心する。
「うん、碧人君は人一倍勘が鋭い。今回も、貫太君の中に人の匂いが残っているのに気づいて教えてくれたから、ぼくはそれに賭けることができた。碧人君のおかげだよ」
「碧人君ありがとう」
と声を掛けると、碧人は振り向いて怪訝な表情をした。
そのとき庭先からサンが嬉しそうに現れ、透磨にじゃれついた。
「ふふ、サン、君は本当に可愛いね。心配かけてごめんね」
頭を撫でてあげると、気持ちよさそうに透磨を見上げる。
「さあ、透磨君、そろそろベットに戻って目を覚ましなよ。みんなを安心させてやらないと罪だよ」
「うん……。そうだ。海斗君はサンと一緒に、この森を散策してきたらどう? 学園の森とは一味違って楽しいかも。ずっと、ぼくについていてくれたのでしょう? 一息入れてきてよ」
「うん、そうする。行こうか、サン。じゃあ透磨君またね」
嬉しくてじゃれまくっているサンとともに、海斗は森に出かけて行った。
自分の体に戻り、目を覚ました透磨が足元を見ると、樹生も目を覚ましていて、二人の視線がバチっと合った。
「え! 目を覚ましたんだ……」
言ったきり樹生は言葉を失い、透磨の手を取って泣いて喜んだ。
「樹生さん、心配かけてごめんなさい……。学園の方は大丈夫ですか?」
「そんなこと気に掛けるなよ……。体は平気か? 痛くないか?」
「ええ、大丈夫」
「ちょっと見せて」
パジャマの裾を捲ると、痛々しい四本の赤黒い傷が右脇腹に出来ていた。
真皮縫合した後に皮膚接着剤を塗布したようだ。
傷口を覆っているフィルムは、治ってきた頃に自然に剥がれ落ちる。
「うん、大丈夫そうだ。足の怪我は?」
右足の裾を捲りガーゼを剥ぐと、咬傷の痕は薄い紫色になっている。
「うん、うん。こちらはほぼ治っているみたいだな。良かった」
笑顔で言う樹生だが、あまり寝ていないのだろう、目の下の隈が際立っている。
「ぼくより樹生さんの方が具合悪そう、隈が酷いですよ」
「ああ、おまえが全然目覚めないからだよ。心配かけさせて、この、この……」
嬉しそうに、透磨の頭をクシャクシャにする。
「犬童先生が、僕の雑用をすべて引き受けてくれたんだ。教授は学会の発表があって、今はアメリカにいる。だからここに来られないけれど、二人とも凄く心配していたよ」
クシャクシャになった髪を、今度は撫でつけた。
「碧人君は素晴らしい能力をもっています。今度、犬童先生に伝えたいな」
透磨は樹生の好きなようにさせながら言った。
「そっか、先生も喜ぶよ。なにか食べたいものある?」
満面の笑顔で涙を拭う。
「ああ、お水をもらえますか?」
「うん、待ってて」
樹生が部屋から出て暫くすると、隣の部屋から歓声があがり、見慣れた顔がやってきて、ベットの周りに集まった。
「透磨君、良かった。やっと目が覚めたんだね。安心したよ。うん、顔色は良いじゃないか」
そう言う智也の肩越しに大智の顔が現れ、その後ろから遠慮がちに碧人が顔を覗かせた。
「みんな、心配かけてごめんなさい」
「透磨さんが空から落ちるのを見て、ぼくは……ぼくは……、無事で本当に良かった」
「そうだぞ、透磨君。危なかったんだぞ。大智が絶叫して教えてくれたから、ギンが飛んで行けて、何かわからないけど、助けることが出来たんだ」
大智がウルウルしだしたのを、智也が苦笑しながら肩を抱いて落ち着かせた。
「はい、本当にごめんなさい……。あの、ギン君は?」
「ギンは清水君の家に行って、森平おじいさんに会っているよ。あっちでも良い意味で大変なことになっているみたい」
智也はアハハと爽やかに笑い、そして彼も涙ぐんでいる。
「碧人君、君があの時、気分が悪いのにもかかわらず、貫太君を観察してくれたから、あの子を少年に戻してあげられたんだ。そして大智君、君が碧人君をあそこから連れ出してくれたから、碧人君は無事でいられたんだよ。二人とも本当にありがとう」
透磨が手を差し出すと、少年二人はベットに駆け寄って、透磨に抱きついた。
ちょうど飲み物を持ってきた樹生が、嬉しそうに扉を開けてみんなを見ていた。
昨日一日透磨の様子を見て、もう大丈夫だろうと判断し、今日は学園に戻る予定の朝、目覚めて透磨は戸惑っていた。
「えっと……、君、誰?」
貴賓室のソファーに十歳位の男の子が、サンをギュッと抱きしめて、緊張した面持ちで透磨を見ている。
隣には困り顔の海斗が座っていた。
「海斗君、説明して」
二人とも黙ったままなので、暫し沈黙の後、透磨が海斗に声を掛けた。
「う……ん、この子は烏賀陽聖七君。あのさ、昨日サンと森を散策していたらこの子に会って、一緒に遊んだらサンをとても気に入ってしまって、それから離れなくて困っている」
「一晩ここにいたの? ご両親が心配するでしょう?」
透磨が眉をひそめると、海斗がゴメンと言う風に両手を顔の前で合わせた。
「大丈夫。ちゃんとクロに伝言頼んだから」
黒髪とクリクリした黒い瞳が印象的な聖七が、ニカッと白い歯を見せて笑う。
「クロって?」
「おいらの子分、カラスだよ」
「君は、もしかしてカラスの化身?」
「うん、そう。二本足の八咫烏とも言われている」
「じゃあ学園からずっと付いて来たのは、君の親族かな?」
「うん、そう! おいらの兄ぃだよ。凄い。どうしてわかったの? やっぱり神様だ!」
聖七は黒い大きな瞳をキラキラさせた。
「それは、ちがうよ……。もう、そろそろお家に帰りなさい」
何となく面倒なことになりそうだと、海斗と目配せする。
「帰らない! おいらは神様と行く! 神様の使いになる!」
サンの背中に顔をうずめて、頭を振る。
「ぼくは神様じゃないよ。ぼくたちは今日学園に戻るんだよ。だから、さよならしなくちゃならない。サンと海斗君で君を送って行くから、ね?」
「い・や・だ!」
大きな声で言うとワンワン泣き出した。
透磨と海斗が共に絶句していると、扉をたたいて妖狸の仲居が入ってきた。
「龍神様、朝食の用意が出来ました……。あら、嫌だ。烏賀陽の息子じゃないの。何でこの子がここにいるの?」
「ぼくにもよくわからないのですが、烏賀陽さんに連絡を取ってもらえますか? たぶん心配していると思いますので」
それを聞いて、聖七は一層激しく泣き出したが、その声を聞いて、隣室から何事かと樹生が顔を覗かせた。
「透磨、その子誰? 何でここにいるの?」
凄く真っ当な質問をするけれど、透磨にも何が何だかわからない。
その時、そっと仲居が透磨に耳打ちする。
「龍神様、あの子は烏賀陽家の末っ子で七男坊です。代々、烏賀陽家は優秀で、八百万の神の使いを担っています。兄弟もあの子以外は、神の使いを仰せつかっていますよ。あの子はちょっと、あの通り泣き虫で半端者ですので、みんなが手を焼いているようです。……それでは、私は烏賀陽に連絡を入れてきます」
泣いている聖七をチラッと見て、貴賓室から出て行った。
「聖七君、あまりきつくサンを抱きしめるから、苦しいみたいだよ。放してあげて」
サンがジタバタしているのを見て透磨が助け舟をだすと、聖七は素直にサンを離し、自由になったサンは体をブルブルと震わせ伸びをした。
「サンがここにいるの? じゃあ、海斗君も? この子も霊魂が見えるの?」
樹生が小声で、ソファーに一人腰かけている聖七を見て訊いた。
「はい。彼は八咫烏で烏賀陽聖七君と言うそうです。夕べ森で海斗君たちと知り合いになって、それからずっと一緒にいるそうです。海斗君も困っています。ぼくもですが」
透磨も樹生にヒソヒソと答えて、ベットから下り窓際まで行って外を眺めた。
連絡を受けて烏賀陽の者が慌ててやって来たが、怒り心頭に発しているようで、唇をワナワナと震わせながら、しかし透磨の前では冷静に話しだした。
「龍神様、この度は我々の森のために体を張ってまで、ご尽力をくださいまして、誠にありがとうございました。あの忌まわしい土地は清められ、集会所として神々が再び集まってくれることでしょう」
ここで息を吐いて、目を瞑り、怒りを鎮めようとしているのがわかる。
「私は烏賀陽の長男で父の代理で来ました。父は神の使いで地方に出向いておりますので来ることが出来ません。先ほど私の末弟が、龍神様に大変ご迷惑をお掛けしていると知りました。誠に申し訳ありません。すぐに連れて帰りますのでお許しください」
聖七を鋭い眼光で睨んでいる青年は、名を一翔と言い、青みのある艶やかな長い濡羽色の髪を一つに縛っている。
そして俊敏そうな立ち振る舞いを見ても、たぶん一族でも有能であることがわかる。
「帰るぞ」と言って聖七の手を取ると、聖七は手を振り切って逃げた。
「嫌だ。おいらは神様の使いになるんだ」
そう言うと、また泣き出した。
「泣くんじゃない! おまえは泣けばいいと思っている。いい加減にしなさい!」
一翔の眉が上がり、唇がひくついている。
聖七を捕まえると聖七が暴れて逃げる。
とうとう一翔の堪忍袋の緒が切れて、聖七にびんたを食らわした。
この騒ぎで碧人や大智に智也も、何事かと部屋を覗いていたが、びんたの音に全員が「あ!」と息をのんだ。
さらに手を上げたところで樹生が止めに入る。
叩かれた聖七も驚いたらしく、今は声を押し殺して泣いている。
「一翔君、落ち着いて。話し合おう」
樹生が呆然と立ち尽くしている一翔を、ソファーに腰かけさせた。
「君はいつも叩かれるの?」
透磨はそっと聖七に訊くと、聖七は赤くなった頬を手で押さえて頭を振った。
「ううん。初めて……。こんなに怖い兄ぃも初めて……」
透磨は、なおも聖七に色々と話しかけた。
「すみません。お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
深呼吸して胸に手を当てて、一翔は小さく答えた。
「何か問題でも起こりましたか? 来た時から苛立っていたようですが」
透磨がいつものように目を細めて、一翔を観察する。
「いえ、聖七は、あの子は自分の思い通りにならないと、いつも泣くばかりで、家の者をイラつかせるのです。しかし手を上げたのは私が悪かった。すまない聖七……。もう失礼しよう、いいね?」
取り乱したのが恥ずかしいのか顔を赤らめ、手をプルプル震わせながら聖七を凝視して言うと、 聖七は素直に側に行き一翔の手を取った。
聖七の手を引き部屋を出て行くときに、一翔は深々とお辞儀をして、聖七は振り返って透磨に、にっと笑って帰って行った。
二人が居なくなると、深いため息があちこちで漏れた。
「何? あれ。大型台風が去ったような緊張感があるよ」大智が言うと、
「あれ、痛かったぞ。可哀そうに。腫れるな」智也が答える。
「海斗君があの子を拾ってきたの? あの子も何か役に立ちたくて仕方ないのだろうけれど、それが見事に噛み合っていないね。お兄さんの方は、また随分とピリピリしていたけれど大丈夫かな?」
樹生がやれやれといった感じで頭を振る。
「さあ、仲居さんが待っているから食事処に行こうか。お昼ごろには出発出来そうか?」
そう言って扉に手をかけ、みんなを促した。
「樹生さん……。ぼくはもう少しここに残ります」
「…………」言い難そうにしている透磨を見て、樹生はため息を漏らす。
「そう言うんじゃないかと思った。烏賀陽兄弟が気になって仕方ない? でも僕は、これ以上犬童先生に迷惑はかけられないから、学園に帰らなくてはならない。だけど、おまえを一人にするのは心配だよ」
「先生、ぼくが残ります」
碧人が名乗りを上げると、大智が、次に智也も残ると言う。
「確か広瀬さんの家は、家族旅行の予定が入っていると聞きました。ですから樹生さんと一緒に駅まで行って、お二人は、今日は自宅に戻ってください。本当にありがとうございました」
透磨が礼を述べると、智也が、
「ああ、そうだった」
言われて思い出すと、残念そうな顔をした。
「碧人君、逐一報告してよね、ああ、残りたかったな」
大智もふくれっ面をする。
「透磨らしいというか、止められないよね……。二人とも絶対に、絶対に、無茶しないと約束して。それに透磨は、もう少し自分を大切にしないと駄目だよ」
諦め顔で樹生が透磨を見るが、凄く心配しているのが見て取れる。
「はい、約束します。サンや海斗君の助けも借りられるし、今回はギン君にも動いてもらいます。だから安心して。樹生さん、犬童先生に碧人君を借りること、よろしく伝えてください」
「わかったよ」
また厄介な問題に首を突っ込んで、と樹生は頭を振りながらため息をつく。
聖七の赤くなった頬に、ひんやりした一翔の細い指が触れて、
「冷たくて気持ちいい」と聖七の手がその手を押さえる。
「腫れそうだな。帰ったらばあやに冷やしてもらいなさい……。痛かったろう、ごめんね」
いつもより青白い顔が、いっそう濡羽色の髪を際立たせている。
普段と違う一翔に聖七は不安を感じた。
「兄ぃ、どうしたの?」
「聖七、家に帰ってもみんな忙しくて、おまえの相手をしてくれる者はいない。だからばあやに面倒を見てもらいなさい。お願いだから、今日のようなことはしないで、おとなしく家にいて。いいね?」
それだけ言うと一翔は疲れているらしく、車の後部座席で目を瞑って黙ってしまった。
静かになった車内で、聖七は透磨に言われたことを思い出していた。
おいらも神様の使いになれるんだ、とキラキラしている瞳が一翔に注がれたが、一翔は寝てしまったようだ。
もし起きていたら、聖七が何かしそうなのに気が付いただろう。
正午に智也の運転で、樹生と大智はレンタカーで来た道を帰って行った。
ギンは『必ず会いに行く』という森平との約束を果たせて、清水の家から帰ってきてから、ずっとご機嫌な様子だ。そんなギンに透磨が訊ねる。
「森平さんはどんな反応したの?」
「それはもう、興奮してショック死しそうでしたよ」
アハハと冗談っぽく言い、
「誰も信じてくれなくて、嘘だ、嘘だと言われ続けたから、もしかしたら幻だったのかも、と本人さえ思ったときがあったようです。だから桜雅に『本当だったんだね』と言ってもらえて、凄く喜んでいました。貫太のことを伝えたら、とても気の毒がって、追善供養をしてくれるそうです」
満足そうに透磨を見て、
「これも、龍神様のおかげです」
と深々と頭を下げた。
「そう、森平さんに供養してもらえれば、貫太君も浮かばれるでしょう。ところで、ギン君にお願いがあるのだけど」
「はい、何なりと」
「烏賀陽一族のことを知りたい」
「ああ、あの泣き虫の聖七が、迷惑をかけたそうですね。烏賀陽家は、この地方ではかなり有名な一族で、皆の衆を統率しています。聖七以外は、皆さん優秀ですよ。早く戻るように学園でせっついたのは、烏賀陽一翔の命を受けたカラスでしょう。何か気になりますか?」
透磨が烏賀陽に興味を示したことを不思議がる。
「うん、一翔君だけど、来る前からイライラしていたらしくて、ぐずる聖七君に、思わず手を上げてしまったんだ。でも、今までぶたれたことは無いらしいし、どうも彼の周りで不穏なことが起きているみたい」
「そうですか。ぼくも調べてみましょう」
「うん、お願いするね」
ギンは透磨の手伝いができるのが嬉しいらしく、急いで出かけて行った。
碧人は二人の様子を静かに見ている。
「何? 碧人君」
何かを感じたらしく、透磨が碧人に訊く。
「あ……の、ギン君に調べて貰うみたいですけど、聖七君にも頼みませんでしたか?」
「あ、やっぱり碧人君は気が付いた?」
「聖七君がぶたれた後、透磨さんと二人でひそひそ話をしていたし、聖七君は帰り際に、振り返って透磨さんに笑いかけていましたから、何かあるなと思いました」
「ああ、だよね。君って本当に勘が鋭いよね。君のその勘は、将来何かあったときには信じて良いと思うよ。間違っていないと思う。君の才能だね」
「そうですか?」
碧人は満更でもないような顔で照れた。
その日遅く、ギンが貴賓室に訪れた。
部屋には簡易ベットが運び込まれ、碧人はそこで寝ていたが、起き上がって聞き耳を立てた。
「龍神様の懸念通り、確かにおかしいです。一翔と聖七以外は使用人だけで、主も他の兄弟も誰も見当たりません。泊まりで神の使いをやることはありますが、今年から使いを仰せつかったばかりの六男の十六夜が、泊まりで使いをやるとは考えられません」
ギンが小声で、眉根を寄せて話す。
「そうですか。どこにいるかは、分からないのですね? 聖七君はどうしていました?」
「ああ、聖七は家中をウロウロして、一翔に叱られていましたよ」
「ふふ、それはぼくのせいですね。変わったことが起きていないか家中を調べて、とお願いしたのです。ちゃんとお勤めをしているわけだ」
夜空は星が宝石のように綺麗に瞬いていて、空気が澄み切っていることがよくわかる。
透磨は、星明りでうっすらと森の存在が確認できる外を眺めながら何やら考えていたが、ギンと碧人に振り向いて言った。
「明日、烏賀陽の家に行きましょう」
烏賀陽の家は、名門と言われるだけあって立派な屋敷である。
山奥にあるにも関わらず、竹垣で屋敷をぐるりと囲ってあり、経年劣化して色褪せた竹は、程よいさびを感じさせる。
透磨の訪問を受けて、一翔は慌てているが『よりにもよってこんな時に何故だ? 聖七はどこにいる? あああああ、どうにかなりそうだ。でも、昨日のような失態は出来ない』と、自分の顔をパンパンと平手で叩いて、気合を入れる。
一翔が、透磨と碧人を玄関先で出迎え応接室に通すと、どこからか聖七が駆けつけてきた。
「ああ、龍神様。会えて嬉しい」
裏の感情のない聖七の素直な喜びようは、見ていて気持ちが良い。
「聖七君、こんにちは。君は元気そうだね。それに比べて、一翔さんは隈が出来ていますよ。どうかしましたか? 夕べは寝られなかったのですか?」
透磨はじっと一翔を凝視する。
「ああ、いえ、ここのところ仕事が忙しくて……。ところで、今日はどのようなご用件ですか?」
疲れた表情を庇う様に答える。
「父上にお会いしたいのですが、ご在宅ですか?」
「……。父は、今だ神の使いで地方に出かけていて、ここにはおりません」
「ああ、そうですか。今はどちらに?」
「……。伝えておきますので、何のご用でしょうか?」
なんと答えたらよいか分からず、しどろもどろになる。
「そうですね。今はどんな状況なのか知りたいですね。監禁されているのでしょうか?」
一翔の黒い憂いに満ちた瞳が大きくなる。
「え! あの……」
「他の弟さんはどちらに?」
透磨が畳みかけると、一翔は絶句した。
「いらっしゃらない? 皆さんどちらに行かれたのでしょうね」
透磨は「しっ」と唇に人差し指を当てて、そっと扉に近づいた。
「一翔さんは知らないようですので、この方に訊きましょうか」
そう言って扉を開けると、聞き耳を立てていた男が、間抜け顔で現れた。
慌てふためいて逃げようとする男の襟を、後ろからむんずと掴んで、透磨が部屋に引き入れる。
「さて、あなたは誰でしょう?」
ニコニコしながら透磨が訊く。
「おまえは多加志じゃないか! そこで何をしていた?」
驚いて一翔が訊くが、多加志は逃げだす隙を伺っているばかりで、答える気はないようだ。
透磨は多加志を一瞥して、ニヤリとする。
「多加志さんと言うのですか。では、多加志さん、ぼくは嘘つきが大っ嫌いです。いいですか、嘘は許しません。この家の主と息子さんはどこにいますか?」
そう言って透磨はトラに変身して、多加志の目の前で鋭い牙を見せびらかして、恐ろしい声で咆哮した。
多加志はヒュッと息が止まり、体が石膏でできた像のように固まった。
一翔も聖七も口が半開きになり茫然自失な状態だったが、碧人は顔を背けて苦笑する。
「で、どこにいますか?」
冷たくギロリと睨んで言う。
「あ、あ、知らない」
「おまえ! 食い殺されたいのか?」
透磨の口が裂け牙を覗かせながら、べろりと舌なめずりをすると、多加志はヒーと妙な声を出し、腰を抜かして床に尻餅をついた。
「ほ、本当に知らないんですう」と無様だ。
冷ややかに多加志を見下ろしていた透磨が、碧人に訊ねる。
「碧人君、この者をどう思う? 他の者と同じ匂いかな?」
碧人は目を瞑り、スンと匂いを嗅いでから薄目を開けて、何やら集中する。
「妖烏ですけど、属が違うのかな? 一翔さんや聖七君とは少し違う匂いです。それに、もう一人この屋敷にいますよ」
「さすが碧人君、素晴らしい。……もう一人の仲間の名前は?」
多加志の目の前にしゃがんで、右手の爪を長く鋭く尖らせてから、多加志の喉元に当て、透磨が訊く。
「ひゃあ! な、直政ですう」
答えて頭を抱え込む。
「おまえに命令したのは誰? 何をやれと言われた?」
多加志の後ろの襟を掴んで立たせ、ブルブル震えている多加志を椅子に座らせてから、透磨は隣に腰かけた。
一翔はすぐに直政を捜しに部屋を出る。
碧人は部屋の隅で腕を組んで様子を伺っていた。
聖七は訳がわからないながらも、おとなしくしていた。
遠くでドタバタと音がしていたが、一翔が息を切らせて入ってきた。
「直政の奴、もう少しで逃がすとこだった」
忌々しそうに「連れてこい」と言うと、縄で縛られた直政を使用人が引き連れてきた。
「ああ、捕まえられてよかったです。で? ぼくはおまえの返事を待っているのですが」
透磨はギロッと睨み、
「嘘は駄目ですよ」と念を押す。
「……邪鬼です」
多加志は直政をチラッと盗み見て、小声で答える。
「何が目的?」
「神の集会所を邪鬼のたまり場にするつもりです」
「それと烏賀陽家と何の関係があるのかな?」
「烏賀陽一族は八百万の神の使いですから、ここを叩けば神々はバラバラになって、邪鬼の力が強くなります」
「何故神の集会所にこだわる? たまり場なんて、どこでもいいでしょう?」
「神の集会所を奪えれば、凄いことです。日本中に噂が流れます。そうなれば邪鬼の中で力を誇示でき……」
そのとき、透磨が手を挙げて多加志を遮った。
焦点の会わない目で暫く考えていたが、次の瞬間、激しい怒りの炎が瞳の中に生まれた。
「ああ! ああ! 何ということ……。あそこにケシの花を植えさせたのは、邪鬼の仕業だったんだ。邪鬼が安藤をそそのかしてやらせたんだ。そうだろう!」
透磨の手が怒りでブルブル震えた。
多加志は、恐ろしそうに透磨を見つめる。
「ええ、そうです。しかし妖花の力が強すぎて、邪鬼さえも集うことが出来ない毒に覆われてしまったのです。そこをあなたが清めたので、また邪鬼が動き出したのです」
透磨は深呼吸をして、気を静めようと必死だ。
「邪鬼は何人いる?」
「二人です」
「君らは邪鬼とどういう関係?」
「……私たちは迷鳥が集まった一族です。永住できる場所がありません。それでも頭が出来て群れになり……頭と邪鬼が結託して居場所を作りました」
「そこから離れて、ここで暮らそうとは思わなかった?」
「……群れを離れるのは、簡単なことではないです」
どこか寂しそうに答える。
「烏賀陽の者がどこにいるか、本当に知らないの?」
「わたしと直政は、烏賀陽の者が神の使いで、誰がどこに行くかを知らせるだけの役目でした」
「おまえの一族は何人? 今はどこにいる?」
「全部で九人、森のどこかにいます。場所は決まっていません」
多加志は憑き物が落ちたように、淡々と話す。
「龍神様、あなたは邪鬼さえも行けない場所を清めた人です。どうか、邪鬼を追い払ってください」
「…………おまえに言われるまでもない。ぼくは邪鬼を絶対に許せない。邪鬼のせいで、長い間苦しんだ親子を知っている」
どこに監禁されているのだろうと思案していると、聖七が透磨の背中をつついた。
「うん? 何、聖七君」
「おいら兄ぃがどこにいるか知っているよ」
「え! どこ? 何で知ってるの?」
応接室にいる全員が、驚いて聖七を見つめる。
聖七は見つめられてニコニコしていた。
「昨日家に帰ってきてから、ほっぺを冷やしてもらおうと、ばあやの部屋に行ったけど、ばあやは部屋にいなかったんだ。だから外に出て裏庭で待っていたら、話し声が聞こえてきた。ほら、龍神様に『家で何か変わったことが起きていないか注意して』って、言われたでしょう。だからおいらは、あわてて木陰に隠れて聞き耳を立てたんだよ。そうしたら、一翔兄ぃを捕まえ損なった、とか滝の裏にいる息子はどうしてる、とか見たことのない男が言ってたよ」
得意げに言うのを聞いて、透磨はすぐに理解した。
「一翔さんは昨日、ぼくらに会いに来なければ拉致されていたようですね。弟さんが拉致されている場所も分かりました。すぐ助けに行きましょう。聖七君、お手柄だよ。よくやった」
透磨に褒められて、聖七は弾ける笑顔をして喜んだ。
「碧人君と聖七君はここに居て。大丈夫だとは思うけれど、碧人君、十分警戒してください。妙な感じがしたらすぐに逃げて。ギン君、君もここにいて二人を守っていてください」
姿を消していたギンが急に現れたから、聖七も一翔も驚いていたが、ギンも「了解。怪我をしないようにお気をつけて」とこの大事件に驚いている。
「一翔さん、信頼できる強者を何人か連れて、さあ、行きましょう」
一翔が数名の使用人を集めて、急いで滝へと出かけて行った。
二段爆の『竜の登る滝』を見上げると、岩にぶつかって段が出来ているところがある。
そこを目指して登って行き、慎重に滝を観察すると、登ってきた道とは反対側に、かすかに滝の流れが浮いているのが見て取れる。
透磨がフクロウになって移動すると、一翔らは度肝を抜いたが、一翔たちも隠していた漆黒の羽を出して、反対側に飛んで移動した。
「ほら、ここから滝の裏に入れますよ。聖七君の言ったとおりだ」
滑る足場を気にしながら中に入ると、広い空洞が奥に続いていて洞窟になっている。
奥から光が漏れてぼんやりと辺りを照らし、話し声も微かに聞こえる。
そっと近づくと、五人の男が昼から酒盛りをしていた。
その奥に足枷をはめられて、自由を奪われた烏賀陽の者たちが座っていた。
「どうですか? 皆さんいますか?」
一翔にいなくなった家族が全員いるか、確かめさせる。
「はい、全員います。父も含めて六人います。ああ、よかった」
一翔はほっとして力が抜けた。
「そうですか。では行きましょう。ここは、ぼくとぼくの友達に任せてください」
透磨がすっくと立ちあがり、右手を出した。
「火の精サラマンダー、サンと共に力を貸してください」
中指にはめてあるアクアマリンの指輪から青白い光が出て、渦を巻きながら燃える巨大な狼ができあがる。
透磨も大きなトラになり、二頭で恐ろしい咆哮を発した。
その咆哮は洞窟内を反響して、五人を震え上がらすのに十分だった。
後ろに控えた一翔らも、恐ろしさで動けなかったほどだ。
「何? 何? あ、あれ……怪物だあ!」
「ひゃああ、助けてぇ!」
周章狼狽している者に、腰を抜かす者、みんな可哀そうなほど正気をなくしている。
透磨が動くことも出来ずにいる男に近づいて、唸りながら牙を剥くと、男は泣き出した。
「白旗をあげますか?」と人間に戻り、その男に訊ねると、
「ひゃい。助けてください」泣きながら、目をパチクリさせて答えた。
「では……。降参する人は武器を捨てて、手は頭の上に。歯向かえば狼が食い殺しますよ……。五人とも武器を捨てましたね。よろしい。サンありがとう。ご苦労様」
サンは光になって、手を挙げた透磨の指輪に吸い込まれた。
「足枷の鍵は?」
透磨が、足枷をはめられて不自由になっている六人を見て、手を上げている男たちに不機嫌そうに訊ねる。
「こ、ここに」と一人の、たぶん五人の中ではリーダー格の男が、おずおずと腰に巻いてある鍵を示した。
「じゃあ、おまえ! 早くそれを使って、足枷を外しなさい!」
透磨の機嫌が悪いので、男はびくつきながら足枷を外していく。
烏賀陽の六人は状況がわからず、びくつきながら成り行きを見守っていたが、助けに来た者の中に一翔を見つけてホッとしたようにしゃべりだした。
六人全員が自由になったところで、とにかくここから出ようと洞窟から出て、滝つぼの横まで下りてきた。
「あなたが龍神様ですか。集会所を清めてくださったことに加えて、私たちも助けてくださり、何とお礼を言って良いか分かりません」
烏賀陽の主は、昔は見事な濡羽色であったと思われる黒髪に、今はちらほらと白髪が目立つようになっている。
がっしりした体格には、神々のお使いを、誇りをもって務めてきた風格が漂っていた。
「問題はまだ解決していません。まだ邪鬼二名と、邪鬼と組んでいる迷鳥二名がいます。ぼくはこの邪鬼が許せないのです」
透磨の体全身から、怒りの感情がメラメラと発せられて、烏賀陽一族と使用人は、恐ろしそうに透磨を見た。
碧人は何となくしっくりしないので、そわそわしている。
透磨に違和感を持っている。
『いつも飄々としている透磨さんなのに、酷く感情的になっている。怪物とはいえ、かつては人間だった者が目の前で死んだのだから、その影響だと思うけれど、嫌な予感がする。それにぼくのこの勘は、信用して良いと透磨さんは言った。ああ、悪いことが起きなきゃいいけど』
ギンと聖七は馬が合うらしく、和気あいあいと話していると、玄関が騒がしくなり、聖七が「帰ってきた!」と急いで迎えに行った。
暫くすると廊下が騒がしくなり、応接室にこの家の主と、肩車をしてもらっている聖七が入ってきた。
続いて、成長中の子供の映像を早回しで見ているような、同じような顔の息子たちが、わらわらと現れた。
主が碧人に丁寧に礼を述べ、次に聖七も褒めた。
聖七は余程嬉しいらしく、これ以上ない破格の笑顔で笑っている。
透磨が中々入ってこないので碧人が心配して迎えに行くと、玄関先でじっと森を睨んでいた。
『ああ、何か本当に嫌な予感がする』
透磨の後姿を見て感じた。
「透磨さんお帰りなさい。無事でよかったです」
声を掛けると、透磨の肩がぴくっと動いて振り向いた。
「うん、五人捕まえた。あと残っているのは、迷鳥二人と、邪鬼二人……」
「どこにいると思いますか?」
外で様子を伺っていたのだろうと思い、碧人が訊く。
「うん……。たぶん集会所」
「え! もうそこで何か企てていると?」
「うん……。ぼく今からちょっと確認してくる」
透磨が一人で行こうとするのを、碧人が腕を掴んで慌てて止めた。
「待って! 透磨さん。今日は烏賀陽の皆さんと話し合って、明日みんなで行きましょう」
透磨は振り向いて、碧人を暫し見つめてから、
「……そうだね。心配かけてごめん。落ち着かなくちゃだめだね」
すまなそうに言う。
家の中に入る透磨を、遠くからじっと睨んでいる視線には、二人とも気が付かなかった。
翌日の早朝、烏賀陽家のカラスが集会所の偵察を終えると、小鬼が沢山いて、何やら物々しく動き回っていると報告した。
それを聞き、うかうかしてはいられないと集会所を奪回するために、烏賀陽一族を筆頭に皆の衆が集まり、鬼の討伐に早速出向くことになった。
碧人を屋敷に残したかったが、どうしても透磨から離れない、と言うことを聞かないため、透磨は仕方なく碧人と共に後方で見守ることにする。
例のコロッセウムを見下ろす高台に着くと、ケシ林は見事に消滅していて、薄っすらと野草の芽も出て、辺りは黄緑色をしている。
小鬼は来る戦いに備えて、何処かから運び込んだ木材を使って、砦らしきものを作っていた。
烏賀陽が「ピーッ」と口笛を鳴らすと、羽を広げた妖烏が一斉に、手に頭の大きさ程の石を持って羽ばたいた。
コロッセウムの上空までくると、手にしていた石を次々に投げ入れる。
木材を運んでいた小鬼や、その木材を金槌で打ち付けていた小鬼は、空から石が降ってきたので右往左往して逃げ惑い、ちょっとしたパニック状態になって、キーキー叫んでいる。
落下の勢いのついた石は、小鬼に当たると小鬼は気絶し、打ち付けられたばかりの建物に当たれば、それを破壊した。
邪鬼が空中の妖烏を確認すると、甲高い独特の声を張り上げた。
するとオオコウモリに乗った小鬼が現れ、妖烏に襲い掛かり、空中戦に突入した。
主人を救いにカラスも応戦すると、上空は太陽の光が遮られるほど覆いつくされ、地上から見上げると、敵も味方も識別不可能なほどの黒い大空に変化した。
しだいに、戦いで傷ついた小鬼や妖烏が、バタバタと地上に落ちてきた。
さらに地上戦も開始した。
地上戦では、烏賀陽の主と一翔が一人の邪鬼の相手をしていた。
二人の剣さばきは芸術並みに美しく、流れるように邪鬼の金砕棒を退け、二人の連携が功を奏して圧倒的優位に立っている。
「おかしいな。邪気は二人のはずなのに。あと一人はどこに隠れているのだろう?」
透磨が高台から烏賀陽の交戦を見下ろしていると、不意に風向きが変わり、碧人が突然叫んだ。
「透磨さん! 奴はここにいる!」
透磨と碧人が後ろを振り向くと、邪鬼とケシ林にいた怪物が、今にも二人に襲い掛かろうとしていた。よく見ると怪物は耳がとがり、複眼の目はより大きくなって、前よりも見た目が悪魔に近づき、凶暴性も加わり、終始唸り声を上げている。
「その怪物は安藤か? 成仏できなかったのか?」
碧人を後ろに庇いながら、透磨は驚いて邪気を睨んだ。
「おまえがいると邪魔なんだよ。……さあ、奴を殺せ!」
邪鬼が透磨を指差し怪物に命令するのと同時に、透磨も怒鳴る。
「サンは怪物の相手を、ギン君は碧人君を守って!」
透磨は、全身の毛が逆立つほどに激昂している。
「人を……、人を何だと思っているんだ! 来い! ぼくが相手してやる!」
透磨はベンガルトラになって、腹の底から咆哮する。
サンも続いて雄叫びを上げると、一瞬邪鬼がひるんだ。
火の精サラマンダーと組んで、燃える狼になったサンを初めて見る邪鬼は、予想していなかった展開に逃げ腰になるが、透磨はかまわず邪気に向かって行く。
透磨の欲望や精神を操作できない邪鬼は、透磨にとって敵ではない。
邪気が振り下ろした金砕棒は、腕の太いトラの一振りで遠くに飛ばされた。
青ざめた邪鬼を見て、『あ、赤鬼が青ざめると、やっぱり紫っぽくなるんだ』などと思うほど、透磨は余裕がある。
そのまま邪鬼に飛び掛かり組み伏すと、サンの状況を見極める。
サンと怪物は、体があって無いようなもの、勝負などつくはずがない。
二匹は離れたり組んだりして、互角にやり合っている。
「怪物を止めろ。でないとおまえの喉元にこの牙を刺し貫くぞ」
唸りながら長い牙を出して、足元の邪気を脅すと観念した。
「もう止めろ。座れ」
邪鬼に命令されると、怪物は唸りながら座った。
「あれは安藤だろう? 何故ここにいる?」
碧人がどこからか縄を持ってきて、邪気を縛り上げているあいだに、透磨はムカムカしながら訊いた。
「……あれは中身も怪物のまま死んだから、魔物になった」
「何故、おまえの言うことをきくんだ?」
「俺が奴の欲望と精神を支配しているからだよ」
不機嫌そうに睨まれて、邪鬼がびくつく。
「どうしたら自由になれる?」
「……ずっと俺の奴隷だ」
「おまえを殺したら自由になれるのじゃないか?」
冷たく言われると慌てて「待て、待て」と言い、
「今、どうしたらいいか考えるから待ってくれ」
と、ますます青ざめた。
「あれは、どうしたら、自由に、な、れ、る?」
透磨が牙を剥きだして、邪鬼の耳元で唸ると「ヒー」と言ったきり頭を抱えてうずくまってしまった。
透磨の体からは無数の氷の刃が発せられている。
「まったく! 本当に! どうしてくれよう!」
イライラは頂点に達したようだ。
「透磨さん、少し落ち着いて……」
碧人が普段と違う透磨のイラつきに戸惑って、泣きそうになっているのに気が付いて、透磨が碧人の肩を抱いた。
「……うん、ごめん。驚かせたね……」
地べたに伏せている邪気を見下ろし、息を整えてため息をついた。
「ギン君、どうしたらいい?」
「こんな奴らはまとめて消してしまえばいいのに、とぼくなら思いますけどね。でも、龍神様は怪物を救いたいようだ……。仕方ありません。少しお待ちください」
ギンは本来の姿に戻って、どこかに飛んで行った。
勝負は自分たちの敗北とわかると、小鬼たちは我先にと地獄へ帰ってしまい、烏賀陽一族と皆の衆は、取り残された邪鬼一名と迷鳥二名を捕らえて縛り上げた。
戦いが終息して一翔が透磨たちの所まで登ってきて、怪物がお座りをしているのを見て驚いている。
「ケシ林の怪物は死んだのではありませんか? この怪物は?」
「ええ、貫太君は成仏できたのですが、父親の方は魔物として邪鬼の奴隷になったようです……。本当に許せない!」
また、透磨の怒りが湧いてきたのが感じられて、邪鬼はますます縮こまる。
そのとき辺りが白く輝きだした。
閃光が走り一瞬視界が消え、その後しだいに目が慣れてくると、目の前に女性とギンが現れた。
烏賀陽の者は女性が誰だかわかると首を垂れ、跪く者もいる。
「おまえが龍神か。本当に世話になった。礼を言う」
女性は心の琴線に触れるような音色で話し、思わず透磨は頭を下げた。
「龍神様、こちらは山神様です。龍神様の願いを山神様にお知らせしました」
ギンが恭しく頭を下げながら述べる。
「龍神、おまえの望みを叶えよう」
山神がお座りしている怪物を睨むと、怪物はクーンと哀れな声を出して震えだした。
山神が怪物に触れると「ギャン」と一声鳴いて、怪物は小犬になった。
それから邪鬼を嫌悪の含む眼差しで睨むと、邪鬼も震えだした。
「小賢しいやつ。ギン、邪鬼二匹は後で我のところに連れてこい」
そう命令して、光の中に消えていった。
静寂の後、ほう、とため息があちらこちらから漏れた。
「龍神様、この小犬には、この森に捨てられたゴミを集めるという仕事が与えられました。そして沢山徳を積めば、人間の心を取り戻せて、霊界に行けるようなります。それで納得してくださいますか?」
「ありがとう、ギン君。これでいつか安藤も救われる日がくる」
透磨はほっとして、碧人と見つめ合った。
碧人も透磨が落ち着いたので安心したようだ。
「まだ、朗報があるのですよ」
ギンは、ふふっと笑い聖七を呼んだ。
遠くでみんなの活躍を見ていた聖七が、飛んでくる。
「聖七君、山神様のお使いをしてくれますか?」
「え! 山神様のお使い? おいらが?」
聖七の瞳が、キラキラと輝く。
「ええ、そうですよ。大変なお役目です。出来ますか?」
「うん、なんだってやるよ」
「聖七君には、この小犬の世話をしてもらいたいのです。この犬は森の中を見回って、ゴミがあったら集めるのが仕事です。その手伝いをしてくれますか?」
「うん、もちろんだよ。おいらが名前つけて良い?」
「はい。聖七君がご主人様ですから。霊界に行けるまで面倒見てくださいね」
「うん! わかった!」
ずっと切望していたお勤めを与えられて、聖七は飛び跳ねて喜ぶ。
「神様のお使いができてよかったな」
一翔が聖七の頭を微笑みながら撫で、聖七は一翔に抱きついた。
「おいら、頑張る!」
聖七は得意顔で子犬の頭を撫でる。
小犬も新しいご主人に頭を撫でられて、気持ちよさそうに寝ころんだ。
透磨と碧人は、流石にクタクタに疲れはて、やおよろずの宿で翌日の昼近くまで、泥のように眠った。
正午過ぎに宿を出発することになり、宿にいた妖熊の運転で駅まで送ってもらうことになった。
名を颯太と言い、滝で気を失っている透磨と清水を運んでくれたのが、彼である。
颯太は寡黙であるが、透磨に敬意を払っているのが感じられる。
後部座席には透磨と碧人が乗ったが、碧人が不思議そうに透磨に訊ねる。
「透磨さん。何でギン君が乗っているのですか?」
「……駅に用があるんじゃない?」
と透磨が答えるが、
「そうなの?」
絶対違うと思いながら、碧人はギンに訊く。
「碧人君は何で不機嫌なのですか?」
ギンがからかう様に言う。
「ぼくたちと一緒に、学園まで来るんじゃないよね?」
碧人がムッとして確かめると、
「あ、よくわかりましたね。ふふふ、ぼく、山神様にお願いしたんです」
そう言って、助手席から後ろに振り向いた。
「龍神様の手伝いをしたいので、暫く自由にさせてくださいって頼んだのです」
碧人を見て、不敵にニヤリとする。
「え? まって。ぼくは別に頼んでないよ」
透磨が困り顔をするが、ギンはお構いなしだ。
「龍神様はこの先も、きっと面倒なことに首を突っ込みます。ですから、ぼくはそのお手伝いをしたいと思います。山神様もお許しくださいました」
ギンはふんふんと極めて陽気だが、碧人は透磨を取られそうで面白くないし、透磨は面倒くさそうだ。
「龍神様、もしギンがご無礼なことをしでかしたら、すぐに連絡ください。私が連れて帰りますから」
颯太がバリトンボイスの心地よい声で爽やかに言う。
「嫌だなあ。ぼくがそんなことするわけないでしょう。それにぼくは桜雅と共に三か月間学園にいたから、学園は勝手知ったる場所だよ」
そう言うと、碧人に握手を求めた。
「碧人君、仲良くしようよ。大丈夫、ぼくは龍神様を君から取ったりしないよ」
恥ずかしいことをサラリと言うんだな、と思いながら仕方なく碧人はギンの手を、
「学園で、不審者にならないように気を付けるんだね」
と言って思い切りギュッと、ギンの顔が痛さで歪むまで強く握りしめた。
ギンが輝月城学園にやってきてから三ヶ月が経とうとしているが、今ではすっかり学園に馴染んでいるようだ。
彼が何年何組で、寮は何号室なのか、なぜか誰も気にしない。
もっとも現れるのは土曜日と日曜日がほとんどで、平日は何をしているのか、碧人も大智も知らない。
十月に入り、からりと晴れて爽やかな週末の日に、二人が弁当を持って校庭のベンチで昼食を摂っていると、ギンが近づいてきた。
「碧人君、大智君、こんにちは」
にこやかに言って花壇に目をやる。
ほんのり甘い香りのするスィートアリッサムの白い花が花壇の縁取りと前列に咲き誇り、ダイモンジソウの白い花の中でケイトウが、赤や黄、オレンジの炎のような激しい色で花壇を彩っている。
「ここの花壇も綺麗ですが、高校棟の花壇の方がさらに美しく咲いていますよ」
ギンがスィートアリッサムの花をふわりと触って、笑いかける。
「ギン君は高校棟にも行くの?」
大智が花には興味なさそうに訊く。
「あ、ええ、まあ.……」
「ギン君が花壇の手入れをするの?」
と碧人が意外そうに言う。
「いいえ。高校棟はアイラが手入れしています……」
「アイラって誰?」と大智。
「城に住み着いて、家事の手伝いをする妖精です」
頬を染めて答えると、
「高校棟には妖精が出るの?」
大智が興味を持ったらしく、魅力的な瞳を大きくした。
「城の掃除や戸締りをしていますよ。とても有能な女性です」
「へええ、会ってみたいな」
「それは無理です。仕事は皆さんが寝静まってからしますので」
やや躊躇しながらギンが答える。
「ギン君はそのアイラと言う女性と、夜はいつも一緒にいるの?」
碧人が意味ありそうな眼差しで見つめてギンに訊くと、ギンが慌てて否定する。
「仕事の邪魔になるから、一緒にはいませんよ」
「ギン君、顔が赤いよ。風邪? あれ? ギン君たちって病気するの?」
大智がからかうように目を細めてニヤリとする。
「ぼくは用があるから行きます」
プイと機嫌を損ねて、ギンは校舎に入って行った。
「ふふふ、ギン君とアイラってどういう関係だと思う?」
大智の目が生き生きしてきた。
「どんな女性なのかな? 会ってみたいね」
碧人が、ギンが去った校舎を見ながらつぶやくと、
「今晩会いに行こうよ!」
大智が悪戯っぽく、キラキラした瞳で言った。
碧人も誘惑に勝てずに大智と夜中にそっと寮を抜け出して、高校棟の花壇の前でアイラという女性が現れるのを、ひたすら待つことにした。
「花壇の手入れに今日来るとは限らないよ。来ないかも」
来てしまってから、透磨や父に見つかりはしないかと、碧人が冷や冷やしだした。
「三十分待って来なかったら、今日は帰ろうよ。会えるまで土曜の夜はここに来るぞ」
大智の大きな瞳は、月光が反射して光っている。
コオロギや鈴虫が、一生懸命に求愛の音楽を奏でているのを静かに聞いていると、校舎から白っぽい人物が現れた。
「ビンゴ! 来た来た。彼女でしょ?」
大智が少々興奮している。
シュルシュルと絹のすれる音をたてて、アイラが花壇にやって来た。
「あら、だあれ? 子供が夜中に外にいては駄目でしょう」
アイラが高校生にしては幼すぎる二人に気が付いて、不思議そうな顔をする。
「こんばんは。ぼくたちは隣の中学棟から来ました。綺麗に咲いている花壇の手入れをしている人がどんな人なのか、会いたかったんです」と大智が言うと、
「ギン君に高校棟の花壇がとても綺麗だと教えてもらいました」碧人が補足する。
「あら、君たちはギンのお友達なのね。ふふ、嬉しいわ。綺麗に咲いているでしょう」
アイラが機嫌よく答える。
「僕は碧人。彼は大智です。よろしく。ギン君は一緒ではないの?」
「ふふ、よろしく。私はアイラよ。彼は、今日はまだね。仕事が終わる頃に来るわ」
「お姉さんはどこの人? ヨーロッパ?」
「ええ、そうよ。イングランドのお城にいたの。でもお城がここに引っ越しちゃったでしょう。なぜか私も城と一緒に、ここに来ちゃったの。でもここも楽しいわ」
「故郷から離れて、寂しくないですか?」
「お仕事があるし、お友達もいるから寂しくないわよ。あら、大智君の瞳は輝いているのね。とても綺麗だわ」
大智の顔をぐいと覗き込み、顎に白く細い手を添えると、大智が慌ててのけぞった。
「お、お姉さんも凄く綺麗です」
ソワソワしながら言うと、碧人がこちらを見て、ニヤニヤしているのが目に入った。
「お友達って誰ですか?」
「海斗君とサンというワンちゃん。可愛いのよ」
予感はしたがこれはまずいと思い、碧人は慌てて帰ろうとする。
「お姉さん、今日は会えて嬉しかったです。お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした。ギン君によろしく伝えてください」
そう言って、急いで大智を引っ張るようにして寮に戻ってきた。
寮に戻るとパジャマに着替えながら、大智が不満そうな顔をする。
「どうしたのさ、そそくさと帰ってきちゃって。せっかく会えたのに。ぼくはもっと話したかったよ」
「大智君、まずいよ。夜中に抜け出たのが、ばれるよ。ああ、海斗君のことを考えなかった。 透磨さんにばれる。ああ、どうしよう」
「大丈夫だよ。明日は日曜だし、あ、もう今日か。月曜に遅刻さえしなければ平気だよ」
碧人はオロオロしているが、大智はいたって呑気に欠伸をして「おやすみ」と言い、ベットに潜り込んだ。
日曜の朝は夕べ遅かったので、寝坊してウツラウツラしていると大智の「うわっ!」という大きな声で起こされた。
「え! どうしたの?」
碧人が慌ててカーテンを開けるとギンの顔が目の前にあり、目がバチっとあって、思わず「ぎゃっ!」と碧人の叫び声が漏れた。
「ギン君! ここで何してるの! 驚かさないでよ! ああ、心臓が止まるかと思った」
碧人が胸に手を当てて、息を整えていると、
「ぼくも死ぬ程びっくりしたよ」
大智も慌ててベットから起き出し、文句を言った。
「君たちは……、ぼくは会うのは無理だといったよね! それなのに会いに行ったんだ!」
ギンは顔を赤くしながら機嫌が悪い。
「すぐ帰ってきたから、仕事の邪魔はしてないよ。彼女とは、楽しく会話しただけだよ」
なぜギンが不機嫌なのかわからず、首を捻りながら碧人は答えるが、ギンは口を尖らせたまま下を向いている。
「すごーく綺麗な人だね。美術館に飾ってある絵の中の天使みたいだった」
大智がギンの肩に腕をまわすと、ギンが逃げるように椅子に腰かけた。
「そうだよ。とても綺麗な人だよ……」
ギンの目は落ち着きがなく、キョロキョロと彷徨っている。
「…………あのさ、もしかしてギン君はアイラが好きなの?」
碧人が躊躇しながら訊くと、ギンはうつむいたまま両手をいじっている。
碧人は大智と目を合わせて、どうしたら良いかわからず突っ立ったままでいる。
「……アイラのことが気になって、気が付くといつも彼女のことを考えているんだ……。こんな気持ちは初めてでよくわからない」
ギンは泣きそうな表情をしている。
「胸も息苦しいし、ぼくは病気かな?」
ひしと二人を見つめる。
「……ギン君、それは恋わずらいだよ」
「うん、誰が見てもそうだね」
碧人と大智が答えるが、二人には経験がないから何とも心もとない。
「ぼくはもうじき死ぬんだ……」
重病人のように言うギンに戸惑いながら、大智がきっぱりと告げる。
「いやいや、それはないよ。だいいち君らの『死』とはどういうことを言うのさ」
「……? そういえば考えたことないな。存在が無くなることかな?」
ギンもわからず答えるが、段々と頭の中が『?』で一杯になる。
「もしかして初恋なの?」碧人が訊くと、
「え? そうなのかな……。そうだと思う」
「へえ、うん、そうか。ぼくらはギン君の初恋が実るように協力するよ。ね? 碧人君」
大智は面白そうに言い、碧人は困惑したが、それでもギンに協力しようと思った。
「彼女……アイラとは親しくしているの?」と碧人。
「毎晩、仕事終わりに会っているけど」
「会って何しているの?」と大智。
「え? どの部屋が汚れていたとか……。そんな感じ?」
「ええ! 駄目じゃん、それ。ギン君、デートに誘わなくちゃ駄目だよ!」と大智。
「デート? どこに?」
「…………」暫し沈黙が続く。
「プライベートビーチ……、月夜の綺麗な日にプライベートビーチなんて、いいんじゃない?」
それでも碧人が提案すると、
「おお、それいいね。学園にあるプライベートビーチに誘って、好きだって告白しなよ」
と大智が賛成して勧める。
「……月夜のビーチか、ロマンチックだね。うん、ぼくアイラを誘ってみる」
二人に背中を押されてギンは笑顔になり、部屋から出て行った。
「来たときは幽霊みたいに生気がなかったけど、元気になって良かったよ」
「確かに……。でも夕べのアイラを見た限り、ただのお友達って感じしなかった?」
碧人は心配そうに大智に話しかけた。
二学期の中間テスト突入前に、ギンからは一度朗報が入っていた。
月夜の浜辺の美しさにアイラがいたく気に入り、仕事終わりにビーチまで二人で散歩するのが日課になったという。
ギンが言うには『ぼくらには物欲とか性欲は無いから、こうしてアイラと一緒にいられて話が出来れば、それで満足』らしい。
だからアイラに告ることはしないそうだ。
取り敢えずギン君の問題は解決して、これからはぼくらの問題だと碧人と大智はテスト勉強に集中した。
地獄のテスト期間が終わり、悲喜こもごもの結果に生徒がざわめいている時に、大智がギンの情報を仕入れてきた。
「ねえねえ碧人君。たった今、清水君から聞いてきたんだけどさ……。あ、いいな。ぼくもアイス食べよ」
碧人が学食で夕食後にアイスを食べていると、大智がやってきて自販機でアイスを購入して隣に腰かけた。
「テスト前、ギン君はご機嫌だったでしょう。だけど清水君が夕べ見かけたときは、すごく落ち込んでいたらしいよ」
「え? どこで会ったの?」
包装紙を剥がして、アイスにかぶりついている大智に訊くと、
「花壇の前でうなだれていて、後姿が寂しそうだったって。アイラと喧嘩でもしたのかな?」
甘いものは別腹だよね。美味しい、と言いながら食べる。
「ギン君は喧嘩なんてしないと思うけどな。うーん、何か気になるなあ。今どこにいるんだろう?」
「……じゃあ、今晩会いに行こうか?」
大智の瞳が光りだしたのを見て、碧人が悩みだす。
「このあいだの外出のこと、たぶん透磨さんの耳に入っていると思うよ。また出歩いて大丈夫かな?」
しかめ面で碧人が言うと、
「でも、ギン君が気になるでしょう? 高校棟の庭には入らないで境目で待ったらどう?」
大智はもう行く気満々である。
「う……ん、そこで会えるといいけどさ」
碧人はため息まじりにつぶやき、窓の外の花壇に目をやった。
校門から続く道は右手に高校棟、左手に中学棟に分かれるが、碧人と大智が道を渡って高校棟に入る手前で、来るか来ないかわからないギンを待っていた。
二、三十分も経つと、大智が飽きてきたようでウロウロしだした。
「最近は天気が良い日が続くね。今夜も空気が澄んでいて綺麗な星空だけど……ねえ、今日はギン君来ないみたいだね」
帰りたそうに言う大智が、誰もいない空間をジッと見ている碧人に気が付いた。
「なに? どうしたの?」
「誰かいる」
「え? 誰もいないよ」
大智が辺りを見回しても、動いている者の気配はない。
「感じるんだよ。透磨さんは、ぼくのこの勘は信じて良いと言った……。ああ、もしかして海斗君かな?」
碧人が空を見つめて話しだした。
「そこにいるのは海斗君でしょう? 夜中に出歩くのは悪いと思っています。でもギン君が心配なんです。清水君から元気が無いようだと聞いて、ギン君に会いたくて来ました。ぼくらは明日一日どこにも出かけないで部屋にいるので、いつでもいいからギン君に来てほしいと伝えてくれますか? お願いします」
と言って空に向かって頭を下げた。
「じゃあ、帰ります」
呆然としている大智を急き立てて、二人は寮に戻った。
翌日は、テストから解放された週末のため、学生たちは楽しそうに街に繰り出す者が多い。
碧人と大智は映画に誘われたが、断ってギンが部屋に訊ねて来るのを待つことにした。
午前中いっぱい首を長くして待っていたが、来ない。
午後も、来ない。
諦めかけたときに、ギンが申し訳なさそうにドアを軽くノックして現れた。
「ああ、ギン君、良かった。待ってたよ」
碧人が心からほっとしたように言い、ギンを部屋に招き入れる。
「海斗君から聞いたの? 碧人君、君凄いね。やっぱりあの場所に海斗君はいたんだね」
大智が改めて碧人を見て、その勘の鋭さに感心している。
「海斗君から二人がぼくの事を心配していると聞いて、それで……」
ギンは伏し目がちに小声で答え、ため息をついた。
「元気が無いのはアイラのことでしょう? 何があったの?」
碧人が遠慮しながら訊くと、
「うん……。浜辺での散歩はとても素敵な時間だったよ。凄く満ち足りた時間だった。でも邪魔する者が現れたんだ」
ふうっと息を吐き、ギンは肩を落とす。
「え? 誰?」
「セルキーだよ。彼はスコットランドの妖精でアイラはイングランドだから、二人はグレートブリテン王国の同士になるわけ。だから話も弾むみたい。セルキーは美男美女の種族で……、ほんと嫌になるくらいハンサムなんだよ」
「同郷だから話が弾んでいるだけじゃないの?」
大智が気の毒がって声を掛けるが、ギンは心ここにあらずの様子だ。
「あのさ、ギン君はどうしたいの?」
仲の良い男女の間にハンサムな男性が現れたとしても、ギン君とアイラは恋人同士ではないから何も問題ないし、と思いながら碧人が訊く。
「……別に何も。アイラが彼をどう思うかだよ」
ギンはどこか遠くを見つめている。
「男性のセルキーは好色で、配偶者がいても女性を誘惑するのに長けているからなあ。でもアイラは聡明な女性だから、変に騙されることは無いと思うけど」
寂しそうに二人に微笑みながら答える。
「そんな軽薄な奴なら、ギン君がアイラを守んなきゃ駄目じゃん!」
大智が発破を掛け、さらに質問する。
「二人はいつ、どこで、そのセルキーとやらに会うの?」
「アイラが仕事を終えてから一緒に浜辺まで散歩に行くと、彼はそこにいるんだよ」
「じゃあ、いつも三人で会っているの?」
「うん、ぼくはお邪魔虫なのかな?」
ギンが気落ちして言うと、
「いや、そんなことないと思う。アイラは敢えて三人で会っているわけでしょう? 二人だけで会いたいのならばそうしているはずだよ。だからアイラは彼のことは大智君の言う通り、故郷の話が聞きたいだけじゃないの?」
碧人の希望の持てる言葉を聞いて、顔色の悪いギンの頬に紅が差してきた。
「よし! じゃあ、ぼくらも今夜は浜辺に行って、物陰から彼を観察してみようよ」
「え? 君、何を言ってるの?」
大智の提案に碧人はビックリしてしまったが、大智の瞳は好奇心で大きくなり、キラキラと輝きだしたのを確認して、碧人はもう止められないと観念した。
ギンは一人で抱え込んでいたモヤモヤを二人に話し、意見も言ってもらえて心が軽くなったようだ。
夜更けに寮を抜け出して入り江に到着した碧人と大智は、海を背にして岩場に隠れた。
「ここなら浜辺に下りて来る人物が丸見えだね」
瞳を大きくして大智が楽しそうに言うが、碧人は海斗に見つかるのではないかと、気が気ではない。
水平線の上に丸い大きな月がポンと浮かんでいて、白い帯状の光を波の上に注いでいる。
ゆらゆらと動く白い波は生きているように波打ち際まで伸びて、月の美しさを存分に表している。
その光の帯から人の影が現れたが、二人は背を向けているため気が付かない。
「おやおや、それで隠れているつもりかい? ここから丸見えだよ」
急に後ろから声をかけられて、二人は「うわあ!」と叫ぶのと同時に身体がビクッと飛び上がった。
後ろを振り向くと、そこには月を背にしてスタイルの良い男性が立っていた。
「だ、だれ?」
大智がドキドキしながら訊くが、逆光で相手の顔がよく見えない。
「わお! 君はなんて綺麗な瞳をしているんだい」
月光に顔を向けた大智の瞳はキラキラ異様に光っている。
男は大智の側に来て、顔を覗き込む。
大智は思わず後ずさりして、碧人の後ろに逃げ込んだ。
「あなたはどこから現れたのですか? もしかして海から?」
一歩前に出た碧人が訊ねると、男はふふふっと笑った。
月光に映し出された男の顔は非の打ち所がないほど整っている。
髪は珍しいストロベリーブロンドで、ゆるくカールのかかった前髪の下から覗く目の色は薄い緑色だ。
肌は白く形の良い唇が動いた。
「こんな夜更けに少年が何をしているのかな?」
「あなたはセルキーですか?」
質問に答えないので碧人がイラっとして訊いた。
「え? ああ、君たちはギンの友達か。ふーん」
二人を上から下までジロジロ見てから、
「ギンに続いて、今度は子供二人が僕らの邪魔をするのか? 面倒だなあ」
と失礼なことを言う。
「面倒ならば、スコットランドに帰ったらどうですか」
碧人は何となく虫の居所が悪くなった。
「ごめん、ごめん。仕切り直そう。僕はディラン、よろしく」
白い歯を見せて、あははと笑い握手を求める。
「……。ぼくは碧人。彼は大智です」
仕方なく自己紹介をしてディランの手を握る。
「ギンから色々聞いているみたいだね。僕はアイラに首っ丈なんだよ。だからこうして毎日ここに来ているわけさ。なのに、二人きりになれない。僕の言いたいことわかってくれる?」
低めの心地よい声で穏やかに言うが、
「いいえ、それはアイラが望んでいないからでしょう」
碧人は冷たく言い放つ。
「君は顔に似合わずズバッと言うねえ……ふふ、気に入った」
ディランがニッコリ笑うと、確かに女性ならばドキッとするかもしれない。
ギン君が落ち込むのも頷けると思った。
「ああ、愛しの人が来た来た」
アイラとギンが浜辺に下りて来るのに気が付いて、ディランが駆けて行く。
「きざでいけ好かない男だね」
大智がむすっとして言う。
「あら、碧人君と大智君じゃないの。どうしたの?」
アイラが二人を見つけて驚いている。
「こんばんは。お月様がとても綺麗ですね。ギン君に聞いて、是非とも月夜の散歩をしたくなりました」
碧人がチラッとギンを見て言うと、彼はホッとした表情をしている。
余程ディランを入れて、三人だけで会いたくなかったのかもしれない。
「ええ、今日は特に幻想的で美しいわ」
月光に整った横顔を照らしながら、満足そうに微笑む。
「アイラ、君は今日も美しいよ」
ディランはアイラの手を取り、歯の浮きそうなセリフを平然と言ってのける。
アイラが顔色を変えることなくスッと手を離すのを見て、碧人は『やっぱりアイラは彼のことを何とも思ってないじゃないか』と確信した。
「お姉さんは同郷のディランに会って、故郷に帰りたくなった?」
大智がズバッと訊くと、ギンがギョッとして睨んだ。
「いいえ、私がいる場所はここだもの。故郷に戻ってもお城がないの。でも、懐かしい話が聞けて嬉しかったわ。ありがとう、ディラン」
「いいえ、ここも素敵な場所です。とてもロマンチックで、愛を語るのに最適だと思いませんか?」
ディランはあくまでもエロスに持って行こうとするが、碧人も大智も聞いていてウンザリしてきた。
「いつまでここにいるの? 故郷に愛しい人はいないの?」
大智が意地悪な質問をぶつけてみると、上から目線のディランがニヤリと笑い、
「僕はいつでも目の前の女性だけを見つめているよ」
ふふんと鼻で笑い、前髪を優雅に掻き上げる。
そのとき、後ろでポチャッと水音が聞こえたが、耳の良い碧人と大智だけが気が付いたようだ。二人が同時に振り返ると、海の中から現れたと思える美しい女が、月を背に立っていた。
女は素早くディランに近づくと「この浮気者!」と叫んで左手で胸元を掴み、右手で思い切りパン! パン! と往復ビンタで頬を叩いた。
乾いた良い音が入り江に響き、碧人と大智は思わず自分の両頬を両手でさする。
ギンとアイラは口が半開きのまま呆然としている。
叩かれた勢いでバランスを崩したディランは、よろめいて砂地に膝をつき、何が自分の身の上に起こったのか知ろうとした。
目の前に鬼のように立ちはだかっている女を見て、ディランの綺麗な緑色の目が落ちるほどに大きくなり、頬に持って行こうとした両手が途中で止った。
「お、おまえ……、どうしてここに?」
言ったきり、目が落ち着きなくキョロキョロしだす。
「いつまで家を留守にするつもりなのよ? え! いつになったら帰ってくるのよ?」
女は怒りで顔を真っ赤にして、なおもディランに馬乗りにまたがって掴みかかる。
「わ! 止めて! 許してボニー……、痛い! 痛い!」
両腕で必死に防いでいるが、滅茶苦茶に殴られて何発かヒットしているらしく、ボコ、ボコと音がした。
「すごっ……」と大智が、
「こわっ……」と碧人が、
「奥さん?……」とギンが、
「自業自得……」とアイラが言った。
四人は、しばらく奥さんらしいボニーの好きにさせていたが、流石に瀕死状態のディランが気の毒になって、ギンが助け舟を出した。
「あの、ボニー? 彼とアイラは変な関係ではありませんよ」
ボニーは疑わしい視線をアイラとディランに送って、最後にディランの頭をペシッと叩いてから立ち上がり、パンパンと服についた砂を払った。
落ち着きを取り戻したボニーは、輝く金髪を海風になびかせ、白い肌に水色の瞳をしている。
碧人が誰かに似ていると考えていると、サンドロ・ボッティチェッリのヴィーナスの誕生の中の人だ、と閃いた。
アイラが前に出て冷ややかにディランを見つめ、それからボニーに向き直った。
「私はアイラ、よろしくボニー。初めに、私とディランは単なる知り合いよ。私はスコットランドの出なの。だから故郷の話が聞きたかっただけ。私とのことはボニーの勘違いだけれど、きっと今まで散々浮気をしてきたのでしょうね。だから今回はディランが招いた種だわ。これに懲りてディラン、あなたは浮気をするのはやめなさい。こんなに美人であなたを愛している人を、悲しませてはいけないわ」
アイラはギンの手を取り
「私は見た目なんて何も感じないの。このギン君だって、どんな容姿にもなれるのよ。だから意味ないの。私はギン君の方が好きだわ。彼と話をしていると、とても穏やかな気持ちになれるのよ。いつも一緒にいたいと思うわ」
ギンの目を見つめて言うと、ギンは真っ赤になってうつむいてしまった。
「ふふ、かわいい」
ぼそっとアイラが言う。
碧人と大智は、ニコニコしながら二人で勝利のハイタッチをした。
「騒がせてしまってごめんなさい。アイラの言う通り、この人は暇さえあれば浮気のし放題なの。でも、もう私は堪忍袋の緒が切れたわ。もう、許さない。ディラン! あなた! わかったわね? 私は、もう許さないわよ!」
ディランを睨み「あなたたちが羨ましい」とアイラとギンにつぶやく。
頭をボサボサにして両頬を赤く腫らしたディランは、生気を失い可哀想なほど落ち込んでいる。
そしてボニーに尻を叩かれて、二人で月めがけて故郷の海へと帰って行った。
「ギン君、おめでとう。良かったね」
ギンを引っ張ってきて小声で碧人が言うと、ギンはとても良い顔をした。
「うん、相談に乗ってくれてありがとう。凄く嬉しい」
「じゃあ、ぼくらは海斗君に見つかる前に帰るね。また時間があるときに会いに来てよ」
「うん、おやすみ、碧人君。大智君。またね」
大智はもっといたいようだったが、碧人が引きずるようにして二人は寮に戻った。
そんな様子を物陰からずっと伺っていた人物がいたことに、誰も気が付かなかった。
「グットタイミングでボニーが登場したね」
海斗が目の前の修羅場に驚きながらも、お面白そうに言う。
「うん、烏賀陽のカラスの伝達能力は並でないね。素晴らしい。ちゃんと伝言してくれたおかげで、間に合って良かった」
透磨もボニーの激しさに驚きながらも、クスクス笑っている。
「だけどさ、透磨君に頼まれてあの子たちを見張っていたら、碧人君に話しかけられたときは驚いたよ。本当に勘の鋭い子だね」
「うん、あの子はきっと将来、ウェアウルフの立派な総長になれると思う。ぼくもあの子に関われて嬉しいよ」
「碧人君と大智君は何かちょっと気質が異なっていて、それがかえって良いコンビになっているみたいだね」
海斗が言いながら、思い出し笑いをする。
「そうかもしれない。碧人君は慎重になりすぎるし、逆に大智君は危なっかしい感じだもの。お互いをカバーし合って良い感じだね。二人が同時期に輝月城学園で出会えたのは、奇跡に近いよ…………。それにしても、今夜は月が綺麗だなあ」
透磨がぼんやりと大きな月を眺める。
「……ぼくが透磨君に出会えたのも奇跡だよ。君に会えて良かった」
海斗が透磨を見つめると、
「ぼくもそう思う。この学園に来なければ君に会えなかったし、君がいなかったら、今でもずっと一人で怨念に苦しめられていただろう。ぼくも海斗君に会えて本当に良かった……。ああ、もちろんサンも大好きだよ」
サンが透磨にすり寄ってきて、撫でてとねだる。
「ギン君の初恋も実りそうだし、嬉しいだろうなあ」
サンを撫でながら、透磨が穏やかに言う。
「うん、そうだね」
海斗も嬉しそうに透磨とサンを見て微笑んだ。