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透磨と素敵な仲間たち

 ぼくの名前は透磨。

 物心ついたころから、ぼくは独りだった。


 特異な遺伝子を色濃く残すために、特に選ばれた精子と卵子の結合の結果に生まれた無機質な生命体、それがぼくだ。

それでも十六年という歳月は、ぼくを少し大人びた少年に成長させた。


ぼくの生みの親である中村教授は「もう自分には教えられることはない。あとは君が興味を持つ研究をするといい。大学院でもどこかの研究室でも、どこでもかまわない。君ならばその才能を、未来のために存分に活かせることができるだろう」と言った。


でも先生、ぼくは興味ありません。そんなことは望んでいないのです。

ぼくを引き付けるのは無の世界。そこでぼくは眠りたい。

他人の情念はぼくを深く傷つけ苦しめるだけ。


嵐の海の中、上も下もわからないほどグルングルンと、もみくちゃにされてやがて静かにゆっくりと、ゆうくりと海底に沈んでいくぼくは、怒り狂っている上空を眺めながら、奈落の底に落ちていく。

真の暗闇に到着して、そして時は永遠に止まり、そこでぼくは眠りたい。


だってぼくは……たぶん魔物なのだから。



「遠藤君、今朝、透磨のところに行ってきた? 彼は何をしていた? これからのことを何か言ってなかったかな?」


 昼間はまだ肌を焦がすほどの日差しが降りそそいでいるけれど、夕方になるとほっと一息できる涼風が吹いて、夏も秋に場所を譲りだした初秋のある日、窓から秋風を感じ紅茶を飲みながら、焦点の定まらない視線を遠藤助手に向けて、教授は訊いてきた。


「いえ、とくに何も。相変わらず小難しい顔で、レポートを書いていましたよ」


 まったく別のことを考えているときの教授の深い瞳は、僕を見ているけれど僕を見ていない。

そんな『心はここにあらずの目』は、透磨も同じ目をすることがあるけれど、これって天才の共通点なのかな? などと思いながら、遠藤は教授の空になったティーカップに紅茶を注いだ。 


 遠藤も世間一般的には至極優秀で、見るからに実直そうなこの大柄な好青年は、この研究室に来るまではみんなにチヤホヤされていたけれど、天才二人の前では己の平凡さに顔が赤くなるのである。


「僕はね……」

 教授は、今度は視線を遠藤の目に合わせて続ける。


「今更だけれど、僕は透磨の多感な十代を奪っていることに後悔しているんだよ。彼は最近ふさぎこんでいるだろう? だからすごく心配している。彼に少しのんびりとしてもらうために、しばらく普通の男子学生として過ごさせてあげたいのだけれど、遠藤君はどう思う?」


 教授の憂いのこもった瞳をみて、ああこの人も本当は透磨を気にかけているのだと感じられて、少しほっとした。二人とも感情表現が下手だから、僕はいつも二人の間に入って困ることが多い。


「同年代との付き合いのない透磨には良い経験になると思いますが、彼はこれまで集団生活をしたことがないから、その点は少し不安ですね」


「うん、そうなんだ。透磨ひとりだと心配だよね。それでね、君にも……」

 教授はまた視線を外して、これからの計画を話しだした。



 最寄りの駅からタクシーで十五分ほど海岸沿いを揺られていくと、やがて山に延びる山道が左手に現れ、その山道をさらに上っていくと、石作の威厳ある大きな建築物が二棟現れる。

それはかつてイングランドに建てられていたお城で、それをわざわざ解体して船で運び込み、この地に再構築させたものである。


 見た目通りまさに本物の城であり、様々な持ち主に渡り最終的に全寮制の中高一貫の男子校として開校したのが、今から五十年ほど前になる。

個性的なカリキュラムで人気があり、入学するには能力以外に学園関係の有識者の推薦が必要で、現在では世界中で活躍している卒業生を多く輩出している。


 校門を入ってしばらく進むと左右に道が分かれ、その先にそれぞれ校庭とお城が見えてくる。

右手が高校棟、左手が中学棟である。

高校棟の後方には岬に続く山道があり、広い海原が木々の隙間から垣間見える。


 透磨と遠藤がこの輝月城学園に現れたのは、秋も深まり朝晩の冷え込みが身に染みる、十一月の中旬であった。

龍神透磨は高校一年生、遠藤樹生は生物学の教師として紹介された。


この季節外れにやって来た凸凹コンビのうわさは、あっという間に高校棟を駆け巡り正しいことや正しくないこともごちゃ混ぜになって、最終的に龍神君は危ないやつで(どう危ないかは謎らしい)輝月城大学の学長の懇意でこの附属学園に転校し、遠藤先生は彼の見張り役として送り込まれてきた、ということに落ち着いた。

   

 しかし十二月に実施される、進級や大学に進学するのに重要かつ難解な試験日が近づくと、生徒達はうわさ話どころではなくなり、みんなが頭を抱えながら勉学に勤しんだ。

冷たい海風が吹く師走に入ると全学年の学力試験も終わり、内心穏やかでない生徒も試験の結果が出るまでは努めて平静を装い、これから訪れる冬休みの過ごし方を友達と自慢しあっている。



 高校棟一階の西側の一番奥まったところに保健室があり、その隣が生徒会室になっていて、十二月の第二土曜日の午後、生徒会長の百目鬼と副会長の新垣が、暖房の効いた趣味の良い調度品で統一されているこの部屋で、雑談をして過ごしていた。


 新垣がふと校庭に目をやると、痩せ気味の小柄な透磨がのろのろと歩いていた。

「あの子、例の転校生だ」

 言いながら、新垣が窓を開けて声をかける。


「君ぃ、この寒い中何をしているの?」

 透磨が新垣に気がついて、窓の下まで小走りでやってきた。


「こんにちは。ぶらぶらと散歩をしています」

「寒くないかい?」

 新垣は小窓に肘をつき顎をのせて、人懐っこい笑顔を向ける。


「この寒さがかえって身を引き締めて気持ちいいです。この部屋は生徒会室ですか?」

 興味深そうに背伸びをしながら中を覗き込むと、百目鬼の黒縁眼鏡の中の、ややつり目と目が合った。


「そうだよ。よければお茶を御馳走するよ。くるかい?」

 長身な百目鬼がソファーから立ち上がり、二人に近づいてくる。


「ありがとうございます。でもこれから岬のほうまで足を延ばしたいので、またの機会にお誘いください」

「そう、明日もぼくたちはここにいるから、いつでも良いからおいで」

「あ、はい。じゃあ明日にでも」


 ぺこりとお辞儀をして、またのろのろと歩き出す。

遠ざかっていく透磨に「風邪ひくなよ」と声を掛け、新垣はぶるっと身震いして「おお、寒い」と言いながら窓を閉めた。


 外に目をやり、何やら考え込んでいた百目鬼が、

「あの子を見ていると、小川海斗を思い出してしまう」

 小声でぼそっと言って、顎で小さくなった後ろ姿の透磨を、くいと指した。


「このあいだ、あの子が夜ひとりで廊下にいたときがあってさ、その姿が海斗そっくりだったんだ……。海斗の幽霊かと思って、心臓が止まりそうになったよ」

 言いながら眉間に皺を寄せる。


「ああ、海斗か。うん、確かに背格好とか似ているね……。あれは中等部一年のときだから、もう五年前になるのか。あまり思い出したくない出来事が多い一年だったな」

 そこで声を潜めて、新垣が続ける。


「ぼくら『呪われた中坊一年生』とか言われてさ。彼は見つかったの? まだ行方不明のままなんだろう?」

「うん、たぶんそう。進展があった話は聞いてないからね。上級生はみんな卒業してしまったから、当時を知る在校生は、もうぼくら三年生だけになってしまったな。下級生は誰一人、海斗に会ったことがないのか」


 視線を、小さくなった透磨から新垣に移し、

「ぼくさ、何かこれから悪いことが起こりそうな気がするんだよ……。ああ! 何も起こらなきゃいいけど」

 百目鬼が、ふうとため息をつく。


「ええ! おまえ怖いこと言うなよ」

 新垣もつられて、漠然とした不安を感じた。


 

 校舎の裏を回って崖沿いに進んでいくと、見晴らしの良い岬に到達する。

透磨はこの場所が好きで、よくここにきて海を眺めながら読書をしたり、物思いにふけったりする。


 今日は風が弱い分寒さが和らいでいるが、それでも吐く息は白く、冷たい空気が肺を通って濁った頭をろ過し、すっきりとなるのが心地よい。

透磨が岬に向かって歩いているのを、校舎二階の生物学研究室にいた樹生が目にとめて、追いかけてきた。


 樹生は、海に突き出た岬の先端で透磨が立ち尽くしているのを目にした。

次の瞬間、不意にしゃがんだので、一瞬海に落ちたのではないかと心臓を鷲掴みされた。

「透磨! 危ないじゃないか。何してるんだよ」

 思わず大声で叫びそうになるのをグッとこらえて言った。


「あれ? 樹生さん。ぼくがここにいるって、よくわかったね」

 声がして振り向くと、樹生がいたので透磨は戸惑ったようだ。


「ああ、透磨が歩いているのを研究室から見かけたから、少し話そうと思ってね。ああ! 危ない! こっちに来いよ。ん? 何か見つけたのか?」

 左手の中の物を右手でこすっていたようで、透磨の指先が汚れている。


「うん、ペンダントトップみたい。岩の隙間に隠すように押し込まれていた。だいぶ汚れているから長い間ここにあったようだね」

 右手でつまんでまじまじと見つめると、片方の眉を上げた。


「思い入れのあるペンダントだよ、これ……。石みたいだな。何だろ……」

 汚れを落としながら神妙な顔で呟く透磨を見ていると、場所が場所なだけに、樹生は嫌な感じがした。


「ねえ、週末なのに街に繰り出さないの?」

 話題を変えたくて、樹生が明るく話す。

「ぼくはそんなの興味ないよ。樹生さんこそ出かけないの?」

 ペンダントトップをハンカチでそっと包み、大事そうにポケットにしまう。


「出かけたくても色々と忙しくてね。ところで透磨は問題なく過ごしているかい?」

 実際、雑務に追われて忙しく、そのため面倒をあまりよく見てあげられないのが心苦しかった。

少し躊躇しながら、暗い目つきで水平線を眺めていた透磨がつぶやいた。


「夢見が悪くて、あまりよく眠れない……。樹生さん、ここには魔物がいるかもしれないよ」

 いつも顔色の優れないこの少年には、見えるはずのないものが見え、聞こえないはずの声が聞こえてしまうという能力をもっている。

その力は少年を長年悩ませていて、少年を不健康にしている。


樹生は天才的な頭脳をもつこの少年を尊敬しているが、と同時に憐れんでもいた。

繊細さゆえに、人が発する負の感情にいつも苦しんでいるのだ。


「魔物って……何か見えたの?」

 こんな田舎に来てまで、他人の情念に巻き込まれてしまう透磨に同情する。


「まだはっきりとはしないけれど、あまり良くない感じがする……。ぼくは明日生徒会室を訪ねてみるから、樹生さんも気になることがあったら、ぼくに教えて」

 樹生から視線を外し、眼下の海面を思案顔で凝視する。


「うん、わかった。透磨が何か察知したのならば、これから何かが起きるのは確実だな。僕も注意しとくよ」

 樹生はため息交じりで言ってから大きく息を吸い、眼前の水平線に目をやる。

波は穏やかで遠くに二隻の大型船が、近くには数艘のボートが、ゆったりと浮かんでいる。


「実にいい眺めだね、ここにはよく来るの?」

 遮るものがない大パノラマは、地球が球体であることを思い出させてくれる。


「うん、一番好きな場所だよ。というか、ここに呼ばれるんだ。海がぼくを手招きしているんだよ」

 透磨の哀愁を帯びた瞳と重い声に、言いようのない不安を抱いた樹生は透磨の細い手を取り、ここに長居は禁物だと直感する。


「さあ、もう帰ろう。なんて冷たい手なんだ。僕の部屋に行って温かい飲み物を飲もう。そうそう、ココアがあるよ。美味しいのを入れてあげる」

 そう言うと返事も聞かずにその場を後にして、ぐいぐいと連れ去った。



 透磨と樹生の出会いは、透磨が十歳になったばかりで、樹生は一週間後に二十歳の誕生日を控えた大学二年生になったばかりの、桜が散り始め葉桜になりだしたころだった。


選択科目を決めるのにあたり、生物薬学科の教室を見学したときに、中村教授の下で他の大学生と共に教えを乞うていた小さな少年が透磨であった。


 そのときからの付き合いで、当時透磨は警戒心が強くいつも一人でいたが、なぜか樹生にはなつき離れようとしなかった。

樹生もそんな透磨が可愛くて、何かと面倒を見てきた。

樹生は透磨にとって兄であり友であり、この世で一番心許せる人物である。


 

 部屋に戻って、さっそくココアをつくり、鍋から並々とマグカップに注いで透磨に渡し、自分にはグラスワインを用意した。

寒さで鼻先を赤くした透磨がココアを一口飲んで、「ああ美味しい、あったまる」と満足そうに微笑む。


樹生がチーズの盛り合わせと、クラッカーをのせたお皿を透磨の前に「はい、どうぞ」と置いてチーズを一切れつまみ自分の口に放り込み、それをワインで流し込むと、熱いものが食道を通って胃に落ち着いた。

「うう、じわじわとくるなあ。チーズとワインは最高だよ、美味い」

 樹生が目を細めて、満足そうに笑う。


「ぼくはこれ、クリームチーズをクラッカーにはさんで食べるのが好きだな」

 透磨も美味しそうにカリカリと食べ、ココアを飲んでもう一つクラッカーを手にする。

「樹生さんの作るココアは、いつも美味しいね」


 考え事をしているときの透磨はひどく大人にみえるのだが、今みたいに満足そうにソファーにもたれてココアを口にしている小顔の美少年は、とても幼く見え中学生と言っても全然違和感がない。


「おまえさ、なぜ現国の試験を受けなかったの? 他の教科はほぼ満点なのに……、佐藤先生はすごく落ち込んでいたらしいよ。『龍神君は、僕が教える教科になんて興味を持ってくれない。教師としての自信がなくなった』って、半泣きしていたそうだよ。あとで謝っときなさいね」


「ええ! 面倒だなあ……うん、わかった。でも現国の問題って好きじゃないよ。求めている答えはわかるけど、ぼくには納得できない回答もあってさ。そういうの嫌いなんだ。それに現国は試験最終日の最終時間割りだったから、つい教室を抜け出しちゃった」

 上目づかいでちらっと樹生を見て、拗ねたように唇をとがらせてココアをすする。


「しょうがないなあ。じゃあ佐藤先生に、今後は試験最終日の最終の時間割りはなるべく避けるように助言しておくよ。それで、冬休みはどうするつもり?」

 樹生はニヤリと笑い、ワインを一杯飲みほし、二杯目を口にして少し上機嫌である。


「その件で現国の補習を受けることになっちゃったよ。まあ、補習のあとは図書館にいるか、本を借りて寮で過ごすつもり」

 きまり悪そうに目を伏せる。


「教授のところには帰らないの?」

「うん、教授の年始年末は邪魔したくないから、春休みに帰るよ。樹生さんは?」

「そっか、じゃあ僕もここに残るとしよう。年明けの授業の準備もあるし、あと色々とやることがあるから。本当に教師って雑用が多いよ」

 機嫌よく頬を染めた樹生が、面倒くさそうに答える。


「ふふふ、先生は大変だね」

 透磨が思い出し笑いをしたのを、ちらりと見て、

「透磨さ、おまえが生物を選択しなかったから良かったものの、選択したらどうしようかと、僕は気が気じゃなかったよ。透磨の前で授業をするなんて、僕は恥ずかしくて出来ないからさ」

 きっぱりと、そして少しほっとしたように言う。


「ははは、樹生さんは生徒に人気があるから、自信を持って大丈夫だよ」

「ほんとかなあ」


 樹生はワインを二杯目も空けて、もう少し飲みたそうにしていたがグラスを置いた。

二人ともあえて不穏な話は避けた。


憶測で悩んでも仕方がないことを経験上知っているし、何か起きたら、それから対処するべきだと分かっているからだ。


 

 学食は二階の一番西側で、保健室や生徒会室、応接室などの上に位置する。土日、祭日は休日用の特別メニューだ。

それは、朝食はおにぎりかサンドウィッチを選び、昼食はお弁当、夕食はバイキングと決まっている。

朝食、昼食ともにお持ち帰りが可能で、天気の良い日は外で食べる生徒もいる。


 今日は試験が終わったばかりの日曜日なので、街に遊びに出かけるため早めの朝食を済ませ、弁当持参で出かける生徒も多い。

そのため、今学食にいる生徒はまばらで、透磨も一人ぽつんと外を眺めながら、おにぎりを頬張っていた。


「あ、龍神透磨君だ。おはよう、隣いい?」

「おはようございます。どうぞ」

 新垣が透磨を見つけて、同じテーブルに着いた。


「自己紹介はまだしてないよね。ぼくは三年の新垣豊美、生徒会副会長をしているよ。昨日一緒にいたのっぽも三年で、生徒会長の百目鬼新って言うんだ。君は転校生でしょう? あ、君はおにぎりか、ぼくはサンドウィッチにした。ここのサンドウィッチは好きなんだ」


 新垣は中肉中背のバランスの取れた、いかにも健康そうな高校生らしい男子で、かつ親しみやすい可愛らしい容貌をしている。

サンドウィッチをがぶりと食べて「うん、いつもの味だ」と言って牛乳を飲んだ。


「君さ、今教職員室でかなり有名になっているよ。知っている?」

「え? もしかして試験をさぼったことですか?」

「うん、そうだよ。ふふ、試験をさぼるなんて凄い度胸あるね。しかも、さぼっても学年で五番だって? どんだけ他の教科の点数が良いかって話だよね。君、優秀なんだね。先生方もどう対処したらいいか悩んでいるらしいよ」


「そうですか。それはまずいですね」

「佐藤先生は生徒思いの良い先生だからさ、あまり困らせないで」

「はい……反省しています。今回は、補習で許してもらいました」

「ははは、そりゃよかった」

 少し考えてから、新垣の表情がぱっと変化した。


「ねね、お昼はさ、お弁当持って生徒会室に来いよ。一緒に食べよう。他の生徒会役員も呼んで紹介するからさ。それにこの学園の楽しい行事も教えてあげるよ」

「それはありがたいです。わからないことが多いので、よろしくお願いします」

「うん、じゃあそういうことで」


 新垣は親指と人差し指で、丸くオッケイサインを作って爽やかに笑い、透磨は、これは魔物の正体を突き止めるチャンスだと考えた。



 昼時に、透磨が新垣に言われたように学食から弁当をもらって生徒会室に行くと、そこには新垣と百目鬼のほかに生徒が二名席に着いていた。


その二名とも二年生で、一人は書記の鈴木陽人と言い、身長はごく平均的で女性的な線の細さが神経質そうなイメージを与え、もう一人は逆に骨太のスポーツマンタイプで、会計の伊藤孝志と名乗った。


「龍神君、待っていたよ。ここに座って」

 新垣が椅子を引いて、透磨を百目鬼の隣に座らせた。

「まずは食べようか。さあ、頂きます」


 弁当を食べながら伊藤と鈴木が、興味深そうにチラチラと透磨を盗み見しながら、何か言いたそうにしていたが、百目鬼がまず口火を切った。


「みんな、君のことが知りたくて、ウズウズしているんだよ。いろいろ訊いていいかい?」

 学年一、二を争う高身長の百目鬼は、思慮深さを身にまとっている人格者として、先生方からも認められている。


「ええ、どうぞ。でも試験に関してはもう勘弁してください」

 今朝の学食でのことはすでに新垣から聞かされているらしく、みんながニヤリとする。


「ははは、では、龍神君は遠藤先生とはどういう関係なの?」

「ここに来る前まで、中村京之介教授の元で一緒に学んでいました。当時、たつ……遠藤先生は教授の助手をしていました」


「中村京之介教授というと、遺伝学で世界的に権威のある、あの教授?」

「はい、そうです」

「え! 君、輝月城大学で学んでいたの?」

「はい」

 予想外の話でみんなはあっけにとられて、「すげぇ」とか「うそ!」とか言ってざわついた。


「じゃあ、何でわざわざ高校に転校してきたの?」

「高校生らしい生活もしたほうが良いと教授が考えてくれて、それで手配してくれました」

「そう、なるほどね。先生方の困り顔が目に浮かぶな」

 百目鬼が感心したような顔で言う。


「何か騒がせているようでごめんなさい。あの、ぼくは学生生活に疎くて、だから教えてもらいたいのですが」

 透磨は本題に入りたかった。

「これからどんな行事予定があるのですか?」

 今度は新垣が引き継いだ。


「おっけい、我が学園の特徴は、横割りよりも縦割りが基本なんだ。だから縦割り同士で競い合うことが多いよ。一年、二年、三年の一組が第一グループで、二組が第二グループ、三組が第三グループ、四組が第四グループとなって、グループごとで競争するんだ。これは、二年、三年は一年の世話をしたり指導することによって、将来自分の部下を育てる訓練にもなっているんだよ。社会に出て部下を持った時に参考になるからね。伊藤君、続き教えてあげて。龍神君、彼はね、スポーツ万能だよ。運動のことだったら彼にアドバイスしてもらうといい。ぼくは紅茶を入れてくるね」


 そこまで言って新垣が席を外し、湯を沸かしに行った。

伊藤がコップの水を飲んで、唇を湿らしてから口を開く。


「え―と、君が転校して来るちょっと前に学園祭があったけれど、他校の生徒や街からも大勢の人が訪れてとても賑やかだったよ。それには参加できなくて残念だったね。君が参加できる最初の行事は、一月の雪中合戦からになるな。一月になると雪が積もりだして、五十センチの積雪に達したら雪中合戦が始まる。簡単に言うと鬼ごっこだよ。これがなかなか面白い。細かいルールがあるけれど、それはおいおい説明するからそのときでいいよね」


 鈴木から議事録を受け取って、パラパラとめくりながら続ける。


「次に、三月は卒業パーティーがあるけれど、アカシア女学院から女子生徒を招待するので、ぼくら男子生徒はみんな気持ちが浮き立って、ソワソワしっぱなしだよ。でもとても楽しいパーティーなんだ。五月には新入生歓迎登山があり、これは中等部一年生と高等部で行われる行事だよ。夕方から登り始めて、徹夜で朝方まで歩くよ。これは体力的に非常にきついけれど、先輩と後輩の密度の濃い有意義な時間を過ごすことができるから、ぼくは好きだな。あとは十月に体育祭、これこそ競争するという意味で、一年で一番盛り上がるね。そんなところかな」


議事録を鈴木に返して、透磨を興味深そうに見つめる。


「いろいろあって大変そうですが、面白そうですね。これからが楽しみです。ところで、この建物はイングランドのお城だったそうですが、すごく威厳があって歴史を感じますけど、何か歴史にまつわる曰く付きの話ってありますか?」


 透磨が訊くと、百目鬼がぴくりと反応した気がした。


「それって怪談話ってこと? あるある。ここは幽霊が出るよ。たとえば、臣下に裏切られて自害したイートン卿の幽霊に、あと跡継ぎ問題で毒殺されたアルバートとエリザベート姉弟の幽霊なんかが有名だよ」


 伊藤が面白そうに教える。


「伊藤さんは、幽霊を見たことがありますか?」

「ぼくはないな。鈴木君もないよね?」

 鈴木は小さく頷いた。


「百目鬼君は、最近幽霊を見たんだよ」

 丁度、新垣が紅茶を入れたポットを運んできて、会話に加わった。


「おい、やめろよ」

 苦々しく百目鬼がとめる。

透磨と伊藤と鈴木の三人が、百目鬼に注目していると、

「幽霊の正体は龍神君、君だよ。君が夜中に廊下でうろついていたのを、幽霊と勘違いしたんだって」

 新垣が、それぞれのカップに紅茶を入れながら説明する。


「はい、どうぞ。勝手にぼくの好きなアールグレイにしました。この香りが好きなんだ。伊藤君と鈴木君は、小川海斗って子を知っている?」 

 ティーカップを渡しながら訊く。

透磨はまた百目鬼が反応したのを、見逃さなかった。


「ぼくたちが入学したときは、結構うわさを耳にしたけれど、ぼくらは会ったことはないです。行方不明の人ですよね」

 鈴木が静かに答えた。


「行方不明ですか?」

「うん、そうだよ。やっぱり君は、百目鬼君の言う通り海斗に似ているな。もしかして、遠い親戚関係に小川って名字の人いる?」

「いいえ、それはないです」

「ああ、そう。じゃあ他人のそら似か」


 新垣と百目鬼は、当時を振り返っているようだった。

「彼に何があったのでしょうね」

 鈴木がそっと呟いた。


 

 この日を境に、幽霊らしきものを見たという生徒がぽつりぽつりと出始めた。

大概は夜中に外を窺うと、校庭の隅に白っぽい服装の少年がぼんやりと佇んでいるというものだが、大方、動物の見間違いじゃないかと相手にされなかった。


 しかし、透磨が生徒会室を訪問してから五日後の夜に『それ』は動いた。

冬期休暇に入る前の最後の金曜日とあって、談話室や友達の部屋で過ごしている生徒が多く、話し声や笑い声があちこちで聞こえた。


そのとき、おしゃべりの合間を縫って、「うわあああ」と、何とも言いようのない、くぐもった悲鳴が起きた。


 会話がピタリとやんで、城が静まり返った次の瞬間、今度は恐怖に満ちた悲鳴に変わった。

慌てて廊下に飛び出すものや、ドアの隙間から廊下を窺うもの、部屋の中で凍りつくもの、布団を被るものと、てんやわんやの大騒ぎだ。


 透磨はいち早く悲鳴をあげた生徒のところに駆けつけようとして、廊下を走って階段を駆け上った。

上の階から聞こえたから三年生か?

四階に着くと、廊下に出ていた生徒達はみんな校庭を、いや窓の外の暗闇を凝視している。


誰も動かず、口も利かず、まるで一枚の巨大な白黒写真を見ているようだった。

透磨もゆっくりと外に顔を向けたその瞬間、心臓が止まりそうになる。


 校庭の中ほど、地上から四階の高さのところで、青白く光る少年が宙に浮かんでいて、こちらをじっと見ていたからだ。

少年が静かに動き出したのを合図に、廊下で固まっていた生徒達がはじけ飛び、けたたましく叫びながら逃げ出した。

少年はそのまま透磨の方にふわふわと近づき、窓の外の二、三メートルのところまで来た。


「君は、誰?」


 透磨が訊いても返事はなく、ただこちらを凝視している。

透磨の足元には、腰が抜けて顔面蒼白になり、今にも気を失いそうな生徒がしゃがみこんでいた。


「君は、小川海斗君?」


 やはり返事はない。

そのとき、足元の生徒がぴくりと身動ぎした。

この青白く光る少年から伝わってくるのは、悲しみや後悔の念であって、恨みや憎しみの感情がないのが透磨には不思議だった。あまりないことだ。

大概は怨念となって残るものなのだが。


 さらに少年が光を放ちながら近づき、透磨を指差した途端に光の輪が弾け飛び、少年はいなくなり、外は静寂な暗闇にもどった。


「大丈夫ですか?」

 透磨の足元で、気絶しそうな生徒に声を掛けても、彼はぶるぶる震えが止まらなかった。


「えっと、お名前は? 部屋は何号室ですか? 言えますか?」

「……田中和樹。……409号」


 目をギュッとつむったまま、消え入りそうな声でやっと答える。

この人を一人で運ぶのは無理だ。みんな逃げ出して近くにいないけれど、誰かいないかな、ときょろきょろ探していると、階段からひょいと顔を出した新垣と目が合った。


「龍神君じゃないか。何でここにいるの?」

 新垣がおずおずと近づいてくる。


「新垣さん、いいところに来てくれました。この人を部屋に運ぶのを手伝ってください。409号の田中さんです」

「おお、田中か。しっかりしろ、大丈夫か?」


 新垣が声をかけるが、返事はない。

やや小太りな田中はもう気を失っていたため、二人がかりでも重くて、大変な思いをして部屋に運び、どうにかベットに寝かしつける。


「はあ、疲れた」

 透磨が荒い呼吸をしながら、汗ばんだ額を手の甲で拭う。

「ああ、重いなあ、田中は……。龍神君、君は怖くないの? 誰かが幽霊に声をかけていたけれど、あれは君だったの? まったく信じられないよ。普通怖くて逃げるでしょう?」


「ぼくも見た瞬間は、ぎょっとしました。宙に浮いているのですから。でも、何か禍々しいものとは感じられなくて……。彼は小川海斗君でしょうか?」

 どこを見るともなく、思案気な顔で呟く。


「どうだろう。顔ははっきり見えなかったから分からないけど、背格好からしたらそうかも。でも、もしかしたら後藤衣鶴っていう可能性もありそうだな」


「え、誰ですか?」

 はっとして、透磨は新垣を見た。


「うーん、明日生徒会で臨時会議をたぶんするから、龍神君も生徒会室に来てよ。君があれを一番近くで見た人だからさ、感想を聞かせて。そのとき衣鶴について話すよ」


 時間は後で連絡すると言って、新垣は百目鬼を探しに行った。

少ししてから階段に逃げていた三年生たちが、おそるおそる四階に上がってきたが、一人部屋で過ごそうとするものはいない。

学習室や談話室で数名の塊となって夜の明けるのを、今か今かと待った。



 その日の朝は、昨夜の大騒動があったとは思えないほどの、雲一つない冬晴れとなったため、みんなの心も意外と軽く感じられた。


早朝から職員会議が開かれたが、結局何も被害はなかったため、不可解な人魂に心乱されることなく日常をおくるように、と通達が出された。


 あれを見た生徒たちは、夕べから寝るどころではなく、ほとんどの者が睡眠不足に陥っていたため、今日は運よく土曜日なので午前中は寝ている者が多く、寮も静かで落ち着きを取り戻している。


透磨も午前中はベットの中で、ぼんやりとあの少年の思惑は何だろうと考えていたが、ひどく疲れていたので眠りに陥ってしまった。

そのため、生徒会室に行く前に樹生と会って話がしたかったけれど、それも出来なかった。


 寝坊したために生徒会室にはもう四人とも揃っていたが、透磨が寝落ちして遅刻したことを詫びて席に着くと、四人の視線が自分に集中していることに気がついた。


心なしか四人とも緊張しているように見える。

まず百目鬼が話し始めた。


「休みのところ悪いけれど、昨夜あのようなことがあったので、みんなに集まってもらいました。先生方からは『動揺して騒がないように、特に何の被害も出ていないので暫く様子をみましょう』とのことです。どうもあの光が少年に見えたのは、四階にいた人だけのようです。三階ではどう見えた?」

 百目鬼が伊藤に訊く。


「細長い青白い光でしたね。特に人には見えなかったです。四階からはそんなにはっきりと、少年に見えたのですか?」

「うん、あれは絶対少年だったよ」

 新垣が答える。


「ね、龍神君はあの少年と何を話していたの?」

「いや、話すも何も……。ただ、君は小川海斗君なのかと尋ねただけです。返事はありませんでしたけど」

「そのあと彼は君を指差していたよね。何で?」

 新垣が不思議そうに首を傾げる。


「ああ、それは、ぼくにもわかりません。新垣さん、昨夜言っていた後藤衣鶴って誰ですか?」

 新垣と百目鬼が見つめ合ってから、新垣が話し始めた。


「海斗も衣鶴も、ぼくらと中学一年の時の同級生で、二人は仲が良かったよ。海斗は学園祭の代休中に消息不明になって、衣鶴は冬休みの帰宅中に自殺未遂を起こし、そのまま学園を辞めてしまった。その後、病死したことを風の便りで聞いたけど……」


「新垣さんは、あの少年がなぜ衣鶴君かもと思ったのですか? 何か気付きましたか?」

 あのときは……と目を瞑って暫く頭の中で時間を戻して考えていた新垣は、思い当たる節を見つけた。


「ああ、わかった。龍神君の足元で倒れていた田中のせいだ。彼は中一の時、衣鶴と寮が同室だったはずだよ。たぶん田中を見て、ぼくは衣鶴を思い出したんだと思う。高校生は一人部屋だけど、中学生は二人部屋なんだ」


「田中さんと衣鶴君が同室だったのですか。そうならば、もしかしたらあの少年は、ぼくではなく田中さんを指差していたのかもしれませんね」


 新垣と百目鬼が同時に「あっ」と聞こえない声をだし、二人の視線が絡み合った。


 その時、バタンと大きな音がして外窓が強風で開け放たれ、風で書類や小物が部屋中に散らばった。

外は小春日和のはずなのに、黒っぽい砂埃のようなものが入ってきて、透磨にまとわりついた。

その途端、透磨が急に呻きだした。


「ああ! まずい。……樹生さんを、遠藤先生を呼んできて、大至急……おねがい」


 息絶え絶えにそれだけ言うと、呻き声が次第に獣のような声に変わった。

伊藤が素早く反応して生徒会室を飛び出したが、残りの三人は突然のことで恐怖に包まれて、呆然と立ち尽くしたままだった。


黒い煙の隙間から覗く透磨の目は赤く光り、苦しそうに呻く口は裂けて、そこから牙がのぞいている。


凍りついて身動ぎ一つ出来ない三人の耳に、パタパタと廊下を走る足音が聞こえ、血相を変えた樹生が、続いて伊藤が部屋に飛び込んできた。

透磨にまとわりついた黒い煙は、完全に透磨を覆い尽くし、中からは獣の苦しそうな呻き声が聞こえた。


それを目にした樹生は驚き、一瞬たじろいだものの、

「透磨、どうした! しっかりしろ!」

 怒鳴りながら、躊躇なく黒い塊に覆いかぶさり『それ』を強く抱きしめる。


「透磨、聞こえるか? しっかりしろ! 持って行かれるな。行くんじゃない!」

『それ』が樹生の腕から逃れようとするのを、がっしりと抱きしめて離さなかった。


「透磨、大丈夫だ。こっちに来い。乗っ取られるな。こっちに戻って来い。僕はここにいるぞ!」

 しだいに黒い煙が薄くなりだすと、苦しそうな獣の声が透磨の声に変わった。


「ちくしょう……お前らなんかに……ふざけるな……」


 黒い煙が消滅すると、透磨は樹生の腕のなかで気を失った。

 死人のような血の気のない顔色をした透磨を、樹生はさらに強く抱きしめた。


「透磨を横に寝かしたいから、隣の保健室に移動しよう」

 それまで劇場で、観劇しているみたいに立ち尽くしていた四人が、はっと我に返って動き出した。


 

 保健室のベットに透磨を寝かしつけると、五人はようやく安堵し、伊藤が「トラックを十周走ったぐらいの疲労感があるな」と言ったけれど、みんなはそれにうなずいた。

そんな中でも、新垣が紅茶を入れてきた。


「先生、あれはいったい何ですか?」

 今一番知りたいことを、百目鬼が口にする。


「あれは人が生んだ情念や怨念が、体から抜け出て念としてこの世を浮遊しているもの、とでも言えばいいかなあ、難しいけど」

 腕を組み、目を瞑って考え考え答える。


「それが、透磨君に憑依するのですか? ああいうことって、よくあることですか?」

 新垣が恐ろしげに眉をひそめる。

「いや、透磨は強いから乗っ取られることはないよ。さっきのは、特別だと思う」


 樹生がどこまで話していいものか考えあぐねていたが、ここで味方になってくれるのは、この四人以外にはいないと考えた。


「透磨はね、シャーマンの血を受け継いでいるんだよ。古代から受け継がれてきた特別な、それこそ特別な濃い血をね。だからさっきみたいに透磨の意思なくして憑依されることはないよ。ふふ、意識が戻ったらたぶん透磨は怒るだろうなあ。好き勝手にされたからね」


「先生、そこは笑うとこじゃないですよ」

 ニヤニヤしている樹生に、百目鬼があきれ顔になる。


「ああ、すまない。君たちにしてみれば、不可解で怖い体験だったね。悪い悪い、ごめん」

「ということは、先生と透磨君はこういうことは経験済みなのですね」

 鈴木はたった今経験したことが信じられない、という顔をする。


「ああ。透磨が言うには、いたるところに情念は漂っているらしいよ。幸せなことに、僕ら一般の人間は、何も感じることなく過ごすことが出来るけれど、特別な能力の持ち主は、それに感化されてしまうらしい。透磨もたびたび悩まされているけれど、彼は強い意志で、いつも一人で戦っている。だから僕は本当に彼を尊敬している」


 樹生は口数の少ない四人を見て、無理もないけど混乱しているなと感じた。

けれど、これからは彼らに協力してもらうしかないと決めた。

とりあえず、四人には散らかった生徒会室の整理に戻ってもらい、そこで落ち着いてもらうことにした。


 

 静かになった保健室で、樹生が透磨の青白い顔にかかった乱れた髪をかきあげると、わずかに身動ぎして透磨の意識が戻った。


「ああ……、樹生さん、来てくれたんだ。助かった。ありがとう」

 目を覚ました透磨がのっそりと起きたが、気分は悪そうだ。

「どうした透磨、お前らしくもない。乗っ取られそうだったぞ」

 ほっとした優しい目で、樹生が言う。


「しょうがないよ。だって後ろから拳銃で撃たれたようなものだからさ。不意打ちで防ぎようがなかった。ああ、むかつく。何て卑怯なやつらだ。こんなに質の悪いやつらは初めてだよ」

 ベットから下りて、一歩足を踏み出すとよろめいた。


「まだ立たないほうがいい。さあ、ベットに座って。大丈夫か?」

「うん、平気。少し気持ちが悪いだけ」

「さっきのは、何だと思う?」


「怨念の集合体みたいな感じかな。普段はバラバラになっているものだけれど、ここではなぜか集まってしまうみたい。すごく質が悪いよ。今回、樹生さんがいなかったら、ぼくはまじで危なかったかも」

 透磨は甘えるような顔で、樹生を見て微笑んだ。


「うん、間に合ってよかったよ。伊藤君は頼りになるな。すぐに僕を呼びにきてくれたみたいだね」

 樹生が透磨の髪をわしゃわしゃとして、顔を覗き込んでニッコリする。


「新垣君に紅茶を入れてもらってくるよ」

「うん、ありがとう……。樹生さん、びっくりさせてごめんね。でも次からは対処できるよ」

「ああ、わかっている」


 樹生が部屋から出ていき一人になると、昨夜の騒動から先ほどまでのことを反芻して、透磨は考え込んでしまった。

「想像以上に、複雑なのかもしれないな」

 ぽつりとつぶやいた。



 翌朝になると、透磨は独り弁当持参で、朝早くから街まで出かけて午後に学園にもどり、その後は夕方まで図書館で調べ物をした。

そして、その足で田中和樹に会いに行った。

 田中は昨日、今日と、ほぼ二日間部屋にこもっていて、生気のない土気色の顔色をしている。


「田中さん気分はどうですか? 顔色はまだ悪いですね」

 部屋を訪れると、透磨は床に腰を下ろし早速話しだす。

「うん、あの時は新垣君と二人で運んでくれたそうで、迷惑をかけたね。もう大丈夫だよ」

 突然の訪問をうけて、そわそわと落ち着きがない。


「実は、田中さんが中学一年生のときのことを聞きたいと思って来ました」

 それを聞いた田中は、ぎょっとした顔で透磨を見つめて下を向いてしまったが、透磨はかまわず続ける。


「あと、一昨日の夜の、光る少年のことですが……新垣さんは、彼は後藤衣鶴君かもしれないと言うんですよ。田中さんはどう思いますか?」

 田中はますます落ち着きをなくし、

「ぼくは、ぼくには見当もつかないな」

 消え入りそうな声で両手を揉みだした。


「衣鶴君とは、寮で同室だったそうですね? どんな少年でしたか?」

 田中は答えたくないようだが、透磨はかまわず質問を続けた。


「衣鶴は……明るくて、誰とでもすぐに仲良くなれる、素直な子だったよ。女の子みたいに可愛い顔をしていたから、上級生からも可愛がられて……」

 ここで『しまった!』という顔をする。


「あ―、とにかくみんなから愛されていたと思う」

 視線を合わせようとしない田中を、透磨はじっと観察する。


「あの、彼は自殺未遂を起こしたそうですけど、何か心当たりはありますか?」

「ああ、当時ずいぶん訊かれたけれど、ぼくにはわからないな」

 田中は不安そうに答えた。


「ですが明るかった子が何もなくて、突然、自殺未遂を起こすとは考えにくいです。きっと何かあったはずです。彼に変化が起きたのはいつ頃か、覚えていますか?」

 ここは攻めていくしかないと考える。


「田中さん、あの少年がぼくたちに向かって、指差したのを見ましたよね。ぼくには衣鶴君であれ海斗君であれ、面識はないですからあの少年が指差したのは、あなただと思っています」

 それを聞いて、驚きのあまり目を見開いた。


「ではなぜ、五年もの歳月が過ぎた今になって、こんなことが起こっていると思いますか? ぼくは、あと三か月もしたら彼の友達がここを卒業してしまい、彼を知る人がいなくなるからだと考えます。彼はもう、一人ぼっちになる前に幕を引いて、この地に居る未練を断ち切りたいのだと思う。でないと、いずれ地縛霊になってしまうかもしれないのです」


「あの少年は、衣鶴の幽霊だと?」

 瞳に恐怖の色を浮かべて、怯えている。


「いいえ。あれは行き場のない死者の魂でできています。だからぼくは海斗君だと思っています。衣鶴君は地元で葬儀をだしてもらって、手厚く弔ってもらっていますから、現世にはもういないでしょう。残念ですが海斗君はたぶん亡くなっていて、彼の魂は何か理由があってここから離れられないのだと思います。田中さん、あなたの知っていることを教えてくれませんか? 海斗君を開放してあげましょう。ぼくが手伝いますから」


 透磨は田中が話しだすまで、静かにだまって待っていた。

 田中はしばらく目を伏せてじっとしていたが、ようやく重い口を開いた。


「ぼくたちがこの学園に入学したとき、最上級生に夜雲太一という先輩がいて、いろいろな意味で目立っている人だった。うわさでは街に出かけては女性をナンパしたり、酒や煙草もしていると聞いた。でも、スポーツ万能で成績も良くて、見た目もカッコ良いから、憧れていた下級生は多かったよ。不幸なことに衣鶴もその一人だった」

 伏せていた目を、窓の外の遠くの景色に移した。虚ろな目をしている。


「衣鶴は人懐こくて可愛い顔をしていたから、中学棟のアイドル的な存在だった。五月の新入生歓迎登山で、衣鶴と夜雲は同じグループになって知り合い、それで衣鶴は夜雲に憧れてしまった。ある日街で偶然、夜雲先輩に会ったと衣鶴は嬉しそうに帰ってきたけど、本当に偶然なのかな……。ぼくは夜雲が計画したのだと疑ったけど、衣鶴は聞く耳をもたなかった。それからというもの、衣鶴は休日になると、たびたび一人で街まで遊びに行くようになった。でも、その頃は幸せそうだったよ。変わってしまったのは……」


 言葉に詰まり、田中はふうと息を吐いた。

「ぼくが悪いんだ」

 唇をかんで、苦しそうに続ける。


「夏休みが終わる八月の末、自宅に帰っていた衣鶴が寮に戻ってきたその日に、夜雲から伝言があった。ぼくが山本という先輩から預かったメモがそれだった。衣鶴にメモを渡すと、彼は街に出かけて行って、顔を怪我して帰ってきたけど、殴られたんじゃないかな。どうしたのか聞いても『何でもない』の一点張りで、けっして話そうとしなかった。それからだよ、元気がなくなって、ふさぎこむようになったのは」


「山本という人は?」

「うん、山本剛史といって、当時高校一年で悪いうわさしか聞かなかった。ぼくは、なんでそんな奴からメモを預かってしまったのだろう……」

 悲しそうに透磨を見るが、透磨は黙って先を促す。

田中は、ふう、とまたため息をついた。


「九月になると衣鶴は、たびたび授業をさぼって姿を消すようになった。ぼくは心配になり後をつけたことがあって……後をついていくと、彼は普段使われていない、倉庫用になっている空き部屋に入っていった。そこで……」

 ぐっと言葉をつまらせ、眉間に皺を寄せる。


「そこで、衣鶴は山本に暴行を……性的暴行を受けていた」

 田中は罪悪感で手先が震えだし、その手を止めようと懸命に手を握り締めた。

 透磨は彼らの衣鶴に対する仕打ちに、怒りで体がわなわなと震えた。



 終業式が済むと一年生は自宅に帰宅し、二年生は半々、三年生はほとんどが寮に残った。

透磨は現国の補習を受けに、佐藤先生の研究室を訪れていたが、補習と言ってもほとんど先生とのおしゃべりで過ごしている。


「先生は夜雲太一という生徒のことを覚えていますか?」

 田中の口からでた生徒の情報を、この先生から得る良い機会だと考えた。


「ああ、よく覚えているよ。頭脳明晰でスポーツ万能、でも悪いうわさもあったね。君たち若者は不良っぽいのに憧れる時期だから、彼のファンもいたらしいよ」

「今は何をしているかご存じですか?」

「彼は夜雲商会の御曹司だよ。だから次期社長として、会社に勤務していると思うけど」

「真っ当な会社ですか?」

 透磨は無性に腹立たしくなった。

先生は透磨の真意がわからず戸惑っている。


「え? まともな会社だと思うけど。どうして?」

「いろいろと理不尽さを感じるんですよ。あと山本剛史という生徒も覚えていますか?」

「ああ、彼は不良で有名だった。高校で入学してきて、一年も経たないうちに素行不良で退学になったから、よく覚えているよ」

「やはり会社員になっていますか?」

「いや、彼は根っからのワルでね、退学した後は暴力団組員になり、抗争に巻き込まれて死亡したそうだよ」

「ふん、そうですか」

 先生は不思議そうに透磨を見た。


「なに? 龍神君は何か調べているの?」

「はい。先生方が言っている、不可解な人魂に関係あるみたいです」

「へえ、うん、あれは摩訶不思議な出来事だったね。それで何だったかわかったの?」

「いいえ、まだはっきりとは。ああ、そうそう、先生はこの学園が、どんな土地の上に建てられているか知っていますか? たぶん、学園の関係者は、誰も知らされていないと思います。だから将来的にも調べたほうが良いですよ。これは、ぼくからの忠告です」

「え? うん。君は突拍子もないことを言うね。うん、わかった。頭に入れておくよ」


 先生の丸眼鏡の中の小さい目が、待ちに待った来客を満足そうに見つめている。

補習という名目の佐藤先生とのおしゃべりが終了して、やっとまとまった透磨の自由時間ができた。

これからは、図書館で好きなだけ時間を気にしないでいられると思うと、心が少しだけ軽くなる。

 

 翌日から透磨は、日がな一日図書館に通って過ごし、そしてある日「夜と霧」の本の中に、一枚の紙が挟まっているのを見つけた。 



  ぼくらが山で遭難し、餓死寸前の状況に追い込まれたとして、

  眼前の友が、今、食べ物を口にしないと命がなくなると思われるとき、

  彼に、この最後の食べ物をあげてしまったら、

  明日はぼくの命が危ないとしても、ぼくは、

  手にしているこの食べ物を、彼にあげることができる。

     ぼくの大切な友達へ

     ぼくの大切なパワーストーンを捧げる



 その本の貸し出し記録には、十月二十五日、小川海斗となっていた。

田中は事が大きすぎて、衣鶴と一番仲の良かった海斗だけに、性的暴行の相談をしていた。

海斗は驚愕しながらも、自分が何とかするから、このことは誰にも言わないように、そして衣鶴の側に寄り添っていてほしいと田中に頼んでいた。


透磨は、この紙の持ち主と思われる海斗の人となりを想像して、なんだか鼻の奥がジンジンした。



 年末になると寒さも一段と厳しくなり、時々風花が舞い辺り一面うっすらと白くなっても、すぐに消えるさまは儚くも美しい。

 帰宅せずに寮に残った学生は、部屋の整理整頓を済ませて正月を迎える準備をした。

大方、綺麗に片付いたころ、年末の夕刻に校内アナウンスがあった。


「生徒会よりお知らせします。……生徒諸君、今年も残り数時間となりましたが、どのような一年でしたか? 今年の三年生は、学力試験の結果、全員が輝月城大学に入学許可がおりました。おめでとうございます。しかし四月の入学式まで時間があります。それまでの時間を有意義に、気を緩めることなく、自分の知識を高める努力をして過ごしましょう。一年生、二年生は、今年一年で良い思い出が出来たでしょうか? 君たちの未来は可能性で満ちています。今後の努力で、きっと輝かしい未来を勝ち取ることでしょう。……さて、恒例の生徒会主催の年末年始カウントダウンイベントを、学食で十時半から開催します。おつまみやノンアルコールも十分用意しました。さらに、今年は年越し蕎麦も気張って用意したので、期待してください。来年も良い年になるよう努力しましょう。では皆さま、挙っての参加をお待ちしています」


 このとき透磨はちょうど学食で、夕飯のバイキングを樹生と食べているところだった。

「へえ、だから今日はテーブルの位置が変わっているのか。準備が大変なのに面白いことをするね。今の百目鬼さんの声かな? 樹生さんは参加する?」

「いやいや、教師の僕はお邪魔虫だから遠慮するよ。透磨は参加するでしょう? たまには羽目を外して楽しむといい」

 樹生が透磨を優しく見つめる。


「でも、見たいDVDがあるんだ。どうしようかな」

 その題名をいくつか挙げて、樹生と食後のコーヒーを飲んでいると、荷物を高く積み上げた荷台を押して、鈴木と伊藤がバタバタと食堂に入ってきた。


「ああ、急がないと間に合わない。まったく、時間通りに配達してくれなきゃ後が困るよ」

 伊藤が不機嫌そうに言って、すぐに透磨に気がついてニヤリとした。


「あ、遠藤先生こんばんは。いいところで透磨君をみつけたな。ねえねえ、君、食事済んだみたいだね。イベントの準備が遅れていて大変なんだ。お願い、手伝ってよ」

 伊藤が両手を胸のところでパン、と合わせて頼みこんできた。


「すごい荷物ですね。わかりました。いいですよ。じゃあ行きましょう。樹生さん、また後で」

 DVD鑑賞は来年に持ち越しだなと思いながら、樹生を残して二人の後をついていった。 


会場は、学食のテーブルとイスを壁際に移動して、中央にスペースをつくり、そこに軽食と飲み物を置いて終了、と意外に簡単ではあるが、プラネタリウムで特別な空間を演出していて、良い雰囲気がでている。


 照明を落とすと、天井と壁に美しい星空が現れ、モダン・ジャズをBGMで流して、ランプの下でトランプをしたり、新しいゲームをしたりして新年を迎える。

おつまみと蕎麦の出前が遅れたためにバタバタとしたが、何とか時間に間に合うようにセッティングができた。


 百目鬼と新垣は、人数の多い三年生の接待に忙しく動き回っていて、二年生は伊藤が受け持ち、笑わせている。二年生の相手は伊藤にまかせているので、手持ち無沙汰気味にしていた鈴木が、透磨を見つけて近づいてきた。


「透磨君、さっきは手伝ってくれてありがとう。助かったよ。大概一年生は、休暇中は家に帰ってしまうけれど、透磨君は家に帰らないの? 他に一年で残っている子はいる?」

「そうですね、残っているのは、たぶんぼくだけみたいです」


 透磨が軽食コーナーにある麺を温め、それに、やや濃いめのつゆをかけて海老天と刻みネギをのせた年越し蕎麦を、学食の隅のテーブルで食べていると鈴木は隣に腰かけた。

 鈴木はノンアルコールのビールらしきものを手にしている。


「どう? お蕎麦美味しいかな? 今回はOB会から寄付金を頂いたので、初めてそれを用意したけど」

「はい、美味しいです。鈴木さんは食べないのですか?」

「ぼくは、これが良い」

 コップをちょいとかかげてウィンクした。

少し頬が赤くなっている。

透磨は「それ……」と言いそうになってやめた。


「ふふ、生徒会で用意するのはもちろんノンアルだよ。ただね、生徒個人が内緒で持ち込むのを監視するのは無理なんだな。まあ、一年に一度きりの無礼講ということで、内緒ね」

 そう言うと、鈴木は口に人差し指をあてた。

アルコールが入っているせいなのか、いつもは無口なのに、機嫌良く透磨に話しかける。


「冬休みに入ってから、ぼくは図書館でよく君を見かけたけれど、いつも何をしているの?」

「図書館は静かで本も選び放題にあるから、ぼくは好きな場所ですね」

 透磨は何となく、彼に違和感を覚えた。


「ふうん、君ってさ、いつも渦中の人物で目立つはずなのに、こうしていると、存在を消すのがうまいよね。そして目の前の人物をそっと観察して、分析しているのでしょう?」

「えっ……」

「ああ、気にしないで、ぼくが透磨君に興味があるってことさ」

「……ぼくも鈴木さんに関心があります」

「ほんとう? それは光栄だなあ。さあ、もうじきカウントダウンが始まるよ」

 ニコッと鈴木は笑いかけた。

そんな鈴木を透磨は不思議そうに見ている。


 カウントダウンは十秒前から始まった。

 十、九、八、七、六、五、四、三、二、一

「happy  New  Year!」と一斉にみんなが声を出した瞬間、照明がパッと消えて真っ暗になった。

BGMも止まり、突然の静寂が学食全体を包み込む。


 あちこちで「どうした?」「停電か?」「余興か?」と戸惑いの声があがると同時に、プラネタリウムの星空が天井に現れた。

ゆっくり回転する星空に「あ、直った」「よかった」と安堵した声があがったものの、回転の速度が段々と速くなると「何か速くないか?」「どうしたんだよ」「おかしいだろう」とあちこちでざわめきだす。


 ますますスピードが上げり、目が回りそうなほど速くなった星空が、急にピタッと止まった。

みんなが恐々天井を見上げると、ゆっくりと星が動き出し、中央に集まりだしてそのまま壁を伝って下に降りてきた。

星の塊は少年の形に変化して、うっすらと輝いている。


みんなが驚いていると、バタンバタンと外窓が勢いよく開き、凍てついた強風が、唸りながら入ってきて、あちこちで叫び声があがった。

廊下に逃げようとして扉を開けようとした生徒が「開かない! 開かない! 閉じ込められたぞ!」と悲痛な声で叫んでいる。


 窓から入ってくる強風が、グルングルンとつむじ風のように渦を巻いて、だんだんと人の形になり、それはやがて鬼の形になった。

鬼が動くと風もつむじ風となって、フォークや箸、コップや皿が飛び交う。それを見て、百目鬼がいち早く叫んだ。


「みんな! テーブルの下に入って頭を守れ! 早く!」


 その声にしたがって、生徒たちは叫び声と共に一斉にテーブルの下に潜り込んだ。

鬼は面白がっているようにつむじ風を起こし、学食は足の踏み場のないほど、滅茶苦茶に散乱した。


 全員がテーブルの下に逃げたが、透磨だけはこの様子を学食の隅で静かに見ていた。

鬼が風を、星でできた少年に投げつけると、少年はバラバラになって個々の星となり、一斉に鬼に向かっていった。

沢山の星が鬼に張り付き包み込もうとするが、鬼の抵抗の方が強く、逆につむじ風で群星を取り囲んでしまい、そのまま星を抱えたまま、窓から出て行ってしまった。


 少年を追い出してから鬼は部屋の中央に行き、さらに両手を大きく広げてつむじ風を作り出した。

生徒たちはあまりの恐怖に声も出せず、腰を抜かしている。

すると透磨は一歩前に出て、胸ポケットにしまっていた護符を取り出し、


「風の精、シルフよ! ぼくに力をかしてください!」

そう叫ぶと護符を鬼に向かって投げつけた。


 護符が鬼の体の中にするりと入ると、鬼は身をよじって、耳を塞ぎたくなるほどの轟音をだした。

目を開けていられないほどの強風が、渦を巻きながら鬼にまとわりつくと、鬼は爆音のような悲鳴をあげ、強風に体を食いちぎられて、鬼の形がバラバラと徐々に崩れだす。


ほぼ形がなくなると、しだいに風も弱まりだして完全に消滅した。

後にはボロボロになった護符だけが落ちていて、透磨は大事そうにそれを取り上げ、ポケットにしまう。


「百目鬼さん、もう大丈夫ですよ。あとの指示をお願いします」


 テーブルの下から出てきた百目鬼と目が合うと、透磨は何事もなかったように言った。

百目鬼は「ああ……うん。ありがとう」あたりを見回して「これは片付けが大変だな。ああ、どうしよう」とぶつぶつ呟いて、新垣をキョロキョロ探した。


「新垣ぃ、ちょっとここに来て。みんな、怪我はない? 怪我をした人はここに集まって。動けない人は手を挙げて。さあ、みんな落ち着いて、大丈夫な人は部屋に戻って休んでください」

 百目鬼が適切な指示を出して、動けるものがてきぱきと混乱をおさめ、何とか朝方には収拾の目途がついた。



 元旦早々からの騒動に正月どころではなくなり、緊急会議が即日開かれたが、教師は学食の悲惨な現状を目の当たりにしても実際にそこにいたわけではないので、百目鬼と新垣が呼ばれて昨晩の出来事の詳細を説明した。


誰も今、この学園で何が起きているのか理解できるものがいないなか、現国の佐藤教師が『透磨の忠告』を思い出し、ある提案をした。

そして改めてこの地域の歴史を、佐藤教師と日本史の教師で早急に調べることに決まった。


 緊急会議終了後に生徒会役員も生徒会室に集まったが、そこには透磨と樹生もいた。

相変わらず新垣が紅茶を入れ、軽いスナックも用意された。


午前中は学食の後片付けに追われ、その後職員会議に呼ばれて、百目鬼と新垣はかなり疲弊していたが『透磨の忠告』にかなり興味津々で、気分は高揚している。


「透磨君の中では、昨夜の出来事は解明しているの?」

 百目鬼が開口一番に尋ねると、樹生以外の全員が透磨を注視する。

「おおむね想像できますが、もちろん断言はできません」

 新垣が入れてくれた紅茶を飲みながら答える。


「緊急会議で佐藤先生が透磨君の忠告に従って、ここの歴史を調べることになったけれど、もしかしたら昨日の鬼に関係があるの?」

 この新垣の質問に、透磨が答える前に鈴木が、

「透磨君は、もう鬼の正体も少年の正体もわかっているよね。断言は出来なくても、確信はしているのでしょう? ぼくたちに教えてくれないかな?」

 普段は無口なのに、珍しくはっきりとした口調だ。

透磨は樹生を見て「いいですよ」と言って話しだす。


「昨日の鬼と以前ぼくに憑こうとしたものは、同じではないけれど同種族と考えていいです。あれらは、元々は気の毒な仏です。ここの地域の過去を調べていくうちにわかったのですが、昔、何百年も前のことですが、ここは山深く人が踏み込めない場所でした。そこに戦から命からがら逃れてきた落ち武者が留まり、小さな部落が生まれました。さらにここは、世間から身を隠したい者が集まってきて、たとえば遊郭から恋しい男と逃げてきた遊女や、駆け落ちで逃げてきた者や、村八分で村を追われた者など、みんな悲しい生い立ちの者が流れ着いた場所です。それでも自給自足で貧しく生活し、外界とあまり関わることなく、小さなコミューンをつくってひっそりと暮らしていました。月日が経ち、ここで生まれる赤ん坊よりも、亡くなる者のほうが多くなり、徐々に人口が減って、ついには誰もいなくなってしまったのです。墓はしだいに無縁仏となり「投げ込み寺」と呼ばれていた寺院さえも、ついには打ち捨てられてしまいました」


 一気にここまでしゃべって、透磨は深いため息をついた。


「打ち捨てられた寺院を、無縁仏を、何の弔いもせずに、利益のみに支配された人間が土地の売買に関わってしまったのです。何人もの手に掛かって平地にされて城が建ち、五十年ほど前に学園になったのがわかりました」


 ここで新垣に紅茶のおかわりをもらって、のどを潤してから先を続ける。


「供養されない仏には、当然お供えする者がいません。そうすると空腹で喉も乾いてくるし、寂しさも強くなって怨念が募ってきます。救われることもなく、この世にずっと彷徨い続ける怨念が、昨日の鬼の正体ですよ」


「すぐには信じ難いと思うけれど、君たちはもう、二度も怨念の集合体を目にしているから、多少は理解してくれるかな?」

 黙り込んでしまった四人を見て、樹生がやや首を傾げて訊く。


「理解不能なことが起こっているのは事実なのだから、信じるしかないでしょう。それで、これからぼくらは、どうしたらいいのですか?」


「これまでのことは偶然なのか必然なのか、そこのところが、まだはっきりとしないのですが」

 透磨が、やや躊躇しながら続ける。


「ぼくがこの学園に、しかもこの時期に来たことは、海斗君が原因になっているような気がします」


「まって! 透磨君はあの少年の形をしたものは海斗だと? 衣鶴ではなく、海斗だと考えているの?」


「はい、あの少年は海斗君の魂です。衣鶴君ではありません。衣鶴君は人間界にはいません」


 驚いて訊いた新垣の瞳には、安堵とも取れる悲しさが表れている。


「つまり、ぼくがこの学園に来たことによって、海斗君が現れるようになったか、あるいは、ぼくが海斗君に呼ばれて、ここに来たのかもしれないです。さらに、ぼくと海斗君が接近したせいで、怨念も具象化したのかもしれない」


 自分の説明に、みんなが困惑しているのがわかった透磨は、

「ああ、だから、これからも昨日のようなことが起こるということです」

 樹生に助けを求めるように視線を投げかける。

樹生がそれを受けて、

「君たち四人が頼みの綱だ。僕も透磨も解決に努力を惜しまないから、君らも協力をしてほしい」と頼んだ。


「もちろんです。ぼくたちでは力不足ですが、出来る限り協力します」

 百目鬼がみんなに代わって答えると、他の三人もうなずいた。



 三が日は穏やかな天気で過ぎたが、小寒あたりから雪が深々と降り始めて積もりだした。

新学期を迎えるにあたり、自宅から生徒が続々と帰ってきて、年末年始の出来事のうわさ話で盛り上がっている。

樹生によると、佐藤先生たちが急いで調べた結果、忌まわしいこの土地のことが判明して、とりあえず合祀墓を建てようとなったらしい。

そしてよりにもよって、夜雲商会に石塔を頼むことになったという。


「すさまじいな」

 それを聞いて、透磨がぽつりと呟いた。

「やめさせるか?」

 樹生が透磨の顔色をうかがう。

「いや、願ったりかなったりだよ」

 樹生はいつになく透磨の目が、きらきらとしているのが気になった。


「ぼく、これから街まで行ってくる。大切な宝石を形あるものにしてもらったんだ。受け取りに行ってくるね」

 言うなり駆け出して行った。

また色々考えているのだろうけれど、僕にはさっぱりわからん、と樹生は思った。



 鏡開きの日に、夜雲商会から商談に送り込まれてきたのは、夜雲本人だった。

「校長先生、ご無沙汰しております。この度はお電話頂きありがとうございます。お話の通り、石塔のパンフレットを持ってまいりました」


 夜雲は高級そうなスーツを身にまとい、秘書を後ろに引き連れて、若いにもかかわらず次期社長としての風格がある。


「久しぶりだね、夜雲君。君もりっぱになって、社長も頼もしく思っていることだろうね」

 校長は機嫌よく夜雲を出迎えて、世間話を始めた。

「雪も積もりだしましたから、もうじき雪中合戦が行われますね。学生時代は、私も童心に帰って楽しみました」

 真っ白い校庭を眺めながら、夜雲が思い出に浸る。


「ああ、今朝の積雪は三十センチだから、あと数日で始められそうだ。石塔はパンフで決めたらまた君に連絡するよ。これで私は失礼する。あとは佐藤先生に任せてあるから、彼と話してくれたまえ。ああそうだ、せっかくだから学生気分に戻って、学食で昼食を食べていったらどうだい」


「それは楽しそうですね。では、そうさせていただきます。今日はありがとうございました」


 校長室を出ると秘書が、

「お城が学校だなんて凄いな。静かでいいところですね。こんなところで勉強できるなんて、羨ましいです」と言うと夜雲は、

「そんなことはないよ。何もない田舎で、たいくつなだけだった。じゃあ、学食に行ってみようか。懐かしいやつに会えるかもな」と、にやりとした。


 

 学食はにぎわっていて、ここでも壁や天井の重厚な作りに秘書は感激し、夜雲はキョロキョロ辺りを見回して誰かを探しているようだった。

透磨がスーツ姿の彼らが、学食に入ってきたときからずっと端で見ていたところ、夜雲は秘書を従えて空いている席に迷うことなく座った。


「やあ、久しぶり、元気にしていたかい。僕を覚えているだろう?」


 夜雲が前の席にいる生徒に声を掛けた。

声を掛けられた生徒は、夜雲を確認すると体を硬直させ、肩で息をして苦しそうにあえぎだした。


血の気の失せた顔色になると、透磨は急いで彼のもとに駆け寄り、

「新垣さん、大丈夫ですか? 具合が悪そうですね。保健室に行きましょう」

 と新垣を抱きかかえ立ち上がらせたとき、夜雲はすっと新垣の側にきて耳元で、

「楽しい日々だったよ」と囁いた。


新垣の体が、ぴくんと跳ねたのが透磨に伝わった。


 透磨は怒りを込めて、

「どいてください」と言って、夜雲を押しのけようとしたが、そのとき、

「あの『しるし』はまだ残っているよね、豊美ちゃん」

 と夜雲は畳みかけるように新垣の背中に囁き、くすっと笑った。


新垣の呼吸が、ひゅっと止まったように、透磨には感じられた。


新垣を学食から連れ出すときに、後ろを振り返って夜雲を見ると、ねっとりとした視線で見つめられていた。


 

 保健室よりも新垣の部屋のほうが、落ち着いて話しやすいだろうと考え、透磨はふらふらして目も虚ろな新垣を四階に連れて行った。


新垣の部屋は彼の几帳面さが表れていて、綺麗に片付けられている。

ベットに座らせてから透磨も隣に座って、彼が落ち着くまでだまって静かに待っていた。

浅く乱れていた呼吸が整ったのを確認してから、透磨が話しだす。


「大丈夫ですか。落ち着きましたか?」

「うん、助かったよ……。君ならもう、何でもお見通しなのだろうね?」

 真正面を見つめて、弱々しく答える。


「……細かくはわかりませんが、大体のことは。衣鶴君と同じような目にあったのですね?」

 同情のこもった、小さな声で訊いた。


「……ああ、やっぱり君は凄いね」

 新垣は前を向いたまま、遠くを見つめている。


「夜雲が、あとから山本も加わって、衣鶴君を辱めていたのは知っています。そんな衣鶴君を助けようとしたのが海斗君でした」

 透磨を見つめる目には、深い悲しみの色が満ちている。


「話したくないのはわかります。ですが、夜雲にされたことを教えてくれませんか? ぼくは、少しでも新垣さんや海斗君の気持ちを、軽くしてあげたいのです」


 透磨は力強い目で、真正面から新垣を見つめて頼んだ。

しばらく躊躇していた新垣だったが、意を決したように話しだした。


「この学園に入学して、一学期は何事もなく、楽しく過ごせたよ。二学期になると学園生活も慣れてきて、街にも友達と遊びに行くようになった。そんなとき、街のカフェで夜雲に会ってしまった。当時、夜雲に憧れる後輩は多くて、そんな憧れの先輩に飲み物を奢ってもらって、友達もみんな有頂天になっていた。帰るころになるとぼくは気分が悪くなり、みんなと一緒に帰れなくなってしまった。夜雲は自分が残って、ぼくを少し休ませてから送ると申し出たので、友達は先に寮に帰ってしまったんだ」


 ここまで話すと、新垣の指先が震えだした。

「……ぼくの飲み物に、薬をいれられた」

 震える両手をぎゅっと握りしめる。


「みんながいなくなると、ホテルに連れ込まれて、暴行されて写真を撮られた。あとはもう、言うことを聞かなければ、写真をばらまくと脅されて……やつの言いなりになった」


「いつまで?」

透磨はそっと訊く。


「衣鶴が自殺未遂を起こすまで……。ぼくはそのときまで、衣鶴も同じ被害を受けていたなんて知らなかった」

「山本とは?」

「ぼくは山本との関わりはない」

 ふう、と重いため息をして目を瞑る。


「さっき夜雲が言っていた『しるし』って何ですか?」

 新垣の目が大きく開き、ゴクンと唾を飲み込んだのがわかった。


「……夜雲は、やつはぼくに異様なほど執着していて、ぼくの体にやつの所有物としての刻印をつけた。やつはそう言っていた」


 そう言って、震える手でワイシャツのボタンを外して前を開けると、左鎖骨の上にくっきりと煙草の火を押し付けた痛々しい痕が残っていた。


「やつの……」

 つーと新垣の頬に涙が流れた。


透磨はその火傷の痕を見ながら暫く考えていたが、シャツのボタンをはめてあげながら切り出した。


「これは『所有物としての刻印』と言ったのですね。ならば、新垣さん、手はありますから、もう少し辛抱してください」

 新垣は、コクンとうなづいた。


「今まで誰にも話せなかったけれど、君に話せて、少し心が軽くなった気がする」

 ほろほろと流れる涙を手で拭いながら、独り言のように言う新垣をじっと見つめて、透磨は決心したように尋ねる。


「夜雲はいずれ、あなたに詫びを入れにきます」

「え?」

 新垣は怪訝そうに聞き返す。


「夜雲は、あなたの許しを得るために、必ずここに来ます。そのとき新垣さんは、夜雲にされたことを許せますか?」


「……そんなことは考えたこともないよ」


「では、考えてください。海斗君とぼくと夜雲と役者がそろいました。これは意味があります。新垣さんは、気持ちの整理をするときがきました。またつらい思いをしますが、前に進むために考えてください。ぼくはこのことは誰にも言いませんが、新垣さんは誰かに……百目鬼さんに相談するのもいいかもしれませんよ」


 そのときドアをノックする音を聞いて、

「ほら、きっと百目鬼さんだ」

 と言って彼を招き入れ、透磨は用があるからと部屋を後にした。



 夜雲が学園を訪れてから、雪の降る日が数日続き、積雪も五十センチに届いたある晴天の午後、雪中合戦が行われることになった。

    

 第一グループは赤色、第二グループは緑色、第三グループは青色、第四グループは黄色で、各組の一年から一名、二年から一名、三年から一名鬼を選ぶと、各グループに鬼が三名となり、鬼はグループ色の帽子をかぶる。

他の生徒はグループ色のたすきを身に着ける。

  

 鬼は自分の帽子の色以外の生徒を捕まえて、たすきを集め、捕まった生徒は速やかにたすきを鬼に渡し、会場から出る。

鬼は自分のグループの生徒を守るために、逃げている生徒を助け、他のグループの鬼の邪魔をすることが出来る。

四十分で鬼が集めた、たすきの数で勝敗が決まる。


透磨と百目鬼が赤色で、百目鬼は鬼に選ばれ、鈴木は緑色、伊藤は青色で鬼に選ばれ、新垣は黄色である。

膝上までの雪を蹴散らして走るのはかなり難儀で、鬼に至っては消耗する体力は尋常ではないので、体力自慢がなることが多い。


生徒会役員の間では、鬼の役は、伊藤は適任だけれど、百目鬼は無理じゃないかとの見方をしている。


「ぼくも最後まで走れる気がしないよ」

 百目鬼は気落ちしながら、

「誰だよ、ぼくを推薦したのは」

 と文句を言い、伊藤は、

「透磨君、ぼくは君を捕まえるからな、覚悟してや」

 とニコニコしている。


「ぼくは体力がないから、お手柔らかにお願いしますよ」

 透磨も伊藤にニコニコしながら答えたが、雪中合戦自体が無事終了するとは思えなかった。



 午後一時半に、笛の合図とともに雪中合戦が始まったが、全校生徒が新雪の中を駆け巡る様は、真っ白いキャンパスに、色とりどりの油絵の具をのせるようで実に壮観である。


まあ、実際は駆け巡るとは言い難く、ずぼずぼと足を上げて移動すると言ったほうがよい。

追いかけられて逃げるとまず転ぶので、雪だらけになるのに、そう時間はかからなかった。


ワーワー、キャーキャー言いながら、透磨は幼いころに遊んだ記憶は一度もないのに、幼いころに戻った不思議な感覚を覚えた。

太陽の下でこんなに楽しいと感じたことは、生まれて初めてだった。

心地良い疲労感に満たされる。


 十分もすると、逃げ回っている生徒は半分ほどになり、雪も踏み固められて動きやすくなり、体も汗ばんできた。


伊藤君は三組だから青の帽子に気をつけなきゃ、と透磨が考えていると、伊藤が透磨を見つけて「透磨君、はっけーん!」と、沢山の色とりどりのたすきを身に着けて追いかけてきた。


透磨は赤の帽子めがけて、助けを求めて逃げ出した。

目の先に百目鬼を見つけて、

「百目鬼さん、助けて! 伊藤さんが追いかけて来る!」


 叫びながら百目鬼を追い越すと、百目鬼が伊藤を待ち構えて、腰にタックルすると二人とも雪の上に転がった。


「ああ! くそ! 逃げられた!」

 伊藤が地団駄を踏み、百目鬼を恨めしそうに睨む。


「ははは、残念だったな。伊藤君」

 疲れ切っていた百目鬼だったが、伊藤をとめられて嬉しそうだ。


 伊藤から逃れて他の鬼の存在を確認していると、どこからか雪玉が飛んできた。

雪玉はしだいに多くなり、校庭一帯にビュンビュン飛んできて、みんなの体めがけて当りだした。


快晴だった空は鈍い鉛色に変わり、強風も吹き出して、雪玉も乱舞しながら生徒めがけて勢いよく飛んでくると「痛い、痛い」とあちらこちらで、呻き声があがった。


 急いで校内に入るよう放送があったが、強風と雪玉でなかなか前に進むのが困難だった。

透磨がゆっくり息を吐いて、右手を出そうとしたとき、透磨めがけて雪玉が飛んできた。


「透磨君、危ない!」

 伊藤が透磨を庇って背中に雪玉を受けた。「うっ」と伊藤の歪んだ顔から声が漏れた。

「伊藤さん! 大丈夫ですか?」

 伊藤の腕の中で、心配そうに透磨が訊く。

「……うん、大丈夫。それより、あれをなんとかできる?」


 強風で踊り狂っている雪玉の中で、生徒たちはしゃがんで頭を抱え込んでいる。

「はい、やってみます。」改めて深呼吸して、

「風・火・地・水・四種の精霊、どうか海斗君に力を与えてください」

 右手を前に出すと、中指にはめている指輪のアクアマリンから光がでて、少年の形になった。


「海斗君、あの怨念を鎮めてあげて」


 すると海斗は光に戻り、灰色の空めがけて飛んで行った。

上空で海斗が雷となると、ゴロゴロと雷鳴が聞こえ始めた。


大量のエネルギーを得て発生した衝撃波は、空気を震えさせ稲妻となり爆発した。

その爆風は雲を蹴散らし、蹴散らされた雲の隙間から太陽の光が照らされて、あたりが明るくなると風がやみ、雪玉は下にボトボトと落ちた。


 その後、上空から降りてきた光はアクアマリンに吸収され、透磨は「海斗君、お疲れ様」と言って、そっと大切そうにアクアマリンに触れた。


伊藤は目を丸くして指輪を見ていたが、

「凄いな、それ……。透磨君もお疲れ様」

 と言い、百目鬼を捜しに行った。


透磨のおかげで混乱は早急に静まり、合戦は終了した。 

結果は、伊藤の大活躍で、第三グループの勝利となった。



 その日の夜に、透磨は不機嫌な樹生の訪問をうけた。

「どうしたの、樹生さん」

「おまえ、僕に何か隠してないか?」


 樹生は、むすっとして椅子に腰かけたが、透磨は思い当たらないので首を傾げていると、

「昼間の出来事を見ていたけれど、おまえのその指輪はなに? そんなの前は、着けていなかったよね?」

 指輪を指差して樹生が尋ねる。


「ああ、これね。うん、ごめん。言ってなかったね。これね、アクアマリンという宝石だよ。綺麗でしょう」


 樹生の前にさし出した右手の中指には、複雑な模様が刻まれている、銀でできた指輪がはめられていた。

その指輪の中央にはパステルブルーの石がはめ込まれている。


「これは、ミドルフィンガーリングと言って、邪気を払うんだよ」


 右手を顔の前に広げて、満足そうに指輪をながめた。


「どうしたの、それ」

「これは純度九十九・九%の純銀を用いて、ぼくが尊敬するシャーマンの先生に無理にお願いして、特別に作成してもらったんだ。この綺麗なアクアマリンは、海斗君の誕生石だよ」


「ただの指輪じゃないよね」

 すこし言いにくそうに「うん」と答える。


「これがあれば、前みたいに不意打ちされることはないよ。純銀には不思議な力があってね、悪魔や悪霊を払う力がとても強い……。それにこの石は、海斗君が衣鶴君にお守りとして渡した大切な物なんだよ。前にぼくが岬でペンダントトップを拾ったの覚えてる? これは、あの時の石だよ。たぶん衣鶴君が墓標として岬の先端に置いたのだと思う。それを、形を変えて指輪にしてもらったの。……それに……海斗君がこれに憑依してるんだ」


「ええ! どういうことそれ。大丈夫なの?」

 驚いて樹生が訊くと、

「大丈夫」

 と言って、左手で愛しそうにアクアマリンに触れた。


「海斗君は霊界に行けなくて、このままだと地縛霊になってしまう可能性があるから、これに憑依してもらったんだ」


 透磨は伺うように樹生を見るが、樹生は困惑している。


「まあ、僕にはわからないことだけど、透磨がちゃんと面倒みるんだな?」

「うん! もちろん!」


 明るい顔で答える透磨は、友達ができて喜んでいる少年のようだった。


 

 大寒の日に合祀墓のための石塔を建て始めることになり、そのとき夜雲も来ることが樹生の情報で知った透磨は、百目鬼に理由をつけて、夜雲を生徒会室に連れてきてくれるように協力を仰いだ。

百目鬼は、快諾はしたものの新垣がこれ以上傷つかないか心配している。

 

 当日、石塔を建てるのは職人の仕事なので、夜雲は職人に指示を出した後は応接室に案内されて、佐藤先生と談話していた。

そこに百目鬼が訪ねた。


「佐藤先生、お話し中にすみません。夜雲さんに頼みたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 百目鬼が部屋に入ると、佐藤先生と向かい合って夜雲と部下らしき若い男がソファーに腰かけていた。


「ああ、百目鬼君、どうした? 夜雲さん、彼は生徒会長の百目鬼君です」

 佐藤先生が、百目鬼を紹介すると、

「頼みたいことって、なにかな?」と夜雲が訊いた。


「これから生徒会室に行って、ぼくと副会長にあなたの会社のことや、社会人になるときの心得とかを、ご教示頂けませんか?」

 新垣が夜雲と対峙して大丈夫なのか心配だったが、透磨を信じることにして、努めて平常心で頼む。


「ああ、かまわないよ。私も君たち学生さんと話をするのは楽しいからね。副会長は誰?」

「新垣と言います」

 こいつ、どんな反応をするのだろう、と思いながら百目鬼は答えた。


「え! あ、そう!」

「ご存じですか?」

「うん、すこしね」

 いやに嬉しそうだ。

「じゃあ行こうか。佐藤先生ありがとうございました。また後ほど伺います」


 夜雲は佐藤先生に挨拶すると、急いで生徒会室に行きたがった。

応接室を出ると、すぐ隣が生徒会室である。

百目鬼が生徒会室の扉を開き「どうぞ」と言って二人を中に通した。


 部屋の中には新垣がソファーに座っていて、透磨は窓際に立っていた。

夜雲は新垣に話しかけようとして、透磨に気がついた。


「おや、君はこのあいだ学食で僕が新垣君と話そうとしたのを邪魔した子だね」

 透磨に向かって言ったが、透磨は夜雲を無視して、夜雲と一緒に来たスーツ姿の男に、

「あなたは誰ですか?」と訊いた。


「あ、僕は夜雲の秘書をしている丸山堅一というものです」

 丸山は清潔感があって健康そうな青年だ。

なんとなく新垣に似ている。


夜雲は透磨を一瞥してから目をぎらつかせて、新垣を舐めるように見る。

透磨はそれを見て『異様なほどの執着』か、確かにそんな感じだと思った。


「豊美、どうしていた? 五年ぶりだな」

 平然と言う夜雲だが、夜雲の視線に耐えられない新垣はうつむいたままだ。

新垣の代わりに透磨が唐突に訊く。


「五年ぶりの『しるし』が、今どうなっているか見たいですか?」

 透磨の思いがけない質問に、夜雲も新垣も百目鬼もギョッとする。


「へええ、こいつに話したんだ。僕たちの秘め事を」

 驚きながらも、夜雲がクククと笑う。


 新垣の手が震えだしたが、透磨が新垣の側にいって、

「見たいですか? 夜雲さん。あなたの所有物としての刻印を。そう言ったそうですね」

 透磨が新垣のワイシャツのボタンを外しだした。


新垣が嫌がったが「大丈夫です。新垣さん、ぼくにまかせて」耳元でささやいてボタンを外し、ワイシャツを開けて傷跡をさらけ出した。


「どうですか、夜雲さん。くっきりと痕が残っているでしょう」


 夜雲も百目鬼も、透磨があまりにも堂々と話すので、びっくりして固まっている。

丸山に至っては、訳が分からない状態である。

かまわず透磨は続ける。


「そりゃそうです。だってこれは夜雲さんの刻印ですから。夜雲さんの執着心が生んだ印です。だからこれは、夜雲さんにお返しします。だって、これは夜雲さんのものだから」


 透磨が「すこしチクッとしますよ」と言って、右手の中指でそっと傷跡を拭うと、指が触れた瞬間、電気が走ったように感じられた。


新垣はおもわず「あっ」と声が出てしまい、体がビクッとなった。

すると透磨の中指の先が薄く光りだした。


 新垣の痛々しい火傷の痕は、治りかけの薄い赤い痣に変化し「この痣もすぐになくなりますよ」と透磨はニッコリしながら言った。


 それから夜雲の側に行って、薄く光っている右手の中指を、夜雲の左鎖骨のあたりに触れたとたん、光が吸収されて夜雲が叫んだ。


「あ、痛い! 何をするんだ!」


「何もしていませんよ。あなたのものを、あなたに返しただけです」

 透磨は静かに答えた。


「痛い! 痛い!」


 夜雲が呻くので、丸山がオロオロしている。


「痛いところを確認したらどうですか?」

 透磨が冷たく言うと、丸山が手伝って夜雲のネクタイを取り、ワイシャツのボタンを外すと、火のついた煙草を押し付けた生々しい火傷が現れた。


「何だ! これは! ありえない。おまえ、何をしたんだ?」


 そうとう痛いのだろう、ハアハア呻きながら叫ぶ。


「わからない人だな。あなたのものを、返しただけだと言っているでしょう」


 ぷいっとそっぽを向いて、透磨は答える。


「あなたは混乱しているから、丸山さんに話します」

 透磨は丸山の眼前に移動し、

「丸山さん、よく聞いてくださいね。あの傷は」

 と言って、指で夜雲を指した。


「あの傷は、薬では治りませんから、痛みも取れませんよ。見ていた通り、煙草の火で火傷をしたわけじゃありません。いいですか、よく聞いて、頭に叩き込んでくださいね。痛みを取るには、ここにいる新垣さんの許しを得なければ取れません」


 新垣が驚いて透磨を見つめたが、透磨は頭をコクンと動かして合図をし、続ける。


「新垣さんの許しを得ても、痛みが取れるだけです。傷はあのままです。傷を取るにはあの人の根性を直さないと駄目です。具体的には、あの所有欲ですよ。その欲に打ち勝てれば、あの傷もきれいに治ります。丸山さん、あなたは良い人そうだから、夜雲さんが悔い改められるように、力になってあげてください。夜雲さんは学生の頃は、酷い人だったんです」


 透磨は丸山をじっと見つめて、

「ぼくは龍神透磨と言います。もしぼくに相談事があれば、学園に連絡ください」

 と言ってから、こんどは百目鬼に向かって、


「ああ! ぼくはもうすぐ六時限目が始まるから、授業に出なくてはなりません。次の授業は佐藤先生なので、ぼくがさぼると先生はむくれてしまうのです。ですから、そろそろ行きますね」

 と言い、痛がっている夜雲を見てから、再び丸山に向かった。


「因果応報で、すべて自分に返ってくるものです。それでは、失礼します」


 今起きていることを、理解しようとしている丸山を残して、透磨は生徒会室を出て行った。


後に残された三人は、呻いている夜雲をぼんやりと眺めていたが、丸山がふと我に返り、沈黙を破った。

「夜雲さん、大丈夫ですか? ああ、どうしよう。服を着られますか?」

 痛がっている夜雲を前に、慌てふためいているが、新垣は無表情な顔でじっと見ていた。


百目鬼が「とりあえず、その傷に当てるガーゼを保健室からもらってきます」と言って部屋から出て行った。


「きみが新垣君?」


 丸山が、身動きもしないでじっと夜雲を睨んでいる新垣に尋ねたが、新垣はそれには答えず、自分の服が開けているのにやっと気づいて、傷跡のなくなったところを、指先でそっと触ってから、ワイシャツのボタンをはめだした。

夜雲は目を瞑って痛みをこらえている。


「とにかく、そこを保護して医者に行きましょう」

 ようやく落ち着いて我に返った丸山が夜雲に声を掛け、タクシーを呼んで帰る支度をはじめたときに、百目鬼が保健室から、消毒液とスクウェアのバンドエイドを持って帰ってきた。


「これならば、ちょうどいい大きさだと思います」

 丸山と百目鬼とで簡単な手当てをして、痛がる夜雲をだましだまし服を着せた。


タクシーが着いたのを窓から確認してから、夜雲と丸山は外に出て、無言のままタクシーに乗って帰っていった。



丸山堅一は、昨日のことがいまだに現実だと思えなかった。

あれはいったい何だったのだろうか。

あの部屋で煙草を吸っているものはいなかった。

だいいち夜雲さんは服を着ていた状態で、服に火がついた形跡もなかった。

それなのに、なんで火傷ができるのか?


 医者は、煙草の火でできた火傷だと言ったけれど、あの小柄な少年は、なんて名前だっけ、龍神だっけ、あの少年は煙草でできた火傷とは違うと言っていた。

夜雲さんはだいぶ痛がっていたけれど、本当に痛みは取れないのだろうか?

今日は会社を休んでいるけれど、大丈夫なのだろうか? 


 丸山は去年の春に大学を卒業して、夜雲商会に入社したばかりだが、夜雲にたいそう気に入られて、彼付きの秘書になった。

夜雲は頭がよく、行動はスマートで社内の評判は上々である。

丸山も先輩として憧れている。

しかし、学生の時は酷い人だったとあの少年は言った。

そして因果応報だとも。


 丸山は会社を早退して、会社からそう遠くない夜雲の高層マンションに行くことにした。

部屋を訪れてみると、顔色の冴えない夜雲が出迎えたが、痛くてたまらないと訴える。


「痛み止めが少しも効かない。明日また病院に行ってみる」

「夜雲さんは、あのとき、少年が言っていたことは聞こえていましたか?」

「ああ……、だけどそんな馬鹿らしい。治らないなんてありえないだろう?」

 少し不安そうに丸山を見つめる。


「因果応報って言っていましたが、心当たりがありますか?」

「…………」

 丸山が聞いても、答えなかった。

「とにかく二、三日様子を見ましょう。また来ます」


 夜雲さんが話してくれなければ動きようがないなと、あきらめて丸山はマンションを後にした。

 二日経ち、三日経ってもいっこうに痛みが引く気配はなく、会社も休んでいた。


五日目に、とうとう夜雲は丸山を自宅に呼んで、新垣とのことを話しだした。

その内容は思いもしないことで、丸山は夜雲の卑劣さに落ち込んだ。


「どうしてそんな酷いことを、新垣君にしたんですか?」

 憧れていた先輩の真実を知り、丸山は悲しくなる。

「僕が馬鹿だった。でも僕は新垣が好きだった。好きなのに新垣はそれに応えてくれなくて、それで……本当に馬鹿だったよ」


「信じられなくても、その火傷は、あの少年が服の上から指先で付けた傷です。だから少年の言うように薬では治らないと思います。新垣君に会って謝るしかないです。明日さっそく学園に行きましょう。僕も一緒に行きますから」

 痛みで眠れないため憔悴しきっている夜雲に、それでも丸山はきつく言った。



 今日の午後、夜雲と丸山が学園を訪問すると、丸山から連絡をもらった透磨は、その旨を伝えに生徒会室に行った。

三学期は、二年生は授業があるが三年生はもう自習なので、生徒会室には百目鬼と新垣だけなので都合がいい。


「今日の午後、夜雲が来ますよ」

 透磨はうれしそうに言うが、新垣は複雑な顔をしている。

「あれ? 新垣さん、なんか妙な顔つきをしていますね」

「うん、そうかも。百目鬼、どうしよう……」

 新垣はまだ迷っていて、自分でもどうしたいのか、わからなかった。


「新垣の気持ちのままで、いいんじゃないか」

「そうですよ。百目鬼さんの言う通りです。新垣さんが決めればいいことです」

 透磨がワクワクして目をキラキラさせていると、百目鬼が、

「透磨君は、どうしてそんなに楽しそうなの?」と訊いた。

「え! だって、あの憎き夜雲が許しを請いに来るんですよ。それもみんな、海斗君のおかげです。ぼくは嬉しいな」


 そう答えた後に、ふっと陰りをみせて透磨が呟く。


「でも、ちょっと……いいですか?」

「なに?」


「夜雲を庇うわけではないけれど、彼は新垣さんが好きだった。大好きだったのに、それが報われないとわかったから、あんな卑劣な行動に出てしまった。所有欲に負けてしまったのです。どうして好きな人にむごい仕打ちができるのか、ぼくには理解できないけれど、人の思いってとても複雑で、ぼくもそれに随分と悩まされてきたから、ほんのちょっとですけど、夜雲も深い闇を背負っている可哀そうな人なのかなって、思ったりしました……」


 親指と人差し指でUの字で『ちょっと』をつくってボソッと答えた。


「ああ、ごめんなさい。気にしないでください。これはぼくの独り言ですから」

「うん……、いろいろと本当に、ありがとう」

「新垣さんは、もう過去に縛られずに、未来に向かって前に進めますよね?」

 透磨が訊ねると、「うん」と新垣は穏やかな表情で応えた。



 夜雲と丸山が約束の時間に学園に着くと、透磨が玄関で出迎えた。

「こんにちは、夜雲さん、丸山さん。一週間もよく我慢しましたね」


 夜雲は目の隈がひどく、具合も悪そうでふらついている。丸山も硬い表情をして黙っている。

「顔色がすごく悪いですけど、大丈夫ですか? 夜雲さん」

 透磨は、かまわず話しかける。


「きみ、ちょっと……」

 丸山が、むっとしているのがわかる。

「なんですか? 丸山さん」

 透磨が静かに訊くと、

「……いや、なんでもない」

 と、視線を落とした。


 生徒会室には新垣と百目鬼が待っていた。

最初に透磨が口火を切る。


「ぼくは、夜雲商会に言わなければならないことがあります」

 また突然、予期しないことを言うので、あっけにとられてみんなが透磨を見た。


「夜雲商会が石塔を建てることになりましたが、夜雲さんは非常に具合が悪そうなので、丸山さんに伺いますが……」

 そう言うと、丸山に向かって話しだす。


「そもそも、今回、なぜ合祀墓を建てることになったかご存じですか?」

「ここの土地に無縁仏が葬られていたことがわかったので、供養するためだとお聞きしましたけれど」

「それだけ?」

「え! ほかに何か?」

「そんなんじゃ、供養になりませんよ」

 やっぱりという顔で、透磨がため息をついた。


「この城の下には、無縁仏が眠っています。城を建てる時に合祀墓を建てて、きちんと供養してあげれば、怨念が募ることはなかったのです」

 丸山は、透磨が何を言いたいのかわからなかった。


「まだわかりませんか? この城を輸入して、投げ込み寺も無視してここに城を建築したのは、夜雲商会です」


「え?」

 丸山と百目鬼と新垣が同じ表情をした。

透磨は三人の表情が同じなので面白いな、と関係ないことで感心した。

夜雲はもう、死人のようにうつむいたままだ。


「今回、石塔を建てるのに夜雲商会が関わったのは、やはり深い意味があると思います。夜雲商会は、今の夜雲さんと同様に……」

 と言って、うつむいている夜雲に振り向いて、


「過去の過ちを悔い改め、生まれ変わるときだと思います。でないと、この夜雲さんと同じように、会社に酷いことが起こりますよ。霊を馬鹿にしちゃいけません」

 丸山はこの少年が恐ろしくなった。


「どうすればいいのですか?」


「簡単です。商売で接するのではなく、ちゃんと無縁仏の供養のために……、いいですか、商売でなく供養のために、合祀墓を建てるのです。社長も一度は手を合わせに来させてください。そのときは心から、仏さんに詫びを入れてくださいよ。わかりましたか? 丸山さん」


「ああ、はい。わかりました」


『とんでもないことに、関わってしまった。それにすごい具合悪そうだけれど、夜雲さんは大丈夫なのだろうか?』丸山は心配する。

「よかった。じゃあ、後は三人で話し合ってください。丸山さん、外にでましょう」


 丸山が「私はここにいたほうが」と言うのを、透磨が「駄目です」と言って、強引に連れ出した。


 

「自動販売機がありますから学食に行きましょう。三人にも買ったほうがいいかな」

 丸山は、いつも平然としているこの少年は、いったい何者なのだろうと考えた。


「コーヒーでいいですか?」

 透磨が小銭を入れようとするので、「いや、自分が」と丸山が止めようとするのを制して、「はい、どうぞ」とニッコリ笑ってコーヒーを渡す。

このときの透磨を可愛い子供のようだなと感じた。


「新垣さんは優しい人ですから、夜雲さんは大丈夫だと思いますよ」

 丸山の心配事に透磨が答える。

「痛みが取れるということですか?」

「はい。新垣さんは許してくれると思います。百目鬼さんもいますし」

「火傷の痕はどうなりますか?」

 丸山が質問すると、透磨はじっと彼を見つめた。


「丸山さんは夜雲さんの秘書になって、どのくらい経ちますか?」

「去年の春に会社に入社して、七月から秘書になったから七か月ぐらいですね」

 丸山が指折り数えて答える。

「入社して三か月で秘書ですか。ずいぶん気に入ってもらえたのですね」

「…………」


「夜雲さんはあなたの恋人ですか?」

 唐突な質問に、丸山はビックリする。

「そ、そんな関係であるわけがない!」

「夜雲さんから、セクハラはありましたか?」

「いいや! 君は何を言っているの? 夜雲は仕事もできるし、単なる上司と部下の関係だよ」

 顔を赤くしながら、丸山は憤慨する。


「確かに学生の時は、新垣君に酷いことをしたようですが、今は真面目で良い上司だと、僕は思っています」

「夜雲さんはあなたに、新垣さんのことしか言ってないみたいですね」

「え?」

 急に丸山は不安になった。この少年の言うことは、いつも驚くことばかりだ。


「後藤衣鶴と小川海斗……。この名前は聞きませんでしたか?」

「知らない……」

「そうですか」


 透磨が、深い深いため息をついた。

「細かいことは言いませんが、二人とも、夜雲さんによって人生を狂わされ、二人とも亡くなっています」

 丸山は恐怖で身が縮む思いがした。


「事件性はありません。でも夜雲さんの執着心と所有欲に関わって、二人の少年が亡くなったのは事実です。夜雲さんは、今はあなたで所有欲を満たしています」

 丸山は目を見開いて、透磨を凝視している。


「夜雲さんは、異常に新垣さんに執着していました。あなたは新垣さんに似ています。新垣さんが手に入らない今、あなたは新垣さんの代わりです。でも、セクハラもしていないようなので、夜雲さんも以前と違い、少しは変わったのかもしれませんね」


 透磨は暗い目をして、窓の外の遠くの景色を見つめた。


「夜雲さんの火傷の傷跡は、夜雲さんがあなたをあきらめたときに、たとえば、あなたが夜雲さんの秘書を辞め、会社を退職したときに消滅します」

 丸山は困惑していて、なんと返事をしたらよいかわからなかった。

透磨はかまわず続ける。


「皮肉ですよね。夜雲さんが立ち直るには、あなたの協力が必要です。でも、あなたが夜雲さんの側にいる限り、彼の所有欲は満たされることになり、傷跡は消えません。消えない傷跡を見る度に、過去の自分の愚かさを思い知ることになるのです。つまり……そういうことです。さあ、もう新垣さんたちの話も済んでいるでしょうから、戻りましょうか」


 透磨は椅子から立ち上がり、自動販売機から三本コーヒーを購入した。



 痛みから解放されて、顔色が少し戻った夜雲と丸山たちが帰ってから数日経ったある朝、透磨は伊藤と鈴木に呼び止められた。


「ぼくたちはこれからアカシア女学院に卒業パーティーの招待状を渡しに行くのだけど、透磨君も一緒に行こうよ。お昼には帰れるよ」

相変わらず明るい伊藤は、透磨を誘った。


「はい、伊藤さんは凄く楽しそうですね」

「ははは、もちろんだよ。花の女子高に正々堂々と行けるんだぜ。これぞ、生徒会役員の役得というものさ」

「アカシア女学院とは、学校同士の付き合いがあるのですか?」


「ああ、あるよ。いつも卒業パーティーに来てもらっているけど、華やかになっていいものだよ。やっぱり女の子って可愛いからね。あとはあちらの学園祭に我が校からも大勢行くし、うちの学園祭にも来てもらったりしているよ」

 伊藤は屈託なく答える。


 アカシア女学院と輝月城学園は駅を挟んで東西に分かれていて、タクシーで三十分ほどかかる。

タクシーを降りると、ぐるりと塀に囲まれていて、校門からかろうじて近代的な校舎が見える。

校門で待っていると、ロングヘアとショートヘアの女子学生二人が現れた。


「お久しぶりです。お待ちしていました。あら、伊藤君この可愛らしい少年はどなた?」

 ロングヘアの女子が、透磨を見てにこやかに訊いた。

「ああ、この美少年は龍神透磨君と言って、一年生だけど将来有望な子だよ」


 伊藤が透磨を紹介してから、ロングヘアの女子を示して、

「彼女は生徒会福会長の花岡美和さん、二年生」

 と言ってから、ショートヘアの女子を、

「書記の松嶋裕子さん。彼女も二年生」

 と透磨に紹介した。


美和は肉感的で大人びているが、裕子は逆にスレンダーで中性的な魅力の持ち主だ。


「どうぞ、生徒会室に行きましょう」

 美和が伊藤を伴って、先に校舎に入っていった。


「こんにちは鈴木君、元気でしたか?」

 二人が先に行ってから、裕子が小さな声で恥ずかしそうに挨拶する。

「ええ、裕子さんは元気でしたか?」

 透磨を意識しながら、鈴木も小さな声で答え、透磨は何か物思いにふけっている。


裕子と鈴木が並んで校舎に入っていくのを、透磨はすこし離れて見守っていたが、透磨の顔は切なそうな表情になった。


 生徒会室は女子高らしく、可愛いぬいぐるみや小物で飾られていて、男子校とは趣が異なり、透磨には新鮮に感じられた。


「百目鬼さんと新垣さんが、卒業してしまうと寂しいですね。実は私、百目鬼さんのファンなのよ」

 美和が悲しそうな顔をする。

「美和さん、やだなあ、ぼくがいるじゃないですか」

 伊藤が冗談っぽく言い、はははと笑った。


「ふふふ、そうね。伊藤君がいるから今年一年は楽しいわね。裕子ちゃんは、鈴木君がいるから羨ましいわ」

 裕子は赤くなって、「美和さん、変なこと言わないで」と、しどろもどろになる。


 伊藤が、卒業パーティーの日時が決定し、生徒会として正式に招待したい旨を述べ、詳しい内容は追って連絡するということで生徒会役員の仕事を終え、この後、料理クラブが焼いたというクッキーと紅茶で、ティータイムを過ごしてから帰ることになった。


「料理教室に移動しましょう」と美和と伊藤が先に生徒会室から出て、裕子と鈴木が後に続いた。

透磨は最後からついていった。

美和と伊藤が楽しく会話をしながら、階段を降りきったとき、裕子が突然階段を踏み外して「きゃあ」と叫んだ。


 透磨が「危ない!」と言うや否や裕子の服を後ろから掴み、裕子の体を引き寄せ代わりに透磨が階段から転げ落ちた。

裕子は階段に打ち付けられたが、かろうじて落ちずに済んだ。


「透磨君! 大丈夫か? 頭を打ったか? 動けるか?」

 伊藤が、転げ落ちてきた透磨にびっくりしながら声をかけるが、透磨は胸を強打し、あまりの痛さで声を出せないでいる。

裕子もしたたかに体を打ったが、鈴木に抱きかかえられて立ち上がると、透磨のもとに慌てて降りてきた。

体がブルブル震えている。


「どうしよう、どうしよう、透磨君、大丈夫?」

 胸を打った痛みで声も出せなかったけれど、痛みが治まると、

「ああ、大丈夫。痛かったぁ」と涙目で答えた。


「ああ、ごめんなさい。私のせいで」

 泣きながら裕子が謝る。

「ああ、大丈夫だから。頭はぶつけていないし、骨折もしていないから、平気だよ」

「透磨君、歩ける? 病院行かなくて平気? 大丈夫そうならば、保健室でシップしてもらいましょう」

 美和が心配そうに声を掛けた。



 帰りのタクシーで、透磨は目をつむって考え込んでいる。

伊藤と鈴木はそんな透磨を見て、具合が悪くなったのではないかと心配になった。


「透磨君、具合が悪くなった? 病院に行ったほうがよくない?」

 鈴木はオロオロして落ち着きがない。

「ああ、今ちょっと考え事をしていました。シップが効いて痛みはだいぶ引いたから、もう大丈夫です」


 じっと真正面を見てから、意を決したように鈴木を見て、

「学園に着いたら話があります」

 と言って、また目を瞑った。

 眠ってしまったように静かになった透磨を見て、二人はまた何か得体の知れないことが起こりそうで怖くなった。



 学園に着いて生徒会室に行くと、百目鬼と新垣がすでにいた。

「お二人は、いつもここにいるんですね」

「うん、ここの居心地は最高だからね。それに、ここにいられるのもあと少しだし。あれ、透磨君の顔の痣どうしたの? 喧嘩でもした?」


 時間が経って透磨の顔の左半分が青くなっているのを見て、百目鬼が驚いた。

「いやだな、ぼくは喧嘩なんてしませんよ。階段を踏み外して落ちただけです」

「透磨君は説明不足だよ」

 そう言って、伊藤が今までの経緯を話した。


「少しでもおかしいと感じたら、病院に行かなきゃだめだよ。そのときはぼくらに言って、連れて行くから」

 新垣が心配そうに声を掛ける。

「はい、ありがとうございます」

 ふう、とため息をついて、透磨は言葉を選んでいた。


「あの、今日の出来事ですが……あれは裕子さんが間違って足を踏み外したという、単純なことではないです」

「え?」

 あ、また四人とも同じ表情だ。興味深いなあ、と透磨は関係ないことに感心する。


「うーん、ちょっと言いにくいけど、鈴木さんに関係しています」

 鈴木は思い当たることはないし、困惑する。

「驚かないで聞いてください。鈴木さんは、何かに憑かれていますよ」

 鈴木のみならず、他の三人も目をむいて、驚きの表情が隠せない。


「え、何が? ぼくに? どうして?」

 鈴木は動揺している。


「たぶん、鈴木さんが物心付く前に、取り憑いたのだと思います。意識の奥深くに潜んでいる感じがする」

 淡々と答える透磨に、鈴木は不気味さを覚えた。


「どうしてそう感じたの?」

「年末のカウントダウン直前に、鈴木さんはお酒を飲んでいたせいで、いつもと様子が違いました。初めは酔ったせいなのかと思いましたが、どうも違うようでした。お酒で抑える力が緩んで、内なる霊的なものが漏れていました」

 ここまで透磨が言うと、伊藤がなぜか怒り出した。


「ちょっと待った! ぼくたちが一生懸命、在校生の相手をしているときに、鈴木、お前は酒を飲んでいたのか? 生徒会役員のお前が、酒を飲んでいたのか?」

 それを聞いて、透磨はちょっと面食らってしまった。

今、そこを追求するの? 伊藤さんって一本気な若者だなあ、実に面白いと感じた。


「ちょっと、ちょっと、伊藤君、今はそのことは置いとこう、な」

 百目鬼がなだめて、透磨に先を促す。


「子供のころ、嫌なことがあったときや、誰かに苛められたときなど、知らないうちに悩みが解決されていたなんてことが、ありませんでしたか?」

 透磨の質問に、鈴木は昔を思い出そうとした。


「ああ、あった。小学生のとき、何かとぼくを苛める子がいたけど、ある日学校で階段から落ちて大怪我をしてから、暫く登校できなかった子がいた。……ああ、そういえば幼稚園のときもあった。やっぱりぼくを苛めていた苛めっ子が、自宅の階段から落ちて、それから園に来なくなった」

 鈴木は「いずれも階段だな」とぼそっと呟いた。


「幼いころは、あなたを守っていたんです。そう考えると身近にいた女性です。たとえば鈴木さんの生みの母、育ての母、祖母あたりかな、その中で幼いころに、亡くなった方はいませんか?」


 鈴木は急に青ざめた顔で、わなわなと身を震わせた。


「あああ! どうして! どうして透磨君は、そこまでわかるの!」


 急に鈴木が叫びだしたので、みんながビックリしてしまい、気まずい沈黙が訪れた。

 鈴木はテーブルに伏し、拳を握りしめながら、ぶるぶる震えている。


「……少し休もうか。温かいお茶を飲んで落ち着こう」

 新垣が言って、湯を沸かすために席を立った。

いつものように、お茶を入れてもらって飲んでいると、鈴木も一緒に飲めるまでに落ち着いてきた。


「新垣さんが卒業してしまったら、誰がお茶を入れてくれるのかな?」

 透磨が誰に言うともなく呟くと、

「透磨君が入れろよ」と伊藤が言って、

「嫌ですよ」と透磨が答えた。

 それを聞いて、ふふっと鈴木が笑ったので、みんながほっとした。


「取り乱してしまって、すみません。ぼくにとって、思い出したくもないことなのです」

 つらそうな顔で鈴木は話しだした。


「透磨君の想像通り、生みの母だと思う。その人の記憶はほとんどないけど、ぼんやりとあるのは、いつもその人は泣いていたということかな。一緒に暮らしたのは五才ぐらいまで。ぼくを道連れに自殺した。ぼくは仮死状態で発見されて助かった」

 鈴木は淡々と悲惨な内容を話した。


「つらい過去を思い出させてしまい、ごめんなさい。でも今のままというわけには、いかないのです。鈴木さんが幼いころは、あなたに危害を加える者を排除しようとしましたが、青年になった今、あなたが愛する者を排除しようとしています。嫉妬に変わってしまったのです」


「え! そんな」

 鈴木の顔が赤くなる。

「裕子さんに好意をもっていますよね」

「…………」


「解決するまで、鈴木さんはアカシア女学院に行っては駄目です。

裕子さんに会うと、彼女が危険な目に遭いますから」

「どうすればいい?」

 鈴木が困惑した様子で尋ねるが、透磨も解決の方法がわからなかった。


「それが、ぼくにもどうすればいいのか、まだわからないです。解決の方法がわからないから、本当はまだ話したくなかったのですが、でも、裕子さんを危険な目に遭わせるわけにはいかないので、鈴木さんにつらい思いをさせてしまいました」

 透磨は校庭で運動している生徒をぼんやりと眺めながら、心苦しく思った。



 それから数日して、透磨が生徒会室を訪ねると、やはり百目鬼と新垣がいた。

「あ、やっぱりいた。おはようございます」

「おう、おはよう。その顔はなんか企てているようにみえるよ、透磨君」

 時間が経過した内出血で、黄色や赤や紫に変色した顔を指差して、百目鬼がニヤリとする。


「会うなり嫌だなあ。でもさすが、感がいいですね。実は協力して欲しいことがあって来ました。鈴木さんも呼んだから、後から来ます」

 百目鬼と新垣に、計画を話し終えたころに、鈴木がやってきた。

「おはようございます。今日は急な会議ですか?」

 チラッと透磨を見て、鈴木が訊いた。


「おはよう、いや会議じゃないよ。今日は美和さんと裕子さんを呼んだから、もうじき来ると思う。天気も晴れて良かったな」

 百目鬼が外を見ながら答えた。


「え、どうしてですか? このまえ透磨君が、ぼくが裕子さんに会うと、裕子さんが危険だと言いましたよね」

「うん、でも裕子さんがどうしても透磨君に会って、ほら裕子さんを庇って階段から派手に落ちたからさ、だから無事を確認したいと言ってきたんだ。断るわけにもいかないだろう。だから、かえってぼくたちの目の届くところで、君と裕子さんがいたほうが安全だと思うんだ」


「そうですか」

「鈴木君も会いたいだろう?」

「そ、そんなことは……」

「もう、みんな知っているからさ。相思相愛で羨ましいな」

 百目鬼が、意味ありげにニヤリとする。


「やめてください!」

 鈴木が怒ったように言うと、新垣がさらに畳み掛ける。

「鈴木君は裕子さんが好きでしょう?」

「…………」

 鈴木が真っ赤になって、言葉も出せないでいると、透磨が近づいて右手で鈴木の右手首を掴んだ。


「やった! 掴まえた。鈴木さん、そのままじっとしていて」


 深い息を吐くと透磨は目をつむり、唇を動かし何かをつぶやいた。

すると透磨の右手中指が光だし、その光は鈴木の右手首に吸い込まれていった。


「ああ、良かった。やっと解決の糸口を掴みました」

 透磨はニッコリと微笑んで鈴木を離した。


「鈴木さん、ごめんなさい。ぼくが百目鬼さんと新垣さんに、芝居を頼みました。裕子さんが来るっていうのは嘘です。鈴木さんを動揺させて憑いている霊の嫉妬心を煽り、外に出させようとしました。無事成功して繋がりができたから、これからがぼくの出番です」

 鈴木はただ茫然と、透磨を見つめたままだ。


「ああ! ぼくはこれから急いで出かけなければならない。今夜は帰れそうにないから、外泊届も出さなくては。ああ! 樹生さんにも言わないと、また怒られる……。百目鬼さん、新垣さん、協力ありがとうございました」

 と言って、透磨は三人を残してさっさと部屋から出て行った。


「透磨君は、相変わらずだなあ」

 百目鬼が、クスクス笑う。

「鈴木君、悪かったね。かまったりして」

「いいえ、でも何だったのですか?」

 鈴木は透磨に握られた手首を見ながら、首を傾げる。


「ぼくら凡人には理解不能さ。透磨君に付き合っている遠藤先生は、大変だろうなあ」

 百目鬼も鈴木の手首を見つめた。


「でも、透磨君が解決の糸口を見つけたと言ったから、きっと大丈夫だよ。あの子はいつでもぼくらのために、一生懸命に動いてくれる。ぼくは透磨君に救われたけど、それをほんの少しもひけらかさない。凄い少年だと思うよ」


 しみじみと新垣が言うと、百目鬼も鈴木もうなずいた。



 透磨が学園に戻ってきたのは、それから二日後だった。

外泊届は一泊だけだったため、樹生が変わって寮長からお説教を食らったらしく、百目鬼たちに嘆いていた。


校庭の雪はすっかり溶けて寒桜が咲き始め、福寿壮が土から覗きだして沈丁花の甘い香りが漂ってくる。

生徒会室では役員四人が、透磨が訪れるのを今か今かと待っていた。


「こんにちは、みなさんお揃いですね」

 部屋に四人ともいるのを見て、透磨は明るく挨拶した。

「おかえり、透磨君。遠藤先生に会った?」

 百目鬼はニヤニヤしている。


「いいえ、まだ。ぼくを捜していますか?」

「外泊届が一泊分しか提出してなくて、先生が透磨君の代わりに叱られたそうだよ」

「ああ、そうだった。樹生さんに謝らないと」


「どこに行っていたのさ」

 事情を全く知らない伊藤が訊くと、少し間をおいてから、感慨深げに透磨が話しだす。

「北海道まで行ってきました」

 鈴木が身動ぎしたのを、ちらっと見てから透磨は続ける。


「改めて人の世は、複雑に時間が過ぎるのだなと思いました」

 鈴木は北海道と聞いて、心が重く沈んだけれど、他の三人は、これからどんなことを透磨が口にするのか、興味津々である。


「鈴木さんは、間違った情報で長い間、悲しい思い違いをしています」

 鈴木が訝しげに透磨を見ると、穏やかな顔で見つめ返した。


「鈴木さんの生みの母は、あなたを道連れに自殺しようとしたのではありません。あなたを助けようとしたのです。現にあなたは助かりました。今生きているのは、お母さんのおかげです」

 鈴木は透磨の言うことが理解出来なかった。透磨はにっこりして言葉を紡いだ。


「その年は例年にない、大量の雪が降ったそうです。どうしたわけか幼いあなたは、一人で外に出てしまいました。あなたが見当たらなくてお母さんは、慌てて追いかけます。その様子はお祖母さんが証言しています。風が吹いて非常に大量の雪が降っていて、運悪く条件が揃ってしまい、ホワイトアウトに陥ったと考えられます。あなたを見つけて帰ろうとしても、方向が全くわからなくなり、家とは逆の裏山のほうに進んでしまいました。大量に雪が降る中、二人が発見された時には、お母さんは凍死していました。お母さんは服の前ボタンを開けてあなたを包み、強くあなたを抱きしめて亡くなっていたそうです」


 鈴木は苦しそうに「そんな、なんで、だって……」と動揺している。


「お祖母さんは、結婚に反対していたそうです。そのせいか随分、嫁いびりをしたみたいです。お母さんがいつも泣いていたのは、そのせいだと思います。たぶん鈴木さんに間違った情報を与えたのは、お祖母さんでしょう。お祖母さんが目を離したすきに、あなたが外に出てしまったことや、最後に嫁を見たのも自分だと考えると、罪の意識から逃れたいがために、嫁を悪者にしたのではないでしょうか。お母さんは、自分の命に代えてもいいほどに、あなたを深く愛していました。ぼくはそう思います」


 透磨は切なそうに、鈴木を見つめる。


「鈴木さんのお父様に会って来ました。あなたが生まれたころは、会社を立ち上げたばかりで大変忙しく、家庭を疎かにしていたこと、妻亡き後は育児を祖母に任せきりにしたことを、悔やんでいました。ご両親は学生結婚で、大恋愛だったそうですよ。お父様は妻を愛していたと言っていました」


 鈴木は嗚咽がこみ上げてきて、ボロボロと涙を流した。


「お父様は、あなたに春休みに帰ってきて欲しい。お母さんとの思い出を聞いて欲しいと言っていました」


 鈴木はもう言葉にならず、透磨を抱きしめ肩を震わせて涙を流した。

透磨は暫く抱きしめられたままでいたが、

「鈴木さん、落ち着きましたか?」


 鈴木の顔を覗いて、

「今までお母さんの庇護のもとで、鈴木さんは成長してきましたが、もう卒業しましょう。お母さんの願いを、霊界に送る前にかなえてあげたいです」


 言うなり透磨の右手の中指を、鈴木の胸に当てると、光が透磨の中指から腕に、そして全身を包んだ。

光に包まれた透磨の形状が変わって、女性になった。


「陽人君、ああ私の陽人。可愛い子」

 女性の声で愛しそうに囁いて、鈴木を抱きしめた。


「お母さん! お母さん!」

 鈴木も泣きじゃくりながら、抱きしめる。


「陽人、愛している。これからも、ずっと愛している。お父さんと仲良くしてね」


 鈴木の頬に優しくキスをすると、すううと光がどこかに消えていった。


透磨が戻ると、伊藤がつられて鈴木以上に、おいおいと泣いているのを見てびっくりしてしまった。

伊藤さんはぶれてなくて真っ直ぐな人だな、やっぱり面白い人だな、とまた思った。


「鈴木さん、お母さんは無事霊界に行けたようです。道連れにしようとしたと思われて、つらかったみたいです。誤解が解けて喜んでいました。良かったですね」


 極上の笑みで透磨は微笑んだ。



 三月の第一土曜日の午後に、卒業パーティーが開かれることになり、三月に入ると準備に業者が大勢出入りした。

招待されてアカシア女学院から訪れる生徒は基本二年生で、アフタヌーンドレスを着用する。


パーティーの主役である輝月城学園の三年生は、昼の正礼装であるモーニング・コートで出迎え、裏方に回って接待をするのは二年生で、準礼装であるディレクタースーツで応じ、一年生は来年の参考のために、学生服で邪魔にならないように見学する。


 当日は華やかに生花が飾られ、特にカサブランカの甘くまろやかで、濃厚な香りが会場に漂っている。

さらに玄関まで赤い絨毯がしかれ、吹奏楽部の生演奏が、着飾った女子生徒を出迎えることになっている。


 パーティーの前日に、透磨は伊藤に明日の出迎えのバスに添乗して、アカシア女学院に行って欲しい、と頼まれ快諾していた。

当日は、早春らしく春が訪れたことを感じられる淡い陽光に恵まれ、女子生徒の色とりどりのドレスが、それに華を添えた。


 女学院の校門の前で待っていると、ロングドレスを着て粧し込んだ女子たちが、にこやかにバスに乗り込んできて、最後に美和と裕子が乗車した。

美和は髪をアップに結い上げて、情熱的な濃いピンクのドレスを着ていて、裕子はショートヘアをカールさせて、爽やかな水色のドレスを着ている。


「透磨君、先日は本当にすみませんでした」

 裕子が申し訳なさそうに謝ると、

「全然大丈夫でしたから、もう気にしないでください。今日は楽しんでくださいね。鈴木さんも待っていますよ」

 にっこり微笑んで内緒話をすると、裕子は頬を染めた。


「今日招待されたのは二年生ですよね。あの一番後ろにいる、黒いレースのドレスを着た女性も二年生ですか? 大人っぽい方ですね」

「ええ、彼女も二年生で、浅胡蘭さんと言います。独特な雰囲気があって大人の女性という感じで、とても綺麗でしょう」


「あら、なあに、透磨君は年上の女性がお好みなのかしら?」

 裕子の会話を耳にして、美和が割り込んできた。

「美和さんも相当女っぽいですよ」

「あら、そう。百目鬼さんは気に入ってくれるかしら?」

 ふふふと笑って、透磨にウィンクした。


 学園に到着すると、赤い絨毯の上で三年生がズラッと並んで待っていたが、バスの中からモーニング・コートに身を包んだ彼らを見て、女子たちが素敵と言ってざわめいている。

生徒代表として美和と裕子が先にバスから降りて、伊藤と鈴木の歓迎を受けた。


「お待ちしておりました」

 美和がバスから降りるのに、伊藤が手を貸す。

「髪型もドレスも素敵です。百目鬼さんもこれではいちころですよ。頑張って」

 美和の耳元で囁き、百目鬼に美和を渡す。美和が珍しく頬を赤く染めた。


「この度はご卒業おめでとうございます。これからも夢に向かって羽ばたいてください」

 祝辞を述べると百目鬼が、

「ありがとう」と答え、手を差し出して二人は会場に入って行った。


 裕子には鈴木が手を添えた。

「楽しんでいってください。水色のドレスがとても似合っています」

 鈴木が恥ずかしそうに顔を赤らめると、裕子も、

「ありがとう」と答え、二人は一瞬見つめ合ってから、新垣が彼女を引き受けた。


 伊藤と鈴木が、ぞくぞくとバスから降りてくる女子のサポートをして、出迎えている三年生に手渡すと、彼らのエスコートで彼女たちは会場に入って行く。

会場では、軽やかに生演奏をやっていて気分も高揚し、非日常がさらに彼らを興奮させる。


 熱気を帯びた会場で、透磨は部屋の隅から目だけをキョロキョロさせて伊藤を捜していた。

伊藤を見つけると急いで側まで行き、


「伊藤さん、ディレクタースーツがとってもお似合いですよ。ちょっといいですか?」

 目立たないように声を掛ける。


「ああ、透磨君、ぼくのスーツ姿イケてる? ありがとう。お迎えご苦労様でした。どうしたの?」

「困ったことが起きました」

 透磨に言われて、伊藤はピンときた。

「ほんまに?」

 これから何かが起こることを考えて気が滅入る。


「こっちに来てください」

 透磨たちは、誰もいない二階席にそっと上がった。

二階に上がって、誰もいないことを確認してから、透磨が話しだす。


「女子生徒に化けた妖狐が、バスの中にいたんですよ」

「え? なにそれ。それって悪いことするの?」

『ああ! また理解し難いことが起きるのか?』と伊藤はびくついた。


「男を惑わすんですよ」

「でも、この会場では何もできないだろう?」

「わかりませんよ。だから、ここにいる間は監視しないといけません」

「ああ、そうだな。どの子?」

 透磨が注意深く、一階の広間を見下ろす。


「ああ、あそこにいた。胸の開いた黒いレースのドレスを着た女性です。浅胡蘭と言うらしいです。……隣にいるのは百目鬼さんじゃないですか。百目鬼さんのモーニング・コートも、身長があるから、かっこいいなあ」


「あの人はオーラをもっているよね。男から見ても惚れ惚れするな……。あ、ほんとだ。確かに色っぽい子だ」


「伊藤さんがくっついて見張っているというのはどうかな……。ああ、駄目だ。伊藤さんがたぶらかされて危ないな」

 自分を見て透磨がそう判断したことに、伊藤はちょっとむっとする。


「それなら、透磨君がくっついて見張ったらどうだい?」

「無理です。ぼくみたいな子供を、女狐が相手にしてくれませんよ」


 これからどうしようか思案していると、そのとき百目鬼が動きだした。

吹奏楽団の後ろには「関係者以外使用禁止」と張り紙が張られたドアがあり、百目鬼がそのドアを開けて控え室に入って行くと、続けて黒いドレスの浅胡が後を追った。


 それを確認してから、伊藤と透磨が急いで一階に降りて、目立たないように壁際にそってドアに近づいた。そっとドアを開けて中に入ると、二人が抱き合っているのが見える。


彼らは濃厚なキスをしていたが、目を凝らしてよく見ると、浅胡が百目鬼の顔を両手で挟み、一方的にキスをしているようで、百目鬼の両腕はだらんと両脇に下がっていて、意識がなさそうだった。


 それを透磨が確認して、

「おい! 女狐、やめろ!」

 浅胡に向かって叫ぶと、驚いて百目鬼を離した。

彼はそのままズルズルと腰が砕けて倒れこんだ。


「伊藤さん、百目鬼さんをお願いします」

 言うなり透磨は、浅胡の前に立ちはだかる。


突然現れた侵入者に浅胡は驚き、「誰?」と鋭い視線を投げる。

邪魔されて怒っている浅胡の頭から獣の耳が現れ、

「お前はまずそうだけど、そちらのお兄さんは美味そうだね。小僧は出て行きな」

 伊藤を値踏みしながら、透磨に吐き捨てた。


「今すぐおまえが出て行けば、許してやってもいいよ」

 透磨が不敵に笑うと、

「生意気な小僧だね」

 浅胡はジャンプして襲い掛かり、透磨を組み伏す。


「わざわざぼくの懐に入るなんて、飛んで火にいる夏の虫とはおまえのことだよ」


 透磨が右手で浅胡の髪をわしゃっと掴んだ途端に、「ぎゃっ」と浅胡が鳴いてひるんだが、透磨は容赦しない。彼の右手の指輪が光ると、浅胡が「キャンキャン」と鳴いて耳が垂れた。


「ああ、止めて、ごめんなさい。許して」

 獣の耳が消え大人しくなったのを確認してから、掴んでいた髪を離す。


「おまえ、野狐か?」

 透磨がギロリと睨むと、浅胡はびくついた。


「私は気狐です。私は、悪さはしません。精気を少し貰うだけです。あいつと一緒にしないで」

 めそめそしながら答える。

百目鬼は意識を戻したものの、血の気の失せた顔色のまま床に伏している。


「ふん、まあ今回は見逃してやる。その代わり、彼から吸い取った精気を戻せ。それから今すぐこの学園から立ち去れ。わかったか」

「わかりました、わかりましたよ」

 と言って百目鬼の側にしゃがみ込んで、今度は百目鬼の髪に優しく触れて、そっと唇にキスをする。

すると頬に赤みが差してきた。


それを伊藤君が、ちょっと羨ましそうに見ているな、と透磨には思えて可笑しくなる。


「これでいいですか?」

 浅胡はビクビクしながら、辺りを見回す。


「ああ。ぼくがこの学園にいる間は、ここの生徒に手を出すなよ。もし手を出したら、そのときは容赦しないからな」

「この学園には二度と来ません。生徒さんには二度と手をだしません」

 悪さをして叱られた犬ってこんな感じなのかな、と透磨は妙なことを考えていた。


「よし。おまえ、浅胡蘭だっけ。昼のパーティーにイブニングドレスはルール違反だぞ。覚えておけよ。それにさっき言った、『あいつ』って誰だ? 他にも気狐がいるのか?」

「質の悪い野狐ですよ。そいつは悪さをします」

 余程嫌いな相手らしく、苦々しく答える。


「ここに来ているのか?」

「会場で見ましたね。何人もの男子を侍らしていましたよ。今頃喰っているのでは?」

 そう言って、ククッと笑った。


「……バスにいたとは思えないけどな」

 透磨が考え込んでいると、

「バスには乗っていませんでした。後から一人で来たのでしょう。ねえ、もう帰っていい?」

 透磨を上目遣いに見る。


「あと一つ、そいつの名前は?」

「白石紅明。私はそいつが嫌いだから、紅明にも痛い目を遭わせていいわよ」

 浅胡は口を尖らせる。

「仲が悪いなあ。もう帰っていいよ。ちゃんと美和さんに断ってから帰れよ」


 浅胡は乱れた髪を手で押さえ、ペコペコしながら控室から出て行った。

百目鬼は精気が注がれて力が戻り、ようやく立ち上がれるようになり、パンパンと服に着いた埃をはたいた。


「百目鬼さん、大丈夫ですか?」

「ああ、ありがとう。まったく酷い目に遭ったよ。ぼくのファーストキスの相手が、狐になるなんて……」

 気落ちして言うのを聞いて、透磨と伊藤が同時にプッと吹いた。


「伊藤さんは、ちょっと羨ましそうに見ていましたよ」

 そう言われて、伊藤は珍しく慌てる。


「そ、それはあんな美女に迫られたら、男ならわかるだろう……。ああ、いや、透磨君には無理かな?」

「失礼な。まあ、理解はしますよ」

 透磨はニヤニヤしながら答える。


「……実際はあの子のことなんて、あまり覚えていないよ。怖いな、あんなのが側にいたら」

 百目鬼が、ため息まじりに言う。


「ええ、そうです。聞いた通り、もう一匹ここに紛れ込んでいます。さて、どうやって見つけましょうか?」

「白石を知っている美和さんと裕子さんに見つけてもらう?」

 伊藤が提案をするが、

「そうですね。でも彼女らにどう説明しますか?」

「信じてもらえないよなぁ、女狐が男を狙っていると言っても」

 透磨の質問に、伊藤は唸った。


「とにかく目立たないように伊藤さん、先ほどいた二階に戻りましょう」

 透磨がドアを開け二人を先に出し、楽団員の後ろを通って、軽やかな音楽と笑い声がする会場を後にして、二階に上がる。


「ここに白石がいればわかると思います。調べますね」

 透磨が右手を前に出して、目を瞑り何やらつぶやくと、指輪が薄く光った。

それから目を開け、会場を隅から隅まで見下ろした。


「ここにはいません。どこに行ったと思いますか?」

「ロングドレスでうろうろしたら目立つから、そんなに離れたところには行かないだろう……。ああ、良かった、新垣はあそこにいる」

 百目鬼が会場を見下ろして、新垣が無事であることを確認する。


「当然さっきまでいたあの控室にはいないし、ここのスペースにもいないから……、更衣室ですか?」

 透磨が首を傾げる。


「いいや、更衣室は二年生が使っているから無理だろう」

「じゃあ、反対側の倉庫だ」


 三人で確信し、そっと下に降りて倉庫に向かう。

会場から出てしまえば、倉庫までは人に会わずに行ける。


音を立てずに倉庫の前に来て中の様子を窺うと、微かに呻き声が漏れている。

重い扉を開けると、扉付近に少年が一人倒れていて、奥に女と別の少年が絡まっているのが見えた。


急に扉が開いて女は驚いて立ち上がったが、頭には耳が、尻には尾が生えている。

少年は立ち上がった女の足元でぐったりしていた。

二人とも学生服だったので、一年生であることがわかる。


「お前は格下の野狐だそうだな」

 透磨が挑発すると、

「何だって! 馬鹿にするんじゃないよ! お前らの精気も喰らってやる!」

 敵意むき出しで吠えた。


「お前のような性悪な女狐は、手加減しないからな。覚悟しろ」

 透磨はポケットから護符を四枚取り出し念じる。


「風・火・地・水・四種の精霊、あれを清めたまえ!」


 すると護符が手から離れ宙に浮いて、野狐めがけて大きくなりながら飛んで行き、野狐の体に巻き付いた。

巻き付いた護符はぎりぎりと徐々に締め上げていき、たまらず野狐は悲鳴を上げる。


「その子たちは大丈夫ですか?」

「二人とも気を失っているけれど、大丈夫」

 伊藤は倉庫にあった毛布で少年を包んであげてから、野狐を睨んだ。


「ああ、苦しい、助けて」

 野狐は呻いているが、透磨は無視して見下ろしている。

「おまえは白石紅明と言うのか?」

「はい……、そうです」

 透磨の問いに、苦しそうに答える。


「おまえをどうしてくれよう。もっと締め上げて体を引きちぎってくれようか」

 冷たく透磨が言い放つと、恐ろしさのあまり「きゅううん」と鳴いて、

「許してください。私が悪かったです。謝ります。ああ、苦しい」

 わんわん泣き出した。


「この子たちが良くならなければ、おまえを許すことは出来ない。とにかく精気を返してもらうよ」


 透磨が右手で野狐の首根っこを掴むと指輪が光りだし、野狐が「ひゃあああ」と弱々しく叫ぶと、体の力が抜けてぐったりした。

それから少年に近づき、右手で少年の額に触れると、指輪の光がすうと吸収されて少年の意識が戻った。


「気がついて良かった。伊藤さんは彼らを保健室に連れて行って介抱してください。彼らの記憶は曖昧ですから、適当に理由を考えてくださいね」

「うん、わかった。さあ、君たち立てるか? 保健室に行こう」


 ふらつきながらも、ぼんやりと立ち上がった少年二人を、伊藤が外に連れ出した。

透磨は倉庫にしまわれている小物を引っかき回し、飛び縄を見つけ出した。


飛び縄を持って野狐のところに戻り、野狐の体に張り付いている護符を丁寧に剥がしてから、大事そうにポケットにしまう。


野狐はすでに耳を後ろにペタリと頭につけ、尻尾を足の間に入れて服従の態度を示す狐になっていたので、飛び縄を首に結び付けて、その先を扉に括り付けた。


「さて百目鬼さん、この女狐をどうします?」

「助けて、助けてください」

 野狐は恐怖で目を大きく見開いて震えだした。暫くその様子を二人で眺めていた。

「ああ、いいことを思いつきました」

 透磨がニヤリとする。


「これから浅胡蘭に連絡して、これを引き取ってもらいましょう」

「それは嫌だ」

 野狐が小さな声で抗議する。


「なんだって」

 透磨がギロリと睨むと、「きゅううん」と鳴いて黙った。

「後で水と食べ物を持ってきてやるから、それまで大人しく待っていろよ」

 扉に手を当てて野狐を一瞥し、重い扉を閉めた。


「さあ、会場に戻りましょうか。百目鬼さん、美和さんに浅胡の連絡先を聞くと煩くなりそうだから、裕子さんに聞いてもらえますか?」

 透磨の懸念が百目鬼にもわかり、クスッと笑う。


「ああ、わかった。ここで待っていて」

 急いで会場に入って行き、ほどなく浅胡の連絡先を書いたメモを持って戻ってきた。透磨は再び会場に戻る百目鬼を引き留め、

「百目鬼さんに卒業祝いがあります」


 透磨が右手を出して握手を求めたので、百目鬼はその手を握った。

その瞬間、体中に『ある思い』が電気のように走り、百目鬼は目を見張る。


「透磨君、これは……」


「はい、海斗君の思いです。百目鬼さんと海斗君は寮で同室でしたね。海斗君は自分がいなくなってからも、百目鬼さんがずっと心配して、気にかけてくれたことを感謝していました。学園を卒業する前に、もう心配はいらないと、どうしても伝えたかったようです」


「そう、ありがとう……」


 百目鬼は透磨を引き寄せ、ギュッと抱きしめた。

そしてもう一度「ありがとう」と言った。


「大変な卒業パーティーになってしまいましたが、もう心配しないで最後まで楽しんでくださいね」

 透磨は百目鬼を、泡沫の宴に送り出した。


 

 パーティーの会場を後にして、透磨が浅胡蘭に連絡をすると大喜びして、すぐに野狐を引き取りに来ると言った。

野狐を従えて校門で待っていると、浅胡の乗った自家用車が現れ、浅胡が意気揚々と降りてきた。

そして野狐を縛っている飛び縄を受け取る。


「同族なのだから仲良くして、助け合えよ。じゃ、よろしく」


 透磨が言うと、飛び縄を持った浅胡は優越感に浸りながら満足そうに笑い、自家用車に乗って野狐と共に山を下りた。

この時の様子を見ていたものがいたら、透磨がペットの犬を知り合いに譲り渡したのだろう、と思ったに違いない。



 卒業パーティーの一週間後、生徒会室でお別れ会なるものが開かれた。

来年には伊藤と鈴木も輝月城大学に入学する予定なので、たかだか一年間会えないだけだ。

だから、お別れ会と言うよりも、デリバリーピザとサラダと飲料水が用意された楽しい食事会と言ってもいい。


「おはようございます。みなさんお揃いで」

 透磨も呼ばれて、呑気に現れると、

「遅いぞ、透磨君。これからお別れ会をするぞ」伊藤が急き立てる。

「紅茶係は鈴木君が買って出てくれたので、伊藤君も透磨君も、二人ともよかったね」

 新垣が、ニコニコしている。


「え、本当? 鈴木がやってくれるの? ありがたい」

「だって、伊藤はやる気ないだろ。なら、ぼくしかいないじゃん。早速、紅茶を入れてみるよ。新垣さん、すみませんが手解きお願いします」

「おう。お茶会が伝承されるのは大歓迎だよ」


 二人でサイドボードのところに行き、何やら新垣が教えだす。

その間、伊藤が豪快にピザとサラダを食べながら雑談をしていると、

「どうしたの?」

 百目鬼が伊藤の足元を気にしている透磨に訊いた。


「わんこが……」


 百目鬼は、また透磨君は訳の分からないことを言うと思い、伊藤は「えっ?」と小さく言って、驚いた顔で透磨を見た。

「なにか見えるの?」伊藤が訊くと、

「犬が、伊藤さんの足元にいます」

 伊藤の足元を指差した。

「…………」


「犬種は、ぼくにはわからないけれど、黒っぽい斑柄の短めの真っ直ぐな毛で、骨太で筋肉質な体型。立ち耳で尻尾は垂れていてフサフサしているな。心当たりありますか?」


 透磨が不思議そうに伊藤に訊く。

「サンだ! サンがいるの?」

 伊藤が叫ぶと、ちょうど新垣と鈴木が紅茶を持ってきたところで、何事かと驚いている。


「ぼくの犬だ。物心ついたときからサンはぼくの側にいて、ずっと一緒だった。とうとう老衰で死んだって、きのう連絡があったばかりなんだよ」

 伊藤の目からは、涙がこぼれていた。


「どこにいるの?」

「伊藤さんの右隣り」

 伊藤がしゃがんで、手を動かすが空を掴むだけだ。

「ああ! ぼくには見えないし触れない」

 両手で顔を覆って嘆く。


「こんなにはっきりとした姿で、飼い主に会いに来るのは珍しいな」

 透磨は伊藤の側に行って、屈んで手を伸ばす。

「警戒心が強い子ですね。人見知りするのかな。隠れてしまいました」

 伊藤はしゃがんでいる透磨を、羨ましそうに見つめる。


「ぼくに会いたくて来たんだよね? いつまでいるのかな?」

 嬉しさと悲しみの混じった顔で透磨を見る。

「……単に会いたくて来たのではないでしょうね」


 伊藤、百目鬼、新垣、鈴木の四名は、何とも言えない、複雑な表情になる。


「どういうこと?」


「飼い主に忠実な子が、自分が死んでから翌日には、遠く離れた飼い主に会いに来る。これって、飼い主の身を案じているってことではないですか? 心当たりは、ありませんか?」


 透磨が伊藤に訊くと、

「身を案じる? ぼくに何か起こるってこと? 思いつかないな」

 伊藤は戸惑った。


「ぼくもわんこの霊は初めてなので、どのように解釈したらよいか、わからないです。接し方も今一つわからない。わんこの名はサンというのですね。サンの環境を知るために、伊藤さんの生い立ちを教えてください」


 透磨に訊かれて、伊藤の家は長野で牧場を経営していること。

放牧による牧畜で主に乳牛を扱い、牛乳の他に、その牛乳を使用して、チーズやヨーグルトやアイスクリームも製造し販売していることを、朴とつと語りだした。


「ぼくは次男で、兄さんと親父が牧場を経営している。サンはオーストラリアン・キャトル・ドックという牧羊犬で、忠実で忍耐強くとても賢い犬だよ。元気で明るい子だから太陽という意味でサンと名付けた。ぼくが五歳ごろにサンは家に来たから、もうかれこれ十二年になるな。ここの中学に入るまでは、毎日一緒にいたよ」


「直近で家に帰ったのは、いつですか?」

「えーと、夏休みに帰ったよ」

「そのとき、何か変わったことや、気がついたことは、ありませんか?」

 伊藤は目を瞑って、暫く考えていた。


「うちは何も変わっていなかったけれど、街の商店街に大きなショッピングセンターを建設するとか、しないとか、揉めているようだった。……ああそうそう、うちの牧場を買い取りたいとか言い出したことがあったらしいけど、親父が即、断ったと言っていたな」


「その時のことを詳しく訊いてくれませんか。あとつらいですけど、サンの死に様も詳しく、ああ、それから最近おかしなことが起きていないか、それも訊いてください。明日は卒業式ですが、それが済んだら伊藤さんは終業式を待たずに、家に帰ったほうがいいかもしれません」


「え、どうして?」

「サンの死に様によります。わかったら教えてください」

 みんなはいつになく、透磨の顔が険しいのが気になって、不安に駆られた。


 

 卒業式は厳かに行われ、一年生、二年生は後ろの席で参加し、三年生は式後に謝恩会を街のホテルで行うことになっていて、樹生も出席する。

透磨と伊藤は式終了後、長野の伊藤の家に一緒に帰った。


 新幹線の中で透磨は、昨日伊藤から聞いた内容を思い出していた。

『思った通りサンは老衰ではなく誰かに撲殺された。ということは、敷地内に無断で入ったものがいる。しかもその人物は危険人物だ。伊藤家の人は、最近体調がすぐれないらしい。凄くいやな予感がする』


「伊藤さん、サンはあなたの身を案じたのではなく、あなたに助けを求めたのだと思います。何かがご実家で起こっていて、サンはそれに気がついたのです」


 伊藤は不安で押しつぶされそうだった。『母さんは、心配をかけたくなかったと言って、ぼくには本当のことを、何も教えてくれなかった。ぼくも何にも疑わなかった』


「伊藤さん、今回は生きている危険な人間が相手ですから、ぼくもはっきり言って不安です。でもサンがあのとき、ぼくの前に現れたのは、きっと意味のあることなのです。だからサンに協力してもらって、解決しましょう」


「悔しいけど、ぼくには何も出来ない。透磨君、ぼくを助けてくれ。お願いします」

 伊藤は深々と頭を下げた。


「もちろんですよ。頭を上げてください。出来る限りのことはします。明日になれば、百目鬼さんと新垣さんが来てくれます。終業式が済めば、鈴木さんと樹生さんも駆けつけてくれます。みんなで力を合わせれば、きっと大丈夫ですよ」


 

 伊藤は飛んでいく窓の景色をぼんやりと眺めながら、目の前にいる透磨のことを考えていた。

この少年と去年の十二月に知り合ってから四か月あまりになるけれど、他人のために不思議な力で不思議なことを解決しているのに、特別なことをしているという自覚は、まるっきりないようだ。


身代わりになって、階段から落ちたこともあるのに、一言もそんなことは言わない。

一体どんな生き方をしてきたら、こんなに他人を思いやる少年になるのだろう。


ぼくは家族にも恵まれて、自分のことだけを考えていれば良くて……、何て幸せに生きてきたのだろう。鼻の奥がツンとして、泣きそうになった。


「サンはいるの?」

「ええ、ちゃんといますよ。嬉しそうにしています」

「どこにいるの?」

「伊藤さんの左側の足元で寝転がっています」

「そう、羨ましいな。ぼくも見てみたいよ」


 透磨はちょっと考えてから「特別ですよ」と言って、右手で伊藤に触れた。

触れている間だけ、足元でキラキラした瞳で伊藤を見上げているサンを見ることが出来た。


「サン……」

 つーと涙が伊藤の頬を流れた。


 二人は、駅に降りてからは、別行動のほうが都合がいいと判断した。


「伊藤さんは一人で帰ってきたことにしてください。ぼくや百目鬼さんたちのことは、一言も言わないほうがいいでしょう。家に着いたら、みんなが口にする食べ物に気を付けてください。普段は口にするのに、特別なメニューのときだけ口にしない人を見つけてください。特に濃い味付けのものには、注意してくださいね」


「わかった。透磨君も気を付けて」

 ここで別れようとして、透磨が慌てる。


「あ! ちょっと待って。サンが伊藤さんと行っちゃう。サンに命令してください。ぼくを信用してぼくについてくるように。そしてぼくの命令を聞くように。サンは伊藤さんの右側にいます」


「そっか。サン、よく聞いて。ぼくにはサンが見えない。だからサンの協力を必要としているのは、ぼくではなくて透磨君だ。わかるね? 彼と行って、彼の言うことを聞いて助けてやって欲しい。ぼくのためでもあるんだよ」


 伊藤はサンがいるであろうところを見て、サンに言い聞かせる。


「サン、ここにつけ」

 透磨が右足太腿のところをポンポンとたたくと、サンが透磨のところに来て座った。


「よし、グット、サン。伊藤さん、本当に賢い犬ですね。サンと一緒に調べてきます。それじゃあまた後で。来い、サン」

 伊藤はバス乗り場に、透磨は繁華街に、それぞれ別れた。


 冷涼な高地にあり、乳牛飼育に向いているこの土地で、伊藤牧場は乳牛を放牧している。

『伊藤牧場前』というバス停で降りると、進行方向の左手は、柵が遠くまで伸びた広々とした牧草地である。柵の中には数十頭の牛が横臥中で、みなモゴモゴと反芻しており、数頭は牧草を食べている。


 進行方向と逆には、道路沿いに駐車場と赤い屋根の洒落たお店が建っていて、ここの牛乳で作られたアイスクリームやヨーグルトやチーズをメインに、クッキーなどの焼き菓子を、この店で販売している。

お店の横には牛舎に続く道路が伸びていて、遠くに見える屋根が丸い蒲鉾みたいな建物がそれだ。


この牛舎は搾乳ロボットを取り入れていて、牛が自ら歩いてボックスに訪問し、機械が入室してきた乳牛の搾乳を行うフリーストール牛舎である。

牛舎まで来ると、さらに奥に母屋が建っていて、ここに伊藤の両親と兄と、祖父母が住んでいる。


「ただいま」

 伊藤が大きな声で玄関を開けて入って行く。


「孝志、おかえりなさい。慌てて帰ってこなくてもよかったのに。びっくりさせてごめんね」

 夕飯の支度の最中らしく、エプロン姿で手を拭きながら母が出てきた。去年の夏に会った時よりも、やつれていると感じた。


「なに言っているの。それよりも、じいちゃん、ばあちゃんの具合はどうなの? 母さんは大丈夫?」

 玄関に荷物を置いて様子を尋ねる。

「おじいちゃんとおばあちゃんは、相変わらずで変わりはないわね。私も大丈夫」

 気が滅入っているのか、元気がない。


「父さんと兄さんは?」

「お父さんは風邪でもひいたのかしら、喉とお腹が痛いと言うし、晃生は何日か前に嘔吐と下痢をして、少し痩せたみたい。いったい、どうしちゃったんだろうね。サンもあんなことになって……」


 エプロンの裾で涙を拭って、サンの墓に案内する。

母屋の東側、牛舎の裏手に、土が盛られ花が添えられている小さなサンの墓があった。


サンの体はここに埋まっているけれど、魂は透磨君と一緒に行動していると思うと、とても不思議な感じがした。

サンを見ることができない悲しさはあるけれど、サンの墓を見ても、あまり悲しくはなかった。


「酷いことをする人がいるもんだよ」

 母は単に、そこらの不良がしたと思っているようだ。

「兄さんは?」

「ああ、牛舎にいるから行っておいで。私は夕飯の支度をするから」


 母が家に入ってから、伊藤は兄にどのように言えばいいか考えながら、牛舎に向かった。

売店の店員はパートで、午前と午後の二交代制となっていて、めったに母屋に来ることはない。


牛舎の掃除に昼食付きでアルバイトを数名雇っていて、常に二名はいるようになっているが、バイト同士で変更したりして、決まっていないことが多いらしい。

この中で、土地買収の話があってから雇った者を聞くと、二名いる。


 一名は兄の友達で、もう一名は、この地方に去年の秋ごろ引っ越してきて、ハローワークで調べて、個人的に求人に募集してきたという。

名は戸田智士、二十一歳である。とにかくこの人物から目を離すわけにはいかない。



 一方、繁華街にやって来た透磨は、まずホテルを確保してから、老舗の食事処をフロントで教えてもらい、この土地のうわさ話に花を咲かせた。

ショッピングセンターを企画した黒田コーポレーションは、とかく黒い噂があり、闇金融との関わりもある会社だった。


透磨はこの闇金融の入っているビルに行き、そこからサンに、サンを撲殺した憎き男の匂いを追わせた。

サンは迷うことなく透磨を案内して、場末のスナックでくだを巻いている、よれよれの中年男を見つけた。

男をマーキングするようサンに言って、今日はホテルに戻った。


 翌日正午過ぎに百目鬼と新垣が到着した。

「百目鬼さん、新垣さんお疲れ様。待っていました。助けが必要です」

「やあ、透磨君。うん、何でも言って」

「早速ですが、ホテルに荷物を置いて、サンを殺した男を捕まえに行きましょう」


「誰だかわかったの?」

「はい、昨日サンがマーキングしたから、今日はすぐ見つかると思います」

「サンがマーキングしたの、へええ。じゃあ、行こうか」

 新垣がクスクス笑う。


 百目鬼と新垣には、透磨がさっさと一人で歩いているように見える。

「サンが案内しているの?」

「そうですよ」

 透磨は斜め前方をにこやかに見つめて答えた。


 細い路地に入り、建物の裏に回ると空き地が現れ、そこにダンボールとブルーシートで作られた小屋がたっていた。

その中でゴロゴロしている男を透磨が確認し、

「おい! 起きろ!」

 腹立たしそうに言った。


「何だ、お前らは」

 無精ひげの生えた男は一瞬びくついたようだが、透磨たちが少年だとわかると、安堵して不機嫌そうになる。


「お前、犬を殺しただろ」

 透磨が言うと、男は驚いた顔をして、

「何を言っている。知らない」と否定した。


「お前は、伊藤牧場で、犬を撲殺しただろうと言ったんだよ」

「ふざけるな。知るか。どけよ!」

 逃げようとするのを、百目鬼と新垣が阻止する。


「お前が殺した犬の名前は、サンと言うんだ。サンが、お前に殺られたと言っているんだよ。サンはここにいるから、見せてやるよ」


 透磨が右手で男の左腕を掴んだとたん、サンが鼻に皺を寄せて牙を出し、恐ろしい顔で唸っている姿が現れて、男が恐怖のあまり叫びだし、腰を抜かした。


「犬をどけろ! 助けてくれ!」

 男は悲鳴をあげた。


透磨は掴んだ男の左腕に、怪我をしているのに気がついた。

「その傷は、サンに噛まれた傷か? そうだろう?」

 男は硬直して黙っている。


「言わないなら、サンをけしかけるぞ。サン、行け!」

「止めろおお、そうだ、噛まれた傷だよ。悪かった。悪かったよう」

 男は半泣きで謝る。


「何で牧場に行った? 誰に頼まれた?」

「…………」

「言わないと、本当にサンがお前を呪い殺すぞ!」

「ううう、闇金に借金があって、言うことを聞けば、チャラにしてくれると言われたんだよ」

「何をしに行った?」

「搾乳の機械を壊せと言われたけど、その前に犬に噛まれて逃げてきた」

「どうやって壊そうとした?」

「バールで」

「……バールでサンを殴ったんだな?」

「悪かったよう」

「誰に直接頼まれた?」

「誰だか知らない。若い男だった」

「会えばわかるか?」

「ああ」

「おまえの名前は?」

「山本恭一」

「ふん、じゃあ、そいつに会った場所と、歩いた場所と、そのときの日時を教えろ」



 伊藤は兄だけに、透磨が懸念している内容を話した。

兄さんは大そう驚いていたが、農薬中毒の症状があてはまるだけに困惑していた。


 毎日のようにバイトに来ている戸田智士を、父さんは若いのに真面目だと評し、今日も戸田は来ることになっている。

だから母さんに、今日の昼食はカレーが食べたいと言っておいた。


戸田はカレーを食べるか訊くと、戸田君はカレーが嫌いだから、カレーの日は戸田君だけ、おにぎりにすると言った。

母さんが昼食を作り終えると、じいちゃんとばあちゃんと母さんで先に済ませてしまうから、この三人は食べても大丈夫だ。


 問題はこれからだ。三人が食べ終わると食堂には誰もいなくなる。

ここに戸田が一人で来るのか? いや、兄さんと計画を立てた。

戸田と他のバイトを先に食堂で食べさせて、それから交代して、父さんと兄さんとぼくが食べるということにした。


 そして定期的に牛乳の成分を調査してもらっている研究所で、訳を言って特別早急に、カレーに毒物が混入していないか、調べてもらうことにした。

 どちらが先に食堂から出てくるか見ていると、案の定バイトの方が先だった。

戸田は数分遅れて出てきた。



 一方、透磨たちが街で闇金融を張り込んでいると、連中が山本恭一を捜しているのがわかった。

もう一度農場に侵入させて、やらせるつもりなのだろう。

山本に幾ばくかの金を渡し、サンが山本にマーキングをしたときのスナックに行かせた。

そこにいれば闇金の連中が現れて、また悪事をするよう言われるから、その内容を包み残さず話すように言った。


 サンにマーキングされている山本は、どこに隠れようがサンが見つけるから、逃げようとするなと忠告し、恐ろしい形相のサンを見せつけた。

「逃げたら、このサンが貴様を食い殺しに行くからな。忘れるなよ」と十分脅しておいた。


 終業式を終えた樹生と鈴木が、黒田コーポレーションの情報を持ってやって来た。

伊藤と兄の晃生も来てもらい、それぞれ持っている情報を共有し合うためにホテルに集まった。

 ショッピングセンターの企画は、強引な誘致を進めたために、地元の商店街店主たちから猛反発されて膠着状態であるため、そこで伊藤牧場に目をつけて、エンターテインメントファームを開設しようと、目論んでいることが分かった。


「立地場所も申し分ないし、宿泊施設も考えているらしい」

 鈴木が、本社で聞きこんできたことを伝える。

「カレーの毒物分析結果が出たよ。透磨君の想像通り、有機リン系の殺虫剤、マラチオンが検出された。犯人は戸田だ」

 伊藤が報告すると、沈黙が流れた。


「早めにわかって良かったです。戸田智士ですが、彼は黒田コーポレーションの社長である黒田が外で産ませた、愛人の子です」


 透磨が告げると、全員が「え!」と言う表情をするのを見て、透磨は相変わらず面白いなと感じてしまうのである。


「本妻の長男が副社長で、戸田は大学にも行っていない愛人の子ですから、相当プレッシャーが掛かっていると思われます。会社での自分の株を上げるために、牧場を買い叩く画策をしているところです」

透磨が言うと、


「だから搾乳ロボットを壊す気なんだ。あれを壊されたら、うちはお手上げ状態になる。搾乳できなければ収入は無くなるし、牛は病気になってしまう」


 伊藤が暗い表情で言い、晃生はとんでもないことが、わが身に降りかかっていることを改めて実感する。


「山本恭一と戸田智士が繋がっていることは、商店街の防犯カメラで確認できました。ショッピングセンターの件で、黒田コーポレーションを快く思っていないから、商店街の店主たちは、みんな協力的だったよ」新垣がにっこりする。


「だいたい話の流れがわかったところで、あとは透磨君にガッツリ脅された山本が、闇金から聞かされた内容を我々に話し、我々はそれを逆手に取ることです」

 百目鬼が締めくくった。



 牧場から緊急事態だから来て欲しいと戸田に連絡が入ったのは、山本に命令した決行日の翌日早朝だった。

戸田は計画通りに事が進んだと思い、一人ほくそ笑み、心の中でスキップをしながら牧場に出向いた。


『これで牧場は借金まみれだ。そうだ上手いこと言って、闇金に借りさせよう。そうすれば二束三文で買い叩けるぞ。どうだ、あいつら俺を見下しやがって。何が副社長だ。今に引きずりおろしてやる』と意気揚々と農場に着くと、しおらしげにして、

「どうかしまし……た……」


 牛舎の様子を確認した途端、戸田は言葉を詰まらせた。

そこはいつもと変わらず、乳を搾って欲しくて列をなしている牛でワサワサしている。

搾乳ロボットは、いつも通りフル回転して働いている。


「これは……どうしたことだ?」独り言を言うと、

「何を驚いている?」

 動揺している戸田に、晃生が声を掛ける。

「いえ何でもありません。今日はなんの用ですか?」

 胸騒ぎを覚えながらも冷静を装う。


「期待はずれで残念でしたね。戸田智士さん」

 急に声を掛けられたので驚き振り返ると、透磨がニッコリして立っていた。

隣には身長のある百目鬼と、ガタイのいい伊藤がいて圧倒される。


「あなたの悪事は頓挫しましたよ」

「なに? なにを言っている?」白を切る戸田に、

「えー、ぼくが説明しないと駄目ですか?」

 透磨の目がキラキラしだした。


『こういうときの透磨君って実に楽しそうだな』と百目鬼は苦笑する。


「わかりました。戸田さん、あなたは黒田コーポレーションの社員です。あなたの父は社長で、義母兄弟の兄は副社長です。なのに、あなたは平社員。それが我慢ならなかったのでしょう。実績を作りたかったあなたは、機会を窺っていた」

 ここで透磨は戸田を見るが、戸田は目を見張っているだけだ。


「ショッピングセンターの誘致が座礁すると、あなたはここを観光牧場にするため、バイトとして入ってきて色々画策しました。目的は牧場を経営難にして、ここを丸ごと買い叩くことです。それには伊藤家の人が、病気になってくれればいいと考え、毒物を使った」

 戸田はそわそわして、手を揉みしだく。


「誰でも気軽に手に入る殺虫剤を昼食に混ぜるという、卑怯な手を使いました。まあ、殺害しようとは考えていないでしょう。マラチオンは選択毒性で、哺乳類では毒性は低いですからね」

「何の証拠があって……、証拠があるのかよ!」

 目をキョロキョロ動かしながら戸田が喚く。


「カレーを毒物分析したら、結果はみごとに殺虫剤を検出したぞ!」

 伊藤が睨みながら怒鳴った。

「お、おれが入れたという証拠にはならない」

 戸田は往生際が悪く、認めようとしない。


「山本恭一……」

 透磨は冷ややかな目で、戸田を見つめている。

「知っているでしょう?」

「知らない。そんなやつ知らない」

 うつむいて手を握りしめる。


「搾乳ロボットを壊すように、借金のカタにやらせようとしたでしょう。しかも二回も」

「知らないって、言っているだろう!」

「往生際の悪い人ですね。じゃあ、連れてきてください」

 鈴木と新垣が、オドオドした山本を母屋から連れてきた。


「山本さんに、搾乳ロボットを壊すよう命令したのは、この人ですか?」

 透磨が戸田を指差すと、

「そうだ」と山本はうつむき加減で答えた。

「俺は……、俺はそんな奴、知らない。会ったこともない」

 頭をブンブン振って否定する戸田に、透磨は呆れたようにため息をつく。


「あなたは、山本さんに会っています。証明できますよ。商店街の防犯カメラに、二人の姿がバッチリと映っています。闇金融から出てくる二人の姿もね」

 最後に止めを刺すと、戸田はうなだれて、おとなしくなった。


「警察には正直に言ったほうが、身のためだと思いますよ。晃生さん、警察が来るまでこの人をお願いします」

 晃生が戸田を母屋に連れて行く。

戸田は観念したようだ。


 透磨は、伊藤がさっきから、山本を睨みつけているのが気になった。

「ぼくのサンを、殺したのはおまえか?」

 険しい顔をして、怒りで声を震わせて訊く。


「悪かった。噛まれて離さないから仕方なく」

「仕方なくだと……。このやろう!」 

 激情して山本の胸ぐらを掴んで殴ろうとした右腕を、透磨が両手で押さえた。


「いけない! 伊藤さん、暴力は駄目です」


 そのとき透磨の生い立ちが、走馬灯のように伊藤の心に流れてきた。

伊藤がハッとして透磨を見つめると、慌てて掴んでいた伊藤の右腕をパッと離して、そっぽを向いた。

顔が赤くなっている。


 みんなの耳に、パトカーのサイレンが微かに聞こえてきた。



 けたたましいサイレンの中、戸田と山本がパトカーに乗せられて連れて行かれた。

「田舎だから大したお構いも出来ないけれど、無事解決出来たことを、昼食をかねてお祝いさせてください」

 晃生が晴れ晴れした顔で言う。


 朝から樹生を見かけないので透磨が心配して、

「樹生さんは、どうしました?」と尋ねると、

「じいちゃんとえらく気が合って、じいちゃんの部屋で宴会状態だよ」

 伊藤が笑いながら答えるので、透磨はあきれてしまった。


「いい大人がみっともない」

「まあまあ、今日はいいじゃん。こんなに嬉しい日はないよ。百目鬼さん、新垣さんありがとう。鈴木もありがとう。透磨君、この家が無事なのは君のおかげだよ、本当にありがとう」

 伊藤は慇懃に、みんなに礼を述べた。


「ぼくはチーズが大好きです。伊藤さんちのチーズが食べたいな」

「おう、もちろんさ。食べていってくれ。うちの自慢の商品だよ」

 伊藤は店で売っている商品を片っ端から持ってきて、サイドテーブルに並べた。

晃生は百目鬼と新垣と、放牧のメリットとデミリット、経営のノウハウなどを熱心に語り合い、鈴木は透磨と、何やら北海道のことを話していた。


その様子をみて、伊藤は樹生に会いに行った。

樹生はじいちゃんの部屋で、信州ワインを気に入りご機嫌になっている。

じいちゃんはもう出来上がっていて、ウツラウツラしていた。


 二人の様子を見て『こういうのを平和というのかも』と感じた。

「先生、ちょっといいですか」

「うん、何だ? 先生はちょっと酔っているけどな。あはは」

 樹生はご機嫌である。


「透磨君のことですけど。さっき透磨君がぼくの手を両手で握ったときに、色々な映像が頭の中を通り過ぎたんですよ」

「例えばどんな?」

 樹生が興味を示す。


「透磨君が、白衣を着た学者のような人たちに囲まれて、その人たちと討論をしていたり……」 

 伊藤は目を瞑って思い出そうとした。

「一人ぽつんと大学で学んだり、実験室で研究していたり……遠藤先生の後をついてまわって、笑いながらマグカップで何かを飲んでいたり……」


「うん、透磨は僕が作るココアが大好きなんだ。君が見たのは、透磨のこれまでの人生だよ。これまで彼の人生は勉学のみだった。彼には両親がいないから、家庭というものを知らない。彼は特別な子で、輝月城学園に来るまでは、ひたすら世界の頭脳と一緒に勉強していた。今では、彼に教えられる学者はいないほどだよ。学園に来て君たちと会って、彼はとても変化したと思う」


「どんなふうにですか?」


「感情豊かになって、人間的になったと思うよ。これまで透磨は、現世に留まっている怨念にひとりさらされて耐えていたけれど、今は、透磨にとってその忌まわしい力で、君たちを救えているのが、どんなに嬉しいかわかるかい?」


「ええ、透磨君を見ているとぼくたちは平凡で、だからこそ、とても幸せ者だって思います」


「うん、そうだね。僕たちは輝月城学園に来て、本当によかったと思う。これからも透磨と友達でいてやってくれ」


「もちろんですよ……。じいちゃんは、すでに夢の中だから、先生、みんなのところに行きましょう」


 機嫌良く酔った樹生がみんなに合流すると、透磨がちくちく言い出した。

「樹生さん、昼間から何やっているんですか。生徒に示しがつかないでしょう」

「まあまあ、ここは学校じゃないのだから、ちょっとは許してよ。……これから君たちはどうするの?」

 樹生は、にこやかに透磨を見て、それから百目鬼たちに訊いた。


「ぼくと新垣は、これから卒業旅行と称して、暫く全国を旅してまわろうと思います。取り敢えず金沢に行く予定ですが、気ままな旅にしようと、新垣と計画しています」と百目鬼。

「ぼくは、このまま北海道に帰ります。父と色々話しあって来ます。透磨君は?」

 母とのことを思い出したのか、鈴木が少し恥ずかしそうだ。


「ぼくたちは教授に会いに帰ります。冬休みに行かなかったから。でしょう?」

 透磨が確認すると、「うん、そうだね」と樹生が答えた。

「あ、それとぼくは、伊藤君にお願いがあるのですが」

 透磨が、真剣な面差しで言う。


「海斗君が大変サンを気に入ってしまって、ペットにしたいと言っているのです」

「え?」

 ふふ、みんなのこの顔、好きだなあ、と透磨はニコニコする。


「一応、現世のときの主人の許しを得て、譲り受けたいと、海斗君は希望しています」

「はあ……。サンはどうなの? 嬉しそうなの?」

 伊藤は困惑気味だ。


「もちろんですよ」

「そう……。じゃあ、海斗君によろしくいって。サンを可愛がってよ」


「はい、ありがとう。ぼくも嬉しいです。今日は特別な日だから、特別なことをしてもいいでしょう」


 透磨は、両手を大きいものを抱きかかえるように広げ、深呼吸した。

「風・火・地・水、四種の精霊。ぼくに力をかしてください」


 すると、両腕の中が光りだして、そこに少年とわんこが現れた。

 海斗が百目鬼を見て微笑み、サンは長いフサフサの尾をブンブン振った。


 百目鬼が「海斗」と言い、伊藤が「サン」と言って感激している。

 透磨の手が下がると、海斗とサンはいなくなった。


「海斗君もサンも、皆さんに会えて嬉しいって言っていました」

「うれし涙だよ」

 伊藤が頬を流れる涙を手で拭う。


 晃生は口をぽかんと開け、透磨を凝視している。

『兄さん、混乱しているな、可哀そうに。うん、そういう反応になるのはわかるよ』

 伊藤は兄をみてクスクス笑った。


「サンの墓はすぐそこにあるのに、サンは今、透磨君のところにいるでしょう? ぼくは透磨君に会ってから、死生観が変わったと思う」

「うん、わかる。ぼくも」

 みんなが賛同する。


「ええ、体は単なる魂の器とも言えますからね。ぼくが知っているのは人間界のみですから、霊界がどのようになっているのか知りません。本当は命が消えれば霊界に行くべきなのですが、そう単純でないのが人間界なので、ぼくはここが平和になるように力を使いたいです。こういうふうに考えられるようになったのは、みんなのおかげです。ありがとう」


 透磨は幸せそうな顔でみんなを眺めた。

彼らのおかげで、音のない暗闇の世界に行きたがっていた過去の自分と完全に決別して、これからの人生を有意義に生きていくことに、希望を見いだせた。


 その日はみんなで、駅近くの温泉旅館に宿泊して体を休ませ、翌朝、百目鬼と新垣は金沢へ旅たち、鈴木は北海道へ、透磨と樹生は中村教授に会いに出発した。

樹生には見えないけれど、海斗とサンと共に。


 そしてみんなを見送ってから、伊藤と晃生は牧場へと帰路に就いた。



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