祖父とビルマの思い出
小学校低学年の頃は、祖父母が同居していた。祖父がよく話をしてくれた。それを自分一人であるいは自分と妹の二人で聞いた。
子供向けの話、子供を楽しませようと祖父が工夫した話であった。話のテーマは孫悟空、ビルマでの出征体験談、その二つがあり、いずれも祖父は空で話した。
本を参照するのでなくて、全く記憶に頼って話していたが、滞ることなく次々に言葉や場面が出てきた。
孫悟空はごく普通の中国由来の物語であった。祖父による個性的なアレンジはなかった。祖父もいつか本か映画かによってこの物語に触れて、それをそのまま口移しに私に与えたのである。テクテク、テクテクという歩行の擬態語がよく出てきた。孫悟空一行が砂漠を歩いていく様子であった。テクテクと言いながら、祖父は次の場面を構想していたのだ。
祖父は太平洋戦争当時軍属としてビルマに行った。自分が話をしてくれと言って祖父の部屋に行くと、ビルマの話もよくしてくれた。軍属とは戦地には行くが軍人や兵士ではない身分の者を指す。あまりしられていない言葉であった。
ビルマ人の子供が自身の股を指して不快がっていた。痛いのか痒いのかよく分からないが見ると赤く腫れていた。祖父は携帯しているヨードチンキをその赤い部分に塗った。
翌日子供に会うと子供は股を見せて笑った。その子の親も出てきて笑顔を見せた。感謝の表情のようだった。言葉は通じず、身振り手振りを交わすばかりであったが、皮膚の症状がよくなって喜んでいるのはおおよそ伝わった。
祖父は森の端で休んで、森の外に広がる野原で砲撃がなされているのを見ていた。自分の方に弾が飛んでくる心配はないので気楽に眺めていた。三時間砲撃を眺めていると、だんだん砲撃の方向が変わってきて、弾が祖父の隠れている場所に近づいてきた。
祖父は森のもっと奥の方へと移ることにした。
祖父にはもっと多くの話を聞いたのだが、聞いてから四十年経ち思い出せるのは、残念ながらこれくらいの断片しかなかった。
何度も話をせがみに祖父のところに行ったし、その度に祖父は何か新しい、それまでに聞いたことのないエピソードを取り出してくれた。同じ話を聞くことの退屈さに祖父は細やかな配慮を示して、話を重複させないようにした。この話を聞いたことあるかと私に確かめることもあった。
祖父が口にした地名は多くあったように思うが、私が思い出せたのはモールメン、メークテーラだけであった。
モールメンは現在モーラミャインと呼ばれる町である。メークテーラは現在メティッティーラと呼ばれる。地名は実質的には同じなのだが、今は現地人の呼び方、発音を尊重するようになった。モールメン、メークテーラという呼び方はかつての支配者英国人の影響が強い。日本人がその地の支配者として英国人に取って代わったときにも地名は英国風を踏襲した。結局日本風の地名をつける前に日本は敗れ、その地を去った。
現地人による地名が国際的に認知されるには、また長い時間を経た。今や日本ではミャンマー、ヤンゴンという地名がすっかり定着した。ビルマやラングーンは忘れ去られつつあった。ビルマは「ビルマの竪琴」という小説の題名として長く生き延びるだろう。しかしこの小説の人気はすでにそう高くはなかった。
祖父がビルマに何をしに行ったのか、そしてビルマで何をしていたのか、あるいは知れるかもしれないと思って、私は戦場としてのビルマを語った書物を渉猟した。
光人社の文庫本にまず手掛かりを求めたが書店に置いてある新刊本には収穫がなかった。光人社の文庫本はいずれも戦記や兵器を扱ったもので、第二次大戦を題材にしたものは多いのだが、ことビルマ戦線となると本がなかった。
公立図書館の書庫を検索すれば、光人社の文庫本は二冊見ることができ、岩波新書を一冊見つけ、また高校教師をしていた人が自費出版したような感のある書物も見つけた。
この教師は戦時中、軍人としてビルマに行った。そしてその経験を克明に書物に残したのである。自費出版ではないかと私に思わせたのは、出版社が無名で長浜市という出版には不向きな土地にあることと、本や活字の体裁であった。この人は油田の管理を目的としてビルマに赴いた。ビルマには油田があったのだ。着いた時点ですでに日本は敗色濃厚で、油田の仕事よりも、撤退・敗走の仕事に多くの精力を費やした。
この人は行きも帰りも泰緬鉄道を使った。行きは日本を出港した船がタイに着き、タイからは鉄道でビルマに達した。そのビルマ側の終着点がモールメンであった。
泰緬鉄道は日本陸軍が建設したが、日英戦で捕虜とされた英国人兵士もこの建設作業に従事した。この作業を描いた著名な映画が「戦場にかける橋」である。第二次大戦が終わると、今度は英国軍が日本人捕虜を使って、この鉄道を破壊した。しかし全線が壊されたのではなくて、一部は残り存続した。タイとビルマとを繋ぐという機能は失われて、タイ側、ビルマ側にそれぞれ路線が残った。
岩波新書の一冊となり、ビルマで従軍した兵士の手記というこの分野で古典的な地位を確立した書物もまた、元は自費出版であった。
有名大企業のサラリーマンであった人が招集されて兵士になるのだが、まずは兵士になった時点での動揺、精神的な苦しみが鮮烈であった。なぜ自分が戦地に行かなければならないのか、なぜ自分だけが行かなければならないのか、苦しむのであった。
敗色濃厚となってからモールメン方面へと退却する際には地図もないままの徒歩移動であった。自分がどこを歩いているのか分からず、正しい方面に向かっている確信もないままにただ歩く。無計画な移動だが、たまたま日本軍の知人に会うことあり、そうすると行動をともにした。ビルマ人の住人に助けを求める場面は度々あり、あるときは食糧を求め、あるときは泊る場所を求めたが、いずれもごく円滑に受け入れられた。
こうした手記を読んで、自分が祖父の話として思い出したのはただ一つ、マラリアに罹ったことであった。高熱に苦しみ、ああ何か悪い伝染病になったのだと暗い気分を味わうも、翌日になると熱はひき、体は軽い。治ったのだろうか。歩いてみれば、なるほどどんどん歩ける。確かに治ったのだ。その翌日も何ともない。もう確かに治った。そしてその次の日も元気だ。熱を出したこともほとんど忘れている。しかるにその次の日がいけない。また全く動けないほどの高熱を発した。しかしその翌日には回復している。こういう過程を三度四度繰り返して、これがあのマラリアなのかと得心した。初めの発熱から、病気を悟るまでに半月くらいは要した。間に元気な時期を挟むとはいえ、病原菌は体内に抱えたままなので、徐々にでも衰弱は進んだ。
さて祖父はどうして病気を治したのか。薬をもらえたのか。そこは聞いたのか否か私は覚えていなかった。