てんとうむし
「――ん? もう朝か……」
窓から入ってくるポカポカの日差しが優しく目覚めさせる。体を起こして大きな欠伸をして、ベットから降りた。
チラッと時計を一瞥すると、太い針は七時を示していた。いつもより寝すぎてしまったようだ。
「お母さん、お父さん、おはよう~」
「おはよう蜜花。よく寝れたか?」
「うん。少し寝すぎちゃったくらい……」
「この家凄く落ち着くわよね! 私達も想像以上にぐっすりできたわよ」
階段を降りるといつもと違う風景……のはずなのだが、ほとんど違和感を感じない。お父さん達も同じ感じなのかな?
「そろそろ朝ごはんができるから、テーブルに座って待っててちょうだい!」
「分かった」
良い香りに鼻を刺激され、早く食べたいと思いつつも、私は椅子に座って朝食が出てくるのを待つ。
テレビを見ていると、目の前の席に座っているお父さんが私達に話しかけてきた。
「そいえば。お隣さんとかに挨拶行ったっけ?」
「あ! 完全に忘れてたわ! お饅頭を買っておいたから、朝ごはんを食べたら皆で行きましょうか!」
お隣さんか……。前の家ではあまり接点がなかったから、今回のお隣さんはフレンドリーな人だといいな……。
そう考えていると、テーブルに朝食が運ばれてきたので、家族全員で手を合わせて朝の至福の時間を楽しんだ。
「すいませーん! 昨日隣に引っ越してきた蝶野と申します。誰かいらっしゃいませんか?」
饅頭の箱を持ったお父さんが、隣の家のドアを叩く。木製のドアなのでかなり腐っていることに気がついたお父さんは、少し力を弱めて叩いた。
しばらくすると、ドアノブがガチャッと音とともに回り、静かにドアが開いた。
「……はい」
「良かった、いてくれましたか。つまらないものですがお饅頭をどうぞ!」
「あ、はい。ご丁寧にありがとうございます……」
出てきたのは髪が少しボサボサで、丸眼鏡をかけた大学生ぐらいの背丈の女性だった。顔色もあまり良さそうではなく、病弱な人のように見えた。
お母さんも私と同じことを考えていたようで、その人に話しかける。
「あの……顔色が良くないですよ? 何かあったんでしょうか?」
「いえ、最近寝ていないだけですので……。寝れば良くなります。御心配いただきありがとうございます。では……」
そう言うと、その女性はドアを閉めて中に戻っていった。しかし、私は一瞬見てしまっていた。光に反射して見えなかった眼鏡の奥に、一点の曇りのない綺麗な翡翠色の瞳があることを。
その美しい瞳に完全に支配され、私の意識はどこかへ飛んでいってしまってた。
「蜜花? どうしたの?」
「……ん? いや、何でもないよ! 次の家に行こ!」
両親は蜜花の慌てぶりに不審に思ったが、特に気にせず次の家へと向かった。
次の家は……形状が凄く似ている。というよりかは、同じ?
いや、同じと言ってもよく見ればベランダが無かったりと、私の家とは違う点がいくつかあった。
そりゃあそうだよね。表札だって違うんだから同じなんてないはず……あれ? 虫……鹿……? 珍しい名字だね……なんて読むんだろ?
表札と睨めっこをしていると、二人は既に家の前まで行ってしまっていたので、慌てて後を追いかけた。
「次はこの家か……。すいませーん! 昨日引っ越してきた蝶野と申します! 誰かいらっしゃいませんか?」
お父さんは声を上げるが出てこなかったので、さっきの人の家には無かったインターホンを鳴らす。
「……来ないな」
「家事の途中なのかもしれないから、もう少し待ってみましょ?」
しかし、いつまで経ってもインターホンの音しか鳴り響かず、出てこなかったため、日を改めて来ようと帰ろうとしたとき――
「はい? 何でしょうか?」
ドアが開き、中から険しい表情をした女性が出てきた。お父さんはその威圧感に押され気味になっている。情けない……。
お父さんが完全置物状態になっていることに気がついたお母さんが、オホホと笑いながらお父さんの手からお饅頭を奪った。
「……すいません。父はコミニケーション能力が皆無なので……。それで、つまらないものですがどうぞ」
「ご丁寧にどうも。では……」
結局お父さんは最後まで威圧感のせいで固まっており、女性がドアを完全に閉めた途端に呪縛から解放されたようだ。
「なんだあの人……この様々な恐怖に打ち勝ってきた俺を恐れさせるとは……出来る……!」
何がだよ。
「まぁ、そういう人もいるわよ。さて! 挨拶も終わったことだし、このまま私達は学校に行ってくるわね!」
「分かった。私もこのまま公園に行くよ」
いつでもいるって言ってたし……多少時間が早くても平気だよね?
公園へ向かおうと身を翻すと、お父さんが何かを思い出したかのように手のひらをポンと叩いた。
「そうだ! 虫取りをするならお父さんの伝説の虫捕り網があるからそれを使っていいぞ。確か車の後部座席にあったはずだ」
「伝説って大袈裟な……まぁ、使わせてもらうね」
我が家の前で二人を見送り、車の後部座席を確認する。あったのは……剣に酷似した形で、刃の先に網が付いている、正真正銘『伝説の剣』だった。
勿論剣はプラスチック製なので殺傷能力はない……って、問題はそこではない。
「……見なかったことにしとこ」
通行人にバレない内に後部座席に速攻でしまう。あんな虫捕り網で虫捕りをしたら子供だけに限らず、大人にまで注目の的になるだろう。
取り敢えず昨日、日夏ちゃんと会った大賀ハスの所まで行ってみようかな……。網は……申し訳ないけど日夏ちゃんから借りよう。
「ここら辺にいるかな……?」
昨日よりランニング中の人の姿は見えなくなっていた。……休みで感覚が麻痺していたけど、昨日は日曜か。今頃社会人はバリバリ仕事中だろう。
周りを見渡すが、日夏ちゃんの姿はどこにもなかった。やはり時間が早すぎたのだろうか、別の場所にいるのか等、様々な憶測を立てていると、奥から聞き覚えのある声が近づいてきた。
「誰かぁ~! そのテントウムシを捕まえてぇ~!」
「え? きゃぁ!」
昨日のアゲハと同様に、虫が私の至近距離まで接近してきた。ビックリして尻餅をついてしまい、そのまま虫はどこかへ飛んでいってしまった。
「いててて……この感じはもしかして……」
「あ! 蜜花ちゃん! おはよう!」
見上げた先には、やはり麦わら帽子をかぶった、ピンク色の髪が似合う女の子。日夏ちゃんがいた。
しっかりと虫刺されの予防をしているようで、虫除けスプレーの匂いが鼻を刺激した。
「おはよう。やっぱり日夏ちゃんだったね」
「だから言ったでしょ? いつでもいるって!」
いつもと変わらない太陽のような笑顔を向けてくる。しかも、今日はピースのおまけ付きだったので、こちらも思わず笑顔になってしまった。
私は首を横に振って、蕩けた表情を引き締める。
「そ、それより今日はどんな虫を捕まえようとしてたの?」
日夏ちゃんが差し伸べてくれた手を掴んで立ち上がる。おしりの部分を払っていると、日夏ちゃんは腰に手を当て、ピースサインを私に向けてドヤ顔で言った。
「ふふーん! 今日は『テントウムシ』を捕まえるんだよ!」
「てんとうむし?」
聞いたことがあるような……ないような。
「確か……『益虫』っていう虫だよね?」
「おー! 蜜花ちゃんよく知ってるね! そうだよ。テントウムシは益虫っていう虫で、農作物とかに付く害虫を食べてくれるから、農薬を使わない安全な野菜を作らせてくれるんだよ!」
そうだそうだ。人の為に活躍する虫なんていたんだぁ~って、テレビを見てて思ったんだった。
「そんじゃあテントウムシ探しにレッツゴー!!」
「おぉー!」
私達は昨日の薄暗い林の中と違って、日当たりの良い草原に向かった。
貸してもらった網で茂みをガサガサと探っていると、ショウリョウバッタが飛び跳ね、少しだけ昨日の記憶を思い出した。
怯えている私の傍らで、日夏ちゃんは何かを探しているかのように茂みを搔き分けていた。
「確かここら辺に『あれ』があるはず……」
「あれって?」
日夏ちゃんが辺りを見回していると、何かを見つけたのか、目をキラーンと輝かせてある『植物』へと向かって行った。
向かった先にあったのは、アブラナのようなな黄色の花だった。
「これこれ! 『菜の花』だよ!」
「花……? テントウムシと花に関係なんてあるの?」
菜の花と言ったら、料理に使えるってことしか知らないけどなぁ。テントウムシも菜の花を食べるとか? 結構グルメな虫なんだね。
「この茎の辺りをよーーく見てみて!」
んーー? 茎に何か黒いものがいるような……。――っ!?
見覚えのある黒い集合体。『アブラムシ』の群れが菜の花の茎に張り付いていた。
「え……? キモすぎ……」
「蜜花ちゃん!? 顔がガチだよ!?」
集合体恐怖症。抱えている人は多いのではなかろうか? サンゴの模様、アニメとかでよく見る穴の開いたチーズ。これに気分が悪くなった人は多いだろう。
私もその一人。酷い人はパニック状態に陥るが、私は軽症なので少し不快感を抱くだけだ。
「それで? このキッッッモイ虫達がテントウムシに関係あるの?」
「そうだよ。このアブラムシをテントウムシが食べるんだ!」
こんなキモイ奴らを食べてくれるのか……。テントウムシ……好きになれるかもしれない。
「じゃあ早くテントウムシ見つけてこいつらを食いつくしてもらおうよ!」
「そうしよ! 捕食シーンは私も見てみたいからね!」
乗り気の私に、日夏ちゃんもテンション高めで返事をする。
そう言って菜の花に手を伸ばした瞬間……。
「おい日夏! 止まれ!」
「……また君達……?」
後ろを向くと、そこにいたのは半袖短パン、ヤンチャそうな男の子三人組が立っていた。
日夏ちゃんの様子からだと、どうやらこの子達を知っているようだ。
「ここは俺達の狩場だ! そうだと分かったなら出ていけ!」