はじめてのよる
ナミアゲハを捕まえた場所から帰還し、私達は雑談をしていると、どこからか五時を伝えるチャイムが鳴り響いた。
その直後、はしゃいでいた小さな子供達は互いに別れを告げ、それぞれ帰路へ着いていった。
半強制的に虫捕りをしてみたけど……もう終わっちゃうとなると少し名残惜しいね……。
「もう五時か……。なんだかんだ充実した一日だったなぁ」
「私も久々に他の人と虫取りができて楽しかったよ! ありがとう!」
いつ見ても日夏ちゃんの笑顔は太陽みたいだ。こっちまで笑顔になっちゃいそう……。バレたら変な風に思われそうだから我慢我慢。
顔が緩まないように、痛くない程度に頬をつねる。
「それじゃあ一緒に帰ろ!」
「嬉しいけど……ごめんね! 私、まだ捕まえたい虫がいるから先に帰ってて!」
公園の入り口へ向かって歩きだした私に向けて、日夏ちゃんは目をくの字にして、手を合わして謝る。
そうか……。本当は私も協力してあげたいけど……帰る時間をお母さんに伝えてないから、五時には帰らなきゃいけないんだよね。日夏ちゃんには申し訳ないなぁ……。
「うん、分かった……えーと、一ついいかな?」
「……どうしたの?」
何か言いたげに足をモジモジさせ、顔を少し火照らせながら日夏ちゃんに言った。
「ま……また、私と虫取りを……しよ……?」
「……!」
私からお願いするなんてしたことがなかったから凄く恥ずかしい……。虫が嫌いとか言いながらまた虫取りをしようなんて、変な奴と思われたらどうしよう……。
恐る恐る上目で顔を見ると、目の前には満面の笑みの日夏ちゃんがいた。
「勿論だよ!! 私も蜜花ちゃんとまた虫取りしたいと思っていたもん!」
「……ホント!? なら明日もしようね!」
「うん!!」
私達は手を差し伸べて握手をする。日夏ちゃんの手の温もりは、最初無理矢理手をつながれたときよりも温かく感じた。
「それじゃあ明日はいつ集合する?」
「時間なんて決めなくても私はずっとここら辺にいるよ! それじゃあ私もう一匹捕まえてくる!」
「うん! 気をつけてね!」
笑顔で手を振って別れる。もう少し日夏ちゃんと遊んでいたい気持ちを胸の奥に押し入れて、私は踵を返して家に向かっていった。
「ただいまー」
「あら! 蜜花! お帰りなさい。どこに行ってたの?」
ドアを開けると、直ぐ目の前にお母さんがいた。虫達以外の所にいるなんて珍しいこともあるもんだなぁ。
「ちょっとあっちの公園に」
靴を脱いで、疲れていたからか素っ気ない返事をする。
「おかえり蜜花。どうだ? 友達出来たか?」
お母さんに続いて、お父さんもリビングから顔を出してくる。
「うん……一応」
「そうなの!? どんな子だったの?」
両親は今までにないほどに目を輝かせる。食いつきが良過ぎて不気味に感じた。
「虫鹿日夏ちゃんって子で、虫が大好きで……凄く元気な子だよ。一緒に『虫捕り』もしたし……」
「虫捕り!? 蜜花も虫捕りをしたのか!?」
『虫捕り』と過剰に反応したお父さんが私の肩をがっちりと掴み、お母さんも驚いて口を手で抑えた。二人の顔は、今までにないくらい真剣な顔をしていた。
な、何!? 虫捕りって禁止されてる行為なの!? 私逮捕でもされちゃうの!?
お父さんは目を見開いてまくしたてる。
「何を! 何を捕まえたのか!?」
「つ……捕まえたっていうか虫捕りに参加しただけだよ。それで、ショウリョウバッタとナミアゲハって虫を見たよ」
「…………」
すると、お父さんは静かに私の肩から手を離した。余程強く握っていたのか、手を離した後も肩が微かに暖かかった。
急に黙り込んでしまったお父さんに、心配しながら声をかける。
「お……お父さん……?」
「う……う……うぉぉぉぉぉぉぉぉん!!」
「ど……どうしたの!?」
急にお父さんが、怪獣が苦痛に苦しむような呻き声を上げる。物凄く恐ろしかったのでお母さんに目で助けを求めるが、お母さんも同じように呻き声を上げていた。
な、何!? 虫捕りって口に出したら自我を喪失させる黒魔術かなんかなの!?
「み……蜜花が虫のことを俺達に話してくれるなんてぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「感謝感激雨あられよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「え、えぇ……」
呆気に取られて、目を点にしてフリーズする。
な、なんだ、喜んでいるだけなんだ。それにしても、そんな鼻水ズルズルになるまでのことかな……?
大号泣をしながら、二人はお互いの鼻水を持っていたポケットティッシュでかみ始めた。
「ずっと外にいたから汗かいてるでしょぉぉぉぉぉぉ? お風呂湧いてるから入ってきていいわよぉぉぉぉぉ!」
「わ、分かった……」
取り敢えず早くこの場から離れようとした私は、そそくさと風呂場に向かおうとしたが、お父さんが呼び止めた。
「お父さんと一緒に入るかぁぁぁぁぁぁ?」
「いや、大丈夫です」
軽いセクハラ発言を押しのけて、風呂場へと向かったのだった。
「ふぅ……気持ちいなぁ……」
立ち昇る湯気を眺めながら小さな溜め息を吐く。初めて入る風呂場だったが、不思議と違和感は感じず、リラックスすることができている。
前のお風呂はへんてこりんなライオンの頭部が設えていて少し不気味だったけど、無くなっちゃったのはちょっと寂しいかな……。それよりも、
「お父さんとお母さん……私が虫のことを話しただけであんなに大袈裟に……」
プカプカと浮かぶアヒルのおもちゃを手に取り、指で押してキューキューと鳴らす。長年使っているので所々傷がついていた。
しばらく音を鳴らして遊んでいると、アヒルが滑ってしまって飛んでいってしまった。取りに行く気はなかったので、肩までお湯に浸かる。
「ショウリョウバッタか……ゲロを吐いてくるやばい奴だったけど……見た目は中々可愛かったなぁ……。ナミアゲハは……また見てみたい……」
不思議。今までは虫に嫌悪感を抱いていたけど……今は不思議と感じない。見た目だけで決めるんじゃなくて……実際に触れ合って決めなきゃいけないな……。
だったらもう少し早く触れ合っていれば、今よりもっとお父さん達と仲良く喋れたのかな……。
湯船に口まで浸からせて、ブクブクと息を吐くと、首をブンブンと横に振った。
「今から好きになればいいだけ! 明日は……もっと色んな虫を見つけようかな……!」
小さなガッツポーズをして湯船から立ち上がり、飛んで行ってしまったアヒルを手に取って桶に入れ、お湯に浮かべる。
風呂場から出る前に、換気をしなければいけないことに思い出した。前はボタン一つで換気できたからなぁ。慣れるのは難しそう。
窓の方に振り返り、鍵を開けてガラガラと窓を開けた瞬間――
『きゃぁぁぁぁぁぁ!!』
風呂場に蛾が侵入。よくあることだと思うが、私は大が付くほどの都会に住んでいたので、このシチュエーションは初めてだったのだ。
その声に反応したお父さんが、驚愕した面持ちで風呂場に顔を出す。
「蜜花!? どうかしたのか!?」
「……!? み、見んなセクハラ親父ぃぃぃぃぃぃ!!」
「ンガッ!?」
渾身の桶シュート。お父さんの額にクリティカルヒットし、ピヨピヨと鳴くヒヨコと桶から飛び出たアヒルを宙に舞わせながら、後ろに倒れた。
倒れた音にビックリしたのか、嬉しいことに蛾は窓から慌てて逃げ去っていった。お父さんの犠牲のおかげで……。
「……や、やっぱり虫は大っ嫌い!!」
私の魂の叫びが風呂場にとどろき渡った。
「……少しいい感じだったのに……また虫が嫌になったよ」
「あはは……流石にそれはビックリするわよね。……だっちゃん平気?」
「こんぐらいの痛み、映画の収録で何回も経験している。痛くなんて……痛い……」
一先ず風呂場の騒動は一件落着し、今は一家団欒で夜ご飯を食べている。今日の献立は私の好きなチャーハンがあったので、取り敢えず気分は晴れた。
チャーハンを一口頬張ると、二人が話し出した。
「この春休みが終わったら学校の準備しなきゃね!」
「折角なんだから、モノレール通学にしてみたらどうだ?」
「徒歩で行ける距離だし平気」
本当は、モノレールに乗るのは怖いからなんだよね……。下に線路が無くて、落ちてしまうと考えると……不安になる……。
「そうか。それと、明日はお父さん達は蜜花の小学校の転校の手続きをしてくるから、留守番頼むな」
「分かった」
レンゲ一杯にチャーハンをすくって、口の中に全て放り込んだ。
「明日も日夏ちゃんと遊びに行くのでしょ? 鍵はいつもの場所に隠しておくわね?」
「ゴホッゴホッ!」
お母さんの発言にむせ、咄嗟に水の入ったコップを手に取る。満タンに入っていたコップの水を豪快に飲み干し、コップをテーブルに叩きつけた。
「なんで……遊びに行くって分かったの!?」
「あらあら、帰ってきた時の蜜花の表情を見れば分かるわよ! 楽しんでらっしゃいね!」
母の目はなんでもお見通し。その言葉を完全に理解できたのだった。
夜食も終わり、辺りが寝静まった頃に蜜花は机の上に置いてある一枚のカードを見る。そこには、私に対しての別れの言葉が記されていた。
お別れ会……そんな悲しい言葉とは無関係だと思っていたけど、こんなにも早く目にしちゃうなんてね。
「葉月ちゃん……私、上手くやっていけるのかな?」
カードを見つめて涙を零し、その涙はカードを少しずつ濡らしていった。そして、机の中にしまおうとすると、カードの中から何かが落ちた。
「これは……?」
拾い上げると、それは小さな向日葵の髪飾りだった。クリップの部分に紙が挟まっていることに気がつき、開いてみると、
『蜜花ちゃんへ。いつも私に優しく接してくれて、クラスを引っ張っていてくれた蜜花ちゃんが転校してしまうことはとても寂しいです。ですが、蜜花ちゃんはもっと寂しい思いをしていると思います。なのでこの、みんなで考えて作った向日葵の髪飾りを身に着けていてください。そうすればどんなに遠くても私達は蜜花ちゃんの側にいれることができます。また会える機会があったら沢山お話をしようね! クラスのみんなより』
ひとつひとつの字が違っていた。一言一言違う人が書いてあるのかな? こんな……私のために……。
「皆……。私、頑張るよ!」
零れていた涙は次第に乾いていき、私は向日葵の髪飾りを髪に付け、静かに眠りについた。
その一部始終をこっそり見ていた二人は優しい笑顔を向け、音を立てないように静かにドアを閉じた。