はじめてのほかく
「はぁはぁ……。ちょっと休憩を頂戴……」
「ごめんごめん! ここら辺に逃げていっただろうから、もう走らなくて大丈夫だよ!」
やっと休める……。こんなに走ったのは久しぶりだよ……。
がむしゃらに走っていたので、辺りの景色を全く見ていなかったが、改めて見てみると今までの雰囲気が微塵も感じられず、まるで樹海に迷い込んでしまったように感じ取れた。
その景色の中でも特に綺麗だったのは、先程までいた池だった。上から眺めるだけで、こんなにも印象が変わるんだ……。
ポカーンと見惚れていると、女の子はリュックサックからはみ出ている網を引っこ抜いて、両端を掴んで持ち手の部分を伸ばした。
「それじゃあ捕獲を始めるよ! ほい! これで捕まえてね!」
「う、うん! ……って、何これ?」
「え!? 虫取り網知らないの!?」
受け取った虫捕り網の網の部分を、指でツンツンとつつく。
これが虫取り網か……。そいえば、昔お父さんと一緒に使っていた気がするなぁ。もう五年前ぐらいの出来事だったから忘れていたよ。
「初めて使うなら私がやり方教えてあげるよ! コツさえ掴んじゃえば簡単に出来るよ!」
「いや……別にいいよ……。私虫好きじゃな……」
断ろうとしたが、女の子の曇りのないキラキラとした眼を見ると、口が自然に紡がれた。
「……お願いします」
「りょうかい! それじゃあ……あ! あそこの『バッタ』を捕まえてみよう!」
女の子が指を指す方に目線を向けるが、茂みしかなく、バッタなんていなかった。
「バッタ……? 何もいないよ?」
「ふっふっ! ここが虫捕りの面白いとこだよ! よーく茂みを見てみ?」
「んー?」
確かに……なんか他の草の色と違うものがあるような……?
じーっと茂みを凝視していると、周りの草の色と明らかに違うものがあった。
「あ! 何かいる!」
「見つけた? なら後は簡単! 音を立てずに近寄って虫取り網の射程圏内になったらゲットだよ!」
「音を立てずに……近寄って……。えい!!」
思いっ切り網を振り下ろした。手応えはあったが、現実は非情なり。理想としていた場所と網を振り下ろした位置が大幅にズレていた。
網の音にビックリしたバッタは、キチキチと羽音を立てながら奥の林へと飛んでいってしまった。
逃げ去っていくバッタの後ろ姿を、哀愁を帯びた佇まいで見届ける。
「……逃げられちゃった」
「でも初めてにしてはいい腰つきだったよ!」
「なんか変な風に聞こえる……」
「反省を活かしてリトライだよ! ほら! あそこにもいるよ!」
指を指した場所には、さっきより大きいバッタがいた。
意気揚々としている女の子だったが、私は一旦網を下げた。
「……その前にお手本を見せてほしいな。そうすれば何かコツが掴めるかもしれないし」
「おっけぇ! 私の必殺技をとくとご覧あれ!」
すると、女の子は私のように音を立てずにバッタへと歩み寄っていった。私と同じ感じかと思いきや、構え方が全く違っていた。
それはまるでフェンシングのような構えであり、ただの虫取り網が強大な武器に見えた。
「……ここ!!」
狙いが定まったのか、女の子は声を上げて網を突き出した。――しかし、突き出すだけではなかった。網がバッタに触れる刹那、クイッと手を曲げて網を半回転させた。
一瞬の出来事だったので、バッタも反応しきれずに捕まってしまった。
透かさず逃げ口を塞ぐために網を地面に叩きつけ、バッタの捕獲は成功した。
「す、凄い! あんな一瞬で!」
「ふっ! こんなのお茶の子さいさいよ! さーてと。このバッタはどんな種類だろうな……?」
網を少しだけ持ち上げて、女の子は腕をつっこむ。私は女の子の発言に引っかかりを感じ、疑問を呈する。
「え? バッタに種類なんてあるの!?」
「そうだよ! 同じバッタでも生態とか形が全然違うんだよ!」
そうだったんだ……。バッタはバッタしかいないと思ってた。
「それで? そのバッタはなんていうの?」
「んとねぇー! ……これは『ショウリョウバッタ』だね!」
「しょうりょうばった……?」
初めて聞いた名前に頭上にハテナを浮かべる。女の子は網からバッタを取り出し、私の眼前にショウリョウバッタを至近距離にまで近づけてきた。
私は思わずショウリョウバッタから遠のいた。
「きゃっ!」
「どうどう? 可愛い顔してるでしょ!?」
「…………」
さっきはビックリして声を上げちゃったけど……よーく見ると中々可愛い顔してる……かも?
「触ってみる?」
「う……うん……」
女の子からショウリョウバッタを受け取り、チョコンと掌に乗せ、指で優しく押さえつける。
触り心地は硬くてあまり良くはなかったが、まるで稲を触っているみたいで、おばあちゃん家を思い出す懐かしい触り心地だった。
強張っていた私の表情が、薄紙をはぐように緩んでいくのを感じた。
「私……虫はあんまり好きじゃないけど、この子は好きかも……」
「虫あんまり好きじゃないの? なら私が貴方を虫好きにしてあげる! 名前はなんていうの?」
「私は……『蝶野蜜花』だよ」
「蜜花ちゃんか! 私は『虫鹿日夏』! 宜しくね!」
日夏ちゃんはキラキラと目を輝かせ手を握ってくる。しかし、私はバッタがいることを忘れてしまっていて、手を握るために指を放してしまい、ショウリョウバッタはどこかへ飛んでいってしまった。
日夏ちゃんは「あっ」と間抜けな声を出す。
「ごめんごめん、ショウリョウバッタがいることすっかり忘れてたよ……。それじゃあ次は蝶々を捕まえに行くよ! 虫好きになるためには虫取りが大事だよ!」
「分かった!!」
いつも虫はキモイとか人類の不純物としか思っていなかったけど、こうやって虫取りを通して虫と触れ合ってみると愛着が湧くって言うか……また違った見方ができるね。
帰ったらお父さんとお母さんにショウリョウバッタのことを話そうかな……ん?
左手に違和感を抱き、チラッと掌を見てみる。そこには、謎の液体が付着していた。
私の本能が警告音を発している気がするから、念の為日夏ちゃんに聞いてみる……。
「……ねぇ……日夏ちゃん? この私の掌の上にある茶色の液体は何……?」
「ん? あー! それはショウリョウバッタの『ゲロ』だよ!」
噓偽りもない純粋な笑顔をした日夏ちゃんの発言を聞いた瞬間……私の体は小刻みに震えだし……。
「いやぁぁぁぁ!! やっぱり虫は大っ嫌いぃぃぃぃ!!」
「無害だから! 人体には影響ないから!」
「何か拭くもの! 洗うもの! 何でもいいからゲロを消してぇぇぇぇ!!」
樹海から謎の発狂が木霊し、近くのジョギング中のおじさん達をビビらせた。