ちょうちょ
ふと、目を覚ました。枕代わりにしていた自分の腕からゆっくりと頭を起こして、寝ぼけまなこを擦る。
昨日の引っ越しの準備でかなり疲労が溜まったので、正直まだ寝ていたい。
しかし、二度寝をする気分にもならなかったので、ゆっくりと体を起こして車窓から顔を覗かせると、今まで見たことがない景色が広がっていた。
と言っても劇的な変化は全く見られないので、目新しい点はない。窓から目を離して大きくあくびをしていると、運転席から一人の男性が顔を覗かせてきた。
「おお、起きたか。そろそろ到着するから荷物を背負っておけよ?」
「だっちゃん運転疲れていない? 疲れているなら栄養ドリンク買ってきてあげるわよ?」
「平気平気! 着いたら『あの子達』がいるんだ。疲れなんて吹っ飛ぶさ!」
「それもそうよね!」
運転席でハンドルを握っているのは、イケメンで面倒見も良い、有名人で高学歴の私のお父さん「蝶野翔」。昔から俳優をやっていたらしく、今の芸能界でも現在進行形で活躍をしている。学生時代は成績優秀スポーツ万能、誰とも仲良くできるなど「超」が付く完璧人間だったらしい。
助手席に座っているのは、美人で優しい私のお母さん「蝶野花子」。楽器をなんでも演奏でき、スポーツもなんでも活躍することができ……数えだしたら止まらないほどの天賦の才能を持っている。最近はアルティメットという、最早名前を聞いただけでは分からないスポーツを始めたらしい。
これだけ聞けば、理想の両親と言っても過言ではないだろう。
そう。
『これだけ』聞けば……。
しばらくすると引っ越し先の家に到着した。窓越しから家の外見を一見する。前住んでいた家よりこじんまりとしているけど、私はこんな感じの雰囲気の方が好きだった。
お父さんが窓から顔を出して、きちんと白線内に入るようにしっかりと駐車する。
しっかりと駐車できたお父さんはエンジンを切り、シートベルトを外したので、私も同じように外した。
「もう到着か……」
早く家の中を見たい気持ちと、もうしばらく車内でゆっくりしていたい葛藤に悩まされながらも、しぶしぶリュックサックを背負った。
すると、お父さんとお母さんは自分達の荷物さえも忘れて、突風のように家の中へと疾駆した。
「……始まった」
幸いほとんどの荷物は既に家に届いているので、持つ量は少なかった。しっかりとドライブキーを外して、外から鍵をかける。
一息ついてから、家のドアノブを掴む。感触が全く違っていたが、直ぐに慣れるだろうと思い、ガチャリとドアノブをひねってドアを開けた。
「暗くて怖かっただろぉ~? 今出してやるからなぁ~」
「ごめんねぇ。極上の餌あげるから機嫌直してねぇ~」
間取りの確認そっちのけでリビングへと向かう。そして、サンタさんからのプレゼントを開封する子供のようにワクワクしながら、いくつもの段ボールを開ける。
その中には……。
「俺の愛しの『ニセハナマオウカマキリ』ちゃぁん! よく我慢できたねぇ。偉い偉い!」
「私の『ブルーモルフォ』ちゃん! 美味しい蜜をあげるから待ってねぇ!」
中から出てきたのは青色の虫。赤色の虫。よく分からない色の虫等々……。両親はそれらに声をかけながら一匹ずつ丁寧に、段ボールから出していった。
その数……ぱっと見百匹。この虫達に囲まれて十年くらい経った私までも寒気がするのだから、普通の人が見たら失神するだろう。
……説明が遅れたけど、私は二人みたいに虫は好きではない。ていうか、超嫌い! 昔はまだ好きだったから、あんなゲテモノをキャッキャッしながら触っていた自分が今では恐ろしい……。
「……普通、家具の配置とかが先じゃない?」
「この子達の安否の確認の方が重要だぞ! 良し! 全員異常なしだな! 配送業者に必死になって頼んだ甲斐があったな」
段ボールから全ての虫かごを取り出終え、お父さんは額にかいた汗を拭った。
宝石のように光輝いていた茶色の床は、足の踏み場も輝きも無いくらいの無数の虫かごで覆いつくされてしまった。こんなビフォーアフターは嫌だ。
「私の子達も平気よ! だっちゃんが泣いて頼んだお陰ね!」
この虫達を無事に運ぶために、お父さんは泣いてお願いした。配送業者に「大の大人が泣いてまでの大事な物なんだから、マジでしっかりと運んでくれよぉぉ!」という切迫を感じさせたのだ。
そのとき私も同じ空間にいたのだが、思い出すだけで死にたくなる。
溜め息を吐いて、私は持ってきた荷物をソファーの傍に据え置く。
「ハァ……。荷物ここに置いておくね」
「あ! 蜜花の部屋は二階よ。もう家具とか入った段ボールがあるから好きなように装飾していいわよ。もし大変な事があったら呼んでね」
そう言うと、二人はまた意識を虫だけに向けて自分だけの世界に入っていった。
私は小さな溜め息を吐いて、二階へと続く階段を登っていくのだった。
「――ハァ……」
ベットに寝転んで枕に顔をうずめる。素材が羽ではなくビーズになっていたので、少し顔に痛みを感じたが、特に気にしなかった。
装飾をしようと立ち上がろうとしたが、体が重く感じたので動けなかった。
「……なんで引っ越しなんか……。友達と別れたくなかったのに」
引っ越しの理由は、お父さんの住所がバレてしまったのだ。別にバレても平気かと思うかもしれないが、お父さんは芸能界の星。不特定多数のファンが一斉に押し寄せてくる。
そして、苦渋の策だったが引っ越しをしたというわけだ。自分のため……お父さんが私達のために思ってしたことなのだが、心の奥でモヤモヤが残っている。
「新しい友達なんてできるのかな……」
重くなった体を大儀そうに起き上がらせて、窓の外を眺める。その瞬間モノレールが通り、何も考えずに眺めていると、ドアがコンコンと鳴った。
「いいよ」と返事をすると、お父さんとお母さんがひょっこりと顔を出した。
「中々良い部屋じゃない!」
「気に入ってくれたか?」
「…………」
無言で下を向くと、二人は柔らかい笑みを浮かべて優しく抱きしめてきた。
「無理をさせてすまない……。お父さんのせいで蜜花に辛い思いさせて……」
「そんなこと……」
「私達が責任もって精一杯蜜花のサポートをしてあげるから……許してちょうだい……」
すると、心の奥にあった黒いモヤモヤが一瞬のうちでなくなったような気がした。
私も小さい声で「私も頑張るから……」と言った。
「ありがとうな蜜花」
「後片付けは私達でやるから蜜花はお外で気分転換してきたらどうかしら?」
「そうだな。外に出れば新しい友達ができるかもしれないぞ?」
「うん……。そうしてみる」
先程までの暗さが噓のように無くなり「行ってきまーす!」と、二人に満面の笑みを浮かべて階段を下りていった。
私が居なくなると、二人はお互いに目を合わせて笑い合った。
「……どこに行けば人がたくさんいるのかな?」
辺りを見渡しても、特に変わったものはない。どこに行こうか悩んでいると、またモノレールが私の頭上を通り過ぎていった。
その行先を見届けていると、木が生い茂っている場所があった。
「何だろうあそこ……」
小走りでその場所へ向かっていく。途中信号機があったが渡る瞬間に青に変わり、運がいいなと思っているとその場所に着いた。
「……千葉公園?」
入り口には樹齢が高そうな木がそびえ立っていた。その木にしばらく見惚れていたが、我に返り、公園の中に足を踏み込んだ。
中にはジョギングや食事をしている人が沢山いた。しかし、それよりも注目したのは……。
「綺麗……」
空を覆い隠してしまうほどの木々。正に、自然が創り出した高尚なカーテンだった。
上を見ながらゆっくり歩いていると、つまずきそうになってしまった。
その反動により意識が元に戻り、誰にも見られていないか辺りを見回すと、今度は横にある花に釘つけになってしまった。
「綺麗な紫色……なんて花なんだろう?」
「それはね、花菖蒲という花だよ」
急に声をかけられ、猫がビックリしたようにその場で飛び跳ねてしまった。
心臓をバクバクと鼓動させながら、声がする方へ目を向ける。そこには、優しそうなおじいさんが柔和な笑みをしていた。
「そ、そうなんですか。ありがとうございます!」
「どういたしまして。お嬢ちゃんここに来るのは初めてなのかい?」
「はい! 今日引っ越してきたばっかりなので……。あの! ここ以外にもオススメの場所とかあるんですか?」
そう聞くと、おじいさんはおとがいに手を当てて「うーん……」と唸るように悩んだ。
「そうだねぇ……。あ! あの分かれ道を左に進んだ所に綺麗な場所があるよ」
「ご親切にどうも! 行ってみます!」
「気をつけてね」
おじいさんに別れの挨拶を告げて分かれ道を左に進んでいった。すると、辺りに池が広がっていることに気が付いた。
「うわー!! 凄い……!」
手すりをしっかりと握って池を覗き込むと、小さな亀が頭をひょっこりと出した。ビックリしてしまったのか、亀は直ぐに池の中に潜っていってしまった。
その愛らしい行動に、思わずクスリと笑ってしまう。
「色んな動物がいるんだ。――それより! おじいさんが教えてくれた場所に行かないと!」
手すりを放して奥へと向かう道中、売店から漂う甘いチョコレートの匂いに少しお腹が空いてきてしまった。生憎お金を持っていないので、拳を握りしめてその場を通り過ぎた。
そんな誘惑を乗り越えて着いた場所は……。
「これって……『大賀ハス』じゃん!」
広々とした池の反対側に、木造の建築物を取り囲むように大賀ハスが凛々と咲き誇っていた。
この植物は私でも知っている。ある博士が縄文時代にあった種を発芽を成功させたことで産まれた花だ。
私は一度自由研究で調べたので、物凄く印象に残っている。
「こんなものを見れるなんて……気分晴れたかも」
時間さえも忘れて大賀ハスを眺めていると、遠くから「捕まえて!」と聞こえてきた。何事かと思い後ろを向くと、蝶々が私の目の前に飛んでいた。
私は声にもならない叫びを上げて、その場に尻餅をついた。
蝶々は私を通り越してどこかへ飛んでいってしまった。すると、その後ろから網のような物と虫かごを持ち、ピンク色のツインテールが麦わら帽子からはみ出ている、可愛い女の子が現れた。
「くっそぉ! あの子中々しぶといな!」
「いててて……一体何?」
「悪いけど少し付き合ってもらうよ! さぁ! 立って立って!」
「え、えぇ!?」
その子は私の手を掴んで起き上がらせると、手を掴まれたまま蝶々が逃げていったであろう方向へと連れていかれたのだった。