夜の終わり
夜を眺めていた。
田舎でも都会でも無い町のどこか人気の無い坂の上の街灯の下。
右手には紅い口紅の付いた吸いかけの煙草。
スマホはもう何時間か前から定期的に振動するけど、さして興味もないから放置している。
人が近づいていることは知っていた。
夜は足音がよく響く。
冬ほどじゃないけど、夏の夜だって空気は澄んでいて、人には手にし難い静寂がある。
何秒か、何分か。
聞き飽きたリズムは少しずつ大きくなって、ようやく止まる。
「やあ。」
全てが面倒で、首から上だけで振り返る。見飽きた男の顔がある。
不健康そうな青白い顔と、長いくせに清潔感のある髪。
「やあ。」
オウムのように同じ言葉を返して、ポケットから血の着いたポケットナイフを取り出して、そのままそれを胸に突き立てる。
刺し方は知っていた。
血が溢れて、白いシャツを汚した。
真っ赤に染まった手を見て、ようやく少し正気に戻れた気がした。
「捕まりたいの?」
微動だにしていない男が笑顔で、少し冷たい声で聞いてくる。
不気味な響きが夏の夜に溶けて、心地よかった。
「冷たかったんだ。」
「何が?」
「手が。胸が、体が。」
生ぬるい。
確かに人の中を流れていた血液が手の中を流れ落ちていく。
それを失うのが怖くて、ナイフが刺さったまま男の胸に倒れ込む。
大した抵抗もしない男はそのまま私を抱き寄せる。
数秒。少し力を込めて、そして私の身体を引き離す。
「夜は寒いね。」
そう言って彼は胸に刺さったナイフを引き抜く。
もう血は止まっている。
「煙草、まだ吸ってるの?」
「お前がいなくなるから。」
「ごめん。」
悲しそうに微笑んだそいつの顔を見て、次はどこを刺してやろうかと考える。
どうせ治るのだから、一度徹底的に切り刻んでやろうかと思った。
けど、そんなのに意味は無い。無かった。
ただ血が流れて、泣きたくなって、それだけだ。
「もういいの?」
意外そうな顔でそいつが尋ねてくる。
やっぱり、刺し殺してやろうか。
「こっちのセリフだ。もう…いいのか。」
思わず弱気になる。らしくない。知っている。
「ああ。もう大丈夫。きっと上手くいく。」
そういったそいつがあんまりに悲しそうで、胸に氷でも突き立てられたみたいになる。
「明日の朝には星が降って、天使の迎えが降りてくる。問題ない。全部、上手くいく。」
震える声で言うそいつを、今度は私が抱き寄せる。強く、強く、絞め殺すくらいに。
「馬鹿だな、ほんと。」
神様の使いが、人を見殺しにできないなんて。
「いいんだ。決めたんだから。」
私の胸の中で震えているこいつは、まだ18にもなっていない。
別に、大したことじゃない。年齢なんか。
ただ、少し哀しくなっただけだ。
「ほら、帰るぞ。」
私の身体からそいつを引き離して、手を引く。
知りもしない町の夜の坂道。
どこかで、星の降る音がした。