「月が綺麗な夜に」
「月が綺麗ですね」っていう言葉を聞いたことがある?有名な言葉。そりゃ知ってるよね。最近は現代文の授業でもやったりしてるし。返しの「私、死んでもいいわ」っていうのも有名よね。あまり好きじゃない?回りくどい?あー確かに。ちょっと遠いよね。私らなんかパッと言われたら「どっちやの」って思っちゃうし。そうそう、星バージョンもあるんだよ。「あなたは私の想いを知らないでしょうね」っていうの。苦い顔しないでよぉ。シチュエーションとかも含めてよく考えてみたらさ、すごく綺麗だと思わない?言われたい、言いたいかどうかは別として。二人しかいない屋上で、相手は純粋に綺麗だなぁって見てる隣で呟くの。ね。わかんないかぁ。そうだ、もっとわかりやすいのもあるよ。寒いですねって言ったら、抱きしめてほしいなって意味なのだって。ん~そう。こっちはわかりやすすぎだよね。なんていうか、風情がない。もっと隠せバカ!って言いたくなる。
私が何を伝えたいかって言われたら「隠されたこと」の良さ、かな。
十六歳の夏、そんな会話を、二人しかいない教室で先輩としていた。
それは「花言葉は好き?何か知っている?」「好きですよ。ぱっと思いつくのは……レタスの花言葉の牛乳ですかね」というものから始まった。ぱらぱらと雨が降っていた。
先輩のいつも言っていた「隠されたこと」には魅力を感じていた。月が綺麗な方は理解できずともだ。隠された意味があることに魅力を感じているのだと思う。それこそ単純に、すごいなぁ、綺麗だなぁと思える。影に隠れたエピソードがこっそりと、蛍のように輝いている。それが心にとすっと刺さった時、感動を覚える。それが楽しくてたまらなかったのだ。
「なかなか珍しいやつを知ってるねぇ。それ、日本だけのネタみたいなものだって知ってた?」
「まじっすか……。先輩は、何が好きなんですか」
「私はねぇ、青いバラ!知っている?」
「不可能、と言われている反面、神の寵愛や希望……でしたっけ」
「そう!ありきたりかもだけど、素敵だよねぇ。できた背景も、理由から何まで。大好き。どの花にも言える事なんだけど、美しいし、すごく頑張っているのが伝わってくるから。人も、花も、みーんな」
その後も、僕の軽い相槌に飽きもせず、先輩は長いこと話していた。先輩には失礼だが、いつの間にか、例の月の話題になっていた。
(変な順番で書いてしまったと自分でも思う。申し訳ない。)
隠されたことの良さには僕も全面賛成だったので、先輩は提案した。「似た系統の新しい言葉を作ってみよう」と。
「例えば、どんなのですか」
「そーだなぁー。綺麗に晴れましたね、はどうかなぁ」
「予想はつきますけど、先輩の言う良いシチュエーションってやつはできないんじゃないですかね……。雨降ってんのにそれ言われても、みたいな。もっと上を目指せますよ」
「んん……難しいなぁ~。あ、じゃあ虹が出るんじゃないでしょうかは?」
「……意味はなんですか?」
「へっへぇ!あのね、虹って雨が降った後に、太陽が出て運が良ければ見れるじゃない?だから、「もっといいことがあるかも」とか、「今私は幸せです」っていう意味!」
太陽くらい眩しく、先輩が笑う。
「晴れましたね、より断然いいと思います」
「へへぇ~。けっこう難しいなぁ、これ」
「発案者なのに?」
「やりたいなってぱっと思っただけだから……。それじゃあ!きみの隠し言葉は?」
この時、僕も作らなければいけないことをすっかり忘れていた。そこで咄嗟に思いついたのが、一番有名な月をもじることだった。
「そうですね。月が綺麗ですね、をもじったんですけど」
「ふむふむ」
「月が、あまり綺麗に見えないですねっていうのを」
「ほう!まったく逆!新しい………あ」
「どうしたんですか?」
「虹が、出そうだよ」
雨が上がっていた。その時の言葉に深い意味がこめられていたのか、単純に口をついて出ただけなのか、僕には計り知れなかった。
それから数ヶ月後。季節はすっかり冬で、日暮れも早く、僕たちが帰るころには真っ暗だった。紺の空と満点の星屑と、時折漂う白い吐息が印象的だったのを今でも覚えている。
ただでさえ儚い存在であるような先輩は、月明かりの下で天女のように朧気に光っていたことも。
「冬だねぇ」
「そうですね。濃い冬だ」
「いいねぇ、その表現。好き」
僕は素直に、ありがとうございますと呟いた。
僕らはしばらく歩いた。途中公園があったのだが、この日、どこの気が向いたのか先輩が「座らない?」と持ちかけてきた。それに僕は特に何を思うわけでもなく、「はい」と答えた。
「私、冬好きだよ」
「なんでですか」
よく体調崩すのに、という言葉は飲み下す。
「きみが言った通り、濃いから。なんだか落ち着かない?空気が重たくて、包まれている感じがする。その反面防寒具はバッチリだからふわふわもする。空は綺麗。この寒さでも力強く生きる草花は素敵。雰囲気はずっと落ち着いていて……。考え事をするのにもぴったりじゃない?そんな感じ」
「なるほど、言われてみれば」
「きみは?」
「秋派だったんですけど、たった今冬派になりました」
「そんな急に。ハーフでもいいのに」
「じゃあ、秋冬派で」
「それがいいよ」
「先輩」
「ん?」
「星も綺麗ですよ」
沈黙が流れた。嫌な沈黙ではなく、風で残った葉がカサカサ擦れ、先輩が小動物みたく可愛らしく唸る。そんな、うっすらとした心地の良い沈黙。
「ねぇ」
「なんでしょう」
「いつか話した、隠された言葉、覚えてる?」
「はい」
「きみが作ったやつ、意味なんだったの?そういや聞いてなかったなと思って」
あれは、と言葉にならない声が口をかすめた。
「隣にいる綺麗な人が、月をも霞ませてしまう」
「そうかぁ。いいねぇ。綺麗な言葉。愛してる、よりも深く感じる。いい意味で。上手だなぁ、かなわないや」
「先輩」
「今、言える?」
先輩は月の儚さと、太陽の明るさを足したような笑顔をした。僕がしばらくの逡巡の後に口を開こうとすると、ふふっと綿毛が弾けるように声を上げて笑った。
「嘘だよぉ。そんなに深刻な顔しないで」
ごほっ、ごほっと、先輩は強めの咳をした。この時、手元に血が付いているのが見えてしまった。
「先輩、帰りましょう」
「……寒いねぇ」
そう言うと、先輩の体はぐらりと傾いた。
あれから数余年。
思えば、あれは先輩の精一杯の抵抗であり、愛情表現だったのかもしれない。
思えば、先輩は僕を好いてくれていたのかもしれない。
思えば、僕は「隠されたこと」を言い訳に、言葉が足りなかったのかもしれない。
思えば、僕は、先輩を好いていた。隠されたことなどないように、眩しく生きる先輩を。
先輩へ、今この言葉を受け取っていだだけないでしょうか
今夜は月が綺麗です。月ですら霞むように美しい先輩がいないから。
この一節の始原となり、美しい言葉を愛し、十七にして時を永結させた先輩に捧ぐ
副題:有明の月を追う □□新聞××××号 二〇××年○月△日 都内某所より