具体的にはタバコを吸ってサムシングをイートした
観念的というか形而上学的というか詩的というか、もっとわかりやすく書くと抽象的な話が苦手になった。「つまりどういうことで?」「具体的なエピソードを」「マイガッ、わかるようなわからんような話だ」ってなる。推量して、推測して、推論して、推理して、文章の裏を、話の裏を読み取ろうとすればまぁそれは社会生活を営む人間ですからおいどんもそれは無理ではないですたい。でも、それはこっちの努力次第。「キミは誤読を恐れないので?」
思考回路が戸田奈津子訳になってしまう。陽気な黒人になってしまう。ブラザー、日常会話は噺家のネタでも文豪の小説でもエッセイストのコラムでもないんだぜ、もっと易しくやろうぜ、って具合に。
ここまで書いて、でも思うのは「話がつまらない人だと思われるのは嫌だぜハニー」ということ。弱気な黒人になってしまう。面白いというのは、それは大層すばらしいことではあるのだけど、日常で面白くある必要はそれほどない。喜怒哀楽の頭としっぽが大切なのだ。そこにある笑いは呵々大笑ちゃうねん、ほっと一息ブレイクタイムの微笑みやんけ。その心はアガりが大切ということ。アゲるということ。
アゲるというとなんだか大げさな、フロア熱狂、モッシュダイブ、拳を点に突き上げオイオイ! とおらび散らすような情景が浮かびますが、もうちょい穏便なのを想像していただいて、そこは。饒舌かつウィットに富んだスピーチで聴衆を沸かしまくるようでなくていいから、せめてサガらずに微々たるもんでいいからアゲていけたら俺ら、私ら、モアベターなイキフンで生きていけるはず、それくらいの匂いでいきたいよねという話。
なんか悲しいことがあってサガりたいときも、具体的に、仔細に、冷徹な筆でそれを書いて伝えようというのは無理がある。でも、やんわりと「つらいわ」と伝えられた人に残るのは、書き手(話者)の感情だけ。エモハラやんけ。「これこれこういうことがあってわたしは悲しい。できればその原因となった人にはぜひ苦しんで死んでほしいと思います」までやってくれたら「そらまずいです、ぜひ懲らしめましょう」「そうしましょう」となるわけである。ちょっと不穏な書き方になったけど、ちゃうねん、原因を突き止めて同じ轍を踏まないように改善できるよねという話である。
ここまで書いて、でも思うのは「感情だけ伝えたいときって、あるよね~」ということ。女性が男性に「怒ってる?」と聞いたとしてぐちぐちと「怒ってないよ。どうしてそう思ったのかな? 言ってくれれば改善するから詳細に教えて」と男性が言えばただちに「わからんやっちゃな」と思われ(直接そうは言わず、思うだけ)愛想をつかされてもまぁ詮方ないでしょう。察しろっちゅーねん、という話。察してくれって考えがどうしても嫌でたまらない人というのもいる。「俺は男らしく思った全てを理論的に語るよう努める」と胸筋をムキムキさせながら言う人もいる、いない。
ああコミュニケーション、カンバセーション、わたしたちは上手にやっていきたいよなぁ。易しく、優しく、ときに根気よく、ときに小気味よく、察してほしい相手にはボディコミュニケーションで挑んで返り討ちにあいてぇ。
結局何が言いたいのか、伝えたいのか、俺はそれがわからない。そこはほら、うまいことやっといてくれよな。