プロローグ
小説家になろう初投稿作品です。
ご意見等があれば、ぜひ参考にさせていただきたいので、よろしくお願いします。
「うわぁ、おっきぃ!」
それはあまりにも巨大な樹だった。見上げれば雲を突き抜け、その幹に沿って歩けば同じ場所に戻ってくるまでに日が3度昇る。世界を貫くように聳え立つそれは、神話の時代が終わりを告げた頃から世界樹と呼ばれていた。
世界樹を見上げるのは、人で言うなら年の頃3つ程の小さな女の子。新緑を思わせるような鮮やかな緑の髪を緩やかにウェーブさせた、幼いながらに見る者をハッとさせるような美しい少女だ。彼女を森の姫君だと紹介されて、疑う者は誰一人としていない。ただし、実際に少女の姿を見た者は、その容貌よりも彼女の目に強い印象を受ける。髪と同じく新緑の瞳に宿るのは『元気』や『好奇心』で、その性質はおよそ姫君とは程遠い。
「おじーさま、なにをしているの?」
「世界樹様に祈りを捧げているのじゃよ」
少女と共に世界樹の前に立つ男は胸の前で両手を合わせ、静かに目を閉じていた。その顔には深い年輪が刻まれている。
「いのり?」
「そうじゃ。わしらがこうしていられるのも、世界樹様のおかげなんじゃよ」
「ふーん、せかいじゅさまってえらいのね」
少女は壁のように聳え立つ太い幹に触れて、その包み込むような柔らかい感触を知るや、今度は全身で抱き付いた。
世界樹は慈しむかのように少女の身体を優しく押し返す。
「こりゃ、何をやっとるか!?」
「えー」
襟首を掴まれて強引に引き離された少女は頗る不満顔だ。
男は言い聞かせるようにして、少女の頭を優しく撫でる。
「世界樹様はわしら、いや、生きとし生けるもの全ての親なんじゃぞ」
「おやってなぁに?」
「みんな、世界樹様から生まれたということじゃ」
「あたしも?」
少女は蕾のように小さな指先を自分に向けて、ちょこんと首を横に倒す。
「そうじゃ。フェリア、お前も世界樹様から生まれたんじゃよ」
「そーなんだ」
改めて、少女-フェリア-は目の前の世界樹を見上げた。親というのはよく分からないけど、この樹がフェリアに対して深い愛情を抱いていることは分かる。
「皆、世界樹様から生まれて世界樹様の元へ帰る。人の子も、森の動物たちも、わしらのような妖精もな」
男は皺だらけの顔を上げると、最後に一度、深々と頭を下げた。隣で見ていたフェリアもそれを真似てお辞儀をする。
「それじゃあ、帰るかの」
「はーい」
男はフェリアの小さな手を引いて、来た方向へと歩き始める。
深い深い森の中、導くように木漏れ日が光の道を作っていた。
一見すると何もない花畑を前に、すみれ色の少女が佇んでいる。少女から大人へと脱皮する直前の、可憐さと美しさを兼ね備えた少女だ。
少女はすぅと息を吸い込んで、そこにいるはずの誰かに向けて大気を震わせた。
「フェリア、長老様が探していたわよ?」
空気に染み込むようにして、辺り一帯にその声が伝わる。葉擦れの音と共に、新緑の髪が草花の間から顔を出した。
「えーっ!シャーリー、まさかあたしの居場所、お爺様に教えてないよね!?」
後ろで束ねた髪を尻尾のように揺らして、フェリアはシャーリーに問い詰める。
常春の妖精の郷で草花が99も代替わりした頃、フェリアは人で言えば10歳相当にまで成長していた。あの頃から変わらない好奇心に行動力が備わり、郷に騒ぎを起こしたことも一度や二度ではない。そしてその度に、悠久の時を生きる妖精でさえうんざりするほどの長き時を、長老のお説教と共に過ごさなければならなかった。
「あなた、また何かやったの?」
「何もやってないわよ。お爺様ったら、あたしが何をやっても怒るんだもの」
「それだけあなたが可愛いのよ。知ってる?長老様をお爺様なんて呼ぶのはあなただけよ?」
「どうして?みんなも呼べばいいのに」
妖精には血縁と言うものがなく、長老とフェリアの間にももちろん、血縁関係はない。それでもフェリアにとって長老は愛すべき『お爺様』で、シャーリーは『姉』だった。
「やめておくわ」
苦笑いを浮かべて、シャーリーは小さく頭を横に振った。
「そう。それじゃあたしは行くから。バイバイ」
「あ、待ちなさいっ!」
「嫌よっ!お爺様の長ったらしいお説教なんて、もううんざりだわ!」
フェリアはシャーリーに背を向けて、木々の中に飛び込んだ。フェリアと違い、あまり活動的でないシャーリーに、この道なき道を行くフェリアは追うことは出来ない。
「もう、あの子ったら……。また私が長老様に怒られるじゃない」
そんな、当たり前のように繰り返してきた行為を、シャーリーは微笑を浮かべて受け入れた。
木々の間をすり抜けて、足音が追ってきていないことを確認したフェリアは、今ここにいない者に向けて口を尖らせた。
「お爺様ったら、口煩いんだから」
シャーリーが言うように、フェリアが可愛がられているというのは確かだろう。
フェリアは郷で最も幼く、次に若いシャーリーでさえ、成体となる日はそう遠くない。つまり、郷の中でフェリアだけが幼体であるが故に、郷の年長者達はフェリアに構いがちになっていた。
「過保護すぎるのよ」
もっと幼い頃は、どこへ行くにも手を引かれていた。その事自体に疑問はなく、それは今にしてみても同じことだ。
しかし、フェリアはもう何も知らなかった頃とは違う。誰かに手を引いてもらわなくても、自分でどこへでも行ける。
今日も、そのためにこうして森へ来たのだ。
「たしか、この先のはずよね」
何も知らない者が迷い込めば二度と抜けることは叶わない深い森の中を、しかしフェリアは迷いなく進む。
はたして、フェリアは最後の木々をすり抜けて、開けた場所に目的の物を見つけた。
「あなたたち、今日も綺麗ね」
そこは日の光をいっぱいに浴びた小さな花が一面に咲く花畑。森の奥深くにあるせいか、他の妖精の姿は見かけない。少し前にフェリアが見つけた穴場だった。
「うーん、いい気持ち」
フェリアは大きく深呼吸して、草花から溢れる精気を胸一杯に吸い込んだ。
妖精は人のように食事をしたりしない代わりに、こうして自然の恵みから齎される精気を吸収することで、その存在を維持している。
ひっそりと咲き誇る花畑の空気は、誰にも侵されていない、混じり気なしの精気をたっぷりと含んでいた。
「ごちそうさま。みんな、今日も元気そうで良かったわ」
一つ一つの花を手に取って、フェリアは語り掛ける。そよ風に靡く花々が心地良い葉擦れの音を奏でた。
「ありがとう。ふぁ……」
うららかな日差しと甘い香りが微睡みを誘う。目蓋の落ちかかるフェリアを、草花の奏でる音楽が包み込んだ。
「えっ?ダメよ、そんなの。あなたたちが潰れてしまうわ」
躊躇うフェリアを優しく受け入れるように、無数の蔓が伸びて塒を巻いた。フェリアが両手足を伸ばしてもまだ余裕のある、天然のベッドだ。
「ここに寝ればいいの?そう、分かったわ」
誘われるままに、フェリアは蔓の上に身を委ねた。身体の半分ほどを沈み込ませると、包み込むような草の香りに誘われて、間もなく眠りに落ちた。
森の湖に揺蕩いながら、フェリアは歌う。それに合わせて木々が歌い、草花が奏でる。妖精には馴染みの深い、森の演奏会だ。
フェリアの心が躍れば、森中が歓喜の歌を歌う。郷の中でも、フェリアほど自然と心を通わせられる者はいない。
だからこそ、長老を始めとした郷の者たちはフェリアを憂えていた。
そんな楽しい一時からフェリアを現実に引き戻したのは、言い知れぬ胸騒ぎだった。
閉じていた目蓋を開いて、蔓のベッドから身を起こした。
「何?どうしたの?」
木々の、草花の落ち着かない気持ちが、フェリアの胸に伝わってくる。
これは不安?ううん、違う。この子たち、誰かを心配してる。
フェリアは草花が意識を向けている方角へ目を凝らして、そこにあるモノを見極めようとした。
日の光がほとんど届かない森の中を、小さな影が陽炎のように揺れる。
「ひっ!何よ、あれ……。まさか、お爺様が言っていた亡霊……?」
亡霊とは、現世での生を終え、さりとて世界樹の元へと帰らず彷徨う者。理から外れた存在ゆえ決して近づいてはならぬ、というのが郷の掟だ。
「でも、あれは」
そんな恐ろしいもののようには感じない。むしろ、このまま消えていってしまいそうなほど儚い。だからこそ、草花も心配している。
影が森を抜けて、花畑に姿を現す。日の光の下へと現れたのは、フェリアと背格好の良く似た少年だった。
微睡むような目に生気はなく、揺れる体は酷く頼りない。
「あなた、どうしたの?」
不思議と恐怖はなかった。フェリアの声に反応を示さず、少年は花畑に足を踏み入れる。
「あっ」
という間もなく、少年の身体が崩れ落ちた。気が付けば、フェリアはもう駆け出していた。その小さな身体を、花たちと一緒に優しく抱き止める。
「えっ、ちょっと、何よ」
弛緩してフェリアに身を預ける少年の身体はまるで羽のように軽い。心なしか、指先が透けて見えるようだ。そして何より、その身体は氷のように冷たかった。
「ちょっと、あなた!しっかりしなさいよ!ねえっ!」
身体を揺すっても、頬を叩いても、何の反応も返って来ない。少年はただ、今にも閉じかかりそうなその虚ろな目を虚空に漂わせていた。
「大変!精気が足りてないんだわ!」
精気は妖精が存在する上で、絶対に欠かせないものだ。精気を完全に失ってしまった妖精はその存在を維持することが出来なくなり、大気に溶け込む様に消えてしまう。
精気は多寡はあれど空気中に存在しているため、本来ならこのような状態になる事は有り得ない。極度に精気の薄い場所で何日も過ごしていたのだろうか。
「あなた、運が良かったわね。ここならたくさん、精気があるわよ」
フェリアは少年の身体を抱き起こして呼吸を助ける。皮膚からでも吸収できる為、必ずしも呼吸は必要はないのだが、効率性で言えば、やはり直接体内に取り入れることが出来る呼吸が一番だ。
「どういうことなの……?」
一向に快方に向かわない少年の様子に、フェリアの心が波立つ。
「おかしいわ。どうして回復しないの?ここはこんなに精気に満ち溢れているのに!」
考えてみれば、おかしいのはそれだけじゃない。少年の通ってきた森にだって、精気はあったはずだ。なのに、どうしてここまで衰弱していた?
フェリアは少年の口に手を翳して、その薄い胸の動きを見る。
「大変!もう呼吸する力も残ってないんだわ!」
手の平に掛かる吐息はそよ風ほどもなく、上下する胸は漣に満たない。
「どうすればいいの?何か直接、精気を取り入れる方法はないかしら?」
考えたところで、これまで当たり前のように精気を取り入れてきたフェリアに、特別な方法など思い付くはずもない。フェリアが精気を吸収する方法は呼吸か皮膚からだ。
「あっ、そうよ。どうして気付かなかったのかしら」
少年自身に精気を取り入れる力が残っていないのなら、フェリアが注いでやればいい。
「じゃあ、早速」
思い付いた方法を実行に移すべく少年に顔を寄せて、不意にフェリアは硬直した。
「あっ……」
迷っている間にも、少年はその存在感を希薄にし続けていた。もう、いつ消えてしまってもおかしくない。
「もう!」
フェリアは目を硬く閉じると、勢いをつけて少年の顔に近付けた。フェリアの薄い唇が少年のそれと重なる。唇に触れる冷たい感触に心臓が跳ねる。
フェリアは身体の中から精気をかき集めて、唇を通して少年へと送り込む。
消えちゃダメ。お願い、戻ってきて。
ただそれだけを祈って、フェリアは唇を重ね続けた。
どれくらいそうしていただろうか。いつしか、少年に僅かばかりの体温が戻ったことが、唇を通して分かった。
「助かった……の?」
フェリアは唇を離してそこに手を翳し、確かに上下する胸の動きに安堵した。両腕に掛かる重みは少年本来の物で、似た体格のフェリアには少しばかり荷が重い。
フェリアは新しく出来た蔓のベッドに少年の身体を下ろして、消滅の危機を脱した少年の目覚めを待った。
「う……ん……」
身動ぎをした少年が、眩しげにうっすらと目蓋を開けた。
「ようやく起きたわね。気分はどう?」
フェリアは少年の目の前に顔を突き出して、その様子を窺う。ずいぶんと顔色も良くなり、身体に透けている部分はどこにもない。見る限り、正常だ。
「気分は悪くないかしら?」
「……うん」
少年は掠れるような声とともに頷いた。まだ本調子ではないかもしれないが、しっかりと喋ることが出来るようだ。
「あたしのこと、どんな風に見える?」
何も写していなかった瞳はちゃんと戻っているだろうか。見たところ、まだぼんやりとしているようだが。
「……綺麗」
「な、何言ってるのよ!」
「……だって、どんな風に見えるかって」
「そういう意味じゃないわよ!」
「でも、すごく綺麗……」
目を細めて微かに微笑む少年に心臓が飛び跳ねる。薄い唇が象る緩やかな曲線は、まさしく神の造形だ。
フェリアはそっと自分の唇に触れて、その感触を思い出す。冷たくて、温かくて、とても柔らかかった。
「……君は誰なの?」
「あなたこそ、誰なの?見覚えがないけど、この辺の子じゃないわよね?」
少年は辺りを見回すと、そこはまったく見覚えのない場所だった。
「ここ、どこ……?」
「あら、迷子なの?」
「そうみたい」
他人事のように、少年はその境遇を受け入れた。まるで、自分がそこにいるのが当たり前のことのように思える。
「仕方ないわね。あたしの郷にいらっしゃい」
「いいの?」
「迷子を放ってはおけないでしょう?いいから付いてらっしゃい」
フェリアは立ち上がる少年の手を取って、森へと引っ張る。半ば引き摺られるような形で、少年はフェリアに付いて歩く。
「そうだ。あたしはフェリアって言うの。あなたのお名前は?」
「ぼくはジュリオ」
木漏れ日を浴びて微笑むジュリオは、透き通るように綺麗だった。