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初夏千秋  作者: 鳴海 千織
9/16

瞳に映るもの

――5月18日(水) 午前6時25分 秋良家付近・通学路――



 その朝、千早と顔を合わせるのが気まずかったので、ボク――秋良美月は、いつもよりも十分ほど早く家を後にした。


 まだ朝も早いというのに、せっかちな太陽の光が燦々さんさんと降り注いでいる。

 早朝の爽やかさとは対照的に、身体にまとわりつくようなじっとりとした熱が大気に満ち始めていた。


「……あっつ」


 片手を団扇うちわにしながら、河川敷の沿道をゆっくりと歩いていく。

 昨日あれほど息を切らして走ってきたのが嘘のように、穏やかで平坦な道程だった。


 ふと、左手の腕時計に目を落とす。

 いつもであれば、もうそろそろ千早が家に訪ねてくる頃だ。


 母親には、万が一千早が家に寄ったなら、先に行った旨を伝えるよう伝言を残してきた。

 尤も、あんなことがあった後だ。

 千早が如何に能天気でも、浮気現場を押さえられた次の日に、のこのこ彼女の家うちに迎えに来るような事はしないだろう。


 自分はこれほどまでに千早の事を考えているというのに、昨日から千早は一向に動きを見せない。


(千早に会ったら何て言おう)


 ゆったりとした足取りの中で、そんな事をぼんやりと考える。


「この裏切り者」


 一つ思いつく度、口に出して語感を確かめてみた。


「甲斐性なし」


(浮気はともかく甲斐性はあるしなぁ)


「泥棒猫」


(これは美奈ちゃん)


「人でなし」


(言われても、笑ってそうなんだよなぁ)


「クソビッチ」


(お下品)


「もうちゅーしたりおっぱい触らせたりしないからな」


(……意外と効果あるかも)


「捨てないで」


(ボク、そんなキャラじゃない)


「いい加減にしろ」


(お?)


 何の気なしに出てきた台詞は、しかし今のボクの心境に合致していた。


(こんなに千早の事を考えてるのに、よりによって美奈ちゃんと浮気するなんて、もういい加減にしろ)


 頭の中で申し訳なさそうに笑う千早に言葉を浴びせかけると、少しだけすっきりしたような、微かな罪悪感を感じるような、複雑な気持ちになる。


 そんな事を考えるうち、いつしかボクは学校前の坂道まで歩を進めていた。

 いつかの朝のように、なだらかに続く坂をゆっくりと登っていく。

 

 あの時と同じように、首筋にはやはり、嫌な汗がじんわりと浮かんでいた。


=======================================


――5月18日(水) 午前6時48分 神宮寺高校・玄関――


「秋良」


 学校の玄関で靴を履き替えていると、聞きなれた、聞きたかった声に名前を呼ばれた。

 声の方に顔を向けるとそこには。


「……千早」


 昨日から、否、もっと以前まえから想い続けてきた人の姿があった。

 そして、その横には泥棒猫、もとい美奈の姿も並んでいた。


「お早いお着きで」


 ボクと千早が言葉を紡ぐより早く、美奈が茶化すように言葉を投げた。


「お互い様でしょう、藤真先輩・・・・?」


 この場には自分達しかいないのだから、彼女を「美奈ちゃん」と呼んでも良かった。

 だが、今この時は、目の前の女を『先輩』という括りよりも近く、親しく扱うことはできなかった。


「それよりどうしたの、千早。水曜日は朝練休みじゃなかったっけ」


 意識せず、普段千早に放つ物とは大きく違った、低いトーンの声が出た。


「皆はお休みですよ」


(皆は? じゃあボクらは?)


 ボクが疑問を言葉にする前に、千早が先制した。


「私と秋良、美奈、部室にいる莉奈は特別レッスンです」


(レッスン?)


 頭の中で、その言葉を反芻はんすうする。

 そして、その意味が分かると同時に、ある感情が湧いてきた。


(……おかしい)


 そうだ。

 今日ボクが早く来ることも、千早を待たずに学校に向かうことも、千早は知らないはずだ。


 しかし、千早曰く『特別レッスン』のメンバーには私の名も含まれている。

 しかも、それに合わせて美奈も莉奈も既に学校に揃っている。

 

 彼女たちが今、この時間に、学校にいること自体がおかしいのだ。

 

 ボクが早く学校に向かうこと、千早を待たずに一人で来ること、その時間帯。

 それらが分かっていなかったら、とてもこの時間に三人で待っている、なんてことはできない。


(どうしてこんなことができるの? 千早)


 頭の中で、軽い混乱が起こる。


(ありえない)


 それを千早に悟られないよう、頭の中の考えを無理やり払拭する。


「……ボク、それ聞いてないけど」


 焦りを悪態に変え、むすっとした、いかにも機嫌の悪いといった様子を隠さずに千早にぶつけた。


「でも、ちゃんとここに居るでしょう?」


 しかし。

 千早は微笑みながら、しかしその目に確固たる自信と確信を以て、ボクの悪態など全く意に関せずといった風に、真っ向から切り伏せた。


 これだ。

 千早の、遠くを見透かしたようなこの目。


 時々、千早はこんな目をする。

 それに憧れた時期もあれば、単純に凄いと思ったり、時に怖いと思うことも正直あった。


 今は、自分の思いも、考えも、行動も。

 その全てを、私の頭の中を覗いて見ているんじゃないかというくらい正確に把握している千早に、軽い恐怖を覚えていた。


「……わかってたの?」


 辛うじて、口に出せたのがその言葉だった。


「何がですか?」


 千早は跳ねるような軽い口調で、おそらくはとぼけながらボクに聞き返す。


「とぼけないで……!」


 焦りや怒りは、徐々に言葉に乗ってしまう。

 少しだけ語気を荒げたボクの言葉に、しかし千早は動じない。


「秋良」


 一つ、ボクの名前を呼んだ。


「私が今日、特別レッスンをしようと思ったのは、昨日のことです」


(昨日? 今朝ではなく、昨日?)


 ボクには、千早の言っている意味が良くわからなかった。


「明日の朝、レッスンがしたい。でも、秋良は私の事を待っていないでしょう。きっと秋良は先に行ってしまう。どのくらい先に行くでしょう? きっと十分かそこらです。私にだけ合わないように、少しだけ早く登校するはずです。だったら、それより更に十分だけ早く登校していれば、皆でレッスンができますよね」


 千早は、まるで何でもないことのように、ボクの行動を予測して見せたのだ。

 そして、それは見事的中した。


 だからボクは今ここに居るし、三人も学校にいる。

 

「何でもお見通しってわけ?」


 ボクはひねくれた態度で自虐的に問うた。


「いいえ」


 千早はいつもの様子で応える。


「何でもわかるわけじゃありません。秋良だから、わかったんです」


「これが美奈だったら、こうは上手くいきませんから」


 と、千早は続ける。


「結局、ボクは千早の手の中ってことだ」


 それは、普段であれば嬉しかった言葉だったのだろう。

 しかし今は、千早がボクをわかっていることが、無性に我慢ならなかった。


 それほどまでにわかってくれているのに、どうしてボクじゃないそいつを選んだの?

 自分の中に、昏い感情が湧いてきたのがわかった。


「はい、おしゃべりはその辺にして。練習するんでしょ?」


 横から美奈が口を出す。


「そうですね。あまり話していると時間がなくなってしまいます」


 千早もそれに同調した。


「さあ秋良、行きますよ」


 ボクはそれには応えず、唯々ただただ二人の後を付いて行った。



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